霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.1

1か月ぶりのブログがこんなタイトルになるとは、1か月前は想像もしていませんでしたが、今日のお昼ごろに実家近くのクリニックで「適応障害」と書かれた診断書を拝受しました。

もともとこのブログは音楽や文学などを中心にお喋りし、その合間にこれまでせっかく書いてきた個人的な創作物を披露させていただく場を作ることが目的でした。が、心配性の私はきちんと初回の記事でこのブログの仕様を次のように書いていました。

 

日記的な役割を担うことになるかもしれません。 

 

eishiminato.hatenablog.com

 

自分の準備の良さには驚きますね。まさか初の日記スタイルの記事が病気の記事になるとはやはり考えてもいませんでしたが(笑)。

まぁ、何にせよ、私は村上春樹の「スプートニクの恋人」に出て来る「すみれ」よろしく、文字にしないことには理解が及ばない旧時代的人間ですので、自己療養を目的に文章を書き進めたいと思います。もともと個人的な創作物を作る理由についても、自己療養が目的ときちんと上記の「仕様」で明記していますし、こういうのには慣れたもんです。

ただ、私は様々な音楽や文学に救われてきています。もちろんそれらのエンターテインメント性に救われることも多々ありますが、それ以上に「自分と同じ苦しみを抱えている人がいるんだ!」ということを知り、それにより救済されてきたように思います。

というわけで、誰がこんなものを読んでくださるか分かりませんが、1つのケースとしてここに私の療養の過程を書き留めておこうと思います。反省も兼て。

 

 

1.鬱になった経緯

9月中旬に転勤の命令が会社から出されました。まぁ、噂で「そろそろあそこに異動じゃないか」という話もちらちら聞いていたので、正式に命令が下ったときは「免れなかったかぁ。てか、今の職場を離れるの寂しいんだけど」という感じでした。

そして、10月1日から新天地で働き始め、「頑張って新しい環境で早く認められるぞ!」と意気込み、意気込み、意気込み過ぎて、気づいたらわずか配属2週間で涙ぼろぼろで「もう会社に行けない!!!!」となってしまいました。

これからその詳しい流れについて、だらだら書き進めようと思います。

 

お盆も終わり、8月下旬。10月1日付けで東京の職場に異動になる方向ではないか、という噂が私の耳に入ります。もちろん、まだ正式な決定ではないし、これから色々な調整が進み、最終的には9月中旬くらいに決定が下されるだろう、とのことでした。

私が就職した会社は全国転勤があり、入社後初めての本配属で私は縁もゆかりもない地方都市へやって来ました。それが2年前の10月でしたので、丸2年間その初めての職場で働いたことになります。もともと私は自分で言うのもなんですが、色々思い詰めて大学に通うことを放棄して1年留年した経験があったり、まぁ、昔から捻くれていてそのくせ繊細な人間だなぁとは思っていました。要は豆腐メンタルだったわけですね。就職活動をする前はてっきりメーカーとかで研究や製品の設計をする人生かなと思っていたのですが、「色々な世界に触れ、そこで様々に自分を変革し、面白味のある人生にしたい!」と思い立ち、全国転勤のある今の会社に就職を決めました。豆腐メンタルの自分がやっていけるのかという不安もあったのですが、「いつ死んだって良いし、適当にやればいいさ。自分の目的は森羅万象を巡り、この世の真理を見出すことなんだから」と、テキトーなことを考えていました。

しかし、最初の配属で地方都市で働き始めると、そこにいた人たちの事や、仕事も結構好きになり、友達もほとんどいなかった自分にも「友達だと思ってる」と言ってくださる先輩ができたりしました。こんな自分でもうまく社会の中でやっていけるもんだな、と自信も湧き、全国転勤なんてしないでずっとここでやっていきたいな、と考えを改める瞬間も沢山ありました。そんな中、先月正式に東京への転勤が決まりました。

