「仮想現実のマリア」のレビューをさせていただきたいと思います。
さて、3つ目のレビューになります。
これまでの2つはアイドル楽曲でしたが、今回はバズマザーズという邦楽ロックバンドです。バンド紹介みたいなのは必要ないですかね。おそらく、こういった類の文章を読む方は予めある程度のところを知ってらっしゃる方だと思いますので。必要なら、ほかのところでいくらでも調べられますし。
まず、私のバズマザーズへの想いを。
Guitter & Vocalの山田亮一さんは、前のバンドのときから尊敬している方でして。作曲のセンスもさることながら、やはり彼の書く歌詞には毎度毎度やられていますね。私は文章を書くのが好きで、まぁ、こういったブログもやっている次第ですが、色々とものを書き始めた当初、私の操る語彙のほとんどはこの山田亮一さんからいただいたものだと自覚しております。それこそ、彼の書いていたブログもほとんど読みましたからね。
今でもどうやったら彼のような言葉をかけるか模索しています。
さて、お次はBassの重松伸さんとDrumsと福岡″せんちょー″大資さんですが、お2人とも確かなテクニックを持っており、バズマザーズの有機化合物的なグルーヴを生み出しています。
個人的な印象としては、重松さんはどちらかと言えば、滑らかかつピンポイントなタイム感を持っている印象です。ですが、何と言っても複雑なフレーズをベラベラと弾ける確かなテクニック。そして、「バズマザーズのこの曲なんか好きだなー」と感じるときは、たいてい重松さんの弾くベースフレーズがセクシーです。
対して、せんちょーさんのドラムは、ちょっと早めのタイム感なのかな、という印象が強いです。山田亮一さんのギターや歌が、はちゃめちゃなタイム感だったりすることもあり、一昔前のおじさま方からすると「こんなのグルーヴじゃねぇよ」と言われてしまいそうなグルーヴを、美しくアナーキーなグルーヴに仕上げてくれているのが、せんちょーさんのドラムだと思います。大胆かつ複雑な休符と、きめ細かい連打が魅力的です。
いずれにせよ、バズマザーズのグルーヴ感というのは、ちょっと取っつき辛い部分があると思うのですが、それでも何故か何故か、揃っているんですよね。例えば、toe(バンド)のライブ映像を見ると、カウントで合わせている印象が強かったりしますが、バズマザーズもそれに近いんですかね? しかしながら、微妙なタイム感のずれが楽曲にうねりを作っていたかと思えば、決めのところではしっかり揃うという…とにかく、こっちが慣れてしまえば、聴いててこんなに気持ち良いものはないという感じですね。
さて、ここからがちゃんと「仮想現実のマリア」のレビューになります。
*最初は楽曲のレビューをするので、歌詞の解釈はずっと下になります!
MVを見て、まず最初の寸劇のユーモアにやられました。
ドリカムの「大阪ラバー」の歌詞の解釈をしている山田亮一さん。遠距離恋愛の純愛を歌った曲じゃなくて、セックスフレンドの曲なんだと力説しています。何て言うか、そういう視点や想像力が羨ましいです。
「内村さまぁ~ず」で毒舌の吐き方について講義している有吉さんが、毒舌レベル5において「ありもしない嘘を投げつける」というのがありましたが、やはり個人の脳内で生み出した妄言や狂言といったものは面白いですよね。水曜日のダウンタウンで、小藪さんが松本人志さんをロシアのスパイとして仕立て上げていた回を思い出したりもします。
話がそれましたが、とにかく山田亮一さんのこじつけなんだけれど、どこか説得力があるこの「大阪ラバーはセックスフレンドの曲説」のユーモアセンスには脱帽するばかりであります。
そんな寸劇から始まるMV。
「セックスフレンドの歌やねん」というセリフとともに、怪しげなイントロが流れます。ギターの最初の4音のリフ。もうこれで、「好きだ」となりましたね。この印象的なリフと、せんちょーさんの叩くきめ細かいハイハットと、スネア。
ギターがカッティングに入ると、4つ打ちのバスドラムに変わり、「ワイセツミー」のイントロを感じるワクワク感マックスのフレーズへ。さらに、そこへベースが加わり、ギターも2本に増えます。ここで、先述のバズマザーズ特有の不可思議なグルーヴ感が味わえるポイントへ。
って、音楽について全部言葉でなぞっても仕方ないですね。
というわけで、とりあえずはこの曲の気になるポイントを抜粋します。
まずは、なんと言っても、サビの半分以上が食い込んだタイム感のバスドラ&スネア&ベースの4つ打ちになっているというところ。どういう感性でこんなやり方をしようと思ったのか。
最初はせっかくカッコイイ曲なのになんか盛り上がりに欠けるなぁ、という印象でした(それになんか、タイム感も食い込み過ぎてて、ちょっとノリにくいんですよね)。とは言っても、そこはやはり楽曲についていけていない自分が悪いので、慣れるまで聞きました。2,3回も聞いていれば、これが逆にたまらなくなるというよくあるパターンですね。
