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音楽や小説など

宇佐美りん「推し、燃ゆ」感想

芥川賞受賞作である本作を遅ればせながら読みましたので、感想文を残しておこうと思います。

 

 

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推し、燃ゆ

 

作品購入の経緯

まず1つに現在「適応障害」という心の病気で休職しており、時間を若干持て余しているということと、生活ルーティーンを整える上で風呂上がりに読書タイムを設けていることなどから、全体的に読書欲が高まっているということがあります。

あまり多読家ではないので、本を買う時は結構な意気込みが必要なんですが、まずはそのハードルが下がっている時期というのが1つの大きな理由になっています。

そして、その上できっかけを作ってくれたのは、Juice=Juiceの松永里愛ちゃんという現在私が現役ハロプロメンバーで最も推している子です。ブログで「この本を読んだ!」と書いていたので、私も気になって読んでみました。なので、普段は別に芥川賞受賞作品だし読んでみようとか、そういう感じの人間ではないのです。私にとっては芥川賞受賞よりも、里愛ちゃんが読んだという事実の方が大きいのです。ちなみに、里愛ちゃんは2021年2月現在で中学3年生です。読書家で、独特の感性や人間性を持った子で、とっても良い子です。

と、そんな感じで「推し」が「推し、燃ゆ」を「推し」ていたので、これはもう読まざるを得ない感じになったわけですね。

 

あらすじ・概要

「推しが燃えた」という一文から始まる本書。主人公は社会にうまく馴染めない女子高生「あかり」で、彼女は「まざま座」という男女混合アイドルグループの「上野真幸」くんを熱烈に応援しています。彼女はおそらくは発達障害のようなものを抱えており、それによって居場所のようなものを見出せず、「推し=上野真幸」を応援することだけが生きがいになっています。

冒頭の一文から既に「推し」が問題を起こし、炎上したということがわかりますが、この「推し」の炎上の顛末で読ませるというよりは、基本的には主人公「あかり」との社会との関わり方が描かれる内容になっています。優れている点としては、おそらくは「あかり」が発達障害のようなものを抱えているのですが、明確に病名がつけられず、「ただなんとなく人と違う」というところに留めているところですね。恐らくは相当発達障害やその他の精神的な問題事例を勉強されたのでしょう。「あかり」の行動やものの感じ方は非常に自然な一人称で語られ、健康な一般人からしたら「異常」であると感じる部分も多いと思います。しかし、それでも「何となく理解はできる」という部分もあり、そのバランスが素晴らしいです。

なので繰り返しますが、あくまで「推し」というのは切り口であって、主題は発達障害や精神病となっています。

何年か前に「コンビニ人間」という小説も芥川賞を受賞していますが、あれと結構近いものを感じましたね。あれも「コンビニ」という切り口であり、「コンビニ」に纏わるあるあるが散りばめられていたり、「コンビニ」の特徴を切り取ったりしてはいるものの、主題はあくまで周囲と馴染めない感性や、脳の作りが普通とはちょっと違う人の苦難でありました。本作もまた「アイドルを推す」という実に現代的な切り口を持ちながらも、基本的には主人公の「あかり」が社会との接合で苦労する話です。

と、ざっくりとした内容はそんなところですかね。

ページ数、というか文字数もそんなに多くなく、非常に読みやすい小説でした。テーマもシンプルでありながらエッジが効いているので、なるほど「芥川賞」なんだなぁ、と思わされます。

 

読みどころ

アイドルとSNSによる救済

時代を切り取っているので、将来的に文化史を研究される方には重宝される作品になっているのではないでしょうか。「インスタライブ」などもそのまま単語として扱われており、その他SNSはそのサービスの実名まで上げられていないものの、明らかにLINEやTwitterなどと思しきものが自然に主人公たちの世界を取り囲んでいます。主人公の「あかり」も「推し」のブログを書いていたり、そういったSNSに囲まれている生活が克明に描かれています。

しかしながら、何もSNSに振り回される現代人を描きたいというわけではないと思います。

SNSは「あかり」にとって「推し」を介して他者と繋がれる場であり、自分のブログはそれなりに評価されていたりと現実世界よりはよっぽど居心地が良い場所になっています。しかしながら、「推し」が炎上することで、徐々にそこに対する居心地の悪さのようなものも感じるようにもなります。

