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音楽や小説など

バズマザーズ「敗北代理人」レビュー ~「敗北代理人」の正体~

バズマザーズ 5thアルバム <ムスカイボリタンテス>より

「敗北代理人」のレビューをさせていただきたいと思います。

 

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前回の「仮想現実のマリア」では張り切り過ぎてしまったため、今回はできるだけシンプルを目指します!

 

というわけで、音楽的な面については簡単に触れるだけにしておきます。

本楽曲の特徴としては、まず、3分17秒あたりまで音としてはずっと同じフレーズの繰り返しになっています。特にベースは半小節分のフレーズが繰り返されているので、1つ前にレビューした「仮想現実のマリア」みたいな複雑かつ攻撃的な楽曲を求める方には、やや物足りないと感じるかもしれません。

同じフレーズの上で、気持ち良さそうに繰り出される歌詞を楽しむのが、この楽曲の正しい楽しみ方。もちろん、そう考えるのも良いとは思いますが、こと「音」という側面で言えば、相当なこだわりが感じられます。

わかりやすいのはギターですね。主軸となるのは、クリアでいながら若干歪ませた音。浜辺の水際で立ち尽くし、裸足で感じる海水と砂の心地良さがあります。水の滑らかさと、足の甲を撫でる砂の確かな粒度。そんな感じです。そして、イントロのしょっぱなでは、ミュートさせてリバーブ(もしくはディレイ? エフェクターの種類はあまり詳しくないのです)をかけたギターが裏で鳴り、泡粒のようなポコポコという音を奏でています。楽曲が進むにつれて、ノイジーな音が増えていき、ロックのテイストが深まります。

ベースとドラム、そしてMIXについてもMVの大自然よろしく、大きなスケールを感じさせる音になっていますが、正直なところ、細かいところまでは私には解説できません。これから少しずつ勉強していきたいと思います。しかしながら、1つだけはっきりと言えるのは、「仮想現実のマリア」のように焦燥感を感じさせるタイム感や音質ではないということです。プロだから当たり前なのでしょうが、きちんとその辺りを弾き分けられるというのは、確かな実力がある証拠です。

あと触れておきたいところとしては、後半「~空に掲げる」のあとの間奏ですね。間奏と言っても、ほとんどアウトロと同じ位置づけにはなっていますが。

この間奏の最初、ギターだけで奏でられる部分から始まるフレーズ。実はさり気なく7拍子です。と言っても、ノリにくいので、感覚的に変拍子を使っているのはわかるかと思います。こういうちょっとしたお茶目が、楽曲の深みを増してくれるんですよね。

そして、その後から繰り出されるメロディアスなアルペジオ。どこか、山田亮一さんが前にやっていたバンドの「トラベルプランナー」を感じさせます。私もほんの少しギターをやるので思うのですが、ほんとにアルペジオ上手いですよね。凛として時雨のTKさんもアルペジオの鬼だと思いますが、山田亮一さんも高速かつ複雑なアルペジオをさらっとやってのけてしまうので、やっぱ凄いなーと思います。

 

さて、音楽的な部分のレビューはこれくらにしておいて、歌詞の解釈に入りたいと思います。いわゆる「ほんへ」というやつです笑。

歌詞は、オフィシャルホームページから頂いています。

LYRICS | バズマザーズ -Official Web-Site –

が、このレビューにおいて最も重要なことをここで宣言させていただきます。

この「敗北代理人」という曲の歌詞は、非常に普遍的な内容になっています。比喩の特定は無意味ですし、量子を観測することによって、確率波から一意的な粒子へと変容させるようなことはしたくありません。だからこれから私が行うのは、「確率波としての量子を『私』が観測したとき、どのような軌道が得られか」を書き連ねるということだけです。あくまで「個人の感想です」です。それを踏まえて読んでいただければと思います。

 

長い前置きもこれくらにしておいて、それでは始めます…

 