最近は「スルメ曲」って書き方が気持ち悪い、ってよく目にします。良曲は良曲であって、その良さに一発で気づけない残念な人が勝手に「スルメ曲」って言っているだけだ、という論調ですね。まぁ、たしかにその通りではあります。私個人としても、良い曲は一発でわかる、いや、わかりたい、と思いながら色々な音楽を聴くようにしています。しかしながら、良曲だとわかっても、それが身体に馴染むには時間がかかるパターンもあります。これまで自分が出会ったことのない、メロディ・リズム・タイム感だったりするとなかなか馴染むまで時間がかかるんですよ。なので、そういう意味では、「スルメ曲」ってあっても良いと思いますし、むしろあるべきだと思います。
つんく♂さんは日本人のリズム感向上に向けてもっと啓発していきたいということで、「リズム天国」なるゲームを作ったそうですし、ハイスイノナサの照井さんも何かのインタビューで馴染みのない音を作ることで、新しいものを生み出したいと答えていたような気がします(いつか、sora tob sakanaのレビューもしたいと思います)。
そういう意味では、バズマザーズもしっかりと音楽的に攻めたアプローチをしていると思います。
さて、また長くなりましたが、お次は2番Aメロの「街灯で凍えそうな少女が不憫で~」というところと、間奏明けCメロですね。この辺りの、滑らかに揺れるようなリズム変換が曲の立体感を出してくれています。
2番Aメロは、マッチ売りの少女にちなんだジョークということで、童話的な雰囲気を醸し出すユーモラスな演出となっています。
Cメロの方は、ドラムはしっかり刻んでいますが、ベースとギターのリフで滑らかな印象になっていますね。歌詞も描写的・風刺的なものから一変して、まるで自分自身へ自己暗示をかけるような幻想的な口調になっています。色情狂的な演説から打って変わって、非常に理性を感じさせる歌詞ですが、その喋っている内容は非常にロマンチックで、捻くれた諦めを感じさせます。
このCメロが入ってくれるおかげで、聴いている人に人間味を思い出す時間が与えられ、そして最後のキラーセンテンスへと自然に導かれていくわけです(この辺の歌詞についてはまた後ほど)。
そして、残すところはアウトロのギターですね。
正直、初めて聴いたときにはノリにくいサビのリズム。決めが多用されていることもあって、初見(初聴、not 初潮)ではまずノリ切れません。しかしながら、そんなリスナーを救ってくれるのがこのアウトロになります。
アウトロは2部構成になっており、1つ目は普通にカッコイイリフの繰り返し。2つ目はなぜか「パガニーニの主題による変奏曲(クラシックには疎いので、正式名称がわかりません笑)」。
1つ目のアウトロは酔っ払いながらめちゃくちゃにバレエでも踊っているかのようなリフで、私はこういうの本当に好きですね。同アルバムの「ペダラーダモンキー」のアウトロのギターも大好きなんですが、メタルでもハードロックでもない、どこか場末感の漂う悩ましく切ないメロディがたまりません。
2つ目のパガニーニに関しては、とにかく「よくこんな早いフレーズ、ピッキングが追い付くな」と。最初にこれを聴いたときは、あまりにも唐突だったので、ビックリしました。てっきり、こういうやり口は山田亮一さん好きじゃないのかと思っていたので。とは言え、前の山田亮一さんのバンドの「ポストワールド」という曲では、曲の最後に大阪は新世界(=ポスト・ワールド)で夕方5時になると流れるという「赤とんぼ」のアレンジが入っていたこともあったので、まぁ、納得はできました。パガニーニを選んだ理由も何かしらあるのかもしれませんが、単純に楽曲にはよく合ってますよね。イントロの印象的なリフとも相性が良いですし。
ところで、どうしてクラシックに疎い自分が「パガニーニの主題による変奏曲」だとわかったのかというと、その昔、「のだめカンタービレ」というドラマがありまして。あれの「のだめのライバルの瀬川悠人くんがコンクールで弾いてた曲だ!」とピンと来た訳です。何故だか、「瀬川悠人」という役名を覚えていたので、何とか辿ることができました。いやぁ、Google先生はさすがです。ま、もちろん、YouTubeのコメント欄を見れば一発でわかるんですけれども。
そう言えば、ドラマ「のだめカンタービレ」の瀬川悠人役を務めたのは、チビノリダーで有名という伊藤淳史さんの弟さんなんですよね。残念なことに、2009年に練炭自殺で亡くなられていますが。当時、家族でテレビを見ているときにそのニュースが流れて来てショックを受けたことを覚えています。もしかしたら、それが理由で「瀬川悠人」という名前を覚えていたのかもしれません。だからと言って、何の救いにもなりませんが。
さて、また話がそれたところで、楽曲面での感想は以上となります。
ここからは、いよいよ本題。歌詞の解釈に入りたいと思います!
