霏々

音楽や小説など

バズマザーズ「変身」レビュー ~フランツ・カフカも驚きのワードセンス~

バズマザーズ 5thアルバム <ムスカイボリタンテス>より

「変身」のレビューをさせていただきたいと思います。

 

今回の「変身」という楽曲はMVが公開されていないほか、歌詞もまたCD付属の歌詞カードでしか見ることができません。色々考えましたが、これまで通り、分割して歌詞を引用させていただきながら、レビューをしていこうと思います。なので、歌詞をまとめての転載は禁止でよろしくお願い致します。

確かに山田亮一さんの書く歌詞は非常に価値の高いものでありますが、それだけで曲の価値が損なわれてしまうわけではありませんし、むしろこれをきっかけにCDを買ってくれる人が少しでも増えてくれることを願います(このブログの効果が低い故に、被害も少ないだろうという至極当然の考えももちろんありますとも)。

 

さて、毎度のことながら前置きが長くなりましたが、レビューを始めさせていただきます。

 

まずは簡単に音楽について。

曲調は「やったれー!」的な勢い溢れるロックンロール!

ドラムの手数・足数がいつにも増してすごいことになっております。レコーディング環境もあると思いますが、1音1音が粒立って聞こえてくるのは「さすが」の一言です。特にせんちょーさんのバスドラは聞いていて、本当に気持ちが良いです。勢い溢れる曲ですが、実は途中々々でビートを変えているので、奇妙・複雑という感じではなくても、飽きが来ないです。さすが玄人バンド!

ベースとギターも「はずれ」がないです。違和感がなさ過ぎて、引っ掛かりがないと感じる方もいらっしゃるかもしれません。逆に、ノリが良くて、とにかく聴いていて楽しい!心地いい!という方もいらっしゃると思います。

が、そんな楽(らく)して楽(たの)しい時間もここまで。

この曲はまた前回レビューした「敗北代理人」とはまた違った意味で、歌詞で曲芸が披露されています。比喩が空中ブランコして、言い回しが火の輪をくぐるような歌詞です(こんな低レベルな比喩が恥ずかしく感じられるほどにすんごいんですよ)。

 

では、歌詞の解釈を始めます~

目覚めたら俺は恐ろしく醜い化け物だった

姿見に写す度胸は無いが、直感だけでも解るのさ 

 はい。発売前に曲名から推測していたとおり、フランツ・カフカの「変身」ですね。山田亮一さんの文学力なら当然と言えば当然ですが、曲名から想像していたのとは全く違う曲の雰囲気なのでそこはかなり驚かされました。

カフカの「変身」についてご存じない方のために、簡単に話をまとめさせていただきます(といっても、随分と昔に読んだ本なので、本当に適当な概要だけになります)。

主人公はグレーゴルという青年。たしか、洋服の生地を売ったり、取引したりするサラリーマン的な感じではなかったでしょうか。違ったらごめんなさい。ちゃんと読み返してみても良いのですが、あえて自分の記憶を頼りに書き進めます。この曲の解釈をする上で、ディティールはそこまで重要でないとも思うので。

さて、そんな何らかの仕事に就いているグレーゴルですが、ある日の朝目を覚ましたら醜い虫になっていました。何の虫かはカフカが明示したくないようなので、こればっかりは忘れたのではなく、ただただ知りません。とにかく足が何本もあって、布団をかけることも寝返りを打つこともままなりません。そして、最悪なことにグレーゴルは愛する家族と一緒に住んでいました。両親と妹です。

彼は人間の言葉を理解できるものの、人間の言葉で喋ることができません。したがって、突然家に現れた巨大な虫に家族は恐れおののくことになりますが、何かのきっかけで妹か誰だったかが、その虫がグレーゴルであることに気づきます。最初のゴタゴタや後のゴタゴタで彼は身体的かつ精神的な傷を負い、最後には愛していた妹からも見放され、家の中で彼は息を引き取ります。望まれた死。山田孝之主演「凶悪」で家族から死ぬことを望まれたあの憐れなおじいさんを思い出します。

まぁ、カフカの「変身」自体はそんなようなストーリーです。そして、歌詞に戻りますと、まさにこの楽曲がカフカの「変身」をモチーフにしていると、丁寧に紹介するかのような出だしになっています。それでは、次に行きます。

 

身体はまるで鉛の様で、血液は全てメロディで

這いずりながら「あ」と「え」の間あたりの発音で唸るのさ 

 この辺りも、カフカの「変身」ですね。ただ、「メロディ」という単語はカフカ的ではありません。ここで、「あっ。変身は変身でも、虫に変身したというわけではないのかもしれない」と気づきます。「血液が全てメロディ」の音楽を愛してやまない、何らかの醜い存在になってしまったということでしょうか……まぁ、要するに、時代遅れのロックンロールスターというやつですね。

面白いのは、1つ前に「姿見に写す度胸は無いが、直感だけでも解るのさ 」という歌詞の解釈がここで変わるということです。ロックンロールスターですから、「虫」ではなくて、「人間」なわけです。

