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遠野遥「破局」感想

遠野遥「破局」を読了したので、感想を残しておこうと思います。

 

破局

 

遠野さんのお姿をテレビか何かで拝見して、「面白そうな人だな」と思っていたところに友人からオススメされたので読んでみました。別の本を読んでいたので、購入から読み始めるまでにはだいぶ時間がかかったのですが、読み始めたらあっという間に読み終えてしまいました。

 

 

1.ざっくり感想&紹介

読後感は「水を飲んだな」という感じでした。コーラでも紅茶でもなく、常温の水道水を飲んだ後のような感覚がありました。口当たりは別に悪くなく、でも若干の水道臭さがあり、味わいというよりは「口を湿らせた」、「単なる水分補給」という無感動が手応えとしてありました。私がこの小説に共感でき、すんなりと受け入れられたからそう感じたのかもしれませんが、どちらかと言えば文体や内容によるところが大きいように思います。

主人公の「私」はラグビー経験者で、大学で就活をする現在においてもトレーニングを欠かさず、立派な体格を維持しています。他者から見れば、無骨で寡黙なまるで古き良き武士のような印象を抱かれそうな性格と思われます。しかし、ほとんど一人称視点で書かれる「私」の思考は、実に細密でよく外部を観察しており、また内面的には様々な衝動が渦巻いています。それは、外界の観察⇒それに対する自分の中の感情的な反応⇒自らのモラルとの照合⇒周囲の期待の把握⇒どうすべきかの判断⇒行動、という一連のプロセスとして小説中で丁寧かつ淡々と描写されています。

私が本書を真似て文章を書くなら…

文章を書くのに疲れて首をかしげると、机の端に置かれた観葉植物が目に入った。艶やかな葉と、少し萎びた葉とが見受けられた。緑には癒しの効果があるという。また、せせこましいこの室内で健気に成長する彼には、愛着というものを感じている。水を上げようか、と思う。しかし、昨夜も水を上げたことを思い出す。あまり水を上げ過ぎるのも良くないと聞いたことがある。多少「渇き」を感じるくらいの方がタフに育つそう。結局、私は視線をパソコンに戻し、また文章へと意識を集中させた。

という感じですね。この文章には他者(人間)が登場しないので、もう一つ別の例を書くと…

スーパーでゆっくり歩きながら果物を物色していると、同じように商品に目を奪われた初老の婦人が後ろ足で近づいてきた。この歳の頃の女性はたいてい視野が狭く、いつも自分の都合しか考えず好き勝手な足運びをするので、非常に苛々させられる。このまま私も彼女の存在が見えていない風を装って、わざとぶつかりに行くこともできる。それはそれで何らかの啓蒙活動(周りを見て歩きましょう!)になるだろう。しかしながら、歳を取るにつれて視野が狭まってしまうことは仕方のないことだし、自分の母ほどの年齢の彼女に対してはもう少し優しくすべきだ。彼女と衝突して、私たちがまた他の客の目を引いたり、邪魔になったりするのもやりきれない。私は溜息を飲み込み、そっと彼女に気づかれないように、彼女の後退のルートから横にずれてやった。私の肩ほどの背丈しかない彼女に憂いの微笑みを浮かべてやれば、どこか誇らしい気持ちにもなれたりするではないか。私の気づかいなどまるで気づくことなく、彼女は再び前進を始め遠ざかっていく。やれやれ、とようやく飲み込んでいた溜息をついて、私は私で果物の物色に戻る。

んー…書いてみると、なかなかうまく真似できた気がしませんね(笑)。というか、単に私の文章は長い。ダメダメです。

が、まぁ、こんな感じで結構、周囲の出来事を細かく観察して、それに対して自分の中に湧き上がる感情を知覚しながらも、最終的にはモラルや実質的な効率・効果を踏まえて自らを律し、適切な行動を取ろうとするのが主人公の「私」の常であるようです。そういう文体で、ほとんどが進んでいきます。