バズマザーズを語る上では、やはり歌詞の解釈は欠かせません。とは言え、あくまで個人的な解釈になるので、何一つソースがあるわけではありません。その点、ご留意ください(それにしても、ここまでが長かった…!)。
まずは、オフィシャルホームページから歌詞を引用させていただきます。
LYRICS | バズマザーズ -Official Web-Site –
ラブイズオーヴァー悔しいけれど終わりにしよう
リビドーをボカす清らかな呪いを
密室立ち籠める仮想圏の獣臭 嗚呼、君は世界一綺麗で、キモい
最初の一行は完全に欧陽菲菲の「ラヴ・イズ・オーヴァー」からの借用。しかし、「終わりにしよう」の目的語は「リビドーをボカす清らかな呪いを」と、倒置法的に後出しされています。Wikipediaによれば「リビドー」とは「性衝動=sex drive」ということです。それにしても「sex drive」って凄い言葉ですね。カーセックスが停車中の行為であるのに対して、ドライブしながらということですからね。そんなことできるのか、と。
冗談はさておき、この2行の意味としては、「純愛なんて清らかな呪いは終わりにしよう。もったいない気もするから、なんかちょっと悔しいけど、もっとあられもなく性衝動を吐き出したいんだ」って感じですかね。
次の「仮想圏の獣臭」ですが、「成層圏」にかけて「仮想圏」ということですかね。曲名も「仮想現実のマリア」ということで、ポイントは「仮想」、すなわち「Virtual」。YouTubeのコメント欄などでも「これはVRのAVの歌だ」というようなコメントがあったかと思いますが、確かに時代も時代ですし、その要素も含まれているはずですね。少なくとも、曲のテーマを決めるときに、その辺りは確実に意識したはずです。しかしながら、全体を通して、どちらかと言えば、「まがいもの」という意味合いで「仮想現実」という言葉を捉えているように思います。なにもVRのAVだけに限った話ではなく、風俗から援助交際から何から何まで、まがいものの性衝動の発散を歌った曲だと個人的には思うのです。
そんなわけで、「密室には、まがいものの獣らしい性衝動が立ち籠めている。そして、目の前のあられもない姿の君は世界一、綺麗で、そしてキモイよ」と。
さぁて、たった3行の歌詞なのに、この量の解説。本当に最後まで続けられるのでしょうか。張り切って、次に行きましょう。
「桃源郷と万華鏡と色情狂の御一行」は、言わずもがな「きょう(こう)」で韻を踏んでいるわけですが、ただ韻を踏んでいるだけでなく、「桃源郷で、色情狂の御一行が、万華鏡のように奇妙な幾何学模様に見える性衝動をぐるぐると回している」みたいなイメージが膨らみます。欲に溺れる様が愛おしい。そんな山田亮一的世界観です。
「お前をロバの耳にしちゃうよ」は正直よくわかりません。イソップ童話の「王様の耳はロバの耳」からの引用だとは思いますが、私の知る話では王様の耳は最初から特に理由もなくロバの耳であって、秘密を抱えた苦悩する床屋が主役の話でした。「お前をロバの耳にする」ということですから、「なぜ王様がロバの耳になったのか」を調べる必要があります。ということで、Google先生に調べてもらった結果、王様は「何でも黄金に変える力が欲しい」とアポロン神にねだったことが原因らしいです。つまり、強欲の結果、王様はアポロン神にロバの耳にされてしまったわけですね。ということは、「あんまり色欲に狂ってばかりいると、お前をロバの耳に変えちゃうぜ。なんちゃって」的なことで良いんじゃないですかね。
はい。色々と書きましたが、「ロバの耳」になっているのは「王様」で、しかもその王様は「裸」です。つまり、「お前をロバの耳にしちゃうよ=お前を裸にしちゃうよ」ということでした。ほんとに私は頭が固い人間です。いや、よく言い過ぎました。単なる馬鹿でした。
さて、「イカスミで都合よく塗りつぶすフロイトの引用、YKKを対極に移す」…これも難解です。フロイトと言えば、皆さんご存知、精神分析学者の泰斗ですね。フロイトの「心理性発達理論」をまたまたWikipediaで調べてみると、
ということらしいです。個人的には、フロイトの理論については「鬱屈した性衝動が人間の精神構成に強い影響を与える」くらいに思っていたのですが、まぁ、おそらくそういうことで良いんでしょね。とりあえずは。
イカスミの理由は、ただ黒く塗りつぶしたいだけで特に意味はないだろうと思っていましたが、イカスミについて色々と調べてみると、これが面白いところにぶち当たります。実は、セピア色の「セピア」とは「イカスミ」のことらしいんですね。昔は、イカスミをインクに使っており、これが紫外線によって分解されると、いわゆる我々が知っているセピア色になるとのことでした。つまり、「時とともにイカスミで塗りつぶした黒は、徐々に脱色していき、隠れているところが見えるようになってしまう。そして、そこにはセピア色の哀しさが浮き上がって来る」みたいなこととも取れてしまうわけです。山田亮一さんがここまで計算して「イカスミ」をチョイスしてたとしたら、本当に尊敬します。