「アイドル」という虚像に依存し、しかも自分の居場所がSNSというバーチャルなものであるというのが、「あかり」の居場所の無さを物語っており、これは家族や学校との不和ともリンクしていますね。このように、「アイドル」と「SNS」は実在性のなさ、つまりバーチャルという点で非常に類似しており、そういったものに縋るしかない「あかり」の現状を辛辣に描くための重要なアイテムとなっています。

要するに、「推し、燃ゆ」というタイトルは「アイドル、SNS」とも読み替えられるわけです。なので、ある意味ではこれがテーマとなっています。

が、上述の通り、問題の本質は「アイドル」でも「SNS」でもありません。「アイドル」も「SNS」もバーチャルなものとして、最終的には寄る辺のないものの象徴となりますが、しかしながら「あかり」にとっては救いでもありました。「あかり」の抱える問題を現実社会は全く理解してくれず、受容してくれず、そんななかで「アイドル」と「SNS」だけが彼女の居場所を作ってくれました。

そういう意味では、私は本作にとても共感することができました。推しのメンバーカラーに執着したり、推しのおかげで変な知識が身に着いたり、そういう「アイドルヲタク」としての細やかな共感も沢山あったのですが、それ以上に「寄る辺ない」という感覚が非常に共感できたのです。誰しも少しは社会との齟齬を感じているはずですし、「自分は特に社会と上手く付き合っていけない」と感じている人には、響く作品だと思います。私もまさに「アイドル」に救いを求めていますし、こうしてブログを書いている以上、ある程度はネットに居場所を見出そうともしているのでしょう。

 

発達障害精神疾患

これも非常に生々しい問題です。なぜ主人公の「あかり」はそんなにも社会と上手く付き合うことができず、「アイドル」や「SNS」と言ったバーチャルに救いを求めざるを得なかったのでしょう。

その答えは明確に病名のような形では出てきませんが、終始一人称で語られる「あかり」の見たり感じたりしている世界の様子から明らかに、発達障害精神疾患の気があることが伝わってきます。

どうしても漢字が覚えられない、というような形で小学生の頃から勉学に関するハンデを背負っていることが語られていますが、そのことについて家族や学校から理解を得ることができていません。ただ、正直言えば、ここはちょっと脚色が強いので、インスタライブなどが余裕で行われている現代とは少し時代観がずれているかもしれません。私も学生時代に塾講師をしていましたが、勉学に関するハンデを持つ子を受け持ったりしていたので、さすがに今の社会ではそういったものがより理解されうる状況にはなってきていると思います。しかしながら、彼女が社会と上手くいかない理由としては、非常に分かりやすいので、創作物としては非常に効果的な背景だと思います。

パニック障害うつ病という傾向も見て取れますし、それはおそらく発達障害のようなところから派生して生まれてきたものであることも容易に想像つきます。

問題はそんな彼女にはどうしようもない「傾向」を周囲のほとんど誰もが受け止めてあげられないというところにあります。そして、残念なことに彼女が自分の身を守り、生きる目的として据えている「推す」という行為が、さらに彼女を受容できないものとして社会から隔絶していきます。彼女はかなり偏執的に「推し」ているので、周囲からは「どうしてアイドルを応援する力はあるのに、社会活動を頑張れないんだ?」という反感を買ってしまうのです。

それによって、彼女はより社会に対して興味を失い、最後にはほとんど勘当されるような形で一人暮らしを始めるのですが、彼女にはもうまともに生活を営む力さえ残ってはいませんでした。

この段階まで来ると、確かに先天的な色々な理由はありますが、もはや「うつ病」的な無気力状態になっています。

私自身、現在「適応障害」という半分うつ病みたいな状態で会社をお休みしているので、とても共感できる部分がありました。「うつ病」には原因があります。それは人それぞれのものの感じ方や考え方、思考パターンや行動パターンが自他両者によって強制され、自己虐待的になることから始まっていくものだと私は思っています。自己虐待というと例えばリストカットなどを想像するかもしれませんが、もっと簡易的な所謂「自己否定」のようなものに近いと考えれば良いと思います。「自分なんて」と行動に自ら制約を設けたり、あるいは「自分はダメだからもっと頑張らなきゃ」とか、「自分にはこれしかない。だから、何とかそれを守らなければ」と自分の健康や気持ちを蔑ろにしていくところから「うつ病」が始まっていきます。

