遠藤周作の「海と毒薬」を読んだので、その感想を書きたいと思います。
こちらも前回の小説のレビュー同様、文学部卒の友人から勧められてた本になります。「痴人の愛」とはタイプの異なる小説でしたが、「海と毒薬」もまた非常に面白い小説でした。しかしながら、Netfrixに登録してしまったり、アイドルの動向を追いかけたり、まぁ、種々雑多な理由によって忙しいせいで(理由になってない)読むのにかなり時間がかかってしまいました。そして、またこうして記事にまとめるのも遅れています。
「痴人の愛」の感想文と、Netflixで楽しんだ「ミッドナイト・ゴスペル」の感想文のリンクです。話題にしてしまったので、一応。
さて、そろそろ重い腰を上げて、書き始めてみましょう。全く以ってうまくいく気がしませんが…そう、今のところほぼノープランです。
1.作品としての区分
事件小説、ノンフィクション・ノベルのように見えますが、実際には創作による部分もかなり大きいそうです。例えば、カポーティの「冷血」はカポーティ自らが事件の犯人と関係を深め、その過程を描くようなやり方をしています。ほかに、大岡昇平の「野火」では自らの戦争での実体験をもとに、文学作品としてまとめられています。つまり、どちらもかなり事実になぞらえるような要素が大きいものです。しかし、この「海と毒薬」は、遠藤周作が実地調査を進める中で「なんか違う!こうじゃない!」と思い、そういった事実を一度葬り去ったうえで、自らの創作性を頼りに書き始められたそうです。
どちらかと言えば、「山田孝之の東京都北区赤羽」のような所謂「モキュメンタリー」に近い作品と言えるかもしれません。ただ、事件こそ事実ではあるものの、登場人物が全て架空の人物という意味では、「モキュメンタリー」とも違います。むしろ、やはりこの小説はやはり通常の「創作物」とした方がよりしっくりくるような気がします。
しかしながら、この作品では私たちの倫理観や人間性が問いただされており、その「問い」としての効果を高める上では、やはり実際に起こった事件が題材となっているという点はかなり重要と言えるでしょう。机上の議論でなく、私たちがまさに直面している問題として、当時の読者の心を強く揺さぶったことが、その事件当時生まれてもいなかった私にも容易に想像できます。
私はドラマの「リーガル・ハイ」が好きなのですが、あの中で主人公の古美門研介は弟子の黛真知子の子供らしい正義感を次のような方法で諫めます。
不動産事業で稼ぐ大企業は、新興住宅地を作り上げた後、そこに馬鹿でかいタワーマンションを建設する計画を始動させます。当然、日当たりなどが悪くなりますし、住民の反対運動が起こります。黛真知子はその反対運動に賛同し、住民の弁護団になろうと思いますが、師匠である古美門研介は大企業から大金を貰い、企業側の弁護士を務めることとなりました。「あなたには正義の心が無いのですか」と古美門を問い詰める真知子。しかし、古美門は真知子を連れて、その町にある小さな工事事務所の前へとやってきます。
「あそこの事務所は夫婦2人が頭となって切り盛りしているが、この間旦那さんの方が身体を壊し、いまは奥さん1人で家事もやりながら事務所を経営している。しかし、この不景気だし、旦那さんがいないせいでなかなか仕事を取ることができない。あの事務所で働く十数人の大工たちは、これまで世話になって来たから、とほとんど無給状態となりながらも何とか奥さんを支えて働いている。そんな状況で舞い込んできたのが、あのタワーマンションの開発事業だ。黛くん。君はそこまで考えたうえで、そんな彼らを見殺しにしてまで、反対運動の肩を持ちたいと言うのかね」
と、こんな内容の話を古美門は真知子に言って聞かせます。狼狽える真知子でしたが、そこへ夫婦仲良く談笑する2人が現れ、真知子は古美門の話が真っ赤な嘘であったことに気付きます。「嘘をついたんですか!」と真知子は怒りますが、古美門は「君が知らないだけで、いま話したような人たちがどこかにいるかもしれない」と言い残し、さっさと帰っていきます。
と、かなり不正確だとは思いますが、こんな内容が「リーガル・ハイ」ではコメディタッチで描かれています。つまり、私たちがぱっと考えつくような正義感はかなり不完全であり、立場や視点が変われば、すぐに揺らいでしまうようなものでしかないことを教えてくれます。
「海と毒薬」に関しても、その手触り・舌触りこそ違いますが、この「リーガル・ハイ」と同じような、我々の倫理観の綻びを突いて来るような趣向がかなり強いです。とは言え、そう感じさせるのはこの作品が「実際に起こった事件を元に書かれている」からです。小説の中では「リーガル・ハイ」ほど直接的に私たちの正義感を突くような言葉は出てきません。あくまで、「凶悪とされている事件の犯人たちのリアルな心情を描く」というその「やり方」だけで、私たちに「正義とは何か」「倫理とは何か」を考えさせてくるのです。
それがこの小説の外観であり、文学の中での区分となっているような気がします。