そして、「YKKを対極に移す」ですが、これもまた難解。YouTubeでのコメント欄にも書いてあったように思いますが、「YKK」とはおそらく「YKK-AP(株)」のことで、当該の会社は、住まいの窓を作っています。要するに「YKK=社会の窓=ズボンのチャック」ということで、それを対極に移すわけですから、「ズボンのチャックを下ろす」という解釈ができるということです。
(追記)
この間、有吉弘行のラジオを聴いていたら、「YKK=ファスナー」というのが一般的な知識のようだったので、ここはやはり単純に「ズボンのチャックを下ろす」という意味で良さそうですね。ちなみに再度調べてみましたが、「YKK」とはファスナーの商標登録名らしいです。というわけで、以下のような変な解釈をしてしまいましたが、おそらく違うと思いますので、抹線をしておきます。
たしかになぁ、とも思いますが、「窓」というところから、別の解釈も考えてみました。
前段にフロイトが出ているので、ざっくりと心理学繋がりで「ジョハリの窓」というものがあります。就活の自己分析でやらされました。「ジョハリの窓」とはざっくりと言えば、自分の自己認識と他者からの自分の認識について、共通点と差異点を見つけて、自己分析をしようというものです。しかし、もっと言えば、「自己認識と他者からの認識を公開し合うことで、より円滑なコミュニケーションを図っていこう」という側面や、「分析を通して、自分も他者も知らない新しい自分を見つけよう」という側面があります。自分も他者も知っている部分を「開放の窓」と呼び、自分も他者も知らない部分を「未知の窓」と呼び、それらは一般的なジョハリの窓の図において、対極位置しています。これらを踏まえると、「未だに自分も知らないフェチを見つけて、お互いに共有しようじゃないか」的な解釈も可能になるのではないかと思います(かなりのこじつけですけれども)。
以上、まとめますと、「イカスミで都合良く塗りつぶすフロイトの引用、YKKを対極に移す」とは、「自分の性的な嗜好というのは、フロイトの心理性発達理論の不要なところをイカスミで塗りつぶして、都合良く引用してやれば、まぁ説明はできるでしょ。そんで、そうやってお互いに自分をさらけ出し合って、もっと未知の領域へと行っちゃおうよ。ただ、イカスミで塗りつぶしたと思っていたところも、後々時が経てば、ぜんぶセピア色になって浮き上がって来て、すべてフロイトに見透かされているみたいで、何か切なくなったりもするだろうけど」と、無理矢理解釈できますかね。
「人格形成や性的嗜好というのは、フロイト心理学を使えばだいたい説明できるけど、往々にしてそういうのは素人が都合よく抜き出して適用しているだけに過ぎないよね。そんなことより、とりあえずファスナーを下ろしてやることをやってしまおう。時が経てばイカスミで黒く塗りつぶしたところも徐々にセピア色になって色褪せてしまい、全てが浮き出してくる。そういうのもなんか切なくていいね」という感じにまとめ直してみました。まぁ、正確な解釈というのは無理なわけですから、これまで色々と提示したパーツを組み合わせて、各々曲のイメージ醸成に役立てていただければ良いと思います。何よりも、楽曲のノリが最高に良いんで、この辺は細かいこと抜きで、メロディとリズムを楽しむだけで本当は十分でしょう。
電影のおばんざい、月よりも遠く 眼が合う様な錯覚脳内を牛耳る
黒鳥の雌、殺めずに召喚 狂現実の虜になって行く
「電影のおばんざい」とはなんぞや。
「おばんざい」という言葉は初めて聞きましたが、またまたWikipedia様の説明によれば、「京都の一般家庭におけるお総菜」のことらしいですね。山田亮一さんが関西出身ということもあって、「おばんざい」という言葉にはなじみがあったのでしょう。「電影」は「雷光」という意味らしいですが、中国では「映画」という意味らしいです。山田亮一さんの場末的感性からすれば、「雷光」ではなく、「映画」の方で解釈すれば良いでしょうね。というわけで、「映画に出てきた、家庭的なお総菜は月よりも遠い」というところでしょうね。ここは意味そのものよりも、語幹と断片的なイメージが重要だと思います。次の「目が合う様な錯覚が脳内を牛耳る」という部分と合わせて考えてみれば、舞台をAdult Videoに設定することで一応のイメージはできます。
つまり、「家庭内エロス的なAVに夢中で、画面の中の食卓に並んだお総菜は、もう月よりも遠く感じられ、今はただ目の前の女子と見つめ合っているような錯覚が脳内を牛耳っている」という感じでしょうか。取り留めのない歌詞なので、こじつけはこれくらいが精一杯です。
さて、色々と上では書きましたが、YouTubeのコメント欄なぞを見ていると、普通に「電影=映像作品」、「おばんざい=おかず」ということで、「電影のおばんざい=アダルトビデオ」ということですね。いやぁ、全然思いつきませんでした。お恥ずかしながら。ということで、「アダルトビデオに出てくる彼女は月よりも遠い存在だが、なんか目が合っているような気がするよね、うん」。と、そんな感じの歌詞の意味になりますね。
そして、「黒鳥の雌、殺めずに召喚 狂現実の虜になって行く」は、まず「黒鳥の雌」を解き明かさなければなりません。むしろ、それがわかれば後は自ずと理解できるでしょう。というわけで、教えてGoogle先生!