新しい職場の前評判はかなりわかりやすいもので、誰に聞いても「厳しいし、特殊な職場。でも、多くの事が学べるからとても良い経験にはなると思う」ということを言われました。地方での2年間を通して、仕事に対して自信がついていた私は「新しいところでもがんばろう」と意気込んでいたのですが、前述の通り、根が豆腐メンタルのチキン野郎なので内心はかなりビクついてたように思います。ただ、新天地での活躍を応援してくれる人も多かったので、「絶対にうまくやっていくぞ!」とその不安をかき消すよう無意識に自分に言い聞かせていた部分もありました。もちろん、「不安ですぅ~」と先輩に泣きついたりもしましたが(笑)。

しかし、ここで1つ目の具体的な関門がありました。まず、寮の申請で手こずりました。転勤先の職場が決まり、そこから寮の申請手続きを行うという流れだったのですが、9月の連休があったりしたせいでそれが滞り、自分の書類作成ミスもあったりで、引っ越し業者が荷物を搬出する前日まで引っ越しが決まりませんでした。豆腐メンタルの私はまずここでかなり焦り、動揺しました。幸い、引っ越し業者の方が優秀な方で、「東京方面ということだけ分かれば、何とか都合をつけられますよ」と調整していただき、何とか予定通りの日付で荷物の搬出・搬入をすることができました。

それと並行して、新しい職場への準備でかなり私はあたふたしていました。まず、何を持っていけばいいのか。私が勤める会社は工事現場に行く機会も多く、具体的にはヘルメットは自分で持っていくのか、あるいは新しい職場で配布されるのか、など、そういった細々としたことについてよくわからず色んな人に聞いて回っていました。いま思い返せば、「新しいところでもうまくやろう」とこの段階から強く思い過ぎていますね。ただ何につけても、そういう不安が付き纏っていて、「まぁ、考えたってわからないものはわからないし、どれだけ準備しても絶対に漏れはあるから、新しい職場に迷惑をかけながらやっていけばいいさ」という割り切りができていませんでしたね。

 

そして、10月1日についに新しい職場に配属されました。そして、そこで私は打ちのめされます。まず、机にはパソコンのセットアップ方法などが書かれた書類が置かれており、上司からは「とりあえずそれやっておけ」と言われました。周りの人たちは自分の仕事で忙しそうにしています。つい数日前までいた職場では、配属されてきた人に対してそんな素っ気ない態度は考えられませんでした。てっきり「新しいところで不安でしょう。まぁ、まずは一緒にパソコンのセットアップしましょうか。あとで職場の案内とかもしますね」みたいにアイスブレイクを入れつつ、声をかけてくれるものと思っていましたから。しかし、その後私がセットアップに苦戦している間も誰も声をかけて来る様子はなく、とりあえうパソコンの設定が終わり、「完了しました」と上司へ報告します。すると、その上司が「じゃあ、おめぇちょっとついて来い」と言われ、訓練施設へと連れて行かれます。「〇〇をしてみろ」という指示を出されますが、私はそれをやったことがなかったので、とりあえず自分なりのイメージでやってみて、細かいところは「わかりません」と答えました。「なんもわかんねぇんだな。前の職場ではなにやってたの?」というようなことを言われ、私は完全にビクつきました。同時に、「なんでこんな扱いされなきゃいけないの?」、「配属初日で不安を抱えている人間にどうしてこんな仕打ちができるの?」とかなり動揺してしまいました。

と、こんなことを書くと本当に職場が悪い(あるいは、自分が甘過ぎる)という感じに見えてしまいますが、それは単純に環境に差異があっただけなのです。前の職場は手厚く優しく新人を育てる方法を取っており、新しい職場では職人気質の人が厳しく技術を叩きこむ方法を取っているというだけなのです。数日もすれば、そういった割り切りもできるようになり、「早く自分も1人前として認められるぞ!」という前向きな思いが芽生え始めました。

環境の差異という意味では、業務内容の差異も大きくありました。地方と東京という差異だけでなく、業務の内容も大きく変わり、自分の知らない技術や業務上の手続き、人間関係があり、それまで私が地方で2年間学んできたことは、とりあえずのところほとんど役には立ちませんでした。なので、とにかく1日に1個でも新しいことを覚えて、かつ2度同じことは聞かないように常に気を張り詰めて、詰め込めるだけ詰め込みました。こんなに自分の能力限界ぎりぎりまで酷使するなんていつぶりだろう、なんて感じて悦に入ってたりもしました。

