霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.80

適応障害と診断されて790日目(2022年12月13日)にこの記事を書いています。今日は午前中に雨が降っていて、染み入るような冬の寒さでしたね。私は故郷が日本海側の雪国なので、今日のような氷がじんわりと溶けていったような湿り気のある寒さはなんだか懐かしい感じがしました。

 

前回

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前回動画 vol.79

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前回は転院やカウンセリングを機に、双極性障害発達障害という両軸で今後の自分の在り方を考えていこうという話をしました。色々と気をつけるべきこと、より安心して生きていくためにどのような工夫ができるかを主にカウンセラーから教えていただきました。

特にブレインストーミング的なタスク管理というのが自分にハマりそうだというのは大きな発見でした。前回記事にも書いた内容ですが、私はADHD的な傾向が強いようなので、それを補うことが重要そうな気がしています。

例えば、色々なタスクがあるのに、1つのことを始めてしまうとそれを必要以上に深掘りしてしまいがちです。これだけ見るとASD的な傾向なのかもしれないですが、私はおそらく1つのことに手を付けると、「あれも大丈夫か?」「これも大丈夫か?」と色々な懸念事項が生まれて、思考が散らかっていき、うまく集中できなくなってくるというADHD的な傾向があるようなのです。しかも、その間にも頭の隅っこには手を付けられていない複数のタスクがぐるぐると不安感を煽っており、気がつけば「やばいやばいやばい」で頭がいっぱいになってしまうのです。

これを防ぐためには、色々あるタスクをとりあえず書き出すこと。そして、タスクに取り掛かる前に、おおよそのゴール地点を描いておくこと。これをまずはブレインストーミング的に「タスクを見える化=未知のものに対する漠然とした不安感を消すこと」、「検討を最小限にし、低めの完成度をゴールにする=1つのタスクで芋づる式に検討事項を増やし、あれもこれも状態にならない」という形で意識することにしました。

 

今回動画 vol.80

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というわけで、そんな双極性障害発達障害という前提をもとに、色々と日々の行動に配慮した2週間程度について、動画ではお話しています。

結果から言えば、「割と順調」。という感じですかね。とにかく、自分の状態を常に省みる努力が重要のようです。双極性障害を気にして、「今はテンション上がってない?」「いけいけ!やれやれ!と過集中していない?」と1日の中で何度も細かく振り返っています。また、私はストレスがかかると多動症(結構、意味もなく席から立ち上がってトイレに行ったり、ロッカーに向かったりしてしまいがち)の傾向が強く出ることがわかってきたので、それを1つ心身のバロメーターにしています。特に状況が散らかっていると多動症的になってしまうので、そういうときは一旦やるべきことを整理したり、限定したりするようにしています。そして、私の疲れやすい原因としては、多動症の傾向をカバーし過ぎようとするところにあると考えられるので、「相手の心情を気にし過ぎていないか?(無意識のうちにASD的な部分を隠そうとしているので、相手は相手だからそこまで気にする必要はないと割り切る)」、「ミスや失敗を恐れ過ぎていないか?(注意欠如によるミスを恐れ過ぎているので、指摘やアドバイスを受ける覚悟で書類等のチェックをお願いする)」ということを思い返すようにしています。

最初のうちは1日のうちで何十回と、自分の状態を確認するようにしていました。しかしそれも3, 4日もすると、割と自動にできるようになってきて、意識しないうちから「あ、いま多動症出かけてるな」、「あ、いま不安や恐怖に支配されてるな」とわかるようになってきました。まだまだ完璧でなく、時々忘れて体調が悪くなってから気づくこともありましたが、こういうトライ&エラーを繰り返していくことで、より生きやすくなっていくのだろうと思います。

というわけで、また動画投稿から日が経ちましたが、こちらのブログ記事も投稿させていただきました。しばらくこんな感じで続けていこうと思いますので、よろしくお願い致します。