先生によりますと、「黒鳥」とはすなわち、あの「白鳥」の黒い版ということだそうです。はい、それは知っていますが…という感じでしたが、英語に直すとそのまま「ブラック・スワン」になります。「ブラック・スワン」と言えば、あのナタリー・ポートマンが主演を務めた映画のタイトルです。バレエの「白鳥の湖」を題材とした物語ですが、「白鳥の湖」における「黒鳥」の役割は、その持ち前の官能的な情熱でもって、清純な「白鳥」と王子の中を割くことです。映画「ブラック・スワン」では、ナタリー・ポートマン演じる根の真面目なニナが、官能的な「黒鳥」を演じようとするあまり精神を病んでいくというものでした。「黒鳥」の幻影に捉われ、演出家のトマに唆されながら、自分を見失っていくニナ。性的に解放されるためにも、トマに自慰を命じられたりもします。そんなわけで、この映画では「黒鳥」はある意味では性衝動の象徴であり、絶えず真面目なニナを苦しめる狂想になっています。
さて、「白鳥の湖」、そして映画「ブラック・スワン」を足掛かりにこれだけ考えていけば、「殺すことができなかった黒鳥=性衝動が、自分の中に生まれ、そしてその黒鳥に囚われていく」という解釈ができますね。
女王で奴隷で母性で、変幻自在のマリア
悪魔を揺り起こすドエロイムエッサイム
「女王」で、「奴隷」で、「母性」で、変幻自在のマリア。山田亮一さんは、自らのTwitterでもAV女優の愛須心亜さんや、つぼみさん、篠田あゆみさんの名前を出したりしていますし、ここは単純に色んな設定・役をこなすAV女優さんを言っているのだと思います。「聖母マリア様を冒涜している!」と怒られそうですが、様々な衣服を纏ったり、纏わなかったりして誘惑してくれる彼女たちは、男どもにとっては救いであり、まさに「聖母」と言っても良いのではないかと思ったりもします。
「エロイムエッサイム」については、グリモワール(魔術書)に登場する悪魔召喚のための呪文です。Wikipedia先生にも、
特に『大奥義書』の異本『赤竜』に加えられた、黒い雌鶏を使った召喚儀式に登場する「エロイムエッサイム 我は求め訴えたり」(Eloim, Essaim, frugativi et appellavi)という呪文は、『魔界転生』や『悪魔くん』、『四月は君の嘘』などの作品に取り入れられ、日本でも有名である。
と記載があります。先述の黒鳥云々の件も、単にここで紹介されるような「黒い雌鶏」を指しているかもしれませんね。もちろん、「黒鳥」と「黒い雌鶏」では全然ものが違いますが。
という具合に、ここはとても理解が容易い部分ではありますが、単に「エロイムエッサイム」と引用せず、「ドエロイムエッサイム」とすることで、魔術的な高貴を取っ払って、野卑な感触へと調理しています。くだらないジョークですが、このくだらなさが逆に性衝動に捉われた男のリアリティを増幅しているような気がしないでもない…というか、むしろこれまでさも鋭利なもののように扱ってきた「性衝動」を、もっと手頃でその辺に転がっているものなのだと位置づけてくれています。
というわけで、ここは「色んな役柄で、色んな方法で誘惑してくれる貴女は、変幻自在のマリア様」、「ドエロイムエッサイム、我は求め訴えたり。出でよ、我が性衝動」という感じですね。
独白とストリップ、一つ眼のあかんべえモンスター
脱兎追い回って半回転している
「独白」と「ストリップ」。どちらもやっていることとしては同じですね。上述の「ジョハリの窓」で言ったように、自らをさらけ出すということです。もしかしたら、「独白」が男で、「ストリップ」が女、という見方もできるかもしれませんが、別に「独白」は男に限った事でもないですし、露出狂の男もいますからね。
「一つ目のあかんべえモンスター」については、私自身YouTubeでコメントしましたが、要するに…
⇒ ・
(|)
ということで良さそうな気がします。これを見て、何を想像するかはあえて言いません。
お次の「脱兎追い回って」というところですが、よく「脱兎のごとく」とか聞きますよね。これもよくよく調べてみると、「始めは処女の如く、後は脱兎の如し」と、本来はもうちょっと長めの故事のようです。意味としては、「始めは処女のように弱々しく見せかけておいて、後で逃げる兎のように素早く一撃を加える」というようなことらしいです。単純に「兎のようなかわい娘ちゃんを追いかけている」というよりは、「処女みたいな顔して近づいてきたかわい娘ちゃんが、脱兎のごとく逃げていきそうになるので、それを追いかけている」とした方がもうちょっと面白味のある解釈になりますね。そして、すみません、「半回転している」に関しては、Google先生に尋ねてもそれらしい答が得られませんでした。