一事が万事、そんな感じなので、もしかしたら「主人公はノイローゼなんじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、主人公自身はそういう自分の傾向に何ら疑問を抱いていません。そういう自分を当たり前のこととして受け入れており、何か疑念のようなものを感じることもありません。そのような主人公が、決して広くはない人間関係の中で、上手くいったりいかなかったり、ということを繰り返していくのがストーリーの主軸です。まぁ、大方の予想通り、最終的にはうまくいかない部分が目立って来るのですが。

このように淡々とした主人公の思考につられて、私たち読者もどこか無感情な状態に誘われていきます。でも、やはりその常に一本調子な主人公の感じには、水道水に含まれる鉄の味のような異物感があります。明確な味はないので、すんなりと食道を流れていくのですが、その異物感は澱のように胃の中に溜まっていきます。それが本書を読んでの、私の読後感になっています。

 

2.主人公が抱える問題

上述の通り、主人公はどちらかと言えば、自分の感情を蔑ろにしています。そして、「適切」と思われる行動を取ることに終始しており、子細な思考と判断を機械的に繰り返します。が、彼の思考はたいていにおいて理に適っている気がします。所謂「マジレス」のように面白味や人間味に欠けるものの、不思議と「まぁ、そうだよな」と彼の行動には納得させられる部分が多いです。私自身、どちらかと言えば他人の顔色を伺いながら生きてきたので(上手くできていたかどうかは知りません)、彼の思考には共感させられるところが多かったです。自分の事は多く語らず、常に的確な状況判断を自らに求めます。そんな主人公に愛しささえ感じるほどでした。

しかしながら、やはり適応障害なんて病気にかかった私からすると、主人公の認知と行動は精神衛生上よろしくないと思ってしまいます。

彼(主人公)は常に自分の感情は二の次…どころか「そりゃ感情というものは湧き起こるよね。でも、基本的にそんなものは無視すれば良い。自分がどう行動するかの判断基準にはなり得ない」と無意識に割り切っています。この「無意識に」というのが、何よりも彼の問題を深刻にしています。彼にとっては感情を自分で知覚しながらも、それを抑制することが当たり前になっています。特に「笑う」か「笑わない」かまで判断している様子が緻密に描写されているので、よほど彼が自己の抑制に囚われているのがよくわかります。

こういう感情の切り捨て、割り切りということを続けていると、普通は精神疾患にかかります。感情というのは刺激に対する反応である場合が多く、それは言ってみれば「本当の自分」からの依頼書のようなものです。「今、あなた(つまり自分)は外部から刺激を受けています。それに対する反応として、これこれこういった感情が出来上がりました。では、この感情をあなた(つまり自分)にお渡ししますので、それに見合った行動を取ってください」という感じで、私たちは基本的には感情のままに行動すべきです。この感情の依頼書を無視し、理性的な判断などで別の行動を取ると、人は「ストレス」を感じます。社会的な節度を保つためには、感情を押し殺すことが必要な場面はあります。しかしながら、高度にシステマチックになった社会においては、よりその傾向が強まり、それ故に現代社会が「ストレス社会」と呼ばれるようになっているわけです。主人公の彼がどうしてそのように、自らを厳しく律する人間になったのか、その要因は明確には記述されていません。しかしながら、その徹底した自己抑制ぶりを見ていると、「これは精神衛生上よろしくないな」とは思ってしまいますね。

そして、そういった「ストレス」を溜め込みやすい性質であることに、主人公は無自覚です。なぜなら、そのストレスを溜め込むプロセスを無意識のうちにやってしまっているので。そういうプロセスを辿ることが彼にとって当たり前なので。