適応障害と診断されまして…  vol.79

適応障害と診断されて780日目(2022年12月3日)にこの記事を書いています。次第に肌寒い季節になってきましたね。これからまた長い冬がやって来ると思うと気が滅入る部分もありますが、季節の移ろいを楽しんでいこうと思います。

 

前回

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前回はようやく「自分が発達障害なんじゃないか」という発想をもとに、「そういった発達障害的な部分をカバーしようとし過ぎて疲れているんじゃないか」という推測を行いました。そのような前提があることで、自分という人間をより正しく見積もり、より生活が楽になる方策を見定めることができると考えています。

今回のvol.79もまた喋る形でYouTubeに動画を投稿させていただきましたが、主たる内容は以下2つです。

 

①転院

②カウンセリング(9回目)

 

①の転院に関しては、細々とした事情や思うところはあるのですが、ざっくりと理由を書いてみると、「発病から2年経ち、未だ日々がしんどいのに、治療が頭打ちのようになってきた」ということがあると言えるでしょう。その他、諸々私の生活上の事情やカウンセリングルームとの兼ね合いもあり、転院に踏み切った次第です。転院したことにより、診断名が「双極性障害」に変わるかもしれないというところと、処方されるお薬が炭酸リチウムと睡眠導入剤エスゾピクロン)に変わりました。適応障害は一般的に2年も長引くような状態に対しては適切な診断名ではないと、私も素人ながらに思いますので、双極性障害というのもまぁ妥当な感じかなと思います。周囲から見て、はっきりとわかるほどの躁状態ではないにせよ、やはり自分の中でアクセルを踏み過ぎてしまい、その反動でしんどくなる傾向があることはこの2年でよくわかりました。そういう意味では自分としても納得のいく診断ではあります。

どちらかと言えば、②のカウンセリングが個人的には発見が多かったです。カウンセラーの方も治療の過程で自尊心を傷つけないようずっと配慮してくれていたのか、「発達障害」と明言することはなかったのですが、この度自ら発達障害である可能性を訪ねてみました。話の流れ上、その申告のタイミングがカウンセリング終盤だったので、発達障害に関するテストのようなことはできなかったのですが、カウンセラーの方もこれまでの9回のカウンセリングを通して、私にADHDの傾向があることを感じていたようでした。今後はその発達障害の度合いなどを確かめつつ、発達障害を前提とした対応策を一緒に検討していくことになりそうです。

私の仕事はマルチタスクかつ締切などもあることが多いので、頭の中で不安が膨らみ過ぎてストレスを強く感じてしまいます。そういった状況と自分の状態(つまり発達障害を抱え、まだ適応障害から立ち直り切れず、神経の衰弱や自信の喪失があること)を踏まえ、どのように日々の仕事を進めていくか。とりあえず簡単に取り組めることとして、ブレインストーミング的なタスク管理と、マインドフルネスの重要性について教えてもらいました。

ブレインストーミング的なタスク管理と言うのは、つまるところ議論や検討の後回しです。私はどうも1つのタスクに取り掛かると、それに没頭してしまい、次から次へと検討要素を想定してしまう傾向があるようです。例えば、旅行について考える時、行先や時期、最低限の巡りたい場所をリストアップすればそれで充分と言えるかもしれません。特に、飛行機やホテルの手配を余裕をもって行う場合には、それくらいの情報で良いはずです。しかしながら、私はその旅行先にある観光地をほぼ全て出し尽くし、それらの評価を1つひとつ調べ、その中での見どころや歴史的背景、どれくらいの時間をかけてホテルから行くかなど、そういった要素まで検討しきらないことには飛行機やホテルの手配に移れないのです。そしてそういう検討をしている間にも頭の隅には漠然と「飛行機とホテルを早く手配しなきゃ」という不安が渦巻いており、それによって目の前の検討すらままならなくなり、気がつけばぐったりと疲れ果て、酷い場合には「もう旅行なんて行きたくない」となってしまうわけです。