そこで、2通りの解釈が生まれます。1つ目は、「俺は恐ろしく醜い化け物になっちまったぜ。鏡で確かめる必要もないほどにな」と中2病的に言ってのけているという解釈です。自虐めいた誇張というユーモア。曲調としては、こっちの方がしっくり来ますね。対して、2つ目は「自分は今までと何も変わらない恐ろしく醜い化け物だった。そんな自分を鏡に写す度胸もない」と、こちらはこちらで歌詞全体のスタンスと合っているような気もします。やや深読みし過ぎな気もしますが。

最後の「あ」と「え」の間あたりの発音で唸るというのは誰しも経験がありますよね。まさに言葉を失ってしまった「虫」か「乙事主さま」の如く

 

卑しく蠢く欲望をあやすために街に出れば

人はさほど人など見ていないらしく、この姿に反応もしない 

 「卑しく蠢く欲望」が具体的に何を意味するのかは正直わかりません。山田亮一さんがよく言ってらっしゃる「性・食・眠」という人間普遍的な欲望なのか、はたまたロックンロールスターとしての「目立ちたい」という虚栄心か。

いずれにせよ、そんな「卑しい欲まみれで、化け物の如き自分」を誰も見やしないわけです。「ロックンロールスターになりたいのに誰にも見向きされない」というこの曲の主軸がここでバシッと提示されています。

 

血を売り歩き生きて行こう、喰えぬなら喰わぬまでさ 

「 売れるものは血くらいしかないし、お金もないから食べ物も買えない。でも、買えないなら買えないで仕方ないから、とりあえず歩いて行こうぜ」という感じでしょうか。

昔は「売血」というものがあったらしいですが、当然無理をして血を売る人たちも出てきました。彼らの血は「黄色い血」と呼ばれ、実際に赤血球が少なすぎて、血が黄色に見えたそうです。ちなみに血しょう自体の色は黄色らしいです。これらすべてWikipedia先生に教えていただきました。

ここの歌詞はあとのダジャレのフリになっているので、お忘れなきよう。

 

体内で溢れるメロディは、売り物と遜色なく思えた 

 「体内で溢れるメロディ」「血液は全てメロディ」「血を売り歩いて生きて行こう」と、ここでちゃんと繋がりました(まぁ、一個前の段階でもちゃんと繋がっているのですが笑)。当然、前のような直訳的な「血を売る」というものが前面には出ている訳ですが、ちゃんと背後には別の意味が控えています。「血=メロディ」ということで、ロックンロールスターはロックンロールスターらしく、「音楽を売って生きて行こうぜ」と言っているのです。しかし、そんなロックンロールスターは街に出てみても誰からも見向きもされないくらいの無名のロックンロールスター。街中で流れている「売り物」の音楽。「自分の体内で溢れている音楽は、そんな「売り物の音楽」と遜色がないように思えてしまう。いや、思いたい」という願望です。

 

血だけに欠陥品って、おあと最悪

嗚呼、今日も世界は俺の才能に気付かない 

 自分の体内を巡る血はメロディなわけですが、そのメロディは売り物になるかと言われれば、「売り物にはなりません。なぜなら、欠陥(血管)品だからです」って、最低のダジャレですね笑。本当に、最低で最高の歌詞だと思います。

いつになったら、世界はこんな歌詞が書ける山田亮一さんの才能に気付いてくれるのでしょうか。嗚呼、なんだか悔しいです。

 

一山幾らのロックバンドに紛れて、

ドレミファソラシドのアナグラムは消えていく 

 ここの歌詞、大好きですね。「この一山で数百円程度の欠陥品の音楽を奏でる、欠陥だらけのロックバンドに紛れて、自分の奏でる音楽も消えていってしまう」という虚しさ溢れる歌詞ですが、「ドレミファソラシドのアナグラム」と言っちゃってるあたりが素晴らしいです。「アナグラム」というのは、文字を並び替える暗号のことですが、「自分の奏でる音楽など、ドレミファソラシドを並び替えただけのものに過ぎない」というわけです。

言ってみれば、私も50音のアナグラムを書き綴っているだけに過ぎません。でも、そう考えると音楽も文学も酷く単純・滑稽なものであるはずなのに、どうしてこんなにも大きな広がりがあるのだろうと不思議になります。まるで、「素数が何個あるのか」という命題や、パソコンが「電気を流す・流さない」だけで情報処理をしているという事実について考えるときと同じような心持がします。

 

曇天を舐めるミサイルが忖度の闇に消える

犯されたのは尊厳の領土、知らぬ存ぜぬなど通さない 

 急に社会派の文章へ。歌詞の解釈は不要です。わからない方がいたなら、ニュースを見てください。ただ、ロックンロールにこんな歌詞をポンと乗せられるあたり、山田亮一さんが「バズマザーズ」というバンドを心底楽しんでいることがわかります。凛として時雨Spangle call Lilli lineのような空気感のあるバンドでは絶対に書いてはダメですし、アイドルも相当社会派のアイドルが出てこない限りこんな歌詞は書かれないでしょうね(いずれそんなアイドルが出てくるやもしれません。あるいはもういるのかも…)。