誰も海の広さ等、漠然としか知り得ないし
井の中一生を終える蛙程、自分と向き合う事もない
宇宙遊泳の代替え案として、俺は山頂を目指している
それでも繰り返す一歩一歩が、尊厳めいた感情を成している

井の中の蛙大海を知らず。されど空の深さ(青さ)を知る。」

有名なことわざですが、後半部を知らない人も多いのではないでしょうか。私はたしか「エア・ギア」という漫画で知りました。大暮維人さんは私の尊敬する漫画家さんです。とにかく絵が好きですね。今はマガジンで連載している「化物語」の作画をされていますが、彼オリジナルの「エア・ギア」も、舞城王太郎さんとタッグを組んで作った「バイオーグトリニティ」も大好きです(「天上天下」はまだ読めていないのです…)!

と、話が逸れましたね。歌詞に戻りますが、まずは上述のことわざについて。

井戸の中で暮らす蛙は、海の広さなど知り得ません。そもそも井戸の外にも世界が広がっているということすら知らないかもしれません。もちろん、蛙にはそのようなことを考える思考力がそもそもないと思われます。しかしながら、仮にそれが蛙でなくて、人間であったとしても、井戸の中にいては大海の広さなど知ることはできません。誰かから話で聞くくらいはできるでしょう。けれども、漠然とその広さをイメージしてみても、実際に目にしなければその実態は掴めません。百聞は一見に如かず、というわけですね。

ですが、そんな井戸暮らしの人間であっても「空の深さ」、そして「空の青さ」はよくわかります。毎日見上げる空。井戸の円形に切り取られたあの空。「井戸の底から空を見上げる」という光景を想像してみると、私にはどうしても村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」が思い出されますが、いったんそれは置いておきましょう。重要なのは「海」と「空」が何の比喩に当たるのか、ということです。

あえて普遍性を失わないように、「海=現実(実態)」、「空=理想」とでも言い換えましょうか。この宇宙の本当の意味での広さなんて、一個体としての我々人間になんて理解することはできません。アニメ「PSYCHO-PASS」で複数の人間の脳を繋いで知性の拡張をするというアイディアも披露されていましたが、それくらいのことでは「ラプラスの悪魔」なんて思考実験があるように、どうあがいてもこの宇宙の全てを把握することは不可能なわけです。

ですが、そんな我々だからこそ、「理想」というものが如何に深く、手の届かないものであり、またそれ故に青く美しいものであるのか、ということを知るわけです。

さて、一行に直接的に歌詞に触れることなくここまで来ましたが、もう歌詞の解釈としては十分だと思います。「理想を追い求める」、それこそがこの歌詞全体の中核になっています。

あとは細かい補足をしたいと思います。

「広い世界のことなんて、誰も完璧には理解できるわけがない。みんな漠然と生きているし、ましてや井戸の底から真剣に空の深さを知ろうともしていない。理想へと挑戦することは適当なところで諦めてしまったよ。その代わりになんかのお山のてっぺんを目指しているわけではありますが、そんな中途半端な挑戦でも、何故だか情熱は溢れ出るし、一歩一歩進んでいるこの身体が誇らしかったりするわけです」とでもしましょうか。ちなみに、私は「自分と向き合うこと=世界と向き合うこと=理想を追い求めること」と考えています。自分という存在もまた宇宙同様、完全に理解することはできないだとは思いませんか? と、ちょっと恰好つけてみた次第です。

 

何処へなんて、構わないで、飛び出して行く
俺が俺を挫く前に
時の峡谷、痛みの雪崩、憎悪の渓流、越えて遠く続くクライミング

「『なんかのお山のてっぺん』なんて言ってみたけど、それは本当に『なんか』であって、どこに辿り着くかなんて、まったくあてなんてない。自分の弱さに負けて足を止めてしまう前に、どんどん進んで行こう。時の流れや、苦しい痛み、ときには憎悪やなにやかやのせいで足が止まりそうになるけれど、それらを超えて行こう」という感じです。まぁ、歌詞そのままですね。

