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「ミッドナイト・ゴスペル」感想 ~着想たちの理由、創作による自己救済~

話題の「ミッドナイト・ゴスペル」の感想文を書いてみました。

ただ、感想文と言っても、どこか評論めいて見えるし、解釈を間違っていたり、とてつもなく不足していたり、見当違いだったり、ということがあると思います。特に、「です・ます」調を使わず、しかもかなり独善的なものの見方をしているので、不快に思われる方も多々いらっしゃると思います(このブログを読んでくださる人が「多々」いるのであればということですが)。まずはそのことを最初に謝罪しておきます。

そのうえで、この感想文のコンセプト、というかルールを説明させていただきます。

 

①1話ずつ観て、1話ずつ感想を書く。

②極力巻き戻しはせず、1度きりの視聴を元に書く。

③私の作品理解と落とし込みの過程を「共有すること」を目的とする。

④観終わってから30分間は何も書かずに作品を振り返る(8話以外)。

⑤他の人の感想は見ない。

⑥一時停止して用語の意味を調べるのはOK。

 

という感じです。

①と②の理由は、この「ミッドナイト・ゴスペル」の作品としての密度の高さと、深さのせいで時間をかけても良いレビューにはできない、というところにあります。つまり、きちんと解説しようと思うと、専門書を何冊も読まなければならず、私にはそんな時間も能力もないため、「解説」は無理だと思いました。

故に、③で書いたように、私が作品を理解して、自らに落とし込むまでの過程をただ共有していただく目的で書いています。ただ、上述のように完全に理解して落とし込むには何十年とかかりそうなので、「1回観た段階で」という枷をつけさせていただきました。そうは言っても、観てすぐ書き始めたのでは、分析も理解も浅すぎて愚にもつかない内容になってしまいそうなので、④の通り、30分以上じっくり考える時間を設けました。なお、この「考える時間」の間にも作品を見返すことはちゃんとNGとしています。

⑤もまた、やり始めたらキリがないし、③のコンセプトにも反するので、あくまで自分の頭だけで考えるようにしました。

⑥はさせてもらわないと、話が全く理解できなくなる可能性があるので、最低限行いました。用語の意味だけでなく、それが何らかの思想であれば、その思想の基本的な背景やスタイル、手法などまで調べていますが、それらの調査に割く時間は5分程度に絞り、作品から感じる部分を優先させるよう気を配りました。

 

と、長々と前置きをさせていただきましたが、言いたいことをまとめると、「感じたり」「想ったり」したことを書いただけです。つまり、「感想」を書きました。

というわけで、第1話から始めていきます!

 

1話 ドリュー・ピンスキー

<薬物は人を救うか?>

当初の議題は「薬物の合法化」についてだったが、討論の中心は「真理を得るために薬物を使う」というところになっていく。「真理を得る」というのは、言わば「悟りを開く」みたいなもので、何か極限の状態を突破して幸福、平穏、トランス状態に達するようなことと考える。

ダンカンは「薬物」に対して、「瞑想」を対抗馬に掲げる。副作用のある「薬物」に頼るのではなく、自らの所作のみで同じ目標=真理に達することができる「瞑想」は有用であるとする。ドリューは「瞑想」の有用性を認めるも、「瞑想」という手法の高度さ故に容易には普及できないということを補足し、さらに「薬物」は悪ではないという意見を述べる。「薬物はそこに存在しているだけであり、その使い方やタイミング、場面で善悪が決められる」と意見をまとめる。つまり、包丁や車と同じだ。

話が前後するが、インタビューの途中では、「薬物を使うことで真理を得る」ことの問題点に「正気を保っていられない」ということが上げられ、この点を解消するために「瞑想」という手法が提示されていた。基本的には、その後「瞑想」の方法や効果を主軸にして議論が展開され、「薬物」が「瞑想」に勝る点は、議論上見出されない。しかしながら、アニメではゾンビ化して、死やその他の制約から解放される幸福についてメタファー的に描かれおり、これが「薬物」によって得られる幸福であるとして示唆されている。

明確な結論はなく、「薬物」を悪とはせず、かつそこに可能性は見出しつつも、現状「瞑想」という手法は「薬物」よりもリスクが少なく、有用であると示されて話は終わっている。

 

<詳説:瞑想について>

この詳説の目標は、「なぜ『瞑想』という手法が高度で、容易には普及できないのか」という問の答を、「瞑想がインテリ層向けの手法である」と説明することで、提示することである。と、同時に、「瞑想がもたらすものは何か?」ということを、より即物的に説明することを目標とする。