そういった彼の傾向を端的に表しているのが、「ゾンビ」のくだりですね。母校でのラグビー指導時に、彼は後輩に対して「自分は無感覚なゾンビだと思え」ということを熱く語ります。確か、彼が声高に自分の意見を述べるのは、ほとんどこのシーンだけだったように思います。その時には「ラグビー」という側面からのみ、「ゾンビたれ」という話をしているのですが、彼の生き方がまさに「ゾンビ」そのものであるように思われるわけです。そして、その無感覚なゾンビっぷりによって、彼が次第に(無自覚的に)追い込まれていくのが、この小説の主軸になっているように私は思いました。

 

3.主人公の行動指針

主人公の彼は無感覚なゾンビっぷりがある反面、一応行動指針のようなものは持っています。例えば、彼は筋トレや公務員試験に対して、非常に真摯に取り組んでいます。また、母校で後輩にラグビーを教えることにも熱心です。そんな彼の規範となっているのが、

・自分は公務員になるのだから正しくあるべきだ

ラグビーはスポーツなのだから勝てた方がよく、真剣に取り組むべきだ

・女性には優しくすべきだ(死んだ父の少ない教え)

というものです。また、彼はよく観察をして、自分の感情にも自覚的で、そして正義感のようなものも強いので、けっこう優しい心根を持っています。「みんなが幸せになればいい」と常々思っています。みんなが正しい行動を取ればみんなが幸せになれるのに、一部の人のだらしなさや身勝手さ、無配慮のせいで、不幸になる人がいる。あるいは、世の中にはどうしても理不尽な構造上の問題があって、みんなが幸せになるのは難しい。そういった見解を持っている節があります。

彼の言っていることや考えていることは、基本的には間違っていないと私も思います。でも、人間には感情というものがあって、全ての人が理想的な振舞をできるわけではありません。ましてや主人公の彼のような強い自制心というのは、そう簡単には身につきません。そして皮肉なことに、そういう強い自制心を持つ彼は、その自らの強い自制心によって追い込まれていき、最後には破局を迎えます。

確かに全員が自分の感情優先で行動するのではなく、他者や社会の期待に沿って行動し続けることで、世の中からはだいぶ理不尽なことは減って、みなが生きやすくなるように思われます。しかしながら、「では、みなが自分の感情を捨て去って、効率や効果だけを主眼に置いて模範的な行動を取り続けた場合、人間は幸せになれるのか」という問がなされたとしたら、結構悩むことになるのではないでしょうか。感情というのは理不尽で、時には人を傷つけ、人から何かを奪う事態を招きます。でも、結局のところ、感情が幸せを感じるのです。

主人公の持つそんなに多くはない行動指針は、大局的に見て「正しい」価値観のように思われます。しかし、言ってしまえばその「正しさ」にあぐらをかいて、「それさえ守っていれば良い」という彼の態度は、多くの場面で機能はするものの、やはりどうしたって細部では他人に苦しみを押し付け、また何よりも彼自身を檻の中に閉じ込めていると言えるでしょう。

主人公や優しい行動の取れる人間であることは間違いありません。また「みんなが幸せになれればいい」という彼の願いも、非常に崇高なものではあります。しかし、優しさや崇高さを隠れ蓑に、彼は自分の感情を蔑ろにしています。それどころか終盤では、彼の行動指針が実際にはあまり周囲からは奨励されていないのが明らかになり、結局のところ彼は他者の心や感情を見定め損ない、不和が生まれてしまっています。彼は無意識のうちに自分の「正しい」行動指針に甘えきってしまっており、様々なことに目を向けていなかったことが判明してしまいます。そして、最後の場面ではもはや自分の行く末にすら、目を背けてしまいます。

行動指針のようなものは人生を営むうえで重要なものであることは確かでしょう。しかしながら、その行動指針が目をくらませ、何か「それさえ守っていれば良い」という形骸的なものになってしまうと、それが人間を内から腐らせていってしまうのかもしれません。

 