こういった問題は、カウンセラーに言わせてみれば、まずやるべきことをブレインストーミング的にリストアップして、完成度60点のところまで各項目を持っていくよう心掛けると良いとのことでした。大事なのは各項目を完成度60点以上まで持っていくことではなく、むしろその逆で完成度を60点以下に留めておくことだそうです。1つの項目に対して検討をずんずん詰めていくのではなく、例えば飛行機とホテルをとりあえず決めてしまえれば、逆説的に巡れる場所が限られてくるわけです。タスクは互いに関連しているので、各タスクを少しずつ進めることで必然的に選択肢の幅が狭められていき、最終的な余白の中で自分の好みに合うようなチョイスをするイメージでしょうか。

仕事含め、色々なやり方があって良いと思いますが、私は特に目の前のことに没入してしまい、その反面未検討の事項から齎される不安の香りに苛まれやすい傾向があるので、そこを補完することが必要なのかもしれません。逆に、様々なタスクに追われて、本質を掴めずに苦労している人は、私の傾向を取り入れる方が良いということになるでしょう。何事も過剰になり過ぎず、バランスが大事というのはカウンセリングを受けるたびに感じることです。

長くなりましたので、もう1つのアドバイスであるマインドフルネスに関しては割愛します。簡単に言えば、呼吸に集中している状態を自分の安全基地とすることが目標ということでした。ボディスキャン瞑想や、マインドフルネスはこれまでも取り組んできましたが、ルーティーンのように安全基地=軸を作るというイメージはあまり持っていなかったのでこれから気にかけてみたいと思います。

 

というわけで、少し前に投稿した動画なので、上記に記述した内容とは乖離もあるかもしれませんが、よろしければお聞きいただけますと幸いです。

 

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次回

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適応障害と診断されまして… vol.78

適応障害と診断されて767日目(2022年11月20日)にこの記事を書いています。今日は雨が降っていて、肌寒いです。日曜日なんですが、最近は疲れが溜まっていて今日もずっと寝たり起きたりを繰り返していました。

 

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前回のvol.77はこれまで自分がどのように考えて生きて来たのか、ということを話しました。「虚栄心」に振り回されて…つまり、人に良い格好を見せることに終始してきた人生を省みるのが私の人生であるというようなことでした。小・中・高は自分の能力を誇示し、その能力で他者を煙に巻いて、とにかく自分が傷つかないようにしてきたわけですが、それでは当然人生がうまくいくはずがなく。そこで、大学生になってからはとにかく自分のそんな傾向を省みて、他者に支配されない自己を確立するために新たな価値観を求めてきたわけです。しかしながら、過去の自分を否定して、それまでの生き方を否定するということは、社会そのものを憎むという事でした。つまり、「社会」と関わる以上、私の「虚栄心」は刺激されるわけで、私はあっという間に嫌いである小・中・高時代に戻ってしまう。それを避けるために私は「自分の嫌いな部分=社会」という風に位置付けて、苦しい気持ちで生きていました。

 

今回のvol.78では、一旦そういった自分自身の尺度による見識ではなく、もう少し医学的と言いますか、「発達障害」的な視点で自分を振り返ってみました。

結論から言えば、私は「発達障害」的な自分の要素をカバーするために多大な労力なりコストなりを支払って来たということです。現在でもそれがこびりついていて、普段社会生活を営むうえでとんでもなく疲れてしまう…段々とそういうことがわかってきたわけです。

例えば「忘れ物が多い」ということで、私は幾度となく周囲から注意されてきて、そのことが自分の「自尊心」…既出の言葉を使えば「虚栄心」が傷つけられてきました。それを回避ために、私は私なりにかなりの労力やずるい手法を使って生きてきたわけですが、それが大人になるにつれてキャパオーバーになっていったわけですね。「虚栄心」を傷つけられないようにあれやこれやと手を尽くすわけですが、それで酷く疲れてしまったり、逆にそれが他者を貶めることになったり、そういうのが嫌で私は「虚栄心」を憎むようになったんじゃないかと思ったわけです。すなわち、これこそが私が「社会」を憎む理由なんじゃなかろうか。

