霏々

音楽や小説など

Black or Pink vol.3

 ここで僕はパラグラフを変え、そしてさらにわざわざ一行間を空けるなんてことまでした。理由は僕の熱を冷ますためだ。僕はあまりにも語りすぎただろうか。何か良いことを言おうとし過ぎて、劇的な表現を用いすぎたような気がする。先のような調子で言葉を連ね続けていたら、僕はただ単に「人生とは」というようなことを得意げに語りたい自分を表現するという欲望に身を任せた結果の、あの鬱陶しい説教者になってしまうだろう。ただ、それでも繰り返し述べておきたいことは、特定の(僕が羨望し、嫉妬し、というような意味においての特定の)人間たちは、周囲の雑多なものから一切抜け出して、自分の信頼する領域に身を沈めるときに、その人間自身が幸福を得ると同時に、感動的なまでの意志の強さで以って崇高なる所業を成すことができる、ということである。そういう人はカリンだけではない、という風にこの愚かな僕でさえも知っているのだが、残念なことに僕は知り合いが多い人間ではないし、また、恥ずかしながら僕はカリンに惹きつけられすぎている。この僕の異常なまでのカリンへの執着は、ずっと前に冗談で僕が言ったように(何か月も前に言った自分の冗談を自分でまた拾う、というのは何だか不思議な心地のするものである)、警察に通報するレベルだと自分でも思うが、その時の僕も言っていたように、これはただの文字なのだ。夢想を膨らませるのがこの「文字」という装置であり、僕が自分の書く文字と向かい合おうと真剣になればなるほど、僕の熱が上昇するのとは反対に、僕の言葉たちは現実味を失っていき、夜中に勢いで書き上げてしまったラブレターのような様相を呈し始めていくのである。だとしても、恋文は想い人の下駄箱にそっと届けられるべき、というのが、この宇宙の真理だ。それは僕の好きなあの音楽家も認めるところであろう(というか、この発想はそんな僕の尊敬する彼からの完全な借りものである)。そんな僕の半狂乱(と言ってまだ生温い、とご指摘されるのなら、いいでしょう、完全なる狂乱)の境地に達している僕のラブレターではあるが、これが本当にラブレターとして機能してくれることは望み薄だと自分でも気づいている。どちらかと言えば、脅迫状と称した方が適切であるのかもしれない。しかし、本人は送ったつもりもないだろうが、僕はあまりにも沢山の彼女からの手紙を受け取り過ぎている。勿論、これは比喩的な表現であり、僕宛の手紙なんて小学生の頃の担任の先生からの年賀状以来届いたことなんてないのだが、そういう意味合いにおいての比喩表現を超えて、あそこの美女がさっきから自分のことをチラチラとみているような気がするのだが、といったような自意識過剰を晒しているわけでもない、ということを僕は強く主張する。さらに付け足して言えば、「あの時、君は僕のことを好きだと言ったじゃないか」、「あぁ、あれはただの友達として、っていう意味で言ったのよ」というような感じのことを言っているわけでもないのだ。はぁ、僕は今、自分を情けなく思っている。どうして、僕という人間はこうも間違いばかりしでかすのか。「彼女からの手紙」なんていう言葉を使うから、こうして必要もない弁解をだらだらと書き連ねばならなくなるのだ。遅ればせながら、正しい表現に変更することを許していただけるのなら、つまり、僕はカリンから多くのことを学んでいる、というわけだ。そう、僕が一方的に彼女から教訓を引き出そうとしているのであり、彼女から僕に対して何かを与えようとしたことは一度もない(あぁ、こう書けばこう書いたでまた弁解が必要な気がする。彼女は何度か僕に誕生日プレゼントをくれたことがある。対する僕は、適当なプレゼントを母に見繕ってもらっていたのだが……というような恥さらしまで、僕は必要もないのに付け足す)。しかし、やはり、個人的には最初の自分の選択もあながち間違ってはいないような気もしてくる。というのも、僕にとってはカリンの姿を見たり、声を聞いたり、ということが全てカリンからの、とまではいかなくても、少なくとも神だか何がしかからの贈り物であるように思われるのだ。これはよくある恋愛物語における主人公の心情吐露をそのままの意味で引用してきているのではない。そういう劇的な要素は僕としては排除したく、ただ場面の雰囲気を盛り上げるための言葉ではなくて、僕が「学ぶ」というような能動的な手法で以って何かを得る、ということができない愚かな存在であり、特にカリンを通して得られるものは、やはり天からの雨のように、ある種の「恵み」という性質を持っているのだ、ということを伝えるための言葉である、ということを説明させていただきたい。