というわけで、また1つ個人的な想いを。

バズマザーズのベーシスト重松伸さんが昔組んでいたエマグラムというバンドの「マルチ」という曲(<空想エクスプレス>に収録)で、「時は夢を奪い、夢が時を奪う」という歌詞がありました(おそらくほとんど誰も知らないでしょう。私はこのCDを、よくわからない関西の方のお店からネットで取り寄せました)。きっと「時の峡谷」ではそういうことが起こっているのでしょう。そんなことをふと思いました。

 

 予算内で選んだ駄菓子分、背負う物に空いた隙間に
一体何を詰め込んでいるかで、人間の値打ちは解るもんさ
噛ませ犬程の戦績も、野良猫程の自由もない俺は、
何を持って来たんだっけ?云いかけて頬の裏を噛んだ

 「例えば、お金だって人それぞれ限界というものはあるでしょう。でも、別にお金や何かが足りなかったとしても、その足りなかった分、ほかの何かで埋め合わせはできるし、むしろその『埋め合わせ』こそが人間の価値を決めるんだ。そうは言っても、ほとんど負けっぱなしだし、自由があるっていうわけでもない。じゃあ、ほかに自分に足りない部分を『埋め合わせ』られるものって何か持っていただろうか…?」という感じです。これもまた歌詞そのままです。内容も普遍的で素晴らしいですが、「予算」に対して「値打ち」。「噛ませ犬」に対して「野良猫」。この辺りのワードチョイスがチャーミングです。

 

そして、お次はまた同じ歌詞なので飛ばして、さらにその次へ。

 「どなた様もお気軽にどうぞ。何かとお忙しいのでしょうし」
その看板は唐突にそう始まって
「冥福の前借りにすがる前に、どうか私をお訪ね下さい。敗北、請け負います」
辛うじて解るのはその一文と、おそらく血で書いた文字だって事
辺りにそれらしき人はおらず、セルロイド味の畏怖を覚えるも
道中、粉砕したピッケルの柄と、厚紙ででっち上げた憫然たる其れを
何に役立つ訳でも無いが、捨て置く事が出来ない其れを、土台、届かない空に掲げる

 ここで一気に音楽も激しくなり、間奏もなく、一息にすべてが歌われます。歌詞の解釈をするにあたって、どこかで区切ろうとも思いましたが、これが区切れないんですね。まるで1つの物語のようにすべての歌詞が繋がっていました。きっと神経を張りつめながら山田亮一さんはこの歌詞を書いたんでしょう。あるいは、思いつくまま書き出したら、気づいたときにはこれだけの歌詞が出来上がっていたのかもしれません。どちらかはわかりませんが、いずれにせよ一度読んだだけでわかるパワーがこの歌詞には宿っています。

まずは、キーワードの整理をしましょう。

「冥福の前借り」ですが、「冥福」とは「死後の幸福」のことで、それを前借りするわけですから、恐らくは「予定よりも早く死ぬこと」すなわち「自殺」ということなりますかね。あるいは、夢を諦めて、血反吐をはいて頑張ることをやめ、本来であれば死んだ後に手に入れるべき安穏とした幸せに浸ることでしょうか。いや、それはちょっと違いそうですね。ここで登場する「敗北代理人」は救い手であって、断罪人ではありません。ですから、辛くて死にそうなあなたの代わりに、敗北を代わりに請け負ってくれる人のお話です。

