霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… 番外編

思えば大学時代の頃から僕の中には2人がいた。今から僕はその2人に対して初めて名前というものを与えてやろうと思う。

1人目の特徴はとても理性的で、僕が何か行動をするうえでも的確な判断を与えてくれるし、アドリブ的な場面でも自然と社会的な振舞をしてくれる。そんな彼をずっと僕は頼りにしてきたし、実際とても頼りになるやつだった。こいつのおかげで色んな人から認められたように思う。でも、彼はとても自信家で、僕という人間の評価を上げるためだったら割と簡単に汚いことをしてしまう。そのせいで随分と周りの人を傷つけてきたし、僕と彼はその罪を償っていかなければならない。優しさを知り、つまり多様性を認め、より全体幸福を実現できるような判断力を磨かなければならない。僕たちはそういったところである程度のところまで、合意をしている。そして、実際的にここ10年くらいはその同じ目標に向けて歩みを進めてきたつもりだ。

そんな彼の名前は「理性」の「理」の字を取って、「理央(リオ)」と名付けようと思う。

2人目の特徴はとても感覚的で、ナイーヴで傷つきやすい。意味も無く泣き喚いたり、誰かを敵視したりする。普段は堅牢な檻の中に閉じ込められているのだけれど、何らかのきっかけで暴れ出し、時には理央を圧倒して周囲の物事をめちゃくちゃにしてしまう。けれど、彼女(代名詞の使い分けを効果的にするためにも、ここでは2人目の存在を女性と考えることにする)は元来ナイーヴで気にしいな性格だから、事が大きくなり過ぎるとすぐに影に引っ込んでいってしまい、またべそべそと泣き始めてしまう。そんな彼女は非常に繊細であるが故に、心の動きや世界の美しさを感じることができ、様々な素敵なものごとを僕に与えてくれた。

そんな彼女の名前は「感覚」の「感」の字を取って、「感奈(カンナ)」と名付けようと思う。

 

高校時代までの僕は自分の中にはリオしかいないと思っていた。彼は僕が学校という社会でやっていく上で必要なものをほとんど全て与えてくれた。増長して周囲の人間を傷つけたり、その虚栄心から自己保身ばかりに捕らわれてしまったり、といった問題も多くあったけれど、リオは僕に自尊心という餌を与え続けてくれた。少なからず僕は彼のおかげで他人から認められることの喜びを知ったし、自分という存在を学校という社会の中に根付かせることができた。僕はリオのことを誇らしく思っていた。彼が僕の中にいるということが自慢で仕方なかった。僕たちは肩を組み、小径に咲く花々を踏み潰していることも眼中になく、ただ若いエネルギーに身を任せて走り回っていた。

けれど、そんな風に生きていたらツケが回って来た。それまで順調に見えた人生が、全然順調なものなんかじゃなく、酷く粗暴で優しさや愛に欠けた悲しい人生であることに気が付いた。それは高校3年の頃に芽を出し、大学時代に花を咲かせた。

僕はリオときちんと対話を設ける必要があった。が、最初はそれもなかなか難しかった。僕は彼であり、彼は僕であったから対話なんてできるはずもないと思っていた。しかし、しっかり耳を傾けてやると彼は力無い声で喋り出す。

「ときどきオレの制御がうまくつかなくなることがあっただろ」と彼は言う。僕がいくつかの思い出を反芻し、頷くと、彼は再び口を開く。「急にオレが拗ねて、何もしたくなくなったり、逃げ出してしまったり、オレがしないような行動を取ってしまったことがあったはずだ。実はな、それはなコイツのせいなんだよ」。

そう言って彼が僕に見せてくれたのがカンナだった。彼女はずっと暗い洞窟の中で育って来たのか嫌に白い顔をして、不健康そうで、何よりも自信を失い弱々しく見えた。一瞬で僕は彼女のことが嫌いになった。それまで僕とリオで否定してきたような存在そのものだったからだ。

僕の表情を読み取ってか、リオは残念そうな溜息をつく。そして小さな声で言う。

「でも、コイツもお前なんだぜ」。

 

そういうわけで僕はまずカンナという存在を受け入れてやらなければならなかった。現実的な力を持たず、うじうじとしていて傷つきやすく、人前に出すにはあまりにも恥ずかしい存在だった。でも、確かに彼女は僕自身であるようだった。恥ずかしい経験をしたときの僕は大抵彼女になっていた。つまり、僕が彼女のことを忌み嫌うのは、まさに言葉通りの自己嫌悪のせいだったのだ。