 急に話は変わる。いつだってそうだ。なんだってそうだ。本当のことを言えば、カリンはアイドルになるための下地を随分と昔から培っていた。そのことを僕はつい最近知った。それもネットいう情報の海面で揺れている一葉の海藻から。こうしてまた僕はカリンとの関係性をまた見直さなければならなくなってくる。僕が一方的に抱いていた、カリンをアイドルの世界に導いてしまった、という自己陶酔はもはや塵も同然だ、ということを知って幾ばくか……いや、正直言って、殆ど自己を保っていられなくなるほどに狼狽した。何故か、ということはここまでこんなどうしようもない文章を読んでくれたあなたならばわかるのではないだろうか。僕は何ページも前に、自分がカリンをアイドルの道に導いた責任の一端を担っている人間だ、と自意識過剰にも、そう叫んだ。無論、今でもその考えをそっくり丸々と捨て去ることはできない。やはり、カリンがアイドルになるにあたって今の事務所を選んだきっかけを作った部分に関していえば、かなり僕の都合の良いように見積もって、僕という人間にもある程度の存在価値が与えられるのではないか、と思うのだけれど、カリンをアイドルという道に引きずり込んだ責任に関していえば、僕の担う一旦は元々希薄であったにも関わらず、シャワーからの水が掛かるところに置いておかれているシャンプーのボトルの中身のようにまたさらに薄くなってしまった。カリンに随分と依存している僕としては、このことは一つの悲しい出来事ではあるかもしれない。あぁ、すっかり説明するのを忘れていたが、簡単に僕の身に起こったことを伝えると、カリンがアイドルになろうと思った大きな要因は「母が昭和の某有名アイドルのファンであった」ことである、という事実をつい最近、何の前触れもなくネットなんていう砂利の掃き溜めのようなところから親切にも知らされた、ということだ。一応、母に「カリンのお母さんって、○○のファンなんだっけ」と朝のすれ違いざまに尋ねてみたところ、「そうそう、昔、一緒にライブ行ったりしたのよ」なんていう風にあっけなくその情報の裏が取れてしまい、ご覧のとおり、僕はいま結構な失意のもとかなり投げ遣りな感じでこの文章を書いている。が、しかし、どうしてかはわからないが(いや、わかっている。だから、これからその説明をする)、僕は自分で思っているよりも落ち込んでいないのかもしれない。失意は失意として僕の前頭葉に染み渡ってはいるが、気が付けば幾分か肩が軽くなっているような気がする。「作家の変化する能力」ということについて、僕の尊敬するあの勇敢な作家(僕がこうしてカリンの話を書くにあたって使っているこの文体は、その彼の影響をかなり色濃く受けている、ということをずっとどこかで話そうと思っていたが、これが良い機会のようだ)が、とある小説の冒頭で彼が敬愛する作家から引用していたけれど、僕はそれを又借りしようと思う。つまり、この数ページ前で僕はまざまざと実感したわけだが、僕自身があの何もない二か月間を過ごす中で何かしら、能力というか単純にパソコンの画面を見ているときの姿勢、つまり、背骨の角度とか、或いはまた少し度を高くしたメガネに買い替えたこととか、そういう変化があったことは間違いないであろう。以前までの僕であったなら、カリンが昔から母の影響を受けてアイドルに対して憧れを抱いていた、という事実は、単純に僕とカリンとの関係性をより希薄にする事実として、つまりは僕の存在意義を弱める要因としてしか捉えられなかったと思うのだが、今の変容した僕は、どうやらそうした失意とともに、ある種の呪縛、自己暗示から解き放たれた、という開放感を覚えてしまっている。このことは愚行になり得るだろうか。あれだけ僕はずっと自分とカリンとの関係性について、ひとり暗がりで頭を悩ませ続けていたのに……カリンの美しいまでの勇敢さに脳髄をぶちのめされている間だけ、僕は自分が正しい方向に進んでいるんだと、そう自分自身に言い聞かせ続けてきたというのに……たった二か月のうちにそんな自分をすっかり忘れ去ってしまい、こんなに簡単にその自分への枷から逃げ出してしまって良いのだろうか。いや、よくよく考えてみれば、「良い」「悪い」という話ではない。ただ単純に不安なのだ。これもまた僕の好んでいる作家のひとりがとある物語の中で主人公の男性教師に言わせていた言葉ではあるが、僕は今まさに、彼のいうところの「枠組みが変わっている段階」にいるのかもしれない。それが不安なのだ。本当ならば、僕は僕の思考をより早く、感性が鈍ってしまわないうちに、閃きが逃げていってしまわないうちに、先を書き進めたいのだが、僕が今借りてきた言葉が載っているその本を知らない、或いは知っていても、僕の文章力が無いばっかりにピンと来ない方もいるのではないか、いや、殆どの人が僕が何について言っているのかわからないだろうと思われるので、説明を加えようと思うのだが、つまり、僕が言いたいことはこういうことだ。僕はカリンに随分と依存して……意識的に依存する方向へ自分を導いてきたように思うのだが、カリンが示す光の方へ、少々怠け者の傾向も見せたりはしたが、一生懸命船を漕いできたように思う。カリンは僕という車輪の常に中心、つまり軸の位置にいて、僕はそれを頼りに、まさにすがる様にして生きてきた。しかし、どうやら、その僕の中心が何か別のものに置き換わろうとしているようだ。そこには過去の自分への名残惜しさ、つまり、少なくとも僕は過去の段階において、かなりの純真さ(或いは狂信性)を持っていたし、だからこそ、そこに何か不純物が入り込んで、しかも、宗教を例えとして使えば、信じ崇めていた神がいきなりその神々しい椅子から腰を上げてどこかへ行ってしまった、というような状況で感じるであろう寂寥感が今の僕の胸には広がっている。しかし、本来ならば、寂寥感こそ僕が最も強く感じていなければならないはずのものなのに、それ以上に今の僕は不安なのである。人間いつだって我が身が一番大事だ。消えていってしまった神の安否を気遣うよりも、置いてけぼりをくらった自分自身のこれから先が何よりも気がかりで、僕は、僕の全てを紡ぎ合わせていた言わば扇子の要(軸)が消え失せ、今にもバラバラになってしまいそうだ。要するに、さっき言った通り、僕はいま自分の「枠組み」が変容している段階にいるようなのだ。だが、しかし、そんな途方に暮れた僕に心優しきカリンは手土産を残していってくれている。そう、まさに、このどうしようもない、まるでグラース家の風呂場の鏡付きのキャビネットの中身のように、あらゆるものが押し込まれていて収集のつかなくなっている「この文章」が残っているのだ。これは奇跡と呼んでも良いような気さえ(今の行き過ぎた情感を抑えきれない僕には)してしまっている。もちろん、これもカリン本人が意識的に僕に残してくれたものでは決してないが、しかし、これはやはり絶対に僕が自分自身の手で掴んだものではないし、贈り物と称するべきものであることに間違いないと断言できる。問題は、先に述べた「作家の変化する能力」というもので、この言葉の本来の持ち主は、そのことについて、「物事を正確に映し出すことが出来なくなる」という理由からやや否定的な、嘆きとも取れる見解を述べていたが、それはともかく、この書き途中の一文の冒頭で僕は「問題は」などということを言ってしまったものの、本当にこれは問題となるべきことなのだろうか。僕は、何度も言うように、記憶力が優れておらず、また、重要な選択でさえ見たこともない第三者の振った賽子に任せてしまえるほど大雑把なので、こうして文章を書いている間にどんどん自分が変質していってしまい、最初と最後で書いていることが北半球と南半球くらいあべこべでちぐはぐになってしまっていたとしても、あまり気にはならない。ただ、その瞬間々々の僕自身が、これが一番正しいことである、とそう願いながら書いているという事実さえあればそれで充分な気がするのだ。そして、嬉しいことに、僕の不安は薄れていく……