次に「セルロイド味の畏怖」ですが、「セルロイド」はWikipedia先生によりますと、初期の人工合成樹脂らしいです。皮下脂肪の「セルライト」となんか混同してしまいそうですよね(私だけでしょうか笑)。「畏怖」は「尊敬×恐怖」みたいな「感情」なので、「セルロイド味の」という修飾語は普通つきません。そもそもセルロイドを食べたことがないので味がわかりませんし。あるいは、「これは味のある象牙だね」みたいな意味での「味」なのかもしませんが。とにもかくにも「セルロイド」は先生の言うように、合成樹脂であり、そういった人工的なものを比喩として持ち出す場合、期待される効果は「チープ」、「不健康的」、そしてセルロイドに限って言えば「アンティーク」というニュアンスを付加するということでしょう。なので、あとは各々が抱くセルロイドへのイメージを畏怖という感情に付加していただくしかありません。申し訳ありませんが。

そして、「厚紙ででっちあげた憫然たる其れ」ですが、まずは「憫然」という言葉が難しい。goo国語辞書先生によれば(ネットの海には実にたくさんの先生がいます)、「あわれむべきさま」ということだそうです。そして「其れ」は普通に考えて指示語として使われるので、前に出て来た何かを指し示すはずです。ということで、きっと「血文字で書かれた看板」を指しているのでしょう。

さて、以上を踏まえまして、ざっと歌詞を私なりに読み換えさせていただきます。

「(『どなた様もお気軽にどうぞ。何かとお忙しいのでしょうし』と、その看板は唐突にそう始まって、『もうぜんぶ嫌になって死んでしまう前に、どうか私をお訪ねください。敗北、請け負います』。辛うじてわかるのは、その一文だけ。)だいたい、『敗北を請け負う』ってどういうことだ? おれの代わりに負けてくれるってことか? でも、負けるっていったい何に…いや、確かに負けそうだな。現実に打ちのめされそうだ。理想になんて手は届かない…ていうか、この赤い文字…血か? (周りを見渡す。誰もいない。) いったい何だっていうんだ。しかし…誰でも良い。誰か助けてくれ。わけがわからなくたってどうでもいい。これを書いたあなた。敗北代理人! あぁ、もしかしてあなたは…いや、あなたが誰かなんてことも、もうどうだっていい。おれが大切に使って来たピッケルも既に折れてしまった。あなたの残した看板も、こんな薄汚れて、そこで朽ちている。けれども、何故だろう。なぜ、こんなにも神々しく感じる? (粉砕したピッケルの柄と、厚紙でできたようなボロボロの看板を手に取る。そして、それを空に向けて掲げる。) 届きやしないさ。そんなことはわかっている…だけど」

だいぶ芝居がかってしまったように思いますし、歌詞をそのまま書きなぞっただけになっちゃいましたね笑。ですが、私の頭の中では、こんなようなイメージなわけです。

 

J. D. サリンジャーの「フラニーとズーイ」では、現実の醜悪さに打ちのめされたフラニーを救うために、ズーイが「太っちょのおばさん」という架空の人物を持ち出します。「世の中にいるのはみんな醜い人間ばかり。私が良い芝居をしたいと思っても、それを観るのはボンクラばかり。まったくやってらんないわ。何をするにしたって、意味や価値なんてものはないのよ」とフラニーは喚きます。いったい我々は何のために懸命に生きるのか。その問の答を、ズーイは「太っちょのおばさんのためだよ」とフラニーに教えてやります。それは、フラニーとズーイの死んだ兄であるシーモアが良く言っていた言葉でした。「太っちょのおばさん」がいったい誰なのか。フラニーはただの架空の人物としか思っていませんでした。「よくわからない第三者のために、とりあえず頑張ってみる」。しかしながら、ズーイの解釈は違います。「太っちょのおばさん、ってのは、つまりね、キリストそのものなのさ」とズーイはそう言ってやります。

 

