霏々

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バズマザーズ「不幸中毒の女」レビュー ~寂れた港町の寂れたスナックにて~

バズマザーズ 5thアルバム <ムスカイボリタンテス>より

「不幸中毒の女」のレビューをさせていただきたいと思います。

 

ビックリするくらいのジャズ&歌謡曲テイストたっぷりから始まるこの楽曲。アルバムの曲順的にも「仮想現実のマリア」から繋がるので、曲調としてもそうですが、色んな形の愛欲が散りばめられた場末を練り歩いているような気分にしてくれます。ピアノも取り入れてお洒落な感じになっています。

後半の展開で楽曲が攻撃的になると、一気にギターも歪みだして、テンポも速くなり、場末ロックが鳴り出します。ハイハットの16部の刻み、弾けるようなベース、ギザギザのギターサウンドがたまりませぬ。Cメロでハーフテンポを使って、ぱっと空気が広がるあたりも心地良いです。何といっても、前半から繰り返されるリフが耳に残るので、何か仕事をしていてもつい口ずさみたくなりますね。

 

さて、ここからは歌詞の解釈になります。今回も懲りずにシンプルを目指していきましょう!

 

あんた丁度忘れた頃でしょう

だってあたい今さら思い出した

季節はあたいを通り抜けて行く

 真っ先にあたいの身体をね

 この辺りは色恋を歌った歌謡曲を彷彿とさせます。さらっとこんな歌詞がかけてしまうのは、「平成の阿久悠」を自称するだけはありますよね。男女の失恋後の気持ちのすれ違いを女が哀し気に、寂し気に歌っています。「季節が私の身体を真っ先に通り抜けていく」という歌詞は非常に雰囲気があって良いですね。「季節」を特定していないにも関わらず、どことなく「秋」や「冬」へと移り変わっていく時期を感じさせます。

ちなみに、「真っ先に」という言葉が、女がどこか「悲劇のヒロイン」に酔っている節を思わせ、ほんのちょっぴりの揶揄が込められた「不幸中毒の女」を表現しているように思います。

 

汽笛ひとつ遠く鳴りゃ別れふたつ

人は他にする事がないから

あたいの可愛い芸術家

何処か遠くで凍えて死ぬがいい 

 汽笛が聞こえるということは港町ですかね。港町の場末のスナックでの恋愛模様がふわりと漂ってきます。「人は他にする事がないから」というのも、どこか寂れた街を想像させます。恋愛くらいしか娯楽の無い、寂れた街。もちろん、新宿や渋谷のようなギラギラした街であっても、「人は他にする事がないから」というのは真理だと思いますが、どちらかと言えば、そういった大衆批判というよりは、この街に生きるこの自分の胸の内の寂しさを歌っているような感じがしますね。ここはまだ「不幸中毒の女」が歌うパートなので。

そして、その「不幸中毒の女」の彼氏は芸術家のようです。絵描きかもしれないし、ミュージシャンかもしれないし、その辺はわかりませんが、「芸術家なんてろくなもんじゃない」と山田亮一さんがちょっとした自虐も含めて、女に歌わせているような気がします。なんてったって、「何処か遠くで凍えて死ぬがいい」と思われるようなやつですからね。とは言え、ここの主役はそんな芸術家ではなく、あくまで「そんなくだらない芸術家に恋をしていた、そして憎んではいながらも今もまだ想い続ける女の不幸自慢」なわけですので、お間違いなきよう。

 

花柄のワンピースで哀し気に女が歌う

カランコロンの合いの手が妙に似合う

傀儡女のブルース 

花柄のワンピース。少女が着ていれば、それは純真や無垢、それに合わせて爽やかで清々しささえ感じさせるものです。しかしながら、今回その「花柄のワンピース」を着ているのは寂れたスナックにいる「不幸中毒の女」。流行遅れどころか、似合ってもいない、痛々しささえ感じるそのセンスにこちらの気持ちも滅入って来ます。けれども、この世界から取り残されたみたいな港町のスナックにあっては、それすらもなぜか愛らしく思え、ドアの向こうから聞こえてくる通りを渡る「カランコロン」という下駄の音が女の歌うブルースと共鳴したように心を揺さぶります。肌寒い風が吹く、平屋ばかりの港町の路地。空には雪よりも白い月がぽつんと浮かんでいるような感じがします。