 

 さぁ、またパラグラフを変えよう。僕は僕を書き過ぎてしまっている。もう僕が僕について書いてあるのを見るのは自分でも沢山だ。ここからはまたカリンだ。そうしなければいつまで終われない。

 カリンはアイドルにとって恵まれた環境で育ったように思う。アイドル好きの母。大手芸能事務所のレッスン。優秀な先輩やスタッフに、自分を売り込む機会。そして天賦の才。彼女は器用な方ではないと僕は考えているし、だからこそ、あまり「天才、天才」と持て囃されるタイプではないと思うのだが、彼女は天からか或いはDNAからか(やはり「DNA」なんて言葉は使うべきではなかった。「天」で充分だ)、何かしらかの特別な贈り物をもらっているように思う。それは僕以外のカリンを好きだという人々が口を揃えて言うことだろう、一般的には。もちろん、贈り物を受け取った人間の苦悩は僕のような凡人にはわかりえないものだろうし、その根源にあるように見えるものに対してどれだけ羨望の眼差しを向けようとも、僕はアイドルになんて決してなりたくはない。だから、僕はやはり僕の目を通して見た、僕が憧れているカリンの姿をできるだけ誠実に描き出すよりほかのことはできそうにない。カリンについて評論をしてみたりだとか、そういうことをするつもりは毛頭もない。彼女の歌やダンスなど、その他諸々までまとめたアイドルとしてのスキルについて語るようなことは、それは彼女のファンとの間でやればいいことであり、僕がこの只でさえ鬱陶しいピンク色の舌で、この元はカリンの肌のように白く美しかった紙の上に吐き散らすようなことではない。結局のところ、僕とカリンの接点は、あの夏のほんの短い期間以外にはほとんどなくなってしまっている。何度か、カリンはイベントやライブ、それから舞台などにも出たみたいだったが、僕はそのどれにも行ったことはない。あれだけ、カリン、カリンと阿呆みたいに言っていたが、所詮僕はずっと家に引きこもってばかりの異常性格者なので、外気に触れると死んでしまうのだ。しかし、それでも、カリンが出た舞台のDVDが発売されれば(母が)買ったし、また見もした。それを見たときに母が零した感想は「小さいのに頑張ってるわねぇ」というような感じであったことは、まぁ、微笑ましい記憶であろう、という風に僕は考えている。とまぁ、舞台に関していえば、カリンはまだその時、小学五年生かそこらだったということもあったし、小さい子が頑張っている可愛らしさ、というものが僕やほかの人間の胸を温めることもあっただろう、というような具合に終わったのだが、僕が忘れられないのはやはり、カリンがまだ名前も殆ど売れていないレッスン生の時分(その時カリンはもう十三歳になっていた)に、とある地方テレビ番組のオープニングを歌ったときのことであろう。たった十五分の深夜番組のアニメキャラクターの声優に抜擢されたカリンは、ついでにその番組の主題歌のようなものを歌うことになったのだが、僕はそのときのカリンの歌声を聴いて、そこにカリンがいることの必然性を初めてまざまざと感じた。その前にも何度か、CDやDVDの映像でカリンの歌声を聞いたり、ダンスを見たりする機会もあったのだが、その時に感じたアイドル(もしかしたら「パフォーマー」という言葉の方が雰囲気は伝わりやすいかもしれない)としてのカリンの成長ぶりには驚かされ(そして当然、僕は自ら省みて何も進歩のない自分に嫌悪感を抱いたりもしたのだが)、幾ばくか感動したりもした。ただ、スポットライトの光を浴びて笑顔を振りまく彼女の力強い美しさに圧倒される反面、僕には彼女がどこに向かって行っているのか、いまいち腑に落ちない部分があったように思う。無論、彼女は素晴らしいアイドルとなって、素晴らしいパフォーマンスをする、皆に元気を与える、ということが目標であり、使命であると考えていることに相違は無いと思う。けれど、そこには彼女が他人を圧倒したり、或いは圧倒しようとして、自分を大きく見せようと力んでいたりするようなきらいがあった、ということもまた事実ではないか、と僕個人では考えている。もちろん、そういった覇気や一生懸命さのようなものが彼女の素晴らしく魅力的な部分の一つであり、僕だけでなく、多くの彼女のファンがそこに惚れ々々としていると思うのだが、僕には、「アイドルとして精一杯駆け抜けたい」という衝動と共に、また彼女の中には、「歌を人の心に届けたい」という衝動も存在しているように思えてならない。