発達障害的な部分を指摘されることも嫌。発達障害的な部分を指摘されないために神経を張り詰めたり、他者を貶めたりするのも嫌。だから、私は社会とは関わらずに生きていきたい。でも、社会と関わらずに生きていくなんて無理。であれば、私はもう生きていくのが辛いので、できるだけ早く死んでしまいたい。

そういう風に考えると割といろいろなことが腑に落ちたのです。

そんなことを喋ったのがvol.78の動画になりますので、もしよろしければ。

 

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ここのところ色々考えることが多いので、更新頻度が上がっていますね。良いのか悪いのかわかりませんが、それでも前に進もうとしているのだと思い、無理なくやっていきたいと思います。

 

次回

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適応障害と診断されまして… vol.77

適応障害と診断されて759日目(2022年11月12日)にこの記事を書いています。すっかり秋めいて、過ごしやすい日々が続いているように思います。

 

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前回からYouTubeでの音声(動画?)による記録をメインとするようにしました。適応障害のブログを書き始めて2年経ったということもあって、気分転換というのが1番の理由ですね。文章を書くよりも個人的には気軽にできるような気もしますが、やはりあらかじめ話す内容をある程度考えておかなければいけないということは変わらないですね。

 

今回もYouTubeの方に動画を上げております。動画自体は2週間前くらいにあげていたのですが、こうしてブログに記事を書くのが遅れてしまいました。YouTubeに動画をあげるのは寝ながらでもできるのですが、記事を書くのはPCの前にしゃんと座らなければならないので自分的には結構ハードルが高いのです…

そんな感じでタイムラグもありますが、vol.77の動画へのリンクも記事に貼り付けさせていただきます。

 

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話している内容は、これまでの自分の人生を振り返って「なぜ、自分はこんなにも生きるのが苦しいのか」ということがメインです。小中学生くらいの愚かな自分を省みるために私は色々と考え、考え、考え過ぎた結果、気がつけば「生きづらい」と感じるようになっていました。そうして20歳くらいの頃にはもう「30歳くらいまでには死ぬだろうな」という予感、というか希死念慮を抱くようになっていました。

人間は「虚栄心」を持っているから苦しむ。

それが私が戦ってきた世界観であり、結局、その世界との戦いに打ち勝つことができずに、気がつけば相当追い詰められていました。今ではもう少し広い視野でものを考え、世界を捉えられるようになったと思います。そうして狭くて、がちがちに凝り固まった世界から抜け出すことで、多少は息がしやすくなったでしょうか。相変わらず生きづらさも沢山感じていますが、その生きづらさを緩和していくことが自分の残りの人生でやるべきことなんだろうと思い、今はそういう意味では前向きに生きています。

ときどき逃げ出したくなってしまいますが…

そんなようなことをだらだらと1時間程度も喋っているので、もし何もすることが無くてお暇な方がいらっしゃいましたら、この駄文と合わせて聞き流していただければ幸いです。

 

次回

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適応障害と診断されまして… vol.76

適応障害と診断されて733日目(2022年10月17日)にこの記事を書いています。気がつけばもう2年経っていたんですね。2020年の10月16日にvol.1の記事を上げていたようです。

 

初回

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ちなみに前回記事はこちら…

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2年経ってもまだ治っていないという実感です。まぁ、この記憶は一生消えないでしょうから、当たり前と言えば当たり前なんでしょうが、ぶっちゃけ数週間前にも涙が止まらなくなって2日ほど会社をお休みしてしまいました。

 

そして、こうして久しぶりに記事を書いているのですが、今後はですね、文章を書くのが面倒になってきた(ほかにも色々と理由はあるのですが…)ということもあり、YouTubeに音声を上げることにしました。

 