なので、「何かと独白してみたり、ストリップしてみたり、精神的にも肉体的にも陰部を見せて来るじゃない」、「処女みたいなフリしたあの娘が脱兎のごとく逃げ回っちゃうもんだから、おいらは半回転したり、転げまわったりしながらそれを追っかけてるんさ」みたいな感じでどうでしょうか。
これでやっと1番が終わりです。長い…
そうゆう店は無論、地下虚像も俺も、
剥き出しの娯楽全般、真価を問われている
この辺りは、最初の方に言ったように「仮想現実=Virtual Reality」的なものの台頭を表していると思います。「そういう店」や「地下アイドル(=偶像=虚像)」も、そしてもちろん「バンドマンである俺」ですら、「剥き出しの娯楽全般」という括りに当てはまるものは、もう時代遅れになってしまったんじゃないか? むしろ、今この瞬間、それらの娯楽の真価が問われている、という意味合いだと思います。ちゃんと「俺も」と入れている辺りが、さすがですね。単に性的な枠組みに留まっていないです。ちゃんと読み込んでみて今初めて気づきましたが、山田亮一さんには本当に頭が上がりません。
街頭で凍えそうな少女が不憫で、
あわよくばとマッチを買う時代は終わる
なんて、誉めていたらここの歌詞は完全に性的なものですね笑。実際問題として不憫だと思ったかどうかは置いておくとしても、街頭で凍えそうな少女がいたら「どうしたの? 大丈夫? ご飯御馳走しようか? ウチに来てあったまらない?」なんて声をかけたくなりますね。そして、「あわよくば…」なんて言う風にして、場合によってはちゃんと代金を支払ってマッチを買わせていただく…なんていう時代は終わってしまったわけです。一時、話題になりましたよね、家出少女。今もまだどこかにはいるんでしょうか。ちなみに、私はそんな彼女たちを見つけても、きっと声もかけられないと思います笑。
2番はここまでわかりやすい歌詞で非常に助かります。が、次はまた困ったものが待ち受けています。
電影のおばんざい、白けさせないで
フリーズアリゲーター脱がさないで頂戴
「電影のおばんざい」はもう良いでしょう。ただ、後に続く「白けさせないで」と組み合わせると解釈が難しいです。単純に、画面上のお総菜を見て、「白けさせんなよなぁ」と感じたということですかね。
「フリーズアリゲーター」もこれまた意味の分からない言葉です。頼みの綱のGoogle先生に聞いてみても「フリーズアリゲーター」ではいまいちヒットしません。そこで、「冷凍ワニ」で検索してみたところ、凍った池から鼻先を出して、冬眠しているワニの画像が出てきました。これをどう解釈すればいいのやら…という感じではありますが、ここは素直に下半身がテントを張っている絵をイメージすれば良いのでしょうかね。後に続く歌詞も「脱がさないで頂戴」ですし。
というわけで、「家庭的エロスを演出するためのお総菜はもういい。さすがに白けるから」。「(女)でも、ほらこんなにテント張っちゃってるよ。ふふ、冬眠中のワニみたい」、「(男)やめろって。脱がすなって」って感じでどうでしょうか。こじつけがどんどん酷くなっている気がしますね笑。
小人の大根、白とび巨人が旧現実に引き戻して行く
これは…個人的に最難関の歌詞ですね…
「小人の大根」と「白とび巨人」が何らかの比較になっていることはわかるのですが、まったく意図がつかめません。そして、「旧現実に引き戻して行く」という歌詞。手がかりがなさ過ぎてマズいので、とりあえず「旧現実」という言葉から何とか推測していきたいと思います。
「旧現実」という言葉があるということは、対して「新現実」があるわけです。では、その「新現実」とは何なのか? それはもちろん、「仮想現実」ということになるでしょう。「あわよくばとマッチを買う時代は終わる」とあるように、この曲の歌詞は新しい性的娯楽の出現について言及している部分があります。そのような「仮想現実」的な新しい娯楽が出現しているからこそ、「剥き出しの娯楽全般、真価を問われている」ということになるわけですね。このことから、考えれば「旧現実」とは、街灯に凍えている不憫な少女がいればそのマッチを買ってあげたり、「俺も」含めた剥き出しの娯楽があった時代のことを指しているはずです。
では、そんな「旧現実に引き戻して行く」、「小人の大根」や「白とび巨人」とは何ものなのでしょう。小人と巨人…そして、大根と白とび…ヤバイ…何もわからない。SPECの当麻紗綾みたいに、複数のキーワードから状況推理する能力が欲しいです。というわけで、もう少し「旧現実に引き戻して行く」からヒントを探ります。
「旧現実」とはつまるところ、時代遅れの娯楽です。では、何故そんな時代遅れの娯楽に戻りたくなってしまうのか。それはつまり、「電影のおばんざい」よろしく、「小人の大根」や「白とび巨人」が白けさせるから。そう考えると、近代的なAVにおいて、「大根」は「大根役者」、「白とび」はそのまま「白とび」(やけに画面が白とびしているAVってたまにありますよね。私は別にそういうのも、それはそれで何か無菌的な綺麗さがあって悪くはないと思いますが、この曲のテンションからするとそういう不要な白とびは邪魔でしかないということになりそうです)と考えれば、確かに白ける要素にはなり得そうです。