4.様々な破局…一旦、事実確認

だいぶ抽象的な話を続けてしまいました。ネタバレにはなりますが、ここから本書の内容と先ほどまでの話を照らし合わせてみましょう。

まず、主人公は女性に対して優しくあれという死んだ父の唯一の教えをしっかりと守っています。だから、基本的には女性が望むように振舞い、自分の感情なんて奥にしまっておけばよいというような関わり方をしています。そういった彼の態度はこれまでも数多くの女性を惹きつけてきたようです。特に本書の多くを占める灯(あかり)との関係性では、次第にセックス依存症のようになっていく灯の欲求にどこまでも応え続ける主人公の姿が描かれています。トレーニングや食事、サプリメントなどで男性機能を向上させるという涙ぐましい努力までして、何とか彼女の性欲についていこうとしながらも、最終的にはもうついていけなくなり破局を迎える姿が事の顛末になっています。

反面、麻衣子はどちらかと言えば、主人公のように自制心が強く、厳しく自分を律するタイプだったので、割と上手く関係性を保てていました。が、麻衣子とはあまりセックスをする機会を得られず、主人公は満足できていません。しかし、「無理やりする」ことはレイプと一緒だという考えから、彼は麻衣子がシャワーを浴びている間に、自慰行為で性欲をひっそりと解消しています。どうすれば正解とかそういうことではありませんが、例えば生理でセックスができないにしても、「お願い」と手や口でしてもらう方法だってあったはずです。ここでも自分の感情は二の次で、女の子の都合を最優先させています。

麻衣子との破局の理由は明記されていません。単純に性生活のすれ違いとも取れるかもしれませんが、後半で既に主人公と別れている麻衣子はかなり抽象的で個人的な思い出話をします(小学生の頃に男に追い回された話)。その話を聞く限り、麻衣子はかなり複雑で感傷的な内面を持っていることがうかがい知れます。しかしながら、別れた麻衣子のその独白とも取れるような話に、主人公はこれと言って何の感慨も抱いていません。話を聞いての感想もなく、彼女が講義に間に合うかどうかを心配している始末です。恐らく主人公はそういう感傷的な部分というのを封じて、あくまで効率や効果を主眼に置いて生きて来た人間なので、「女とはそういうわけのわからない話を急にしだす生き物だ。そういう話をされても遮ったりせず、最後まで聞くのが男というものだ」というくらいの想いしかなかったのでしょう。案外、そういった主人公の淡白な部分が、麻衣子にとっては不満があったのかもしれません。

そして、麻衣子との一夜の浮気は、主人公が周囲の期待に飲み込まれやすい性質を示していると言えます。特に女性の期待には無意識のうちに応えてしまう(そこには幾分かの性的な欲求というのも含まれるでしょうが)。そういう傾向が、彼がなし崩し的にわかれた麻衣子と寝た理由になるでしょう。これはあくまで私の実体験というか、私の個人的な感覚になるんですが、自分の感情を蔑ろにしていると、色々なことが投げやりになってしまうんですよね。私は道端のフェンスにかけられた汚いビニール傘のような人間になりたいとよく考えていました。つまり、満たされている人からは必要とされないし、むしろ蔑まれるような人間でありながらも、急な雨に困った誰かにとって「汚いけど、あってよかった」と思われるような存在でありたいと思っていたわけです。私もまた女性に対しては、というか誰に対しても優しくしようと心掛けていました。自己犠牲、もちろん喜んで。でも、それって何も崇高な精神なんかではなく、ただ単に自分自身に価値を見いだせていなくて、投げやりに生きている証拠なんですよね。自分という存在になんの価値も見いだせない。でも、だからこそ、誰かの都合に絡めとられ、ただ乱暴に粗雑に必要とされてみたい。そんな気持ちで別に好きでもない女の子と付き合って、でも付き合ったからには愛情のようなものを向けて、それでいてほかに誰か自分を必要としてくれる人がいれば彼女の事なんか考えずどこにでもついていきました。何と言うか、この小説の主人公の浮気の場面はそういう自分を思い出しましたね。