まず、「瞑想」の一手目を「禅問答」とする。「禅問答」とは、例えば「悪人は殺して良いか」というような明確な答えのない問である。自らをキリスト教徒と仮定して、「聖書に殺人はNGと書いてある」という現状の常識があるとする。この段階では「悪人を殺してはダメ」という考えが自分にあることになる。これを打破するために、例えば「悪人を生かすことで、その悪人が別の人を殺すとしたら、結果的にこの世界では『殺人』が増える」という考えを持ち出してみる。これによって「悪人は殺しても良い」と自分の意見がアップデートされる。さらに自問自答を続けて「悪人は殺さず、かつ悪人に殺させないよう、悪人を改心させる」と意見を出してみる。「まぁ、改心させてもいいけど、それは悪人を殺してはダメな理由にはなっていない」という反論が生まれる。「だいたい、何を以って悪人なのか?」「人を殺す人間を悪人とする」「不慮の事故で人を殺したら悪人か?」「不慮なら仕方ない」「居眠り運転で人を轢き殺した場合は?」「居眠りするのが悪い」「でも、会社の命令で睡眠不足で運転せざるを得なかった」「会社が悪い」「上司は死ぬべき?」「災害で会社の業績が落ちていたから、会社、ひいては社員を守るために無理をさせなくてはいけなかった」……「悪とは?」

という具合に、自問自答を繰り返していくことで、次第に多角的な物事の見方が身について来る。そして、疑問はより哲学的な、形而上学的な次元へと深化していく。

この過程について、個人的に思う最短ルートを示すが、「殺していよいか?」「そもそも、生とはなにか?」「自分はいま生きていると言えるのか?」「自分はいま存在していると説明できるか?」「少なくともこうやって思考はしているから、存在している」。これがまさにデカルトの「我思う、故に我あり」という有名な命題なわけだが、結局のところ、答えの出ない問を深堀していくと、そういった「自我」であるとか「存在」であるとか、「世界」や「現象」という話まで議論が飛躍していくことになる。

このような過程を何度も、様々な方向から繰り返すことで、次第に身の回りで起こっていることが些末なことのように思えてくる。言ってみれば、投げたコインが表であろうが、裏であろうが、自らが存在しているかどうか、という問の答は変わらない。つまり、「身の回りで起こることが、この世の真理には関係ないのだから、そんなことはどうでも良いではないか」と思えるようになってくる。この度合いを高めていくのが、すなわち「瞑想」である。

「我思う、故に我あり」と言うように、根源的なことを考えようとすると、足掛かりは自分という存在になってくる。しかし、自分の指が何本か、とかそういうことではなくて、例えば「自分がいま思考をしている。少なくとも思考というものが存在している。そして、その思考が行われている空間のようなものがある。身体という実態があるという感覚がある。眠い、という感覚もある…」という具合に、自分を種として世界の成り立ちに思いを馳せる。その瞬間はきっと、身の回りで起こっていることはただの「真理から波及した揺らぎ」でしかないと感じられるはずだ。

そして、このように世界の成り立ちに思いを馳せ、具体的な事象が些末であると思えているとき、自己と世界が一体であると感じるだろうし、全てのものが等価であり、故に平穏を勝ち取り、あらゆる事象を忘却したトランス状態にあるとも言える。簡単に言えば、「あぁ、もうどうでもいい」と雑念が追い払われた状態だ。

これが「瞑想」で得られる境地と言って良いだろう。

ただ、私だってこうやって書いていたって、心の底からそういう気持ちになれたことは決して多くないし、雑念が完全なゼロになれた瞬間なんてありはしない。よっぽど酒に酔っている時の方が、自我を忘却し、無の境地にいるとさえ思う。だからこそ、作中のように「薬物」と「瞑想」が比較され、議題となっているのだろう。

さて、こうして書き出してみたように、「瞑想」っていうのは、そう簡単にできることではない。論理的思考力や、その思考力を補助するための様々な知識が求められる。故に、「瞑想」という行為には、ある程度のインテリジェンスが必要となる。言葉を変えれば、知能を放棄するための知能とでも呼べば良いか。もし、何らかの自らの固定観念があるにもかかわらず、それを知能なしに放棄できる人間がいたとすれば、それはもはや「瞑想」の天才と言えるだろう。つまり、そんな才能に恵まれた運の良い人間か、あるいは知能に恵まれた運の良い人間にしか、「瞑想」なんて手法は効果を為さない。少なくとも、運の悪い私には無理だ。