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まぁ、本当にスマホを枕の上に置いて、画面を真っ暗にしたまま喋っているだけなので動画としてのクオリティは終わってます。別にチャンネル登録もいいねも催促しないですし、これまで同様もちろん広告も何もないので、気が向いた方はご覧になっていただければと思います。

 

気が向いたらまた文章でも書くかもしれません。もちろん文章で書いた方が良いだろうなと思えば、文章で書こうと思います。でも、とりあえずは動画ベースになると思います。喋る方が楽ですし、面倒くさいことに私は文章を書くことにちょっとしたこだわりを持っていたりするので、書くからにはそれなりに自分が楽しんで書きたいんですよね。でも、最近はそんなに目新しい考え方や価値観のパラダイムシフトを体験できておらず、文章にするハードルを超えてこないんです。なので、適当にだらだらと喋ることにしました。

会社のトイレとか、文字の方がありがたいという場面もありますが、音声なら聞きながら目を休ませてられるとか、アイロンをかけながら聞けるといった利点もありそうです。まぁ、それはどうでも良くて、とりあえず毎回5000字くらいは書いているつもりなので、vol.75ということで少なくとも380000字近く…400字詰め原稿で言えば950ページくらいなので、それなりの長編小説くらいにはなりますでしょうか。なので、一旦はもう十分だ、ということで動画にシフトさせていただきます。

気分転換も兼ねてますし、更新頻度を上げられたらと思っていますので、ぜひともよろしくお願い致します。まぁ、誰がこんな文章を読み、誰がこんな低質の動画を観てくれるのかは知りませんが笑。

そうは言いながらも時折コメントをくださる方もいますし、評価ボタンを押してくださる方もいます。なので、これからもぼちぼち頑張っていく所存です。改めてよろしくお願い致します。

※また次の動画をアップしたら、こんな感じでちょっとした文章を添えて、はてなブログにも投稿しようと考えていますので(現時点では)。

 