そして、そんな主人公の投げやりな一面から齎された浮気のせいで、灯とも破局を迎えることになります。しかしそれとは別軸で、先に書いたように、こちらも麻衣子のときとは逆の意味合いで、性欲のレベルが釣り合わなくなってはいました。灯を満足させ切れないと主人公が悟った時点で、おそらくはもうダメになっていたと思います。灯の都合についていけなくなったわけですから、主人公は浮気がバレようがバレまいがいずれダメになっていたと思われます。だいたい、灯もこの性欲レベルの不一致を感じた時点で浮気の事を持ち出しているので、かなりずるいですよね。まぁ、それはとりあえずおいておきましょう。

あと大事な破局としては、ラグビー部の後輩の陰口ですね。コーチのような立場で、「スポーツなのだから勝って成果を出すこと。そのために努力を惜しまず、自らを追い込むことが自身の成長に繋がる」という信念を主人公は持っていました。そして、それを実現するために、やや厳し過ぎると捉えられてもおかしくない指導をしていたわけですが、当然ながらそのことに反感を持つ部員だっています。それは当たり前のことだと思うんですが、思いのほか主人公はそのことにショックを受けて、取り乱し、練習の帰り道で暴力的な一面を見せています。このことも、彼が自分の行動指針に囚われており、その行動指針を絶対的に正しいものとして改めることをせず、自らと(そして無意識的に)他人=部員に押し付けていることの描写になっています。結局のところ、彼は彼自身の正しさに則っているだけで、きちんと他人と腹を割って話せていないわけです。彼は彼なりの正しさを持っているわけですから、その正しさを理解し、「苦しいけど、ついていこうぜ」と思えない部員にも問題があるように思う部分もあります。が、やはり主人公が部員ときちんとコミュニケーションを取れていないから、部員の方にも不満が溜まっているのだと私は思います。「正しさ」だけでは割り切れない感情があるのですから、その感情に寄り添えてこその指導者、そして先輩だと私は思います。そういう意味で、主人公は自らの感情を切り捨てているが故に、そういった行動が取れていないのでしょう。

唯一、「膝」と呼ばれる彼の同級生の男の友人だけは、最後まで彼を大切な友人としてみなしていました。何と言うか、この小説の登場人物の中で、唯一好感が持てる人物だったように思います。主人公も主人公で、これまで書いてきたように色々と問題がありますが、でも基本的に私はこの主人公のことは愛しく思っています。確かに感情を割り切っているのは問題ですし、彼の独善的な行動指針には「んー、もうちょっと自分を顧みようよ」と思う部分もありました。しかし、大局的に見れば、やはり主人公の考えていることややろうとしていることは、結構正義感に満ちていているし、冷静で客観視もできているし、捉えようによっては思慮深く、不器用なりに他者を思いやろうという部分があって好きなんですよ。むしろ、彼のそういう美徳から、うまく自分だけの利益を引き出しているように見えるのが、麻衣子や灯、そして佐々木だと思うんですよね。だから、彼らの事はあまり好きになれなかったし、たぶん主人公も彼らの事はあんまり好きじゃなかったんじゃないかなと想像しています。ただ、投げやりで自分の価値を確信できていない、感情を切り捨てた彼にとって、彼という存在を少なからず必要としてくれる存在に彼は報いたかっただけだと、そう思います。しかし、「膝」は彼の「至らなさ」をある程度しっかりと認めたうえで、その「至らなさ」の上にある「美徳」を素晴らしいと言ってくれているような気がしました。それは「膝」の語り(手紙?)の中にある、『お前は規則正しい生活を送ってるし、酔っぱらって正気を失くすこととかもないから、たぶん公務員に向いてるよ』という言葉に隠されているような気がします。女の子とかと違って、「私に優しくしてくれるから」とかそういう自分にとっての都合を優先した理由ではなく、ただ単に自分の都合とは関係なく主人公のことを認めている言葉のように私には捉えられます。しかしながら、「膝」の『お前はどうして公務員になりたいんだっけな』という問には、主人公は結局答えることはありませんでした。そこにこの主人公の心の空虚さが表れているように思います。