というわけで、「詳説の目的」の答として、これまでの長い話をまとめる。

「瞑想」をすることで、身の回りの事象が些末なものに思え、幸福・平穏・トランス状態(=他に左右されない完全な自意識)のようなものを得ることができる。しかし、意図的にそのような状態まで持っていくためには、非常に高度な自問自答が必要であり、一般人にはそう簡単には達成できない。つまり、「瞑想」はインテリ層向けの手法ということだ。故に、容易に普及することは能わない。

本作の議題に還元すれば、「瞑想はムズイ。ただ、瞑想できれば副作用なしで、薬物使用時のような境地に至れる」ということになる。そのようにして、「瞑想ができない人のために、薬物もアリじゃないか」という発想が生まれる。

 

これを踏まえ、改めて作中の流れに合わせてまとめる。

 

①副作用の少ない薬物ができたんだから使っても良くない?

②そもそも薬物って何のために使ってるの?

③色々あるけど、所謂「悟りの境地」みたいなところに至りたくて、使う場合もあるよね。

④でも、「瞑想」すれば「薬物」よりも低いリスクでそれを獲得できるのでは。

⑤たしかにそうだけど、普通の人にはやっぱりムズイよ。

⑥じゃあ、「薬物」もアリかな……うーん……

 

これが議論の大まかな流れであり、特に③~⑤の内容説明=「瞑想」の仕組みや効能についてが、大きな要素となっている。今回の文章では、「詳説」として私なりの「瞑想」の方法について書き出し、「なぜムズイのか」という説明に力を入れた。

また、それはそれとして……一般的に「薬物」はその副作用から「悪」という見方をされているが、「薬物」はただ存在しているだけであって、使い方や状況によって「薬物使用者」が「悪」を働くという考え方こそが正当なのだ。そこを勘違いしてはいけない。と、ドリューは主張している。この主張があるからこそ、ただ「副作用が低減できた」というだけでなく、⑥の「薬物もナシではない(なぜなら、薬物は悪そのものではないから)」という話のオチに結びつくことになる。

 

<ゾンビ化について>

これは議論というよりは、本作の描き方に対するちょっとした感想である。

まずダンカンが訪れたドリューがいる世界はゾンビが蔓延る世界である。そこでは、ゾンビというものが恐れられ、人々は殺されたり、自分もゾンビになってしまうことを恐れている。そのような世界にあって、大統領役のドリューはゾンビを撃退し続けていくのだが、最後にはゾンビに噛まれ、自分もゾンビ化してしまう。しかし、実際にゾンビになって見ると、死の恐怖からも解放されるし、周囲のゾンビもすべて心優しい友に見え、幸福感に包まれる。

これは言うまでもなく、世間から疎まれる薬物の使用によって、不安や恐怖を脱し、幸福感を得るということのメタファーである。

こういうメタファーを駆使した高度な描き方を1話目で見せることで、このシリーズへの信頼度が一気に高まる。また、比較的わかりやすいメタファーを使うことで、以降の話も同じように映像が議題のメタファーとなっていることを示唆しているため、シリーズを見やすくもなっている。

すごいなぁ、の一言しか出ない。

 

2話 A・ラモット R・マーカス

<死の苦痛からの解放>

身の回りの多くの死や、自らの病からもたらされる不安や苦痛をいかにして乗り越えてきたか。それが本作の議題となっている。序盤では大まかに、ただ「受容」することが重要であると主張されているが、次第にキリスト教がいかにして不安や苦痛から私たちを解放してくれるのかということの説明となっていく。

結論としては、キリストが不安や苦痛を乗り越えたのだから、私たちもそれを見習って不安や苦痛を乗り越えることができる、ということが語られる。キリストのように大きな愛を持つことによって、死の苦痛から解放され、真に自由な人生を歩むことが可能になる。アニメ映像ではあらゆる痛みが描かれるが、そのような思考を手に入れたラモットたちは苦痛に顔を歪めることもなく淡々と議論を交わし、自らがその思考の実践者であることを示すように表現がなされている。

ただ、「キリストをお手本に」と簡単に言うけれど、そのような境地に辿り着くためのプロセスをきちんと追っていかなければ納得もできず、ただの着想で終わってしまうので、以下でその論の深堀をしていこうと思う。

 

<詳説:キリストへの信奉>

「キリストをお手本に」という論を成立させるためには、前提として、キリストに対する信頼、親愛がなければならない。つまり、自らの道しるべとしてキリストが機能しているということを仮定しなければ、とりあえず議論は進んでいかない。なぜならば、キリストと自らの比較・同化こそが不安や苦痛を消し去る(受容する)ための具体的な手法なのだから。ただ、私はキリスト教徒ではないので、確かなことは言えない。よって、ここでは宗教としてのキリスト教ではなく、単純に「Cという名の尊敬すべき偉人」が私たちのお手本としているという場合を想定する。