しかしながら、当然それだけでは終わりません。むしろ、その外壁から小説の内側へと侵入し、より登場人物の心理に寄り添ってみれば、人間の弱さや無力さなどがよく見えるようになってきます。私たちは押しなべて弱く、故にそこには正真正銘の悪などは存在しない。したがって、悪なきところに正義もまたなく、深い潜水の後の息継ぎのようにして、私たちはまた「正義とは何か」ということを考えさせられるのです。
実際に起こった事件をもととした小説でありながら、人間の心の揺らめきを創作性で以って深く描写するというこの小説の概形が、これら一連の思考と内省を私たち読者にもたらしてくれているのだと、私は思います。
2.小説の構成
少し上で書いたように、事件小説と創作物のハイブリッドのような概形を持つこの「海と毒薬」は、正義を問いただすことがその主軸に置かれているように見えます。一面的な報道がなされてきた事件に対して、別の角度から光を当てることで、私たちの倫理観が浅はかであることを糾弾します。
そして、それをさらに強めているのが、この作品の構成です。
まずはざっと、その構成を書き出してみたいと思います。
◆ 第一章 海と毒薬 … <一人称>平凡なサラリーマンを用いた導入
・Ⅰ … <三人称>勝呂を取り囲む日常
・Ⅱ … <三人称>勝呂を苛ませる人々の思惑・人生
・Ⅲ … <三人称>勝呂を絡め捕る医療現場の闇
・Ⅳ … <三人称>勝呂たちを取り囲む虚無感
・Ⅴ … <三人称>生体解剖への誘い
◆ 第二章 裁かれる人々
・Ⅰ 看護婦 … <一人称>ある看護婦の凡庸で暗色の手記
・Ⅱ 医学生 … <一人称>戸田を形成した無機質な半生
・Ⅲ 午後三時 … <三人称>生体解剖直前
◆ 第三章 夜のあけるまで
・Ⅰ … <三人称>生体解剖
・Ⅱ … <三人称>生体解剖後の夜
「…」以降は個人的にその章を簡単にまとめたものになります。が、とても一言では書ききれないので、あまり参考にはしていただかない方が良いかもしれません。ただ、「あぁ、あの辺りね」と見当がつけば良いかな、と思います。
こうして並べてみると、一人称と三人称が入り乱れているのがわかります。ただし、これは人称の妙を効果的に用いるためというよりは、単純に描きたい内容に合わせて適切に人称を選び取っていると考える方が正しいでしょう。遠藤周作がこの小説において問題としているのは、ある意味では「悪」というものが、「個」と「集団」のどちらに宿るかというものだと個人的に思います。生体解剖という悲惨な悪行が発生した理由がどこにあるのか? その問いの答を、「個」と「集団」に別々に分けて、整理するためにそれぞれの場面が割り当てられています。そして、その場面に対して「個」に着目した場合は「一人称」を、「集団」に着目した場合は「三人称」を用いていると言えます。
「第二章:Ⅰ看護婦」では、なぜ一介の看護婦が生体解剖に立ち会うことになったのか。その理由を看護婦自らの手記によって、仄めかしています。看護婦が自らのこれまでの人生やその中での絶望を語り、それらが絡み合って、気がつけば生体解剖という悪行の渦の中へと取り込まれていたことが読み取れます。これは一人称で書く方がやはり効果的でしょう。「看護婦も我々と変わらない一人の弱く、脆い人間なのだ」と読者は思わされます。ただし、あまりに一人称的過ぎては、この小説の主題がブレます(この小説は「生体解剖に巻き込まれた看護婦の話」ではないのです)。そこで、「手記」という、一人称を用いながらもあまり主観的になり過ぎない、描写方法を用いています。
「第二章:Ⅱ医学生」もまた、戸田という医学生が生体解剖に立ち会うに至る理由を描いています。看護婦が人生への絶望や疲労感といったものから、流れに抗う力を失くしてしまった人物の象徴であったのに対し、戸田はより「悪意」に対して鋭く迫ります。罪とは何か? 罰とは何か? そして、罪と罰の関係性は? というのが簡単に言えばこの章の主題です。こちらは「手記」という体裁を取っていないものの、戸田という人物のパーソナリティがかなり理性的であるところから、戸田が自らの内面を掘り下げていくような内容にもかかわらず、感情論にならず、ある種哲学的な問答の様相を呈しています。
そして、冒頭「第一章」のサラリーマンの章もまた「一人称」で語られていますが、この理由は上の2つとは少し異なるでしょう。このサラリーマンの章において「一人称」を使用した理由は2つ考えられます。1つ目は単純に、このサラリーマンが作者の遠藤周作であるから、というものです。つまり、この事件について調査を行った人物として、「サラリーマン=遠藤周作」となるので、語り手として一人称を使う必要があったと考えられます。2つ目の理由は、「読者=サラリーマン」としたかったから、と考えられます。これはそのままこの章の、物語構成上の役割となります。