そして、残された「小人」と「巨人」。これはもうそのまま「小人」と「巨人」で良いですかね。行き過ぎた男どものフェチによって、AVのタイトルに女優の身長がドドンと明記されているものもありますからね。「日村がゆく」というバナナマンの日村が出演するネット番組のとある回で、風俗嬢の方々の話を聞く企画がありましたが、巨漢の風俗嬢が出会った「女巨人がビルの模型を壊しまくる自作のビデオを見ながら、風俗嬢にシてもらう」客の話を何となく思い出しました。男のフェティシズムって本当にすごいです。その情熱と想像力ってどこから来るんでしょう? それを創作活動と捉えれば、本当にすごいことだと思います。
長くなりましたが、まとめると「大根役者ややり過ぎた白とびの映像、そして低身長から高身長まで、もうわけがわからな過ぎてついてけませんわ。大人しく、旧現実的な娯楽へと戻らせていただきます」という感じになりましょうか。
やはり、歌詞が難解であるほど、文章が長くなってしまいますね。
らいてう気取りのお嬢さん、早合点しなさんな、
天秤は寧ろ精密になって行く
「らいてう」は「平塚雷鳥」のことで、「平塚雷鳥」と言えば、和製フェミニストの代表格。まぁ、これだけ女性を性処理の道具としてしか見ていない歌詞を書けば、フェミニストから背中を刺されても文句は言えないでしょう。しかしながら、「早合点しなさんな」。考えてもみなさい。男が近代的な仮想現実的性娯楽を用いることで、生身の女性を性処理の対象として見る必要がなくなるとは思いませんか? それはつまり、社会活動において女性を女性と捉える必要がなくなり、お互い卑しい性的なしがらみから抜け出すことができるのです。つまり、「天秤は寧ろ精密になって行く」わけです。
だから、「フェミニストの皆さん。勘違いしないでほしいのですが、新しい仮想現実のマリア様によって、私たちは社会活動における性のしがらみから抜け出し、より平等な立場を得ることができるのです」という感じですかね。ここはまぁ、わかりやすいですね。
さて、次の「独白とストリップ~」は既に解説した通りなので、ここでは端折ります。もちろん、文脈が違うので多少意味も変わって来ると思いますが、要素は既に出し尽くしたので、あとは各々考えていただければ良いかなと思います。
この広い世界でお前が所有している物は
たった一つ、その意識オンリー
そいつを騙して世界を手懐けろ錯覚こそが上手く生きる術さ
ここは別段、解説もいらなそうではあります。要は、「もう我ら人類は仮想現実のマリア様で十分自らを満たすことができるようになったわけだから、それ以上の面倒なことなんてうっちゃって、自分で自分だけの世界を作り上げて、そこに閉じこもっちゃえば良いじゃない」ということでしょうね。そのままではありますが。
ただ、忘れてはならないのは、この歌詞は別に性処理のことだけを言っているのではないということです。あらゆる場面において、私たち人類は、男女に関係なく、自らを騙してやることができます。小さなことで言えば、退屈だと思うただ書類をコピーするだけの仕事も、その書類が巡り巡って、どこかで誰かの笑顔に繋がると思えば、多少はやりがいを感じられます。もっと普遍的な話をすれば、私たち人間が生きている意味なんて何一つとしてありません。でも、中には家族のために自分は生きているんだと考える人もいるでしょう。では、その家族が何のために存在しているのか、なんて問いはどこかに放り投げておけば良いわけです。
加えて、「コギトエルゴスム(我思う、ゆえに我あり)」という言葉があります。これはすべてのものの「存在」を信じられなくなったデカルトが、「身の回りにあるものはすべて自分が作り出した幻想かもしれない。しかしながら、少なくともその幻想を知覚している私の意識というものは確実に存在している」と、物事を考えていく出発地点を定義した言葉になります。つまり、ある意味では自分の「意識」こそが世界のすべてと言ってもいいわけです。無論、自意識を超えた存在は確かに存在しているわけではありますが。それを単なる外的世界とするか、自意識の無自覚な領域と定義するかは個人の考え方次第です。
最後にちょっとした補足を。山田亮一さんが、重松伸さんらと組んでいたFunk Disussion Brothersというバンドの「B loved」という曲では、「この広い世界において、お前の所有物など何一つとしてないだろう。ただお前自身が何とかしなければならない問題が2,3あるだけさ」という歌詞を書いています。これはこれで好きな歌詞であります。