そんな感じで私の想像も少しだけ足しましたが、最後に「傀儡女(くぐつめ)」という言葉について。

傀儡子 - Wikipedia

傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで、流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。西宮発祥のものは正月に家々を廻ったことから冬の季語 

Wikipedia大先生が教えてくださいました。

旅回りの芸人の一座ということで、何となく「伊豆の踊子」を思い出しますが、実はあれ途中で読むのやめてしまったんですよね…今度しっかり読み直そうと思います。

話が少し逸れましたが、私としては、垢抜けなくて、あまり可愛くもないスナックで働く女が「不幸中毒の女」、つまりこの歌詞における主役だと想像していました。ですが、「傀儡女」と明記されている訳ですから、やはり単なるスナックの女ではなく、「傀儡女」なのでしょう。とは言え、現代においてそのような生業はおそらく機能していないように思います。なので、「傀儡女」とは、特定の家を持たず、色んな街を回ってはそこでちょっとした小銭を稼ぎ、時には遊女まがいのこともしている女と捉えればよいでしょうか。これを踏まえて、「色んなスナックを転々としている女」とも解釈が可能そうです。

しかしながら、どうしても私としてはこの不幸中毒の女には「自分の店」を持っていて欲しいんですよね。おそらく、この後の歌詞で「ギター弾きを見つけ、春には子供も生まれる」というようなことが書かれているからでしょう。家庭があるならば、その土地にしがみつきそうなものです。そして、その土地にしがみつかなければならないからこそ、この女は現実的な生活やら何やらに縛られ、同時に過去の恋愛にも記憶を縛られ、不幸中毒になってしまったのだと思うのです。そういう意味では、この女は自らが傀儡を操る「傀儡女」ではなく、女自身が糸を結ばれ満たされない生活に操られる「傀儡」なのだと私は解釈したいと思います。

 

何処で見つけたかギター弾きの伴奏が思いの外滑らかで

聞けば女とはイイ仲らしく春になればもう一人増えるらしい 

 ここからも私の空想は、寂れた港町のスナックで働く不幸中毒の女を主役に据えて進めさせていただきたいと思います。ちなみに、この歌詞の手前の間奏から曲調は一変し、激しいロックサウンドになります。1つ前の歌詞から語り手は女から男(山田亮一さん)に変わっていますが、先ほどまでは雰囲気重視の叙情的で描写的な、歌謡曲にありそうな歌詞でした。しかし、ここからはさらに男の女に対する皮肉と、自虐的な色合いが強まり、山田亮一さんらしい歌詞へと一気に変貌を遂げます。

とは言え、ここはまだやや歌謡曲的な歌詞であります。

スナックにはギター弾きがいるが、ミュージシャンである自分(山田亮一さん)から見ても、「いったいどこで見つけて来たんだ」と思うくらいには、彼はなかなか滑らかな指使いをしています。女が彼の伴奏に合わせて歌っている最中、声を静めて常連にそのギター弾きについて尋ねてみると、「あの2人、実はイイ仲なんさ。春にはやっとあん男の子供も生まれるんと。まぁ、前の男の残してった娘の〇〇ちゃんも、弟だか妹だかができて、ちょっとは嬉しいんじゃなかろうかね」と耳打ちされます(若干、新潟弁が入っているように思いますが、まぁ、新潟も海があるんでいいでしょう)。

そんな空想が私の中には浮かび上がって来ます。

 