しかしながら、僕とリオはこれまでの自分たちのやり方を反省していたし、とりあえずのところカンナにアドバイスをもらうよりほかなかった。僕はなかなか彼女のことを受け入れられなかったけれど、何度も3人で話をしていく中で、彼女もまた僕に様々なものを与えてくれていたことに気が付く。僕が1人部屋の中で漫画を読んで涙を流すとき、彼女は僕の傍にいた。素敵な女の子の後姿を眺めるときにも彼女はすぐ隣にいた。でも、僕は僕のそういったところが見られるのが嫌で恥ずかしくて、すぐにリオと一緒になって誤魔化していた。僕はとにかくリオのことが好きだったし、周囲の人にはリオのことを見て欲しかった。当時は自覚していなかったが、カンナを人前に出すことを何よりも恐れていたし、そうならないようにリオとあらゆる手を尽くしていた。

だから、今さらカンナを受けれろと言われてもなかなかそう簡単にはことは進まない。でも、僕の心の中にはカンナがいることは間違いがなかったし、カンナが与えてくれたものは確かにキラキラとしてとても重要なものであることも同時に間違いのないことだった。そして、僕とリオでは手詰まりになったこの状況で、僕たちの人生を見直すためには彼女の持つ指針が必要だった。「酷く粗暴で優しさや愛に欠けた悲しい人生」を払拭し、新しい人生を獲得するためにはカンナが必要だった。

 

それからはカンナが色々なことを僕に教えてくれた。カンナが感じたことを僕とリオで掘り下げ、そして自分の中に少しずつ取り入れていった。けれど、僕とリオが築いた城はかなりガチガチに固まっていたし、中身もパンパンだった。だから、僕たちは3人がかりでハンマーを振り回し、まずはその城を壊すところから始めなければならなかった。それは随分と痛みの伴う作業だったし、時間もかなりかかった。この時期は今思い出しても、僕たち3人はまともじゃなかったし、そこには常に死と隣り合わせの破壊があった。極限までに自己を否定するための破壊。でも、壊した瓦礫の隙間から茎を伸ばし、太陽の光を浴びる小さな花をカンナがとても嬉しそうに僕とリオに見せてくれたこともあった。そういう小さな歓びがその破壊の合間にはあったし、たまに3人で瓦礫に腰掛けて食べる弁当もなかなか美味いものだった。

カンナがとても愛おしそうに花や小鳥に話しかけるのを見て、僕とリオはこれまで自分たちが踏み潰して来たものたちへの懺悔の念が沸いたこともあった。そんなときはカンナが1番僕たちに優しくしてくれたし、僕たちが目指すべき方向を指し示してくれた。とにかく、そんなようにして僕たちは3人の手でまた僕たちの城を少しずつ作り上げていった。とても骨が折れたし、それはまだ全然完成には至っていない。

この頃の僕の現実的な状況について簡潔に説明すると、辛うじてバイトには通い続けたけれど、大学にはめっきり行かなくなってしまい、結果的に1年留年することになった。しかし、それもある程度は仕方のないことだったと僕は思っている。僕とリオはカンナの言葉を聞くことに注力していたし、カンナはやはり人前に出せるほど鈍感な存在ではなかったからだ。朝から晩まで僕とリオはカンナの言葉を聞いていたけれど、「バイト」という鐘の音は、一旦作業を中止する合図になっていた。「バイト」で社会と関わることは、僕とリオにとって重要な息抜きだった。カンナを家に留守番させておき、小径の花々を踏み潰さないように気を付けてはいたけれど、比較的伸び伸びと僕たちはかつての僕たちのように能力を活用して羽を伸ばした。僕とリオは、注意深くはなっていたけれど、かつての力をまだ失っていないと実感でき、それが少し嬉しかったりした。カンナはカンナで、喋り疲れを癒し、体力の回復に努めていたから、「バイト」は僕たちに必要なインターバルになっていた。