彼女は立派なアイドルになるために、仕草や外見というものをより可愛くしようと、彼女がアイドルでなかったら何かの強迫観念に囚われた患者としてどこかに収容されるのではないか、とこっちが少し不安になってしまうほどの努力をしてきていると思うし、「人に自分のパフォーマンスを通して元気を届けたい」という彼女の言葉通りの全身全霊をかけたパフォーマンスに関する自己鍛錬も彼女はしてきていると思う。そして、その成果は言わずもがな、という風に僕はやや身びいきな見解を述べるのだが、しかし、それと同時に、やはり彼女の中には「天性のアイドル」以外にも「天性の歌手」としての素質もあるのではないか、とそう確信している。そうさせてくれたのが、先にも述べた例の地方テレビ番組のオープニング楽曲でのカリンの歌声である。アイドルとしての彼女も僕は尊敬してるし、どうしたらあんなに真っ直ぐ努力ができるのだろう、と僕はずっと彼女が羨ましいのだが、それと同じくらい、彼女が持ち合わせている楽曲に対する素直な心情の重ね合わせと、自らの恐るべき純真さを表現するあの透き通るような歌声に、僕は魅了されてしまった。彼女は目も眩むスポットライトを求める。しかし、本当にそれだけだろうか。光を求めるが故の強さ、というものも人を魅了するし、何よりも自己の向上に繋がる。ただ、そういうことだけではない。彼女が見たいものは眩いばかりのスポットライトそのものではなく、あくまで、その光に照らされて、何よりも澄んで光り輝いている「自分自身」ではないだろうか。カリンはアイドルとしてデビューするための機会を何度か逃している。イベントやライブや舞台にちょこちょこ出てはいたものの、所詮は既にデビューをしてバリバリ活躍している先輩のオマケみたいなもので、地方テレビ番組にソロで仕事をもらったりとかという例外もあったものの、基本的には彼女はまだデビューもしていない、良い言葉を使えば「原石」に過ぎなかった。そんな中、色々とオーディションのようなものも受けたりしたのだが、何度も上手くいかず、実力と理想ばかりが先走って煮え湯を飲まされているような状態が続いたときもあった。そんな中、彼女がめげずに走り続けられたのは、もちろん、自分を応援してくれるファンへの責任感や、アイドルになりたいという夢があったからであろうし、「まだ若いから」という打算も多少はあったかもしれない。しかし、きっとそれだけではないのだ。自分はただ素晴らしい歌を唄いたい。もちろん、デビューしてより明るい光の中を駆け回りたい、というような欲求もあったのだろうが、それとは対照的な、人に認められなくても自分が良いと思えることができたら、という考え方も持ち合わせていたのではないか。というか、僕は「持ち合わせていた」と断定してもいいように思う。はっきり言って、今の世の中、ただ売れるだけならいくらでもやり方がある。カリンは賢しいタイプではないし、ただ単にその方法を知らなかっただけ、という見方もできなくはないが、ただ例え色々な具体的手法が彼女の前に提示されたとしても、その中から彼女が選び取る手法は必ずしも売れるために最も能率の良い手法であるとは限らないだろう。おそらくは能率とかよりも、どちらかと言えば自分が思う、一番美しい、正しいと思える手法を選び取るのではないだろうか。彼女の場合、それは大抵「ひたむきに努力する」ということになるのであろうが……とまぁ、ここまでやたらめったらなことを口走り続けてきたが、どうやら僕はまた自分の悪い癖が出てきていることに気が付いてしまったようだ。

 あれだけ評論めいたことはすまい、と明言していたにも関わらず、こんなにまたベラベラといらぬことを書いてしまった。これだから僕は自分で自分が嫌になるのだ。と言って、また自分のことを書き始めようものなら、それもまた公約を破ることになってしまう。何を偉そうに、とどうせ罵られるのだろうが、僕は無責任な現代の政治家とは一線を画させていただきたいというような思いもなきしにしもあらず、という感じなので、ここで一旦ベッドに潜り込むことにしようと思う。

