こめかみの辺りにピリピリとした痺れを感じる。揺れる車両、汗を吸い込んだシートが湿気でムッとする匂いを放っている。ガラス窓にはいくつもの水滴が貼り付き、四隅は白く曇っている。水滴と曇りで歪んだ景色は、暗緑色の森と寒々しい田園風景。見知らぬ土地を走行する鉄塊。窓は閉まっているはずなのに、容赦なく冷気が染み出してきていた。ふくらはぎの辺りが旧式の暖房機から吹き出される熱風で暑い。淫靡でメロウな音楽が鼓膜を湿らせる。
何年か経ったとき、僕はこの景色と感覚を思い出すことになるだろう。あるいは頻繁に。何かで、どこかで読んだ。生まれてすぐに死んだ赤子も、老衰で死んだ老人も、その死の瞬間に感じる「何か」があれば、それは等価な人生だ。僕の人生はクソみたいな代物だ。それでも、もし死ぬ瞬間に今まさに僕が感じている全てがフラッシュバックするのであれば、それだけで僕の人生はあらゆるものと等価になるだろう。いや、フラッシュバックとは違うのか。要するに、自分の中にそういう抱えている景色や感覚、その「何か」があればそれだけでいいのだろう。
美しい、という言葉の定義を考える。アドレナリン的な感動、センチメンタルな感情、鎮静や陶酔、麻痺、安堵の吐息。僕が今抱えているこの感覚はどれに当てはまるか。そういう細やかなことはわからない。しかし、何年か経ったときにふと思い出されるもの。それが美しさなのかもしれない。あるいは何年か経ったときにふと思い出してほしくなるような「何か」。ずっと抱えていたいもの。主観的に「価値がある」と思えるもの。
瞬間的に感じられる様々な刺激がある。それらも美しさと呼べるものがあるかもしれない。しかし、やはり時の流れで磨き、削られた残滓。それこそが美しさの本質だろう。もちろんそこには現実的な時間が与えられるという仮定が必要だが(本来は美しいものであるはずなのに、それが然るべき時の流れを経る前に当事者がこの世から消えてしまうという可能性もある。それを補償するためには、然るべき期間が与えられるという仮定が必要だ)。美しさは事実でなくて良い。それは主観であり、ただの移ろう感覚だ。逆に言えば、感性こそが美しさを定義できる。定義という言葉は不適切か。規定……これも違うか。感性こそが美しさを発現させ、存在を担保する。想像力で増幅することも重要なことであるかもしれない。
言語化能力というのは商売になる。表現力もある程度商売になる。でも感性を増幅する想像力というのはそれだけでは商売にはならない。でも、仮に赤子のまま死ぬことよりも、より長く生きることに意味を見出せるのだとすれば、それは想像力を養えるというところにあるだろう。想像力を養うということは、様々な角度から様々な刺激を美しいものへと増幅させることが可能である。例えば、本文の最初のパラグラフでの描写。あれらから僕は自分のプライベートな記憶を遡り、然るべき時間が経過した上でもより熟成した感覚を味わうことが可能だ。自分の内側に自分だけの美しさを創造する能力。それこそが想像力と言える。金にはならないが何にも代えがたい価値はあるかもしれない。
長く生きることは様々な痛みや苦労、虚無や失望を伴うだろう。それらを補って余りある価値が、想像力にはあるとは言い難い。というか、想像力ではそれを補うことができない。いわば、我々の苦悩はどちらかと言えば、実軸方向の問題である。美しさは虚軸方向の話だ。ベクトルが90°違うのだ。虚数にも正負がある。美しさと聞くと、普通はプラスのものを思い浮かべるかもしれない。しかし、僕が喋っている美しさはマイナスのものも含んだ虚数世界全てを指す。実軸から離れて虚数世界に思いを馳せる。その能力を想像力ということになる。赤子であれば、意図的にその虚数世界へ意識を飛ばすことは難しい。感覚的にはそれを知覚できるだろう。しかし、年齢を重ね、術を身に着けることができれば、割と意識的に虚数世界へと飛び立てる。先に行ったようにそのことに経済的な価値はない。人生における価値とも言い難い。しかし、生きることの価値を考えたときに、様々な割に合わない苦悩を孕みながらもまだ何かを見出そうと生きていくのは、想像力を鍛えることに何らかの個人的な価値を見出しているからではないか。僕はその想像力を養うという可能性に期待をしている。
もちろん若い頃のように僕の感性は鋭敏ではないだろう。僕の抱く虚数世界もだいぶ固定化されてきてしまった。しかし、その凍り付いていく虚数世界の中でも、僕はわずかな火種に空気を送り込み、大切な灯をまだ見守り続けている。それが美しさを糧に生きるということなのだろう。生きることが美しいのではない。また、美しさが生かしてくれているというのでもない。ただ、生きている以上は、美しさの灯とともにある。
ガラス窓の外では日が暮れ、森も田んぼも隠れて自分のつまらなそうな顔がガラスに反射している。首を捻り、額をガラス窓に擦り付けるようにして、それでも外を見ようと試みる。遠く、ここがどこかもわからない土地に、民家のオレンジ色の光がぽつんと光って見えた。