親鸞の考える大乗仏教では、念仏を唱えるだけでみな救われます。いや、むしろ念仏を唱えることすらなくても、仏様はみなを救ってくれます。けれど、それを前提としながらも、教義では様々なことが禁止されています。人を殺すことはもちろん、怠惰に過ごすことも許されません。仏様の御心を理解した気になることすら許されてはいないのです。「どうせ何やってたって仏様が救ってくださるんだから」と悪に手を染めたり、生きることに手を抜いたりすることが教義上許されていないのにもかかわらず、そんな人達をも仏様は救ってくださる。要するに、人それぞれに事情はあるわけですから、チェック項目をクリアした数で救われるか救われないかが決められては、そこに平等性はなくなってしまうわけです。これは何も弱者に有利な考え方を言うのではありません。高度に宗教を学び、修行することが軽んじられることにはならないのです。修行とはそれ自体が救われるための行為であり、仏様の救いの手の1つの側面であるわけです。だから、みな各々が精一杯に生きて行けばいい。どんな生き方をしても、大丈夫。落ちるのが怖くて登れないのだとしたら、それは勿体ない。仏様の手はいつも我々の足元にそっと差し伸べられているものなのです。

 

さて、何も宗教について評論したいわけではありません。

私が言いたいのは、結局「敗北代理人」というのは、そういうキリストだか仏様だかみたいなものと一緒だということです。怪しげな新興宗教や、宗教間や宗派間のいがみ合いのせいで、現代人の宗教に対する拒絶反応は酷くなっていますが、宗教の目的・機能とはつまるところ困っている人の拠り所となって、その人の背中をそっと押してやることだと思うのです。

 

そして、最後にこの歌詞を。

誰も主人公で風景さ、轟音の水槽の中で
性別も人種も無くなっていく、少しずつ、少しずつ、少しずつ 

 もはや、特別な説明は不要かと思います。

みんな「主人公」でありながら、その他大勢としての「風景」でもある。種々雑多な我々のすべてが平等になっていく、少しずつ、少しずつ、少しずつ。

補足として、歌詞の最初に「井の中」という言葉がありましたが、それと対応する形で「水槽」という言葉が出て来ています。結局、私たちは井戸からは出られないわけです。その井戸の中で押し合いへし合いをしながら生きているわけです。そして、少しずつで良いから…ということでしょうね。うまく説明できませんが。

 

水槽ついでに…

ハヌマーン時代に山田亮一さんは「比喩で濁る水槽」という曲を作っていましたが、そこでは、「名前は知らないが、水泡いつまでも撒き散らすあの装置に似ている。おれの存在、死にたくなるほどあれに酷似している」という歌詞で締められています。あの頃は、山田亮一さんもフラニー的水槽の中で苦しんでいたのかもしれません。しかし、少なくとも多少の救いみたいなのは見つけられたのかもしれませんね。いつか、時間のあるときにハヌマーンのレビューも沢山したいです。というか、します! 頑張ります!

 

最後に…

またまた結局長くなってしまいました。ですが、前回の「仮想現実のマリア」に比べれば、半分くらいまでコンパクトにすることができました。

「敗北代理人」の歌詞はあまりにも普遍的過ぎて、解釈するのが憚られるくらいでしたが、私なりの考え方をいつもよりも多めに乗せてレビューしてみましたが、結果、振り返ってみると、レビューというよりはただ思いついたことを書き連ねているだけになってしまっていますね…とほほ。

次は、同じく<ムスカイボリタンテス>から「変身」のレビューをやろうと考えています。「敗北代理人」よりもだいぶ、そして「仮想現実のマリア」よりはいくらか、賞賛が見えています。ただ、問題なのが、歌詞が公開されていないということ! こういう場合、どうしたらいいんですかね…

前回や今回みたいに、細切れに歌詞を載せていくスタイルなら許してもらえるでしょうか? それとも、抜粋してやっていけば大丈夫なのですかね?(抜粋は嫌だ、抜粋は嫌だ、抜粋は嫌だ! どうせやるならちゃんと全部やりたい!)

ちょっと良く考えてみます。

まぁ、現実的に考えて、読む人がいないわけですから、別に問題無さそうな気もしますが笑。