サラリーマンの日常には、様々なところで「悪」が隠れています。ガソリンスタンドの主人、洋服屋の主人、いずれも戦争で人を殺しています。ガソリンスタンドの主人に至っては、「中支に行った頃は面白かったなあ。女でもやり放題だからな。抵抗する奴がいれば樹にくくりつけて突撃の練習さ」と戦争を懐かしんですらいます。しかし、これらの事態に対して、サラリーマンはどちらかと言えば、「まぁ、そんなものか」と割り切って受け入れています。多少の嫌悪感や気分の悪さのようなものも文章全体から感じられますが、そういったことよりも何よりサラリーマンを気味悪がらせるのは、気胸の時の勝呂医師の指の感触です。そうして、その勝呂医師の気味悪さを決定づけるのが、義妹の結婚式の場で偶然知ることになった、勝呂医師の関わった生体解剖の事件です。
そんなこの冒頭のサラリーマンの章で、私たち読者が意識するのは、「本当に生体解剖の事件こそが、この世で最も憎むべき極悪非道の所業なのか?」ということです。私たちと同じような一般のサラリーマンの周辺には、戦争とは言え、人殺しが何食わぬ顔で生活しています。中には、外地で女を凌辱した者もいます。しかし、どこかで「戦争なのだから仕方ない」と自分で自分を納得させていやしないか。そうやって「戦争なのだから」と言っているにも関わらず、その戦争中に行われた生体解剖に対してのみ強い嫌悪感を持っているのです。この辺りのバランス感覚のようなものは、私たち庶民の一般的な感覚と言えるかもしれません。ここで登場するサラリーマンも、ガソリンスタンドの主人よりも、明らかに勝呂医師のことを恐れています。そして、その恐れは消えることの無いまま、次の章が始まり、もう二度とサラリーマンは登場することがありません。
つまり、この章では、至極一般的な庶民の感覚を「一人称」で語ることで、このサラリーマンに対して読者を感情移入させることが目的なのです。そうやって、一般的な庶民の感覚として、生体解剖を嫌悪する気持ちを読者に共感させておいて、あとに続く章でその「一般的な庶民の感覚」が正しいのかどうか考えさせるのです。ですから、この小説の仕掛け上、この冒頭のサラリーマンの章は絶対に「一人称」でなければなりません。逆説的に言えば、この冒頭の章が「一人称」で語られていることからもわかるように、私たちはこの話を「自分の事」として受け止める必要があるのです。
と、少し長くなりましたが、ここまで「一人称」に着目して、この物語の構成を考えてきましたが、最初に書き出した通り、この「一人称」で重要なのは「個」の感じ方、考え方、生き方というところになります。いずれにせよ、この「一人称」が用いられている部分では、読者はその一人称の主に感情移入することが求められます。医学生の戸田が次のように語っています。
こんな少年時代の想いではぼくだけではあるまい。形こそ変れ、あなた達だっておそらく持っている者だろう。だがそれに続く次のような思い出は一体ぼくだけのものなのだろうか。それともあなた達もこれと似た経験を心のどこかにしまっているのか。
まさにこの戸田の言葉が言うように、私たちの中には、看護婦や戸田と同じ部分があります。そして、そんな同じ部分があるにもかかわらず、冒頭の章のサラリーマンのように、悪事に加担することになった看護婦や戸田を嫌悪します。
この「一人称」で語られる3つの章を並べただけでも、私たちが「普通」と考える正義感や倫理観というものは不確かなものであると考えさせられます。各章の主人公に感情移入しながら、そこにある矛盾を見るのです。見つけた矛盾は自問に繋がり、そしておそらくは作者が求めるところとしては、その自問を通して、自らを省み、より正しい道を読者が考えることにもなりましょう。矛盾に目を瞑り、固定観念に流されるだけの私たち庶民に対する作者の怒りや呆れのようなものを、感じることもできるかもしれません。いや、庶民というよりは、むしろ人間が生来持っているそういった「弱さ」そのものに対して、作者は槍を突き刺しているのかもしれません。
対して、三人称を用いて語られている各章では、より「集団」の中での関係性が色濃く描かれています。学部長選への思惑に、軍部との力関係までが加わり、そして戦争という時代背景がすべてを圧倒的な力で押し流していきます。第一章では、勝呂を中心としてそのような様々な要因が渦巻いていることが丁寧に描写されてます。勝呂は勝呂なりの善意や医者としての威信から、「おばはん」を心から救おうとします。しかし、「おばはん」は結局のところ「どうせ死んでしまうから」と新しい手術方式の実験台とされることとなり、勝呂は困惑します。これは医療現場の闇と言ってしまえばそれまでですが、人が死にまくる戦時中という要素もかなり大きいです。
人が次々と死んでいく戦争時代にあっては、人の命の価値はどれほどのものなのか。いや、しかし、人の命というのは時代によって左右されるものなのだろうか。