次回

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気晴らし 1

 こめかみの辺りにピリピリとした痺れを感じる。揺れる車両、汗を吸い込んだシートが湿気でムッとする匂いを放っている。ガラス窓にはいくつもの水滴が貼り付き、四隅は白く曇っている。水滴と曇りで歪んだ景色は、暗緑色の森と寒々しい田園風景。見知らぬ土地を走行する鉄塊。窓は閉まっているはずなのに、容赦なく冷気が染み出してきていた。ふくらはぎの辺りが旧式の暖房機から吹き出される熱風で暑い。淫靡でメロウな音楽が鼓膜を湿らせる。
 何年か経ったとき、僕はこの景色と感覚を思い出すことになるだろう。あるいは頻繁に。何かで、どこかで読んだ。生まれてすぐに死んだ赤子も、老衰で死んだ老人も、その死の瞬間に感じる「何か」があれば、それは等価な人生だ。僕の人生はクソみたいな代物だ。それでも、もし死ぬ瞬間に今まさに僕が感じている全てがフラッシュバックするのであれば、それだけで僕の人生はあらゆるものと等価になるだろう。いや、フラッシュバックとは違うのか。要するに、自分の中にそういう抱えている景色や感覚、その「何か」があればそれだけでいいのだろう。
 美しい、という言葉の定義を考える。アドレナリン的な感動、センチメンタルな感情、鎮静や陶酔、麻痺、安堵の吐息。僕が今抱えているこの感覚はどれに当てはまるか。そういう細やかなことはわからない。しかし、何年か経ったときにふと思い出されるもの。それが美しさなのかもしれない。あるいは何年か経ったときにふと思い出してほしくなるような「何か」。ずっと抱えていたいもの。主観的に「価値がある」と思えるもの。
 瞬間的に感じられる様々な刺激がある。それらも美しさと呼べるものがあるかもしれない。しかし、やはり時の流れで磨き、削られた残滓。それこそが美しさの本質だろう。もちろんそこには現実的な時間が与えられるという仮定が必要だが(本来は美しいものであるはずなのに、それが然るべき時の流れを経る前に当事者がこの世から消えてしまうという可能性もある。それを補償するためには、然るべき期間が与えられるという仮定が必要だ)。美しさは事実でなくて良い。それは主観であり、ただの移ろう感覚だ。逆に言えば、感性こそが美しさを定義できる。定義という言葉は不適切か。規定……これも違うか。感性こそが美しさを発現させ、存在を担保する。想像力で増幅することも重要なことであるかもしれない。
 言語化能力というのは商売になる。表現力もある程度商売になる。でも感性を増幅する想像力というのはそれだけでは商売にはならない。でも、仮に赤子のまま死ぬことよりも、より長く生きることに意味を見出せるのだとすれば、それは想像力を養えるというところにあるだろう。想像力を養うということは、様々な角度から様々な刺激を美しいものへと増幅させることが可能である。例えば、本文の最初のパラグラフでの描写。あれらから僕は自分のプライベートな記憶を遡り、然るべき時間が経過した上でもより熟成した感覚を味わうことが可能だ。自分の内側に自分だけの美しさを創造する能力。それこそが想像力と言える。金にはならないが何にも代えがたい価値はあるかもしれない。
 長く生きることは様々な痛みや苦労、虚無や失望を伴うだろう。それらを補って余りある価値が、想像力にはあるとは言い難い。というか、想像力ではそれを補うことができない。いわば、我々の苦悩はどちらかと言えば、実軸方向の問題である。美しさは虚軸方向の話だ。ベクトルが90°違うのだ。虚数にも正負がある。美しさと聞くと、普通はプラスのものを思い浮かべるかもしれない。しかし、僕が喋っている美しさはマイナスのものも含んだ虚数世界全てを指す。実軸から離れて虚数世界に思いを馳せる。その能力を想像力ということになる。赤子であれば、意図的にその虚数世界へ意識を飛ばすことは難しい。感覚的にはそれを知覚できるだろう。しかし、年齢を重ね、術を身に着けることができれば、割と意識的に虚数世界へと飛び立てる。先に行ったようにそのことに経済的な価値はない。人生における価値とも言い難い。しかし、生きることの価値を考えたときに、様々な割に合わない苦悩を孕みながらもまだ何かを見出そうと生きていくのは、想像力を鍛えることに何らかの個人的な価値を見出しているからではないか。僕はその想像力を養うという可能性に期待をしている。
 もちろん若い頃のように僕の感性は鋭敏ではないだろう。僕の抱く虚数世界もだいぶ固定化されてきてしまった。しかし、その凍り付いていく虚数世界の中でも、僕はわずかな火種に空気を送り込み、大切な灯をまだ見守り続けている。それが美しさを糧に生きるということなのだろう。生きることが美しいのではない。また、美しさが生かしてくれているというのでもない。ただ、生きている以上は、美しさの灯とともにある。
 ガラス窓の外では日が暮れ、森も田んぼも隠れて自分のつまらなそうな顔がガラスに反射している。首を捻り、額をガラス窓に擦り付けるようにして、それでも外を見ようと試みる。遠く、ここがどこかもわからない土地に、民家のオレンジ色の光がぽつんと光って見えた。

「有線ピヤホン3」レビュー

クラウドファンディングがかなり白熱した有線ピヤホン3ですが、本日8/20に手元に届きましたので早速簡単なレビューをさせていただこうと思います。

 

有線ピヤホン3 外箱

ピヤホンシリーズですが、まず箱からカッコイイですよね。これだけで「良い買い物をした!」という感動があります。

取り出してみると、これが結構ずっしりとした重量があり、高級品という感じもありますね。

 

有線ピヤホン3

 

 

1.音質~強み~

一聴して、「おぉ!ボリューム感がすごい!」という感じがありました。低音がかなり重めで、それでせせこましくなく、非常に広がりというものを感じます。ただ低音が大きく鳴っているというのでもなく、しっかりとクリアに聴こえてくるので感動しました。