 

追記

書こう、書こうと思いながらすっ飛ばしてしまいました。

主人公と灯が北海道旅行に行ったところで、主人公が涙を流すシーンが非常に印象的でした。「女性は体を冷やしてはいけない」という知識をもとに、彼は一人で自販機に暖かい飲み物を買いに行くのですが、どの自販機にも温かい飲み物は置いていない。そして、彼は灯に温かい飲み物を買ってやれないことを残念に思っていると、知らぬうちに涙を流してしまう…という場面です。

果たして主人公は本当に優しい人間なのか。

善意の行動が実を結ばず、それで気持ちが折れてしまうという、彼の非常に繊細な一面を示す場面のようにも取れます。が、そういうわけではなくて、多分この段階では既に彼が疲れ果てているということを示している「涙」のように私には思われます。涙を流しながら彼は自らの内に巣食う「悲しみ」に気づき、それがもうずっと続いていたということにも考えが及びます。しかしながら、彼はずっと様々な女性とともに過ごして来たし、苦労なく大学にも通い、肉体的にも優れている、という理由を並べ、「自分は悲しくなんかないはずだ」という結論を導き出します。この一連の知覚→認識のプロセスが、いかに「歪み」を含んでいるか。

認知行動療法という精神医学の療法があります。例えば、「会社に出社して先輩に挨拶をしたが無視された」という出来事があったとします。これに対して、精神的な負荷を感じやすい人は、「何か怒らせるようなことをしてしまったのではないか(不安)」というような認識を抱きやすいです。対して、「今日は機嫌悪いのだからそっとしておこう(私には関係ない)」や「気づかなかっただけだろう」という認識を持てる人は、精神的にタフで疲弊しにくいですね。このように事実=出来事を知覚したとき、どのような認識を持つかは千差万別であり、それには人によって一定の傾向があります。これを良い場合も悪い場合も「認知の歪み」と言います。「歪み」という言葉には否定的な意味合いが感じられるので、「認知の傾向」と言った方が正しいという人もいます。

本書の主人公は知覚したことに対して不安を感じるような認知の傾向はあまりないかもしれません。しかしながら、知覚に伴って湧き上がった感情を蔑ろにし、客観的な事実や世間一般論、自分の行動指針などを持ち出して、自分の感情を抑制したうえで行動を決める傾向があります。この「悲しみ」に関する自問自答もその傾向が強く表れており、結局彼は自分の感じた「悲しみ」が客観的事実に基づくと不適切であるという結論に至っています。

このような感情を蔑ろにし、空気というか自分と隔絶した何らかの指針に基づいて自分の行動を決め、同時に感情を思うようにコントロールしよう、いやしなければならないという彼の生き方は非常に苦しいものだと私は思います。それはじわじわと自らを腐らせていきますし、常に自分の感情が妥当なのかそうでないのかを気にするというのはとても疲れます。私もまたどちらかと言えば、そういう傾向が強く、お酒を飲んでいるときか完全に一人きりのときにしか、ほっと息をつくことができません。しかしながら、彼はお酒も飲まなければ、そういう自分の感情を感じるがままに発散する必要性すら感じていないように見受けられます。つまり、物心ついてからずっとその酷くキツい生き方を続けてきたわけです。たまたま彼が肉体的に、精神的にタフだったため、これまで何とかうまくやれていただけであって、本当は疲れ果て、傷つき続けてきたのではないでしょうか。