勝呂はそういった種々の状況を抜きにして「おばはん」を救いたいと考えているわけですが、どうしようもできないまま「おばはん」を死なせてしまいます。ここに1つの良心の敗北が描かれています。勝呂はこの敗北を受け入れることができないまま、生体解剖まで流されて行ってしまいます。対して、戸田はこの「おばはん」の死を敗北とは受け取らず、「空襲で死んでも、おはばんはせいぜい那珂川に骨を投げこまれるだけやろ。だがオペで殺されるなら、ほんまに医学の生柱や。おはばんもやがては沢山の両肺空洞患者を救う路を拓くと思えばもって瞑すべしやないか」という考えを勝呂に言って聞かせます。これもまた医学の闇の1つの現れと言えるかもしれませんが、むしろここで語られるべきは、戦争や医学、時代を含めた状況によって「命の見え方」が変わって来るということでしょう。勝呂の良心は、間違いなく尊ぶべきものです。しかし、この記事の最初に例に出した通り、「リーガル・ハイ」で古美門によって語られたあの工事事務所の夫婦の話と同じで、立場や視点によって良心の在り方もまた変わってしまうのです。
その事実に対して、勝呂の無垢な良心は傷つき、痛み、そして困惑してしまいます。
おばはんは柴田助教授の実験台やし、田部夫人はおやじの出世の手段や
と言う、勝呂の言葉の中に、彼の良心や尊厳のようなものが痛めつけられているのが見て取れます。
第二章の終わりから第三章の結末までもまた同様に三人称で語られていますが、勝呂を中心に据えた第一章と異なり、ここではより客観的な描写が増えていきます。が、それと比例して(不思議なことですが)個人の心理も強く表れていきます。特に、勝呂と戸田の2人に関しては、度々、心の声が書き込まれ、生体解剖という異常な状況の中に立たされた人間の感情の揺れ動きがとてもリアルかつ鮮烈に描かれます。
第一章の時点で、既に生体解剖の実行は決定されており、つまりこの時点でほぼ全ての状況のセッティングは終わっています。これによって、第二章から第三章はほとんど生体解剖の手順の描写的に、淡々と流れていくような構成になっています。ですから、同じ三人称であっても、前半と後半では役割がやや異なっていると考えるべきです。その役割を端的にまとめることは、おそらく私の文章力ではうまくできないと思いますが、それでもちょっとチャレンジしてみましょう。
前半の「第一章:Ⅰ~Ⅴ」までは勝呂を中心に据え、どういう経緯を経て生体解剖に至ったのかが描かれています。現実的な要因と経緯を並べるのであれば、学部長を目指す「おやじ」や出世を望む助教授や助手の思惑から、現学部長の親類である田部夫人の手術が「おやじ」主導のもと行われることになります。が、この手術が不幸なことに失敗してしまい、「おやじ」の学部長当選の可能性は限りなく低くなってしまいます。そこへ軍部が「生体解剖」の話を持ち掛けて来るわけですが、この戦時中にあっては軍部との繋がりはあらゆる局面において強みを発揮します。そこで、「おやじ」は逆転をかけるために、「生体解剖」の話を受諾することになるのです。これがざっとした経緯です。これにさらに戦争の悲惨さの描写が含まれることで、「集団」としての関係性や状況によって、「生体解剖」という悪行が為される1つのメカニズムが説明されることになります。
そして、そのような一連の出来事に対して、まだ無垢な良心を残した勝呂と、冷めて現実的な戸田の2人の医学生がそれぞれの考えをぶつけ合うのが、この前半のストーリーの記述方法です。勝呂と戸田のそれぞれの価値観を書き表すことで、2人のキャラクターを説明するとともに、「無垢な良心」と「現実的な妥協」という2つの価値観を戦わせてもいます。さらに、上述の通りの、本題である「生体解剖」に至るまでの道のりも描かれているため、とても効率的で「良く出来た文章」という感じがありますね。上から目線で、お前は何様だという感じですが。
まだ、色々と書くべきことはありますが、「構成」という面ではこれくらいで良いでしょうか。
対して、後半の「第二章:Ⅲ 午後三時~第三章:Ⅱ」までは、生体解剖の中身を克明に描いています。解剖を行う医師・看護婦の1人ひとりの立ち振る舞い、将校たちの反応、そして犠牲となったアメリカ人捕虜の姿が、まるで現場を見てきたかのように緻密に精細に描写されています。立場や思想、思惑などはそれぞれで異なりますが、生体解剖の現場ではそのすべてが「命の重さ」という一点へと凝縮していく感じがあります。眼を血走らせ夢中になる将校、血の気が失せ脂汗を浮かべる将校、恐怖から何もできな勝呂、平気な自分に気分が悪くなる戸田……「個」によって反応は異なりますが、いずれにせよ「生体解剖」という極限の状況の中で、皆が「命の重さ」とその背後に潜む「悪」に取りつかれる様が描写されます。このように視点がいくつも動き回る描写をするにあたって、「三人称」はどうしたって必要になってくるものと言えます。