対して大学には僕たちはあまり行かなくなっていた。僕は自分の破壊に夢中で大学で交友関係というものを持たなかったし、結局のところ大学は僕にとっての社会じゃなかった。僕とリオが活躍する場面は大学にはなかったし、そうなればわざわざ大学に行く必要はない。カンナの話を聞いている方がずっと楽しかったのだ。だから、僕たちは大学に行くのをやめ、カンナが喋りつかれたときに仕方なく、リオと散歩をするぐらいの感覚で講義を受けるくらいだった。でも、そうすることで大学の教授や、何よりも両親に多大な迷惑をかけてしまった。が、謝罪はあっても後悔はない。僕たちには時間が必要だった。それに、それまで「学校」という環境で猛威を振るった僕とリオがまたそこでカンナを置き去りにして、「酷く粗暴で優しさや愛に欠けた悲しい人生」に戻っていくことも怖かった。そのようにして僕は大学時代を過ごした。

 

おかげで僕はリオとカンナを内包した人間としての一歩を踏み出すに至った。様々な芸術を愛し、カンナの喋ったことを僕とリオで深掘りすることが僕の楽しい人生の形となっていった。その頃、リオとカンナには名前なんかなくて、僕は無機質に「右脳」と「左脳」という風に2人の事を捉えていた。

けれど、1番最初にリオとカンナの紹介(名づけ)をしたときのような印象を2人には抱いていたし、明確にそこには2人の人格があることを感じていた。カンナは僕とリオにとってとても大切な存在で、何よりも尊重してやりたい存在だったけれど、いかんせん社会でやっていくにはナイーヴ過ぎた。様々な刺激に敏感に反応することができるし、いつだって素敵な世界を見せてくれるのは彼女がいるからだし、人に対して優しい気持ちになったり、豊かな人間関係を構築する根底にはいつだってカンナがいた。だから、リオはいつも必死になってカンナのことを庇っていたし、僕はリオとカンナをうまく使い分け、仕事をこなしたり、人間関係を構築したりしていったように思う。

それでも時折、リオが疲れ果て、カンナが前面に出てしまう場面もあった。でも、彼と彼女はうまく持ち回りながらお互いに休養を提供することができたし、僕を含めた3人の絆は強固で、僕の人生を豊かなものに保ってくれたように思う。

 

しかし、つい最近のことだ。僕は新しい環境に適応するために、再びリオとスクラムを組んだ。そして、カンナにも僕たちの戦いに加わるように指示を出した。カンナは自らが受ける刺激を全てリオに受け渡し、リオはまるで騎手に鞭で尻を叩かれるようにして、そのカンナからの刺激を糧にどこまでも走り続けた。カンナは何かに憑かれたように薪をくべ続け、リオはがむしゃらに車輪を回し続けた。結果、リオは壊れ、カンナは歯止めが利かなくなってしまった。

あれだけ屈強に思えたリオの脚の骨は粉々に砕け散り、治るまでは時間がかかるだろうと医者には言われた。カンナはあらゆる刺激に対して反応してしまう。あれだけ声が小さくてか弱かったカンナが今は鉄の鎖を引き千切り、自らの感じたものを全て僕やリオに投げつけて来る。正気を失ってしまっていた。

医者はカンナを鎮めるための薬を処方してくれたし、僕はなるべく刺激のないところへ逃げ、カンナが暴れ出さないようにまた洞窟の奥の方にある冷たくジメジメした檻の中に彼女を閉じ込めるしかなかった。リオはリオで自信を喪失し、もう走れないと言う。3人で楽しく談笑することもできなくなってしまった。

僕の生きる意味って何だろう。

でも、少しずつカンナとも口が利けるようになってきたし、リオも松葉杖を使って動けるようになってきた。僕はリオを連れて、洞窟の奥へと歩いていく。カンナはその足音におびえるように身を屈めたが、僕たちの顔を見ると、少しだけホッとした様子でまた最近感じたことを話してくれた。「リオの脚が痛み出したら話すの止めるからね」とカンナは言う。「外の事はまぁ、オレに任せとけって。とりあえずリハビリがてらの使いっ走りくらいはできるようになってきたからさ」とリオは言う。

まだすべてが元通りになるには時間がかかるだろうし、日によってはカンナが暴れ出し、リオの脚が痛む日もあるだろうけれど、ちょっとずつまた3人で話す時間が作れればいいなと思う。僕たちが現実社会の中で元の位置に戻ることはきっととても大変だろうけれど、少なくとも僕は3人で話すことができれば生きてはいけるのだ。