この自販機で温かい飲み物を買おうとするエピソードは、「涙」という心と体の「限界だ」というサインを彼が見逃す重要な場面と言えるでしょう。私も適応障害になってから、涙や頭痛、吐き気や眠気といった体のサインによく注意するようになりました。心の疲労は何らかの身体的な反応、サインを示してくれます。また、自分の感情というのにも自覚的になり、「苛々してる」とか「なんか悲しい」、「あぁ、疲れた」みたいなサインが出てきたら、よく休み、リフレッシュの時間を確保するようにしています。おそらく程度の差こそあれ無意識のうちにそれができる人がほとんどでしょうし、心身の体力ゲージに余裕がある人は多少無理をしても大丈夫です。しかしながら、自分ではなく、他者や社会やルールといったものを起点として自分の行動を抑制する傾向が強い、主人公や私のような人間にとっては、そういうことを自覚しながら意識的に生活を営む必要があります。

この自販機のエピソードの以降、終盤にかけて、彼は次第に自分の感情をコントロールできなくなってきます。特に「怒り」の感情ですね。「怒り」は「アンガーマネジメント」という言葉がある通り、感情に意識的にならなければコントロールが非常に難しい感情でもあります。疲弊した主人公はもはや自分の感情が妥当かどうかを検討するいつものプロセスを経るのが難しくなっており、その結果そういった検討プロセスをすっ飛ばして、怒りの感情に任せて暴力的な行動に走ってしまいます。部活後に陰口を聞き、その流れで電車で酔っ払いに絡むシーンや、灯にフラれてそれを追うシーンなどですね(こちらのシーンは「怒り」とはちょっと感情が違うのかもしれませんが)。

なので、大局的に見れば、自制心の強い主人公がその強すぎる自制心によって自分を傷つけ続けた結果、最後には自制できなくなるというのがおおまかな筋のお話と読み解けるでしょう。

ちなみに、愛すべき「膝」は彼とは対極的に、酒を飲んで自制なく、言いたいこと・失礼なことを言います。また自分のやりたいことを貫き通し、その結果、嫌われたり他者からくさされたり面倒な目に合っていますが、なんか生き生きとして見えますね。そういう対比構造もきちんと含められた非常に上品な小説と言えるでしょう。

5.総括

基本的に、私はこの小説の主人公にとても共感できます。私もまた彼のように、他人の都合に寄り添う事だけで生きて来た人間です。しかし、そのように生きているからこそ、とても苦しかったです。周囲に求められるがまま、テストで良い点を取って、褒められれば安心して、また満足もできました。でも、80点を取ったら、次は90点を周りは求めてきます。90点を取ったら次は100点。100点を取ったら、きっと「部活もがんばりなさい」とか「留学したらどう」とか、そういう他人の期待というのは際限がありません。そして、何よりもそうやって期待に応えることで安心する癖がついてしまうと、失望される時がより怖くなります。

でも、「期待に応える」ことはとても楽なことでもあるんです。それさえできていれば、他人は私を責めたりしないのです。だから自分らしい感性を大切にするだとか、感情の赴くままに振舞うというのは、全く必要のないもので、むしろ社会の中で悪目立ちをして非難される要因になってしまいます。周囲に馴染み、周囲が求めるように振舞う。私自身が何を目指さなくとも、自ずと周囲の人が私のやるべきことを決めてくれる。私はそういう目に見えない期待に応え続けていればそれでいい。そういう風にして生きてきました。

でも、結局、そんな心の無い生き方では好きになった女の子を正しく愛せもせず、彼女を失望させることになってしまいました。彼女に失望されて、私もまた自分に対して酷く失望しました。そこから立ち直る過程で、私は自分の感性を大切にしようと思うようになりましたが、自分の感性を大切にしたいという思いと、体に染みついた周囲の期待に応えようとする習性が常に戦うようになり、酷く苦しい年月を過ごしました。