「生体解剖」の現場では一点に凝縮した「集団」の意識が、解剖のあとの夜の場面ではまたバラバラになり、ふわっと広がっていくような感じがあります。それはまるで、良く出来た芸術作品に夢中になり、集中し、そして幕が下りると同時に、どこか現実へと戻されるときと似たような感覚に近いもののように私には思えます。つまり、「生体解剖」は素晴らしい芸術作品と同じように、そこに居合わせた人たちに何か楔のようなものを打ち込んだのです。その楔は「正義」や「悪」、つまり人々の「倫理観」や「良心」といったものを問いただします。そして、その「問い」の答は明示されないまま、というか「問い」そのものが答であるという風にして、物語は終わります。
うまくまとめることができませんでしたが、このように「一人称」と「三人称」を駆使しながら、この作品は私たちに「正義とは何か」と問いただします。様々な立場の人間に共感させ、矛盾から疑問を生み出し、さらに抗うことのできない集団の利害関係や時代の持つ凶悪な力を実感させ、「命の価値」を考えさせるのです。何度も言うようですが、立場や思想によって「命の見え方」が変わって来るというのが、この小説の肝と言えます。「命の見え方」が変わるということは、すなわち「正義」も立場や思想によって変わってしまいます。事実を書き出すだけでなく、創作物として表現することで、私たちはただの評論としてでなく、自らの人生の一部としてこの重大な「問い」を体験することができたのだと思います。
構成に関して、最後に1つ付け足させていただきたいと思います。
「正義」を語る上では、「悪」は欠かせません。この小説で秀逸なのは、作品の構成において、その順番の妙で「悪」を実にわかりやすく、丁寧に掘り下げていることだと私は思います。
第一章のサラリーマンの章では、人を救うはずの職業である医者が「生体解剖」を行い、人を殺したことに対する「悪」を描いています。そのまま勝呂の章に移り、出世のために患者や捕虜の命を愚弄する「悪」が描かれています。つまり、「殺人=悪」からガソリンスタンドの主人と勝呂医師を比較して、「医師による殺人=悪」となり、さらに「利己的な目的のための殺人=悪」へと「悪」が具体化されていきます。ただ、具体化されればされるほど、そこには利己的と言いながらも、その「利己的」が複雑に絡み合った「集団」や「時代」による「悪」への不可抗力が明確化されていきます。読み進めるにしたがって、「生体解剖も仕方なかったのでは?」と思わされます。しかし、それでも厳しい人は「とは言え、最終的には個人の判断であろう。正義の心があるなら、きっぱり断ればよい」と言い出すかもしれません。その糾弾に対する弁明が第二章です。
第二章では「一人称」を用いて、時代や不運に打ちのめされた看護婦の手記によって、「悪に加担したのは、人生に疲れ果ててしまったから」という理由付けがなされます。戸田の章では同じく「一人称」を用いて、「悪に加担したのは、悪という定義が不明確だから」という理由付けがなされます。ここまで来ると、戸田が言うように「悪とは何か?」という話になってきます。「生体解剖は確かに悪と定義できるかもしれない。でも、悪だと証明することができるだろうか」という感じです。
第三章からは、もはや議論ではありません。「悪」と呼ばれる行為=「生体解剖」を緻密に描写することで、ただ、その行為の重さを私たちに実感させます。淡々とした描写は、まさに「命」の描写であり、それは「生体解剖」という形を取ってはいるものの、「命を奪う」という行為を表現するための1つの「モチーフ」であり「技法」でしかありません。これによって、「戦争だから」とか「医師だから」とか「疲れ果てているから」とか「悪が定義できないから」といったあらゆる理由が、「理由にはなっていない」ということを突きつけられるのです。「そういった全ての理由は、ただの言い訳や責任逃れでしかない」と、描写の克明さで作者は訴えかけます。
このような段階を細かく積み重ねることで、私たちは着実に作者の問いかけを理解できるようになっていると思います。
総じて、この「海と毒薬」の構成は素晴らしいということが、私の言いたいことでした。
3.無影燈
この「海と毒薬」小説を読んで、最初に感じたのは「どうしてタイトルを『無影燈』にしなかったんだろう?」というものでした。それくらい、私にはこの「無影燈」というものが小説のテーマと合致しているような気がしました。
というのも、私は上述の通り、「善悪の在り方」という視点でこの小説を読んでいたからでしょう。「善悪は見方で変わる」というのが私の基本的なスタンスですから、様々な視点から光を当てることで「善悪の分別は不可である」ということを描いた小説なんだろうと勝手に決めつけて読んでいたというわけです。この「様々な視点から光を当てる」というのは、光を乱反射させて影を作らないようにする無影燈の仕組みととても合致しています。