ただ、もちろん新しい環境ですし、当然のように毎朝「会社行きたくないな~」とも思っていました。月曜日の朝の感じです。まぁ、それも最初のうちは仕方ないさ。あれだけ楽しかった地方での2年の始まりも同じように嫌々仕事行ってたしな。そんなことくよくよ考えるくらいなら、今日も1つでも多く勉強して、早く会社で仕事がしたいと思えるくらいにならなきゃな。さて、気合い入れなおして頑張るぞ。自分にはそんなことを言い聞かせていましたね。そして、毎日のように厳しい言葉をかけられながら、それを受け流し、必要な知識だけは習得し、何だったら自分から積極的に仕事を教えてもらいに行くよう心掛けていました。

しかし、実はこの時から既に身体にはうつ病の基本症状が出始めていました。

まず1番感じていたのは「息苦しさ」です。コロナ対策のマスクのせい…ではないことはわかっていましたが、やはり新しい環境でプレッシャーがかかっているから、最初の内は緊張感が解けず、張り詰めた感じが付き纏うのはしょうがないかとやり過ごしていました。それに伴い、軽い頭痛があったり、お腹を下し続けたり、食欲不振もありました。夜に上手く眠れず、寝ても夜中に目が覚めてしまったり、疲労感が取れない感じもありました。にもかかわらず、勤務中はすごい集中力のせいで、眠気や疲労感なんて気にならない(というか、そこに確かに存在しているけれど、無視できてしまう)感じでした。このような状況を私は「環境に適応しようと努力できている!」という成果として受け止めてしまっていたのです。自分はそんなになるくらい今努力をしているのだから、いずれ周りからも認められ、ぞんざいな扱いを受ける機会も減っていくだろうという希望があったのです。

ただ、それが崩れたのが夜勤明けを含め4連休があったときです(私の職場は夜勤や土日出勤があるため、たまたま休みが固まっていました)。その4連休は知人と会ってお酒を飲んだりもしましたが、基本的には平日の疲れを癒そうと決めていました。平日は息苦しくなるくらい頑張っているんだから、休日くらいはのんびりだらだら過そうと考えていたわけです。しかし、その4連休のほとんどの時間、気分が休まることはなく、寮のベッドの上でウダウダしているだけにもかかわらず、平日と同じ息苦しさがありました。そして、仕事をしているときとは打って変わって、業務に集中しているわけでもないので、ふと気を抜くと気づかぬうちに眠ってしまいます。しかも、そういう風にして眠っても、数十分後には「はっ」と何かに突き動かされるように目が覚めます。そして、「今日は休日だからゆっくりしていいんだ」と言い聞かせ、もう一度眠ろうとしますが、目が冴えてしまうのでとりあえずベッドに寝転がって動画を見たり、本を読んだりします。すると、また気づかぬうちに眠ってしまい、そしてまた「はっ」と起きてしまう。そんなことを繰り返しながら、その4連休が何の役目を果たすこともなく過ぎ去ります。

そして、4連休明けの朝。私は「もう会社に行けない」という強い思いに駆られます。しかし、月曜日だし、今までも「会社に行きたくない」という気持ちが強くなったことは地方にいたときもありました。何とか重い腰を上げ、寮を出ます。しかし、電車に乗り、次第に職場が近づいて来ると汗がだらだらと流れ始めます。明らかに異常と思える息苦しさがあり、動悸と息切れに襲われます。それでもまずは自分のデスクに着き、仕事を始めました。しかし、すぐに息苦しさに再び襲われ、トイレに立ちます。個室に入ると少し気が緩んだのか、涙が流れてきました。「やばいやばい。でも、ダメだ。ちゃんとしなきゃ」と言い聞かせ、その時は何とか仕事に戻ることができました。