 続けざまの改行。寝ている間に捲かれたネジは、どうやら僕の心の方ではなく身体の方のネジだった。というような洒落た文言を何の気兼ねも無く、こうして書きだせるほどに今の僕は参ってしまっている。今度もまた幾ばくかの月日が流れた。僕はまた訳の分からぬ日々に絡め取られ、今日も白々しい朝日を浴びながら電車に乗り込み、そして帰りは一番最後の電車に駆け込む。終電車のしなびた匂い。正面には骨の髄までアルコールに溶かされて首をぐにゃりと曲げ、半目を開けたまま眠っている男。隣には夏らしいサンダルを履いた、足の汚い可愛い子。そんなこの世の終わりみたいな光景の中に自分が溶け込んでいることに気が付いてしまうと、加えてその時にカリンの美しさを思い出そうものなら、駅のホームへ滑り込んでくる電車に向けて自分の身体を投げ出さなかった数分前の自分を呪いたくなってきてしまう。そういった台所の三角コーナーを舐めた時みたいな不衛生的かつ刺激的な苦みは、僕の舌を麻痺させ、愚かしくも再び言葉に詰まってしまった言い訳を、僕の左脳から引き摺り出してくる。不快、不快、そして深い溜息。今の僕では、ガラス細工のようなカリンの細やかで煌めいている琴線を弾く爪の先を、正しく思い出すことができない。煩雑なストレスが、馬鹿らしくも心地よい疲労感が、海から上がったばかりで身体に纏わりついているベタベタとした砂のようだ。風に当たって身体が乾くのを待つか、或いは、清純な水で丁寧に身体を洗い流し、さらに少し高価な柔軟剤で洗濯した触り心地が気に入りの服に着替えるまでは、何もする気が起きない。というか、「したい」という想いがあっても、ざらざらとした、そしてベタベタとした感触が気になって、気になって、何も手につかないのである。さて、そんな現代の病的な清潔感への偏愛をまた言い訳にして眠りにつく、この体たらくをあなたは許してくれるだろうか。できることならば、「そういう日もあるさ」などというありきたりな文言で以って僕の睡眠を促していただきたいのだが、たとえ、そういった優しさが真っ二つに折られ、ゴミ箱の底に沈められようとも、僕は眠る。そうしなければ、先が書けないのだから仕様がない。こうして、日々の憂さをこんな場違いなところへ撒き散らして、気に入らなければ寝てしまえ、というような自分勝手ばかりをしていると、「お前はちょっと我慢ということを覚えたらどうだ」というような批判が嫌でも聞こえてくるが、しかし、これもまた仕様がないことなのである。というのも、今の僕には「カリンのことを書かなければ」という焦りがあの有名人の両掌に刻まれた穴の痕のように、はたまた頭に捲かれた棘の冠のように、僕を戒め続けているものの、変革の途上にある僕自身とあっては、何を書いたら良いのかが全く以ってわからないのである。変容している自分と、不変のカリン。それらをどうまとめ上げれば良いと言うのか。わからないものは考えても仕方がない。アルコールで脳を殴りつけ、望み薄なのはわかってはいるが、「何か良い案よ、浮かんで来い」と祈りながら現実よりもはっきりとした夢の中へ逃げ込むよりほかないだろう……