本作品の中ではその経緯はあまり明確に描かれていないものの、明らかに主人公の「あかり」の回りでは「あかりに対する受容」が欠落しており、そのような環境にあっては彼女が自らの存在価値を見出すことは難しい状況になっています。なので、「推しを推しているときだけが私でいられる」という感覚になるのでしょう。とても納得できますし、私も共感できる部分が大いにあります。

発達障害精神疾患について簡単にでも調べてみたことがある人は、「あぁ、うまく描いているなぁ」と思うでしょうし、逆にこれまでそういったことに興味を持ってこなかった人には、「こういう人も確かにいるんだ。そして、それは当人の力だけでは解決しようがないんだ」と感じて欲しいですね。周囲の理解がなければ、自分自身と向かい合うこともままならないのですよ、本当に。

 

文体

女子高生らしさ、アイドルヲタクらしさ、その他現代的な考え方や描写などが優れている一方で、非常に詩的な美しさも持っています。

私の「推し」である里愛ちゃんは「推しを背骨に喩えているのが面白かった」とブログで書いていましたが、そんな感じで非常に独特な表現も沢山現れてきます。また「ポテチの袋のぎざぎざの部分が足裏にあたる感触」など、描写する箇所も非常に面白いです。連続する描写の中でも視点がぐるぐると動き回るので、一瞬「え、これは何を言っているの?」と思う部分もありますが、その取り留めのなさもかなり詩的に感じられます。それが宇佐美りんさんの文体のなのか、それとも発達障害精神疾患を抱える人間の一人称視点として意図的に描かれたものなのかはわかりませんが(知りたければ宇佐美りんさんの他の作品も読めば良いわけです)。

インスタントのチキンラーメンの放置された様子を「色の抜けた麵の切れ端」という形で描写するところなんかは私はかなり好きになりましたね。その感性の鋭さや独特さがこの作品の質をより高めているように思います。

 

まとめ

「アイドル」と「SNS」のバーチャルという類似点。そして、発達障害精神疾患による居場所の無さ。それらの主題を彩る質の高い文体。これらを「読みどころ」として挙げさせていただきました。

では、この小説で何が言いたかったの?と聞かれると、それは何とも言い難いところがありますね。何か答を提示するようなところはなく、あくまで現代に起こり得る「現象」として書き連ねられているのが本書だという風に思います。

でも、私なりの解釈をするのであれば、最後のパラグラフで主人公の「あかり」は生活を取り戻す非常に小さな一歩を踏み出しています。「一歩を踏み出す」なんて書くと、とても前向きに聞こえますが、それはかなり「諦め」に満ちた一歩でした。このことから、ともかく色々と社会と上手くはいかないし、頼みの綱のバーチャルな存在も最早力を失っているけれど、それでも生命は続いていくんだという悲哀が感じられました。

私自身「適応障害」という「うつ病」みたいなものになり、そして自殺未遂をしでかしたりして、結構参ってしまっていたのですが、それでも死んでいない限りは生活というものがあって、生命は続いていくわけです。なんと面倒な…そして救いがない…と思うこともありますが、今はとりあえず何とかちょっとは前向きに暮らせているような気がします。

でも、その一歩って本当に小さなことからなんです。

私にとっては、部屋の明かりを点けることが一歩だったりしました。首吊りに失敗したとき、部屋に備え付けの物干し竿が壁から剥がれ落ちました。その壁紙の破片を拾おうと思うまでに、1週間くらいかかりました。

絶望し尽くした時に見えるものがあり、そこから踏み出す一歩があり、その踏み出した先にまた一歩がある。そんな感じで今はようやく復職に向けて出社訓練をするところまで漕ぎつけました。なんとかここまで来てみたものの、全く以って上手くやっていく自信は生まれません。またいつか壊れるんじゃないかという怖さもあります。

だから、きっと「あかり」もずっと困った立場にあり続けるとは思うのですが、でも誰しもそういうところってあるはずですし、そういう辛さを持っている人は思いのほか多いと思います。最近Twitterで「復職」と調べ、色んな人がうつ病からの復職で苦しんでいることを知りました。私だけではないし、病気をせずちゃんと働いている人だって、苦しい思いをしていることはたくさんあります。