届かないなんて百も承知で手を伸ばそうぜ、純粋でいようぜ
警鐘は脳そこかしこで鳴り響いているが、耳貸す必要なし
これも歌詞そのままで十分理解できると思います。
「たとえ手を伸ばしてみたって、そこにあるのは仮想現実に過ぎない。言ってみれば、夏の蜃気楼、逃げ水みたいなもので届くはずもない。けれど、お前の心はそれを求めているんだろう? だったら、素直になろうぜ。純粋でいようぜ。なに? そんなものを求めてしまって本当に大丈夫なのか、だって? 手に入れられない幻想に魅入られるのが怖い? そんなもん放っておけばいいさ。ほら、いいから欲望に身を任せちゃいなよ」という感じでどうでしょう。長くなりましたが、これで十分伝わると思います。
「純粋でいようぜ」という言葉を聞くと、どこかのブログか何かで言っていた山田亮一さんの言葉がふと思い出されます。「自分ほど汚く醜いやつもいないと思うが、同時に自分よりも純粋なやつもいないと思う」というような言葉だったと思います。純粋であろうとすればするほど、人間は弱くなり、そして醜くなってしまう。私は個人的に、そんなような考え方をしています。そこでは世間や社会に対する、加害者意識と被害者意識が綯い交ぜになった、説明しがたい感情が渦巻いているのです。なんて、芝居がかった言葉をつい残してしまいたくなるくらいには、私もまた醜く、そして純粋なのだと思いたいものです。
そして、繰り返しになる部分を飛ばしまして…
全裸以上にあらわ 仮想現実のマリア
現実超えちゃって現実味は無し
という歌詞がやって来ます。これももはや説明は不要ですね。
「現実以上の快楽がそこには…仮想現実のマリア様にはあります。そこでは現実味すらなくなってしまうほどに」。
真実の愛が物真似のご本人登場みたいに
ハート奪ってくれりゃいいのに
そして、最後のこの歌詞。
この歌詞の為に、これまですべての歌詞があると言っても過言ではありません。ずうっと前に書いたように、Cメロの「この広い世界で~耳貸す必要なし」というところで、ふと理性的かつ感情的な面が見えます。それ以外のところでは基本的に、新時代の「仮想現実」とそれと相対する「旧現実」を描写・風刺することに終始しています。性衝動一般に関する話も多いですが。
1番、2番はユーモラスに「性衝動」・「仮想現実」・「旧現実」を描いていき、そしてCメロを経て、欲望に身を委ねていく主人公が生き生きと動き出します。最後のサビでは、これまでの歌詞を繰り返しつつ、血肉を得た主人公がいよいよ仮想現実の虜になっていきます。
と思ったら、最後の最後に「真実の愛が物真似のご本人登場みたいに、ハート奪ってくれりゃいいのに 」という本音が吐き出されます。
「真実の愛」なんてチープな言葉です。「物真似のご本人登場みたいに」という比喩はあまりにジョーク的です。「ハートを奪ってくれ」だってそうとう使い古された言葉ですし。それでも、そんな言い回し1つひとつが、これまでの難解で回りくどく、Cメロではどこかやけっぱちになっていた言葉たちを吹き飛ばして、すっと心に何かを残してたまま、ギターソロと一緒に去っていきます。
あえて、ちゃんと歌詞の解釈をしますが、「(色々言ったし、仮想現実の中で生きていくとも宣言したけれど、)結局は真実の愛が欲しい。この仮想現実の中でおれが演じるまがい物のショーを見かねて、まるで物真似のご本人登場みたいな感じで、真実の愛がバカみたいな笑顔を振りまきながら、ステージに降りて来てくれはしまいか。そしたらおれだって、斜に構えることもぜんぶ忘れて、バカみたいに両手を叩いて喜びながら、あんたにハート奪われてやってもいいってのに」という感じですかね。もとの歌詞の5倍近い字数になってしまっていますが、それくらい私はこの最後の歌詞にやられてしまいました。あぁ、やっとこれを書けた。
なんだかんだ、恰好つけた風刺で終わらないのが山田亮一さんであり、私が彼を敬愛する理由です。あぁ、本当に好きだな~。
さて、休日を丸1日捧げましたが、何というかかなりの達成感を感じます。頭もぼうっとしています。昨日は昨日で、1日中別のレビューを書いていましたが、今日も今日でとても疲れました。気づけばあと240字で1万6000字も書いたことになります。いよいよ、誰がこのレビューを読んでくださるのか…
まぁ、自分がこの歌詞を書いたわけでもないのに、個人的な達成感がハンパないので、良しとしますかね。
最後に…
歌詞や音楽の解釈というのは、絶対に作者と同じところには辿り着けません。あくまでここに書き連ねたのは、私の個人的な妄言です。それは、この曲のMVで山田亮一さんがドリカムの「大阪ラバー」にやったのと同じで、無理矢理のこじつけに過ぎません。
ただ、その無理やりのこじつけの中に、何かしら発見であったり、ユーモアを感じていただければ幸いです。
おぉ、1万6000字を超えてしまいました…