上述の通り、私は第三章の「生体解剖」のシーンの淡々とした描写と、それに付随して生まれる「重み」に感じ入りました。確かに、将校は将校としての立場で生体解剖に臨んでいますし、勝呂や戸田もそれぞれのキャラに適したリアクションをその生体解剖の中で取っています。しかし、いずれの登場人物もその生体解剖においては「命」と向き合っています。勝呂は「医師として命を救うべき」という信念を持って「命」と向き合っていますし、戸田は「罪とは何か、罰とは何か」という疑念の答を求め「命」と向き合っています。上田看護婦は、捕虜の白い肌に、憎いヒルダを重ね、やはり自らの半生を捕虜の「命」の中に見出しています。
生体解剖の手術室という特異な環境の中では、正義感も悪意も功名心も嫉妬も、時代や戦争といったものも、全てが等価になり、綯い交ぜになり、1人の男の命を奪う一因となっているのです。それが、つまるところ影を焼き殺し、浄化する無影燈に集約されているような気がしました。血を洗うために床に流され続ける水もまた、何か罪を滅却するための暗示のように私には思われます。
そういった着想が私の中にはありましたが、そうは言っても、この小説のタイトルは「海と毒薬」です。ですから、きっと私の考える「無影燈」以上の意味が「海と毒薬」という言葉には込められているのでしょう。それについて、少し考えて見ましょう。
「毒薬」という言葉の方がわかりが良いかもしれません。「毒薬」には「命を奪う」という効能があるため、そういう意味では様々なものの暗喩となり得ますが、そのままの意味での「毒薬」というのはこの小説では登場してきません。ただ、生体解剖の際、「命を奪う薬」として使用されているのは「麻酔薬」としてのエーテルです。もちろん、捕虜が死んだのは肺を切除したからですが、その肺の切除を導くための「薬」は「麻酔薬」でした。「麻酔」というのは、人間の感覚や意識を奪うものです。勝呂を含め、登場人物たちは戦争や病などで「死」に対する感覚がある種麻痺したような状態でした。その中でも勝呂は正義を見出そうと葛藤するわけですが、結局のところ、生体解剖に立ち会い、その場では身体が麻痺したように動かなくなり、何もできませんでした。戸田は戸田で、幼少の頃より、自分の心や感情の麻痺のような感覚を持っていました。まぁ、結局何でもかんでも「麻痺」という言葉に集約して、「麻酔」に繋げることはできるわけですが、この「感覚を奪われている」という状態こそが、強いて言うならこれまでずっと話して来た「悪」の正体なのではないかな、と思います。
考えることをやめず、「命」の重さを忘れさえしなければ、どんな理由があろうとも人の命を奪うことにはなりません。生体解剖の現場では無影燈の光のように、あらゆる視点から光が当てられることで、すべての罪は等価となり、互いに食い合い、影は殺されていました。しかし、そんな中でもやはり、人の命の重さを感じる心が残っていれば…麻痺してさえいなければ、少なくとも勝呂のように自らが手にかけることにはならないと思います。もちろん、手を下さなければ、それで罪がないということになりません。しかし、感覚が麻痺しているかどうか、というのはやはり大事な部分のように思います。
と、これが私なりの「毒薬」の解釈ですが、当然不十分だとは思います。もしこの「毒薬」という言葉を本当の意味で正しく解釈しようと思えば、最低でもこの小説を1からここに書き写す必要がありますし、充分な説明を与えようと思えば、この世界の全ての知識や知恵を動員する必要があるでしょう。
という御託を並べて、次は「海」の解釈に移ってみましょう。
「海」が登場するシーンはいくつかあります。が、大抵は勝呂が医学部本館の屋上に昇ったときに、空襲で焼けた街とセットで登場しますね。海は勝呂に様々な感情を思い起こさせますが、最後の文章にもなっているとある詩と密接に関係しています。
羊の雲の過ぎるとき
蒸気の雲が飛ぶ毎に
空よ おまえの散らすのは
白い しいろい 綿の列
(空よ おまえの散らすのは 白い しいろい 綿の列)
という空の茫洋たる景色を詠った詩が、文学のわからぬ勝呂の心には強く沁みついているようです。特に、「海が碧く光っている」ときにはこの詩が心に浮かんでくるそうです。「おばはん」の(成功率の低い)手術を控えた数日間、勝呂は屋上から海を眺め、この詩を噛み締めました。
ですが、この無謀な手術に対して、戸田に「空襲で死ぬより有意義じゃないか」と諫められた日の海はひどく黝ずんでおり、空襲の煙も雲や太陽を汚しています。
その後、生体解剖の話を持ち掛けられ、それを承諾してしまった夜には、夢の中で「黒い海に破片のように押し流される自分」の姿を見ます。これはまさに、何か強大で凶悪な流れに飲み込まれて生体解剖をする羽目になってしまった勝呂の心境を説明していると言えるでしょう。