人はどうしてこうも不幸が好きか

なぜ不幸を嗜んでしまうのか

口内炎、痛いのに舐めてしまう様な戯れに興じるのか 

 意味としては歌詞そのままです。「口内炎~」の比喩は流石と言うべきでしょう。私としては、この比喩がこの歌詞のベストセンテンス賞・受賞ですね。

ちなみに、「嗜む」という言葉は、「酒や煙草を嗜む=愛好する」という意味のほかにも「音楽や茶道を嗜む=技術を身に着ける」という意味がありますよね。というか、「嗜む」という言葉から受けるニュアンスは、その2つの意味の平均を取った感じだと個人的には思います。ですから、我々人間は「不幸を愛し、そしてその道の技術を知らず知らずのうちに習得してしまう」ということがこの歌詞では歌われています。

そして、「痛み」でさえもそこを繰り返し舐めているうちにどこか快感に変わっていきます。たまに強く舌を当て過ぎて、「痛っ」となるのに止められないのはどうしてでしょうね。医学的な、あるいは哲学的な考察は色々とできると思いますが、ここではとりあえず考えるのをやめておきましょう。この曲では、「不幸中毒」になる理由は特に重視されていません。なので、いずれまた別の機会に、私は人が「不幸中毒」になる原因について書きたいと考えています。

 

誰かちょっと呼びたいの でも独り眠りたいの

そんないじましい人の業を撫でてくれるかい

傀儡女のブルース

これも改めて解釈の必要がない、そのままの意味で読み取れる歌詞です。「誰かちょっと呼んでみたいけれど、でも、やっぱり今日は独りで眠りたい」という感情、私はとても共感できるんですよね。「寂しいから誰かに来て欲しいけど、実際来られてもきっと自分は上手く甘えられないし、話だって弾まないでただ気まずい時間を過ごすだけになるかもしれない」。あるいは、「ムラムラしてるから誰かを抱きたいと思うけれど、でもやっぱり今日は疲れてるからさっさと歯磨いて眠りたい」。色んなケースがこの歌詞には当てはまると思うんです。私はかなりのコミュ障で根暗なので、圧倒的に前者のケースが多いです(後者もないわけではないのですが、結局、「疲れている」以上に「誰か」と「コミュニケーション」を取ることの方がハードルが高いんですよね…)。

ここからは私の個人的な話…

ちょうど昨日、私は会社の先輩に合コンに連れて行ってもらったのですが、行く前はやっぱり「女の子と上手く話せて、心が通い合い、親密さが生まれること」を期待しているわけです。もちろん、性的な下心もないわけではなないのですが、でもそれ以上に私はどちらかと言えば寂しさを一時的にどこかに追いやりたいという想いが強かったのです。けれども、実際に合コンが始まってみれば、落ち着いて話すこともなく、ノリと勢いだけで時間は過ぎていき、私は先輩と女の子に気を遣うことに終始していました。いつの間にか日付は変わり、私は「早く帰りたい」と独り、トイレで呟きます。

私は合コンに求めているものを間違っていたんだなぁ、と気づくわけですが、そんな気づきなんてどうでもいいほどに、合コンに行く前よりも遥かに私の心は寂しさで満たされてしまっていました。結局、「誰か」なんてきっといないんです。もちろん、その事実はちゃんと知っているんです。けれど、心がちょっと寒くなる夜なんかには、その事をふと忘れてしまうんですよね。そして、一時のあいだ忘れはするんですけれど、でも、またふとその事実を思い出すわけです。そんな心の揺れ動きがこの歌詞では、とても簡潔に表現されているのです、ということを伝えたかったのでした。

 

真夜中に 堰を切る様に溢れ出した感情、

それを掴んで歌ってみせろ 

ここはまさにロックンロールといった感じの歌詞ですね。表現者である自分への叱咤激励だと私は思っていたのですが、歌詞だけで見ると「不幸中毒の女」への言葉とも読み取れそうです。いずれにせよ1つ前の歌詞のような「切羽詰まった夜の苦しみを吐き出せ!」という感じですね。