その日は昼間業務をして、仮眠を挟んでから夜勤という日でした。いつも通り、頭がクラクラするまで自分を酷使し、昼間の分の仕事を19時くらいに終え、夜勤前の仮眠に入ります。21時過ぎには起きる予定だから、少しでも眠っておかないと。そう思い、仮眠室で布団に潜り込むも、疲れた頭には変なぐちゃぐちゃとした映像が浮かんでくるばかりで全然眠りにつけません。そのぐちゃぐちゃとしたグロテスクなイメージの波が弱まると少しだけ眠りにつけるのですが、4連休のときと同じように「はっ」と目が覚めます。時計を確かめると、時間の21時どころか、さっきから5分と経っていません。途切れ途切れの眠りを経て、夜勤の時間がやってきます。

顔を洗い、歯を磨き、トイレに行ったところで苦しさから「全然眠れなかった」「もうダメかもしれない」「明日の昼くらいにまた連絡する」というメッセージを母に送りました。

が、何とか気持ちを立て直し、その夜勤でも先輩に怒られながらも、何とか自分を奮い立たせて、少しでも多く学ぼうとしました。しかし、ふとした瞬間、気持ちが途切れました。10月1日から常に感じていた「早く知識と技術を身に着けよう!」という気持ちが初めてその時途切れ、「あぁ、もう何でもいいや」という風に一瞬にして切り替わったのです。そこからはただただ勤務が終わることだけを待ちながら、先輩に言われた通りのことをこなすだけです。

夜勤終わりで残業をしていく先輩を残し、私はさっさと寮に帰りました。帰る途中、母に「状況は良くなっているはずなのに、身体が拒絶反応を起こしていて、よくわかんないけど、もう無理みたい」という旨のメッセージを送り、寮に着くとまず泣きながら寝ました。あんなに疲れていたのに、2,3時間ですぐに目が覚めてしまいました。

そして、そこからはほとんどパニック状態で、もはや会社を辞めることしか考えられませんでした。泣きながら親と電話し、「とにかくもうしんどい」という気持ちに支配され、寮の5階の窓から下を眺めました。これまで色々な記事で書いてきている通り、私は大学時代に慢性的な自殺願望のようなものを感じており、「死にたい」と考え続けてきました。しかし、それらはどちらかと言えば、自らに対する哲学的なテーゼでしかなく、いざ死のうと思ってもやはり体が恐怖からそれを拒絶していました。しかし、その夜勤明けの昼に、5階の窓から下を見たときに、ほとんど死の恐怖を感じなかったのです。あぁ、死ねるな、これは。と思いましたね。

今でもそのとき何で死ななかったのか理由はよくわかりません。あれほど大学時代に死に向かっていたのに。死ねるタイミングさえあれば、いつでも死んでやると考えていたのに。生きているせいで死ねないではないか、と訳の分からない怒りを感じていたのに…なぜかそのときは死にませんでした。とある会話の流れで、地方の職場でこのあいだ同期に言われた、「いや、俺は辛くても死なないね。死ぬくらいだったら、先に会社辞めるわ。会社辞めてもまだ死にたかったら死ぬけど」的な言葉が頭に過ったような気もします。

まぁ、結局私は再び死に損ない、会社を辞める決心をしました。

しかし、親に止められ、「退職してもいいけど、とりあえず休職したいといいなさい」というアドバイスを踏まえ、上司に退職または休職を申し出るメールを送りました。このとき、私は自分で自分が精神の病気になっていることを本当の意味で自覚したのです。そして、会社を辞めるための材料づくりにもなろう、と翌日にクリニックの予約を取りました。

 

2.上司への報告から実家への逃避

上司へ退職・休職願いのメールを送ったのは、その夜勤明けの日の18時ごろだったと思います。私が1番に連絡を取ったのは、私が2年間いた地方の職場のかなり上の立場の人で、運良くその人は私と同じタイミングで私と同じ職場の1番偉いポストに就いていました。私にとっては新天地で唯一馴染みがある人が最上位のポストでいてくださったことはかなりラッキーでした。この人を上司Aとします。そして、それから思い直して、私の直属の上司(初日に私を訓練に連れ出した、厳しい職人気質の上司)にはより簡潔に、「休みを頂きたい」という旨のメールを送りました。この上司を上司Bとします。何よりも私にとって重要だったのは、翌日の仕事を休むことだったのですが、その手続きをするためには何としても上司Bに連絡を取る必要があったのです。しかし、その上司Bはその日に夜勤が入っており、何とかその日のうちに連絡を取って、休みの手続きを取り付ける必要があったため、夜勤が始まる少し前位に電話をかけるつもりでした。