低音に関しては、まず「粒立ち」から確認していきます。あまり良いイヤホンでないと、ベースの音が潰れてしまって16ビートなどが曖昧にしか聴き取れないということが結構あります。それを確認するための音源として、私はたいてい「シュガーサーフ(おいしくるメロンパン)」のベースを確認することにしています。

 

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はい。ちゃんと聴こえますね。ほかのイヤホンとの比較は最後にまとめて行うつもりですが、無線ピヤホン5と比べると、よりベースの音が生々しいです。無線ピヤホン5の方が若干音に加工・補正が入っているような感じがあり、マットに聴こえます。マットな分、「粒立ち」という観点では無線ピヤホン5の方がはっきりしている感じもありますね。とは言え、やはり有線は情報量が多く、いい塩梅で雑味もあり、それが生々しさを引き立たせています。にもかかわらず、音が潰れずにしっかり一音一音聴こえてくるのは、やはり解像度の高いイヤホンなのでしょう。

そして1番、有線ピヤホン3で聴いて感動した(相性がめちゃくちゃ良いと感じた)のが「D.A.N.」の最新アルバム「NO MOON」ですね。

 

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アルバム表題曲の「No Moon」では約1分あたりからのベースの低音の存在感がエグイです。

 

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アルバムの中でもかなり攻撃的な「The Encounters」もめちゃくちゃカッコ良く聴こえます。

この「NO MOON」というアルバムの音像は、

・低音が太く、よく響き、味わい深い

・多彩な装飾音(中音域~高音域)

・甘く、生々しいボーカル

という特徴があると思っているのですが、それらの良さが有線ピヤホン3によって最高潮にまで引き出されている気がします。逆に言えば、有線ピヤホン3の強みが上記のような点にあると言えるでしょう。

 

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なので、意外とピアノの独奏なんかでも音が痩せ細りしなく、豊かな音像を楽しむことができます。

このように総じてかなり迫力が出るイヤホンであると思います。

 

2.音質~苦手分野~

苦手分野というか、これは単純に好みの問題という気もしますが、「一長一短だよね」ということを簡単にご紹介させていただければと思います。

 

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以外なところで、個人的には「凛として時雨」や「TK from 凛として時雨」における私の楽しみ方とはちょっとマッチしていないなという印象でした。もちろん、低音を含めた音全体の迫力は素晴らしく、いつもよりも骨太な音像を楽しむことができます。しかしながら、どうしても私は鼓膜に突き刺さるような攻撃性の高いものを「時雨」に求めてしまいます。

有線ピヤホン3は長時間聴いていて疲れないイヤホンを目指したとのことなので、耳に刺さるような音域はあえて抑え込んでいるそうです。そう考えると、確かに「時雨」の音楽でも長時間聴いて疲れないので良いですよね。私は散歩しながら「時雨」を1~2時間爆音で聴き続けるというストレス発散をたまにやるのですが、大抵最後の方は鼓膜が疲れて、人の声なんかがまるで何重もの膜を通して聞こえてくるような感じになってしまいます。有線ピヤホン3ではそういった事態にはなりにくそうです。

なので、一長一短なのですが、どうしてもそういった刺激が欲しいときはいつも使っているイヤホンを使おうと思います。ちなみに、この点に関して言えば、無線ピヤホン5よりは有線ピヤホン3の方が攻撃的な音をしているように思いますね。というか、有線の方がやっぱりかなりタフな音像だと思います。より「生(なま)」です。

 

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そして、これは完全に強みの裏返しなのですが、「No Buses」のようなある種のローファイ感、チープさを楽しみたいときには、有線ピヤホン3は若干迫力が出過ぎるという部分があるかもしれませんね。バスドラムやタム、ベースが骨太になります。まぁ、でもこれは気にならないと言えばそこまで気にならないかもですね。むしろ、YouTubeとかの広告に迫力が出てしまう方がちょっとイラっとします笑