ですが、面白いのは、この社会派の文言を並べているのは、この曲の主人公のロックンロールスターではないということです。詳しくは次の歌詞へ。

 

俺は醜悪な化け物さ、せめて静かに暮らしたい

ねー、あんた代わりに戦って、無知を叩いたその鞭で 

 ここでまた「化け物」です。「自分は醜悪な化け物だが、それでも心の優しい化け物だ。だから、せめて静かに生きていかせてほしい」と序盤とは打って変わって、弱気な歌詞です。「政治や戦争のことなんてわからん。そんな自分の無知をこれまで好き勝手馬鹿にしてきたんだから、代わりにあんたらが戦争に行って戦ってくれよ。おれを嫌というほど攻撃してきた鞭があるんだから、それで戦えばいいじゃんか」。無知と鞭をかけているのは言わずもがな、「曇天を~通さない」と言っていたのは、主人公のロックンロールスターを馬鹿にしてきた世間の「あんたら」。「おれは戦争とか興味ないから、戦争とかそういうのが好きなあんたらが勝手にやってくれればいいさ。おれは静かに暮らしたいんだよ」というのがここのまとめになりますね。

 

雨溜まり、スニーカー、侵入、不快感

嗚呼、されどマグマは俺の足元にも及ばない 

 ここの解釈は、この曲の中で最も難関です。「雨溜まりを踏んで、スニーカーに水が浸入してきたときのあの不快感」について語っているのは、まぁ、読めばわかります。しかし、どうやって次の「されどマグマは俺の足元にも及ばない」に繋がるのか。

「されど」は「だけど」とか「しかし」とか逆接の接続詞です。また唐突に「マグマ」という単語が出てきましたが、この楽曲を通して、「音楽への情熱で血液が沸騰しているみたいだ」という印象が個人的にはあります(「俺の心血に爛れた」という歌詞があるくらいですし)。そんな「自分の沸騰した血液には、マグマなんて足元にも及ばない」という感じで解釈も可能でしょうか。ですから、「雨溜まりに足を突っ込んだ時のあの不快感がおれのやる気を削いでいくが、とは言っても、おれの情熱はマグマなんて及びもつかないくらい熱いもんだぜ」みたいな感じでまとめることができましょう。ちなみに、「雨溜まり」と「マグマ」、「雨溜まりを踏むスニーカー」と「足元にも及ばない」という感じで微妙に単語同士にも関係性が見て取れますね。だからどうこうというわけではありませんが、そうやって関連性の高い言葉を選ぶ遊び心というのは、山田亮一さんの言葉に対する自然な童心が感じられて私は好きです。

 

一山幾らのロックバンドに紛れて、

紡ぎ出す言葉はノイズにさえ成り得ない

コレより非道いのが、

俺の心血に爛れたロックンロールさ 

 これまたとことん自虐です。「一山幾らで売られているようなロックバンドに紛れてしまって、自分の紡ぎ出す言葉はそのノイズにかき消されてしまう。というか、ノイズの仲間入りさえできない。そんなノイズまがいのそこら辺のロックバンドの音楽より酷いのが、自分のロックンロールなわけさ」とそのまま読み解けますね。ふつう「酷い」と書くところを「非道い」としている、ちょっとしたお茶目さがまた好きになってしまうところです。恰好つけていると言われればたしかにそれまでですが、こんな音楽を作る人がただ「恰好つけている」で済まされるような世界では、山田亮一さんの才能には気づけないでしょう。

 

これで、歌詞は終わりになります。

冒頭でも述べましたように、まさに「曲芸的な」歌詞。欠陥と血管、無知と鞭みたいにダジャレもあれば、「ドレミファソラシドのアナグラム」みたいな天才的な言い回し。それから「雨溜まり~及ばない」みたいな言葉の関連性を活かしたワードチョイス。さすが山田亮一!と、思わず「あ」と「え」の間あたりの発音で唸ってしまいそうな歌詞でした。

 

最後に…

一通りアルバム<ムスカイボリタンテス>の楽曲はレビューしようかと思います。ただ、楽曲の性質上、主題曲の「ムスカイボリタンテス」とアルバムのラストを飾る「おやすみ、だいじょうぶ」はレビューしない予定です。ただ、もちろんどちらも大好きな曲です。

ムスカイボリタンテス」は思わずニヤけてしまうほどに、山田亮一さんの世界の描き方が私のツボでした。今年の夏の散歩時に何度聴いたことか。恥ずかしながら私の創作物である「霏々」(ブログタイトルにもなっていますが、小説的なものとしてもしたためて、ブログに載せているのでよかったら読んでやってください)も、この「ムスカイボリタンテス」がモチーフとなっております。

「おやすみ、だいじょうぶ」では少し涙が流れてしまうほど、感動しました。しかも、最初に聴いたときだけでなく、何度聴いてもほろりと来てしまいます。大切にしていきたいので、あえて本当に辛いときにしか聴かないようにしています。眠れないほど辛いときに聴いてください。