でも、病気とかどうしようもないくらい弱ってしまうこともあります。また先天的なものでどうしようもないこともあります。私は自分で何となく「HSP」という、所謂「繊細さん」的な気質を持っているのではないかと考えているのですが、そういうどうしようもないものを抱えているんだと、病気をしてより強く実感するようになりました。

だからこそ、そういうことを知り、人に優しくしたいなと思うようになりました。

少なくとも私には「あかり」のような人を救いたいと思いますし、救えるような人になりたいとも思います。そして、同時に「私だったら救えるのに」とも思います。

したがって私なりの本書の解釈を言うのであれば、「これを読んで、知り、人に優しくなろう」ということになりましょうか。なんか「解釈」という体裁を成していない言葉になってしまいましたが、少なくとも私は「優しくなろう」と思いましたね。というか、同じような経験をしている私にとって、その苦しみがわかるからこそ、「やっぱり優しさが必要だよね」という再確認になりました。文学的な価値も色々とある本書ではありますが、そういうメッセージを受け取れたことが、この本を読んで私が1番良かったなと感じれたことでした。

 

最後に…

この本を読了する前日、私の推しているグループであるJuice=Juiceの高木紗友希ちゃんが、週刊誌による報道を受けて卒業しました。「辞める必要なんてないでしょ」みたいな意見が結構多く見受けられ、紗友希ちゃんに対する非難ではありませんが、それなりに燃えてはいたと思います。

イムリーに「推し、燃ゆ」な感じだったわけですが、実際の事務所側や本人の事情などはわからないですし、もし私たちファンの態度が彼女を卒業に追い込んだのだとすれば、やっぱり罪悪感のようなものを感じますね。でも、ハロプロは恋愛禁止と公言していないものの、やっぱり男女間の恋愛をあえて見せるということは奨励していない集団です。私たちファンは彼女たち個人の幸せを願ってはいるものの、ハロプロというものに対しては一貫して「可愛い女の子たちがきゃっきゃしながらも、真摯にパフォーマンスに向き合って、日々成長している」というを求めているような気がします。その「求めているもの」の中には「男女恋愛」というものは含まれていませんし、あえて持ち出してほしいトピックではないと思います。

そして、そのことはおそらく事務所側も紗友希ちゃん本人も理解している部分だとは思います。恋愛感情は人間にとって普通の感情ではありますが、でもハロプロで活動する以上、そういった恋愛のリアルな空気を持ち込まない方が良いであろうことは不文律としてあるのも事実です。それは一般的なサラリーマンが、未だにスーツを着て会社に通勤しているのと同じことです。時代遅れだろうがなんだろうが、社会からの信頼を得るためにスーツという形式が求められるケースというものはこれからも無くならないでしょうし、それと同じようにハロプロという世界観ではおそらく今後も恋愛が公に認められるものにはなかなかならないと思います。

だからこそ、事務所も紗友希ちゃんも卒業という道を選んだのだと思うしかありません。

※恋愛だけでなく、緊急事態宣言下での頻繁な外出という問題もそこには含まれていたでしょう。

せめて卒業コンサートくらいしてあげてもいいじゃないか、とも思います。紗友希ちゃんももう23歳だし、恋愛くらい良いじゃないか。だから、活動を続けてよ…とも思います。でも、なかなか難しいもので、どういう対処が正解かはわかりませんし、せめて言えるのは、報道の翌日には卒業が決まったということは、何らかの決断が確固たる信念のもと行われたということでしょう。

できればその決断にはあまり打算的なものはなく、ハロプロというブランドを守るために…という1点のみに絞って、紗友希ちゃん本人の強い意思があったうえでなされたものであって欲しいと思います。もし、そこに紗友希ちゃんの「ハロプロを守らなければ」という強い意思があったのだとすれば、私たちファンはその決断を受け止め、賞賛するよりほかありません。

彼女にそんな決断をさせてしまった罪悪感とともに…

 

と、そんなことをだらだらと書いて専用の記事にしているので、リンクを貼らせていただきます。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

彼女の人生が健やかなものであり続けることを願っております。