私はこの小説の主人公ほど自制心が強いわけでもないし、肉体的に優れてもいません。ですが、「他人の都合で生きる」、「自分の感情を蔑ろにする」という点ではかなり共通の部分があるように思います。そのことで、私は長年苦しみ、1年半ほど前に適応障害を発症しました。つまり、自分を捨て去り、明らかに自分にとってしんどい環境に何とか適応しようと無理をしてしまったわけです。主人公が最後のシーンで頭痛や眩暈を訴えていますが、それは夜通し行われた無理な性交に疲弊していたからとも取れますが、私からしたら「遂に無理が祟って症状が出てきた」という風にも読み取れました。

主人公は肉体的に恵まれているので、最後はパニックとともに暴力的な傾向が表れたと思っていますが、私の場合は肉体的に貧弱なのでただいじけたようになり涙が止まりませんでした。ただ限界を超えたという意味では同じなんじゃないか、と。一番最後、警官に取り押さえられたところで、主人公はもはや自分という存在すら放擲しているような感じが窺えます。ただ空の美しさに射抜かれて、これから自分がどうなろうが知ったこっちゃない。そんな自分を見限った無責任さも物悲しいですが、何だかそこでようやくただ他人の期待に応え続けた自分というものを捨て去って、今は空の美しさに心を打たれているという忘我の境地に至れたのは救いでもあったのかもしれません。

願わくば、彼の忙しない思考が破綻し、心を取り戻す旅に向けた癒しの眠りが訪れますよう。

 

最後に…

何だか変なまとめ方になってしまいましたが、まぁ、「考察」ではなく、「感想」なので。酷く個人的な感想になってしまったのも良いではありませんか。それよりも、既に寝る予定の時刻を1時間も過ぎてしまっています。日中あんなに眠かったのに…これだから私は自制心がないと言われるのです。

でも、やりたいことをやる。それが何より大事です。周囲の期待に応えて、仕事を第一優先にしてちゃあ、やっぱりそっちの方が不健康なわけで。今から寝支度をすれば、それなりに睡眠時間も取れるはずでしょうし、そんなに大きな問題も無いはず。土日にしっかり寝ましょう。

破局』…さらっと読めましたが、どういう感想を持って良いのか難しい小説でしたね。ただ上にも書いた通り、小説の主人公の事はまるで昔の自分を見ているようで愛しくもなりましたし、それ故に同族嫌悪的な部分もありました。また、もし私が体を鍛えていたら、適応障害になったときに上司の事をぶん殴って、警察沙汰になっていたかもしれないと思うと、ちょっと笑えなかったですね。貧弱で良かったのかもしれません。

あと、同じく芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』や、最近読んだ今村夏子さんの『ピクニック』など、最近の小説は書き過ぎず、描写メインで読ませるというのが流行っているんですかね。個人的には後期のサリンジャー作品のように「書き過ぎでしょ、それは」くらいにインクでギトギトの文章の方が好きだったりします(初期のサリンジャー作品も描写多めで都会的と言われながら、どちらかと言えば直接的な言い方をしていないだけで、「これでもか!」というほどに書き込んではいるんですけどね)。大好きな村上春樹さんの作品も、淡々とした描写ではなく、そこには暗喩や見解、思索や苦悩が見て取れることが多いです。最近の流行りっぽい、淡々とした描写も色々と考察のしがいがあって楽しいんですが、なんか「この作品からあなたは何が読み取れますか?」と試されているようでちょっと居心地が悪いような気がしないでもない…みたいな。

いや、何でもありません。この『破局』もちゃんと面白かったし、それで充分です。ただ、個人的には最初から余白を意図して上品に書きまとめた作品だけでなく、「余白が無いくらいに書き詰めたけど、それでもまだ考える余地は沢山あるよね」というスタンスの作品にも出会いたいものです。ヱヴァンゲリヲンやミッドナイト・ゴスペルみたいにカロリー高めのやつです。二郎系、ニンニク、野菜マシマシ、みたいな。

良い読書体験ができると、また欲深くなってしまう自分の業を呪いながら、今日はもう寝ようと思います。久しぶりに長い文章を書きました。

それではおやすみなさい。