その後、上司A,Bにメールを送ったことを両親に報告し、私は実家に逃げ帰る算段の相談を始めました。そのときの私としては、もう会社を辞める気だったので、すぐにでも寮を飛び出したかったのですが、辛くてもきちんと上司と相談したうえで行動した方が良いとアドバイスされ、また同時によくよく考えて見ればとても外に出られるような精神状態でもありませんでした。

そうこうしていると、夜勤前の上司Bから電話がかかってきました。いつもとは打って変わって、非常に優しい声で「どうした?」、「会社来るのが辛いんか?」と尋ねられました。私が「会社のこと考えると息苦しくなってしまって…」と今の状況を伝えると、「焦り過ぎだってば」や「おめぇにはまず2か月であれだけできればいいから焦んなって、何回も言っただろ」と諭されました。このときになってようやく、自分があまりに焦って性急に成果を求め過ぎていたのだと思い至ったように思います。上司Bからは「とりあえず2,3日休んでいいから」と言われ、私はここでようやく少し正気に戻りました。この「休んでいい」という言葉で、本当に私の気持ちは軽くなったのです。しかし、電話が終わった後も、休んだ後のことを考えるとやはり息苦しさなどに襲われ、また泣き崩れてしまいました。

また両親と電話をし、その後上司Bから「飲みに誘って愚痴を聞いてやれ」と言われた直属の先輩から電話がありました。私は「少しお休みしたいと考えています。今はちょっと外に出られるような気分じゃなくて申し訳ないです」と、その先輩に感謝をしながらも、お誘いを断ることしかできませんでした。誰にも会えるような状態ではなかったのです。

何とかお酒を飲んで、眠りにつきました。例によって何度か目が覚め、その度に不安に襲われましたが、疲れ切っていたせいで何とか朝まで発狂することもなく眠ることができました。朝になると、上司Aの方からメールの返信があり、直接話をしたいとありました。前述の通り、私は午前中にクリニックを予約していましたから、その結果を踏まえて、上司Aと会う約束を取り付けました。

 

私がとりあえずネットの1番上に出てきたクリニックに行ってみると、そこでは問診もそこそこに光トポグラフィーという検査を進められました。うつ病かどうか数値的にわかる検査方法なので、診断状況を客観的に伝えにくいことを懸念していた私には渡りに船のように思えました。幸か不幸か、その検査結果は私ががっつりうつ病であることを示す結果となり、そのまま磁気刺激治療(以下、TMS)を進められました。私にはそれらの検査に関する知識がなく、治療費も高いとは思いましたが、そんなものかとある程度受け入れて説明を受けました。が、あまりにもそのTMSの良い側面しか説明されないのに違和感を覚えたのと、とにかく私的には「うつ病です」という結果が欲しかっただけなので、とりあえずそこを後にしました。

結果はとりあえず母に伝え(母はつい最近会社を辞め、専業主婦になっており、昼間でも私の応対をしてくれました。これも1つかなりラッキーなことだと思います)、上司Aとの面談でどのようなことを話すか打ち合わせました。

 

休職をすることが可能なのか

休職がOKの場合、寮を出て引っ越しすることになるのか

休職中の窓口はどこになるのか

治療や復帰に関する大まかな道筋

 

などを上司Aには確認するよう準備しました。もちろん、私としてはすぐにでも実家に逃げ帰りたかったので、「休職はできません。どうしても会社に来たくないなら退職してください」と言われることを心底期待していました。