 何故かはわからないが、想いというものはふとした時間の隙間に湧き上がって来るもので、またしてもあと半時間もせぬうちに家を出なければならない、という状況で、僕はまたパソコンの電源を入れ、コンビニで買ってきた緑茶を啜りながら、キーボードを叩き始める。知らぬ間に夏が終わった。いったいどこにそんな理由があるのだろうか、と僕は頭を悩ませ続けているのだが、僕がこのどうしようもない文章を書き始めてから季節が二回も変わってしまった。秋に差しかり、夕方の五時ともなれば、ほんのりと舞う涼しげな砂埃に彩られた金色の夕陽が、過去のものなのか、はたまた空想上のものなのか、どちらにしてもここではないどこか違う場所の感傷的なイメージを僕のポッケにそっと忍ばせてくる。まだ街灯が灯るには少し早い時間帯だ。そう、あの陽が沈む間際の大切な十五分間―つまりは(ここで僕は引用したい箇所を見つけるために、目の前に貼り出された制限時間に絶えず焦りを感じながら、大慌てで本のページを捲る)、「あの魔法のような十五分間にはビー玉遊びで負けても、それはただビー玉を失くしたというだけのことなのだ」と言い切ってしまえるような時間帯にはまだちょっと早い。けれど、徐々に湿った色彩を写し出していく雲を窓の外に眺めながら、こうして時間の濁流に切なさを感じていると、僕の中にはどうしてもありもしない昔の記憶が思い出されてくるのだ。覚えているだろうか、僕は一時として忘れられなかったのだが、先程末筆ながら披露させて頂いたカリンの歌声に対する僕の偉そうな評論を。不幸にも記憶力に恵まれてしまった方々は、あの軽薄な言葉たちを今すぐ忘れ去って欲しい。今なら、より正確な言葉でカリンの歌声を説明できそうな気がする。これはある種の確信を持って言うのだが、カリンの歌声は、まさに、地球の自転と公転を全く以って無視した領域において、僕にあの魔法の時間帯を思い起こさせるのだ。白々しい光がカーテンの隙間から浸み出してくるような朝であろうとも、掃き溜めみたいな鬱屈とした空気が漂う終電車の中であろうとも、もし、僕がきちんと目を閉じ、耳を塞ぎ、煩雑な感情を捨て去ることさえできれば、カリンの歌声は僕にあの、澄み渡る空気が夕陽にベールを掛け、灯り出した街灯の明りに三分の一くらいの孤独と、すぐそこで待ち受けている温かな夕食の香りを思い出させてくれる。もう時間が無い、急ごう。僕はカリンを貶めるつもりはない。しかし、カリン。僕には君が僕の中に広がっている光景を知っているようにしか思えない。音楽というものはある種の記憶装置、或いは、記憶の呼び水となる、という風に僕は考えているのだが、つまり、例を挙げるとするならば、スキー場で流れていた音楽がどこか街中とかで聞こえてくると、あのリフトの軋む音や凍りつく風が鼻先を赤く染めたこととか、そういったことを思い出してしまう、というようなことであって、印象的な瞬間に流れていた音楽はその記憶と鎖で固く繋がれてしまうのだ。しかし、僕があのカリンの歌声を聞いて思い出したのは、何故かはわからないが、その曲が完成するよりも時系列的にずっと昔の光景なのである。カリンが絡んでいる記憶が呼び覚まされる、というのなら、まだあり得る事なのかもしれないけれど、そうではない。完全に、僕以外が知る由もない、いや、僕でさえも知らなかった、その時には見えてさえいなかった光景が、カリンの歌声によって僕の頭の中に浮かんでくるのだ。それは歌詞やメロディーから必然的に齎されるであろうイメージではない。要するに、「白い雲」という歌詞に対して、「仏像の微笑」を思い出すようなもので、筋道など全く以って通っていない、不可思議な現象なのである。だからこそ、僕はカリンに対して、どういった態度を示せば良いのかわからないのだ。記憶も曖昧な幼少の頃が一番、空間的な近さを有していて、想いを込めれば込めるほど、あらゆる意味において遠くに行ってしまったカリンは、どういう訳か、そのずっと遠くの方から発した歌声で以って、彼女が今までのどの瞬間よりも僕の近くにいることを知らせてくれた。こういった言い方はやはり、「無意識的な贈り物」という考え方が最もしっくりとくるだろう。僕は独り、突然の事態に慌てふためいている訳だが、カリンが歌の宛先に僕のしみったれた名前を書き記した訳でもあるまい。しかし(それが偶然であるのか、運命であるのか、気のせいなのか、狂気の末路なのか、全く見当もつかないが)、どういう訳か、届いたのだ。まさに、ここに。

 

 どうやら、僕はもう、さっきの続きを書けないようだ。三分熟考した結論。「三分なんて、お前、どうせ夜食のカップラーメンを作ってただけだろう」と馬鹿にされるかもしれないが、そうではない、と僕は今までにない力強さで以って断言させていただく。この長い、長い、不毛な文章を書き始める時に抱いた「書かねば」というはっきりとした感覚と似たような確信を、僕は今しがた感じたのだ。

 そして、最終下校時刻を知らせるチャイムの音が響く。学校の玄関の脇にある駐輪場と校舎の間に挟まれながら、いつ果てるとも知れない雑談を楽しんでいたが、いつの間にか、辺りには夜の静けさが染み渡り、校門に向けて自転車の電燈の明滅が吸い込まれていくような時間だ。家庭科室に繋がっている勝手口の続きに設けられた短い階段の中ほどに座り込みながら、僕は「もう、こんな時間か」と呟く。隣にはカリンがいる。高校の制服を着た彼女。似合ってはいるけれど、似つかわしくはない。ブレザーも着ないでブラウスから白い腕を覗かせているカリンは、少し寒そうに腕を擦りながら、暗闇の中でぼんやりとした街灯の光を纏っている。僕は馬鹿みたいに自分ばかり喋り過ぎたことを後悔しながら、彼女の顔色を窺うのだけれど……どうやら、何も心配することなどなかったようだ。いつもの笑顔で以って、僕の言葉に頷く。「時間って、あっという間だね」。最後のチャイムの音が、夜に余韻を残しながら、すうっと消えていくのを待って、僕たちは一度顔を見合わせた。早く立ち上がって、学校の敷地から出て行かなければならないのだが、どうしても立つ気になれない。もう少しだけ……本当にあと少しだけ、言いたいことがあるのだ。ここは先生の見回りが最後の方の場所だから。そんな風に、お得意の言い訳を並べた上で、僕はまた自分が口を開くことを申し訳なく思いつつも、予てより、言っておかねばならないだろうと考えていたいくつかのことを話し出す。