看護婦の上田は結婚して満州に渡る際に、当然海を渡ることになるのですが、「一日中船室の丸窓から東支那海の黒い海面が、浮んだり、沈んだり、傾いたりします。その海の動きをぼんやり眺めながら、わたしはあああこれが結婚生活なんだと考えたものです」と手記に記しています。また、満州で子供を失い、子供の産めなくなった彼女は、日本に戻ってから、夜の海鳴りに寂しい気持ちにさせられます。戦争が激しくなるにつれ、夜の海のざわめきが強くなっていき、そのうちに「日本も敗け、わたしたちもどこかに引きずりこまれていくかもしれない」と彼女は思うようになってきます。その後、ヒルダとの一件があり、浅井助手によって彼女は生体解剖に誘われます。そして、その夜もまた浅井助手に抱かれながら、眼を開けて海鳴りの音を彼女は聴きます。
上田看護婦にとって海は長閑で退屈な結婚生活の始まりの象徴であり、故に日本に戻ってからの1人での生活では、寂寥感や絶望感と密接したものとなります。彼女が内なる虚無感を育んでいくほど、海のざわめきもまた音を大きくしていくようです。
戸田に関しては、あまり海との接点がないものの、戸田の章の最後では、多くの人々の呻き声のような「長い、虚ろな音」を海のざわめきと勘違いして、眠りから覚めます。重要だと思われるのは、人々が苦しみに悶える呻き声と海のざわめきを戸田が聴き分けていることでしょう。最初、戸田はその2者を混同しますが、すぐに「はじめは下宿からほど遠くない海のざわめきかと思った。だが海のざわめきは別の方角から聞えていた」と訂正しています。上田看護婦や勝呂は海と苦しみ等の感情を密接に結びつけていますが、戸田はきちんと分けることができています。この点に、戸田の性格的な特徴が現れているとも読み取れますね。
そして、最後のシーンではやはり勝呂の視点で海が描かれています。生体解剖を行った夜、勝呂は何もできなかった自分を悔い、生体解剖を通して何かが変わってしまったことを勝呂は感じます。そして「闇の中に白く光っている海を見つめた。何かをそこから探そうとした」勝呂ですが、自分を慰めるために例の詩を口ずさもうとして、それができません。そこで小説は終わっています。
勝呂が唯一覚えている例の詩は、海が碧く光っているときに、心に沁み入るものです。しかし、おばはんの死や生体解剖を通して、海は黝ずみ、闇に呑まれ、勝呂にはもうその詩を口ずさむことができません。そして、海は勝呂を生体解剖に押し流した象徴でもあります。この一連の海と勝呂の関係を無理やりにでも読み解けば、海とはすなわち勝呂の弱く繊細な心であり、そこにはかつて碧い煌めき=無垢なる正義があり、それは例の詩の如く純朴なものでしたが、それ故に勝呂は抗うこともできず、雲や破片のように流れにながされ、碧さを失ってしまったということになります。
そんな碧い海を冒頭の章のサラリーマンは、勝呂が立っていたあの屋上から眺めることになります。屋上に昇る前のサラリーマンの心には、生体解剖が行われた手術室の中で「突然、私は彼(勝呂医師)に会いたいなという衝動」が沸き起こっています。そうして、屋上に昇ると、そこから町の向こうに海が見え、「海の色は非情に碧く、遠く、眼にしみるようだった」とサラリーマンは述べています。
勝呂が海と非常に密接な関係にあり、勝呂がある意味ではこの小説における「弱く脆い善意」の象徴として描かれていることから、三段論法的に「海」というものが何であるかということが見えてきます。海は様々な表情を持っていますが、特にその「碧さ」には上述の「弱く脆い善意」が反映されているように思えます。
そんな多義的な「海」と「毒薬」について、こうやってまとめ切れないながらも書き出してみて、やはり「無影燈」ではなく「海と毒薬」というタイトルで良かったのだろうなと思います。なぜなら、この小説は「評論」や「事件小説」でなく、「創作物」なのです。「無影燈」じゃあ、あまりにもノンフィクション・ノベルっぽいですよね。まぁ、私好みではありますが(笑)。
4.ポプラの樹、老いた小使い、スフィンクス
無影燈、海、毒薬のほかにも色々な暗示が出てきます。その最たるものに、ポプラの樹、老いた小使い、スフィンクスなどがあります。が、これらについて考えるのもまたとても大変なので、とりあえずやめておきましょう。ただ、これらが象徴するのは、虚無感や不気味さであったり、そういったこの小説の空気感をより増強するものであり、やはりこれらのアイコンがあるとなしでは、読み心地がだいぶ変わって来るのは間違いないです。
この記事の総括としては、まず題材と描き方(事実を素材とした創作物)から作者の主たる意図がよく見えてきます。そして、その意図を的確かつ丁寧に伝えるために、人称や章立ての順番がよく練られています。特に章立てに関しては時系列と合致しない部分がありながらも、それぞれの関係性が良く整理されており、物語として読者にすっと入って来るものになっています(ドラマの回想シーンとかと似たイメージですね)。
そして、作者が意図しているのはやはり何といっても「私たちの正義や倫理はただしいのか?」ということでしょう。それをどちらかと言えば、「悪」に着目して、絶対的な「悪」というものが存在しないと描くことで、私たちへの問いと成しています。しかし、究極的にはこれは「命」の話です。時代や個々人の人生、価値観、そういったものによって「命の価値」が変わってしまうものなのか。結局のところ、それこそがこの小説での主題と言えるでしょう。