しかし、いざその上司Aと駅前の喫茶店で話をし始めると、とても親身に今の心情や身体の状態を聞いてくれ、とりあえずクリニックでの診断結果についても内容の理解をしてくれました。そして、とても丁寧に「休職はできるし、寮をこっちに残したまま、実家に帰ることもできる。少しずつこっちの寮を起点にした治療に切替え、ゆっくり会社に戻ってくることもできる」と教えてくれました。それだけでなく、上司Bと同じように焦らなくていいということや、誰にだってあることだと自分の様々な経験を踏まえて励ましてくれました。しかも、私の将来を心配して、「休職だと人事評に残るから、とりあえず有休消化で耐えられるところまで耐えつつ、有休が足りなくなれば遡りで休職に変更しよう」と提案までしてくれました。それに、忙しいにも関わらず休職中の窓口になることを引き受けてくれました。私はできるだけ冷静に自分の現状を伝えるようにしていたつもりですが、それでも私の様子から事態の深刻さを察してくれ、優しい言葉をかけてくれました。面談を終え、駅前でお礼を言う時になって、私は堪えられなくなり、初めて会社の人の前で涙を流してしまいました。

 

その後、私はとりあえず会社から逃げられたという想いで、幾分か気分も晴れやかになったのですが、しかしこのときになって初めて私は自分が本当におかしくなっていることに気付きました。

もちろん会社のことを全て頭から追い出せたわけではありません。どうしたって今後の会社人生のことが頭を過りますし、それでまた息苦しくもなります。しかし、もう会社からは一旦逃げられたのです。にもかかわらず、まだ息苦しいし、頭痛や腹痛、倦怠感、情緒の不安定は残っているのです。あぁ、本当におかしくなってしまったんだな、と私は思いました。それから寮の自室に戻り、再度母に上司Aとの面談結果を報告し、実家に帰るかどうかを再度相談しました。話し始めはとりあえず会社から逃げられて少し落ち着いたし、このまま寮を拠点に療養する方向で話していましたが、次第に気分がまた酷く落ち込んできて、そしてついに実家へ戻る決心をしました。

電話を切ってからしばらく私は泣き崩れ、動けなくなってしまいましたが、このまま寮に1人でいることに次第に不安が強くなって来て、新幹線の時間を調べました。今すぐ寮を出れば30分早く実家に帰れる。そう思うと、大して準備もせず、ゴミも部屋に放置したまま、最低限の荷物だけ持って、寮から飛び出していました。駅まで走り、何とか調べた新幹線にも乗ることができました。電車の乗り継ぎや新幹線に乗っている間はやはり不安が強く、一睡もできませんでしたし、ずっと音楽や動画にできるだけ集中していなければ、すぐにでも泣き出したり、じっとしていられなかったと思います。事実、実家に帰ると酷く疲弊していました。

しかし、職場から離れ、会社も休める。そして、今は自分の味方になってくれる家族しか周りにはいない。それらのおかげでだいぶ気持ちも落ち着きました。ただそうなってもどうにも不安や緊張感といったものが取れず、身体は苦しみに捉われたままでした。地方の職場を離れるときにプレゼントしてくれた私が好きなウイスキーを実家に送ってあったので、それを飲みながら家族に話を聞いてもらっている間だけは、不安から逃げることができました。決して明るく話せていたわけではありませんが、結構普通に話せていたので、両親もその時は安心したようでした。が、翌日にはまた別の病院に行ってみようということだけは決めていました。

そして、翌朝、とてつもない抑うつ感が私を襲います。

 

…と、ここまでが今朝までの話です。

続きは明日書きます。東京で受けた光トポグラフィー検査の内容や、そこで受けたうつ病に関するメカニズムについての説明。うつ病適応障害の違いについて。薬物治療を始めた感想や、周囲の人との関わりや、自分の考え方の変化について。それらを書きたいと思います。

2時間前からこの記事を書き始め、夜も遅くなったので、今日はとりあえず眠ることにします。次の記事でも書きますが、いまは新しく診療してもらったお医者様から薬を貰い、だいぶ慢性的な不安感は抑えられたように思います。こうして文章を書けるようにもなり、安定してきたような感じもしますね。

あとは明日の朝、どれくらいの抑うつ感に悩まされるか…少し不安ですが、これで一旦眠ろうと思います。深く眠れますように…

 

次回

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