 あれは、この文章を書き始めたばかりのことだったように思う。まだ冬も終わらぬ、寒い夜だった。僕は、この文章を書くにあたって、突如として湧き出てきた衝動をうまく制御することができないでいた。今でも、「制御」なんて大そうなことはできてはいないのだが、本当に一寸先すら闇の中にある状態で書き始めたあの頃の迷走っぷりは、この文章を読み返してみればすぐにわかるだろう。対して、今の僕は未だ嘗てないほどの落ち着きを見せているように思う。理由はたった一つで、ひとつ前の段落でも書いたように、最後のチャイムが鳴ったということだ。時間さえ許されるのならば、僕にはまだまだ書かねばならぬことがあるように思う。例えば、と言って、簡潔な例を挙げようと少し頭を悩ませてみたのだが、わかりやすい実例を挙げられないほどに、僕の文章はまとまりを欠いていることに気が付く。それほどに未完成なこの文章においては、本当にいつまでも自己弁論と回り道と解説と考察を続けられる気がするのだが、しかし、繰り返すように、もう最後のチャイムが鳴り止んでしまった。いくらはちゃめちゃだろうと、いくら名残惜しかろうと、あと数分もしたらここを立ち去らねばならない。筋道が通っているとか、通っていないとか、美しいとか、美しくないとか、区切りが良いとか、悪いとか、そういう判断の余地など全くない。なのに、本当に魔法みたいに、僕は何の反論も無く、ただ「もう帰る時間だから」という理由だけで帰り支度を始める。もし意地悪な連中がいたとすれば、「それは学校というシステムに飼いならされている結果だろう」と言うかもしれないが、そういうことではないのだ。いや、例えそうだとしても、とある特殊な状況下においては、「チャイムが鳴ったから帰ろう」という固定的な反応は、何よりも美しいものではないだろうか。理性と意志で凝り固まったこの場から、最も美しく、必然的な因果で以って罷り申し上げるには、「最終下校時刻を知らせるチャイムの音」みたいな魔法が必要なのだ。さて、こんな風に回り道をするのも最後にしたい。本当に時間がないのだから。

 話を戻すが、まだ三月だったあの頃。何の気なしに(とは言っても、漠然と焦燥感のようなものは感じていた。無論、この文章が上手く書き進められないことに対して)、本を片手に深夜の音楽番組を見ていた。半年ほど前にようやくとあるグループの一メンバーとしてメジャーデビューを決めたカリンが、三枚目のシングルCDのリリースを告知するためにテレビに出るとのことだったのだ。まぁ、嬉しい事ではあるにせよ、カリンがテレビに映る姿は今までにも何度か見ていたし、正直なところ、まだ眠くないし、というようなまさに先に述べた通りの「何の気なし」といった具合で、僕はテレビに呆けた眼差しを向けていた。しかし、番組の中盤あたりで、実際にカリンがグループのメンバーと共に画面の向うに現れ、簡単な自己紹介をした後、新しい曲を歌い出すと、僕の眼球は、洗剤を刷り込んだ後みたいな凶悪な熱さに見舞われた。何てことはない。例えば、自分の子供が新聞に載ったとか、市長から何がしかの賞状を貰ったとか、そういう嬉しさと似たような感覚だ。でも、それだけではない。僕はカリンが遠く離れたところに行ってしまったという、例の「おいてけぼり」感をまた感じた訳だけれど、もっとその時のことをよく思い出して、慎重に言葉を探すなら、僕はまさにカリンの真横で彼女の心臓の音を聞いているような錯覚に陥ったのだ。僕が感じ取ったのは、不安、喜び、自信、衝動、後悔、それから決意だった。「決意」なんて言葉を使うと、まさにその瞬間に何かを決断したように聞こえてしまうが、そうではない。カリンはもっとずっと前から決意を持って前に進んできたのだが、その実際の決意の温度を明確に感じたのは、僕にとってはその時が初めてのことだったのだ。この時点で、僕は気が付くべきだったのだが、それはカリンの変化ではなくて、僕自身の変化だったのだと思う。つまり、僕はこの文章を書き始めたことによって、それがたとえ曖昧で卑屈でどこか投げやりなものであったにせよ、僕もある種の決意を持ち始めた、ということだ。だからこそ、僕はカリンをより間近に感じ、そして、彼女の等身大の力強さを理解することができたのだ。