小説に付属の解説では、遠藤周作の「日本人とは何か?」という追求の初期段階という説明が為されています。私はこの小説を何の予備知識も無しに、友人から「面白いですよ」と勧められて読んだだけなので、遠藤周作がどういう作家なのかもよくわかっていません。解説では遠藤周作のスタイルから、この小説が日本人の流されやすさなどの特性に対する問題提起的な解釈をしていました。そう言われれば、確かにそうだなぁ、と私も納得させられます。揺るがない自らの確固たる価値観を持っていれば、生体解剖に対して、ヒルダと同じような正義感で以って、頑としてNoを突き付けられたはずでしょう。それが信仰心の欠如と言えば、たしかにその通りかもしれません。キリスト教徒のように強い信仰心を持っていれば、自らが当事者になってもそれをNoと拒否できるはずです。同時に、日本でも一般人はこの生体解剖の事件に対して、Noの姿勢ではありますが、これはあくまでメディアや周囲の人の意見に流されているだけで、自らの確固たる価値観においてNoと言っているわけではないでしょう。それらの点に対して、遠藤周作は疑問符を呈しているわけです。たしかに、私もその自分の意見の無さには、まさに「麻酔」のような「悪の種」を感じずにはいられません。
が、もう少し言うのであれば、「命の価値」こそがもっと根源的な問題だと思います。
もし、遠藤周作が本当に日本人を愚かと考え、キリスト教的な「強さ」を重要視しているのだとすれば、ヒルダをもっと美しく描いたのではないでしょうか。宗教から切り離されてもなお、自分の正義との葛藤に苦しんだ勝呂を主人公に据え、そのうえで戸田には人間の罪と罰について語らせています。そこには、もっと根源的な「命の価値」に対する哲学的な問いが潜んでいるはずです。
浮草のような日本人よりは、確固たる意志のある西洋人の方がマシかもしれません。しかし、確固たる意志があったとして、それが本当に正しい意志と言えるのでしょうか。自らの思想を疑っていないという点では、出世に目の眩んだ登場人物や、自分の倫理観の欠如を是としている戸田と何ら変わらない、ある種の「麻痺状態」にあると言えるのではないでしょうか。話が飛躍しますが、そういった「疑うことを忘れた心」が全体主義的な惨事を生んだとも考えられましょう。自問をやめず、懊悩し続けることこそが唯一の道であると私は思います。苦しみを啜りながら生きていくべきだと考えている私は、とても残念なマゾヒストでありながら、戒律違反のとても純粋な上座部ブディストだと思っています。真夜中に、カップ焼きそばと缶ビールをかっ喰らい、アイドル楽曲を鼻歌で奏でながら、電気代定額の会社の社員寮で冷房をガンガン点けて、寒さに震えている私ではありますが。
最後に…
書き始めた段階では、「あぁ、今回は短くなってしまうなぁ。ま、端的な文章こそ私が目指すところであるし、別に望むところではあるんだけど」と思っていたはずなのに、いつの間にか気がつけば1万と6千字です。
めちゃくちゃ疲れました。脳と身体の末端が痺れています。
あれこれと書きましたが、私がこの「海と毒薬」で好きなのは、勝呂医師の過去に触れる前までの冒頭のサラリーマンの章なんですよね。あぁいう、ただの日常を連ねるだけの文章をずっと書いていたいです。
ただ、この間ついに「それでも、生きてゆく」のDVDボックスを買って、週末に涙を枯らしました。なんだかんだ、劇的な話も好きなんですよね。
あぁ、それにしても満島ひかりの演技ハンパなかった…!
お兄ちゃんがプールで溺れていたときのシーンはヤバ過ぎますね。思い出しても鳥肌が立ってしまいます。
今日は朝6時に起きて、ギターを練習して、カップラーメンを食べながらNetflixでようやく「キングダム」を最新話まで観終わり、それから「あひるの空」、「Great Pretender」も最新話を観て、この記事の序盤を書いて、一度寝て。昼前に起きて、シャワーを浴びて、寮の食堂から米と味噌汁をかっぱらって、冷食の豚バラ焼きをおかずに昼飯を食べて、ギターを練習して、「The Beginning」を観始め、ハロステを観て、床屋に行って、イトーヨーカドーに「One Day(BEYOOOOONDSがKAGOMEとコラボしてるやつ)」とその他食料品を買いに行って、雨に濡れて、早めの夕飯を食べて、昼寝して。起きてからこの記事のほぼ全部を書いて、頭がぶっ潰れそうなので、酒を飲みながらカップ焼きそばを食べて、ようやく今に至るという感じです。
長いのか短いのかよくわからない1日でしたが、このぐちゃぐちゃとした今の心地は悪くないです。放っておいてもらえればこれだけ素敵な時間の使い方をできるのに。明後日はまた会社です。明日はまだ休みですが、予定が入っています。だから、もう寝ます。
最近、やたらと感傷的な夢を見ます。
目が覚めたとき、死にたい心を殺して、寮の共同便所で長い小便をします。