ちなみにここではハーフテンポという技術が使われています。楽曲の世界がぱっと広がり、違った尺度で物語は進むような心地がするのです。ですから、そのことを踏まえると私はやはり「不幸中毒の女」へのメッセージと思わせておいて、実は自分自身へのメッセージであるという解釈が適当だと思うのです。前半の歌謡曲的な曲調では女視点の世界が広がり、後半の激しくなってからは男視点での女の描写が繰り広げられ、そしてこのハーフテンポのところでより男の一人称的衝動が溢れ出る。そういう展開と考えれば、この楽曲はまた一味美味しく感じられることでしょう。

 

君はちょっと中毒が過ぎる様だ

居もしない人を呪うだなんて

その架空の絵描きの顛末と酒ばかりがぐるぐる廻るのさ 

 これが最後の歌詞です。楽曲はまだ続きますが、歌詞は繰り返しになるのでこれで終わらさせていただきます。

この歌詞ばかりは難解です。いや、もし書いてあることをそのまま鵜呑みにして良いというなら簡単です。「凍えて死ねばいい、とまで言っていた芸術家は実は架空の人物で、女の悲劇自慢は実は全部嘘だった」ということになります。ですから、これはあくまで私の空想でありましたが、「もう1人春に生まれる子も、女を捨てて行った絵描きの子なんかではなく、ギター弾きの子だった」ということにもなります。「なんだ。結局、悲劇的な人生を歩んできたと思い込みたいだけで、ただのうだつの上がらないスナックの、うだつの上がらないママなんじゃないか」。女の意味も実態もない空想の顛末が何度も繰り返され、こちらも実態はあるがまったく意味のないを酒をいつまでも飲んでいる、そんな感じです。

平凡な女のしみったれた空想を聞かされて、気分が萎えてしまう男ではありますが、しかし、本当にそれだけでしょうか。

現に男は「誰かを呼びたいけど、やっぱり独りで眠りたい。そんなどうしようもない感情を受け止めてはしないか」と女に対して思っていたことは事実なわけです。また、実際に最後の歌詞はその一節になります。女の話がでたらめな空想だったとわかってもまだ、「どうしようもない感情を女に受け止めてもらいたい」と男は思っているわけです。結局のところ、男だって女の空想をバカにできるような人間ではありません。痛い女の痛い空想話であっても、その痛いところを思わず舐めてみたくなるような…そして、自分の痛んだ心にもそっと触れて欲しいと願うような…そんなどうしようもなさが実はこの曲で最も重要なところなんじゃないでしょうか。

 

最後はふわっとした感じで終わってしまいましたが、この楽曲は妄想が膨らむ楽曲になっています。花柄のワンピースを着た女の半生について思いを巡らせるだけでも、そうとうのことが妄想できます。

ギター弾きとの出会いは?

今度の春に兄だか姉だかになる女の子供は、自分の親に対してどんなことを想ってるのか?

その子は学校ではどんなふうに振る舞っているのか?

そんなことを考え出せば、キリがありませんね!

 

最後に…

今回はわりとシンプルにまとめられたんじゃないかと思います。結局、6000字は超えてしまいましたが笑。

レビューもこれで6つ目でしょうか。徐々に数日にわけてレビューを書くということを覚えてきたように思います。1日で書き上げた方がテンション高いまま突っ走れるのですが、その分迷走もしてしまいがちです。ただ、日を空けてしまうと、自分が何をどんなふうに書いていたか忘れてしまうので、もっとコツをつかまなければなりませんね。

ちなみに「コツをつかむ」の「コツ」は「骨」と書くそうです。テレビか何かで見た気がするのですが、何だったか思い出せません。日に日に記憶力が薄れていっているように思う今日この頃であります。

それでは、また! お次は「ペダラーダモンキー」になるでしょう!

お疲れさまでした!