 あと一つ。パソコンの不健全な眩しい光を数時間も眺めつづけているせいで、もう頭も朦朧としてきているが、ずっと言いたかったことがある。これは、先述した、この気に入りの文体の参考にした小説のオマージュのようなものだが、やはり、僕自身、必要に思うことなので喋らせてもらうことにする。それは、カリンの目の話だ。カリンはよく「黒目が大きい」と言われる。実際に、僕もそう思う。「黒目が大きい」ということに加え、少し釣り目な所なんかも猫っぽくて、彼女は特に、その釣り目なところが気に入らないらしく、まだ小学生くらいの頃から釣り目を直すためのテープを風呂上りに目元に貼っていたりしたらしい。ちゃんと成果があった、と彼女は言っているが、美白への拘りと同様に、それはある種の狂気を感じさせない事もない。誰しもが、もう少し目が大きかったら、とか、もう少し頬骨が滑らかだったら、とか、そういった漠然とした願望を持っているとは思うが、僕が知る限り、小学生のうちからそんなことに気を囚われて、改善策を実行に移し、長期計画で理想の実現を試みようとした人はカリンしかいない。こういった例を見ても、やはり、彼女は人前に出るべくして出てきたのだ、と思わざるを得ないが、そのことを如実に語るエピソードを僕は今、手元に残している。別に意図的に取っておいたわけではない。あまりにもカードがたくさんあり過ぎて、自分で「スペードの2」を持っていることに今まで気が付かなかったのだ。そんな様子では、なるほど、大富豪に成るなんて不可能な訳だ。しかし、そのことを悔やんでいても仕方ない。さっさと、そのエピソードを紹介させてもらう。意図していなかったとはいえ、今がこのカードを使うのに最もふさわしい時だと確信しているのだ。それも確か三月中のことだったと思うが……三月の中旬くらいだろうか。カリンはとあるトークイベントで、その日、中学の卒業式があったことを話していた。これはもしかしたら「あるある話」としてよく披露されることなのかもしれないが、彼女は、幸か不幸か仕事が忙しくて卒業式で歌う歌の練習をなかなかすることができなかったそうだ。おかげで当日、歌詞がわからなくなってしまい、せっかくの卒業式に雰囲気に合わせて口を開け閉めするしかできなかった。少しだけ残念そうに、それでもちょっとした笑い話になるように笑顔を見せながら語る彼女を不憫だと思った人は、その場にどれだけいたのだろうか。こんな風にカッコつけたことを言っている僕ですら、その時は、暗い会場の中で赤い衣装を着て、太陽に照らされる華のように照明の光を浴びていた彼女に見惚れてしまっていた。けれど、そのトークイベントの後半で、彼女が急遽、数年前に発売し、一年前にたった一度だけライブで披露した曲をアカペラで歌うように促され、そして、あの透き通る声で歌った時に、僕は思わず涙を流してしまいそうになった。いや、この言い方はあまり良くない。まるで感動を煽動しているようだ。ただ、僕の言いたかったことは、卒業式の歌も碌に覚えていないカリンが、急遽振られた自分の曲を、当たり前のように歌えたということだ。プロならそれで然るべき、とおっしゃる方もおられるかもしれないが、そう、その通り、彼女はプロなのだ。たった十五歳の少女が自分のいるべき場所を自覚し、そして、その中で生きている。普通の十五歳を捨て去り、彼女は自分のあるべき姿を求めた。「社会に求められる人材に」という歪んだ標語を、成人してからようやく憎みだした僕とは大違いで、「自身の求める存在に」という信念をカリンはほとんど生まれ落ちた瞬間から持っているのだろう……涙を流してしまいそうになった理由としては、これくらいで充分だろうか。さて、そろそろこのエピソードにも区切りをつけよう。もっと時間をかけて考察してみても良いのだけれど、何と言っても時間が無いのだ。幼稚園児が作ったような稚拙な暗号の解読は各々に任せ、今はともかく、焦れ、自分。という訳で、彼女の瞳に話を戻そう。おおよそ一ページも前に「カリンの黒目は大きい」という事実を発表させて頂いた訳だが、彼女の黒目は時として、心無い連中からの「何を考えているのかわからない」、「怖い」などといった中傷や、単純なファンからの「美人の証」、「可愛い」などといった賛美の的になってきたが、僕はこれらの議論に対して、ひとつの答を持っているように思うのだ。彼女の黒目がちな瞳が見つめているのは……いや、やはり言葉にするのはやめておこう。途中に突飛なエピソードを挟んだりして、散々先延ばしにしてきた挙句何も言わないのかよ、と自分でも思うのだけれど、残り時間がもう無いのだ。とは言え、この「制限時間」という深刻な問題を抜きにしたとしても、やはり言葉にするにはあまりにも陳腐だし、あまりにも個人的過ぎる。ただ、僕が言えることは、彼女が見ているものを僕も見てみたい、ということだけである。

 さぁ、もう最後だ。言うべきことは、もう全て言い終えた。時計の針はここに来て、流星の如き速さで、円盤の宙を翔けていく。

 駐輪場の薄弱な街灯の光を受けて、君の白い肌は月のように輝く。宇宙的な漆黒の闇を映しだす、君の瞳を覗き込んでも、まるで僕の姿なんか見えやしないが、代わりにいくつものキラキラとした煌めきが見える。それはばら撒かれた星屑のようで、君が歌いたいものの欠片なんだろう。僕はまるで自分が、良く見える眼鏡(シー・モア・グラス)をかけた人間にでもなったつもりで、来たるべき時が来たら君に語りかけよう。

 

「君の星は全部出揃ったかい?」

 

 満面の笑みで頷く彼女の姿が容易に想像ついてしまうのは、この捻くれた僕からしても、ただただ素直に嬉しいばかりである。

 さて、あとは眠ろう。話は終わった。結局、言いたいことなんて何一つ伝えられはしなかったけれど、でも、もうさすがに時間切れだ。うん。だけど、明日もある。名残惜しさは希望に変えて。また明日を踏みしめる君の後を追って翔けていくのは、このすっかり疲れ切ってしまった体躯では不可能だ。だから、もう眠ろう。それじゃぁ、また。

 

P.S.

 

 今日はカリンの晴れ舞台を見に行けなかった。後悔はもうしない。僕は僕のやるべきことをやれたのだから。

 

2014年 9月24日 深夜4時20分