 

3.装着感

耳掛け式の有線イヤホンという意味では、私は普段オーディオテクニカ(オーテク)で耳掛け式のものを使っているので、そっちに慣れています。オーテクのものは耳にかける部分が針金のようになっていて、一度曲げたらその角度を維持してくれるような硬さがあるのですが、有線ピヤホン3のケーブルにはそういったものがなく、柔らかいです。なので長時間かけても耳が痛くなりにくいというメリットがありそうです。が、ちょっと使った感じでは、ケーブル自体にも結構重さがあるので、安定感は若干オーテクに劣りますかね。

あとはケーブルにはツイストがかかっており、その分ノイズは乗りにくくて音質は良くなると思いますが、耳掛け部の装着感と合わせて、ごてっとした重さがやはり気になりますね。もののけ姫でエボシが「やはりちょっと重いな」と言うくらいの感じですかね。慣れれば大丈夫だと思いますし、慣れない中でも別に扱えないわけではないので。

 

4.まとめ

私自身、オーディオマニアというほどではないので、細かいパーツの役割などはよくわかりません。わからないなりに、「良い音質で音楽を楽しみたい」と思って来たのですが、この有線ピヤホン3と出会うまでは基本的にオーディオテクニカの中で少しずつ高価なものを買うようにしてきました。

現状、私が使用しているのは、

ATH-E70

というやつで、だいたい4万円ちょっとの値段です。解像度が高く、前述の通り、結構耳に負荷がかかるような帯域までそのまま出力してくれるので刺激的です。このイヤホンを使うまでは、

ATH-LS400

まで、LSシリーズの中で徐々に値段を上げて来た感じです。リケーブルもしてみて、計5万円ほどかけたものを使用していたのですが、故障を機にE70の方を買ってみたら、そちらの方がリケーブル無しでも解像度が高く感じられたので、今ではE70をメインで使用しています。

人にイヤホンを貸してもらう機会もたまにあったのですが、中高音を含めた全体のバランス感が良いイヤホンが好きなのか、オーテクばかり使ってきました。

ただ、普段使いではどうしても利便性の観点から無線ピヤホン5ばかり使用しているという状況です。無線ピヤホン5もとても良いイヤホンですが、やはり情報量の多さと全体的な音の広がり、生々しさという観点では有線に劣る印象があります。なので、休日などに散歩をしながら音楽に没頭したい!というときには、大抵上記の有線イヤホンを使用しています。

そんな私の音楽生活の中に現れた有線ピヤホン3。33,000円という価格から考えれば上記のオーテクイヤホンよりも若干劣るかと思っていたのですが、全然そんなことはありませんでした。むしろ、私はこの有線ピヤホン3にめちゃくちゃ感動しましたね。正直、高音の突き刺さり具合以外は、有線ピヤホン3の方が「音の広がり」、「迫力」、「解像度」という様々な面で優れている印象です。高音の突き刺さり具合についても、裏を返せば「疲れにくい」という長所でもあるので、「ピエール中野さん、めっちゃいい仕事したな」と改めて感心させられました。

あとはどうしても装着感だけ慣れない(現状、やや不便と感じる)ので、そこだけ克服してこれからの音楽生活により楽しみを見出していこうと思います!

 

最後に…

一聴して「良いイヤホンだ!」と感じますし、細かく聴いていくとその豊かでバランスの取れた音像の素晴らしさにも気づかされ、本当に良い買い物をしました。今までイヤホンも好みがあるし、音楽へのお金のかけ方も人それぞれだから、と他人に自分の気に入ったイヤホンを勧めることなんてなかったのですが、これは他人に勧めたくなるイヤホンですね。今のところはまだ一般発売されていないみたいですが、一般発売されるようになったら、ぜひプレゼントにもしてみたいイヤホンです。

改めて、感動をありがとうございました。これからいっぱい使っていこうと思います。