Cのざっとした人生の略歴を著すと、身近な人間に裏切られ、十字架に磔られ、死んだ、ということになる。そこには裏切られたことによる精神的な苦痛や、十字架に磔られたことによる肉体的な苦痛が多分にあったことは間違いない。しかし、Cはそのような痛みを耐え、自らがそのような状況に追い込まれたことに対して、怒りや憎しみを覚えることなく、全てを赦し、受け入れ、死んでいった。そうして、確かにCは一度死んだわけだが、生き返り、生き返った後も死ぬ前同様、あらゆる人々のために生きていった。このような在り方を私たちは尊敬すべきであり、お手本にして生きていくべきだ。

というわけで、まず、私たちにいかなる不安や苦痛があったとしても、私たちが尊敬すべきCはもっと苦しい状況を耐え抜いているのだから、それを見習わなくてはならない。そして、Cは最終的にはそんな多大なる苦痛の中で死んでいったにもかかわらず、何をも恨むことなく周囲を愛し続けていた。この点も私たちは見習うべきである。つまり、この世界で最も苦しんだCを想えばこそ、私たちもまたいかなる苦しみをも乗り越えることができる。その事実が私たちを苦痛から解放してくれる。このような考え方をラモットは推奨している。

アニメ映像は、薬を打たれたり、切り刻まれたり、すり潰されたり、痛みを象徴するシーンばかりで構成されている(鹿の角にダンカンは突き刺されたままになっているが、これは当然、磔刑を意識したものであろう)。しかしながら、議論を進める登場人物は特に痛みを感じている様子もなく、淡々と苦痛からの解放について喋っているので、「どのようにして苦痛を乗り越えるのか」という議論にも説得力が生まれてくる。

基本的には上述の通り、Cを見習って苦痛を受け入れ、全てを赦すことが、唯一苦痛を乗り越える術であるという論がなされている。そうすれば、Cのように苦痛に塗れて死んでいくことすら怖ろしくはなくなる。

このことを1つの論として自明のこととする。

しかし、不安や苦痛を乗り越えるメソッドとしてはまだ不十分だ。というのも、そもそもの前提として掲げていたように、この論を受け入れるためには私たちは心からCのことを崇拝していなければならない。自分の愛する対象が苦難を乗り越えているからこそ、私たちもまたそれに準じて苦難を乗り越えようと想えるわけで、逆に言えば、尊敬に値しない不遇な罪人が電気椅子で殺されたからと言って私たちはその罪人の苦痛を想い、自らも苦痛を乗り越えられるとは考えない。考え方によっては、むしろその罪人の苦痛が自らにも降りかかるのではないかとより恐怖を大きくしてしまうことだってあるだろう。

では、どのようにして私たちはCを崇拝することができるのだろうか。この問の答は本作の中では得ることが難しい。ラモットは自らの人生において様々な苦痛があり、ずっとそれを受け入れることができずにいたとは語っており、そこから抜け出す過程でCから多くを学んだとしているものの、Cの崇拝に行きついた理由は明確には語られていない。しかし、Cの素晴らしい点として1つの言葉を引用している。それは、「たとえあなた1人しか存在していなくても、私はあなた1人のために同じだけの苦痛を被り、死んで行ける」というCの言葉だ。そのような大きな自己犠牲の心を持つCはやはり尊敬に値するし、そのような大きな愛の庇護のもとにあると教えられれば、その愛の主を孤独な私たちはやはり感謝せずにはいられないだろう。それが、私たちがCを崇拝し、Cを見習おうと思える理由となっている。

少しだけ、私個人のアーカイブに則って話させてもらうが、J.D.サリンジャーの「フラニーとズーイ」という小説の中で、ズーイは「宗教の目的は神と同じ意識を得ることにある」としている。この言葉はこれまでの議論を端的にまとめていると私は思う。

これで議論の主たるところは説明したはずだ。作中には別の議題として「そもそも苦痛から解放されるべきか」というものもある。得てして芸術家のような存在は、よりエキセントリックな作品を作り上げるために、苦痛を取り除くことなく、むしろ苦痛に塗れている方が良いのではないかと考えがちだ。ラモットは、その考えについては否定的であり、「むしろ苦痛に捕らわれている方が、不自由ではないか」としている。しかし、自信が芸術家として身を為すまでは、やはり苦痛に囚われていたこともあり、「後から考えれば、ということだけれど」という留保も含まれてはいた。

 

議論の展開をまとめるとすれば、

 

①苦痛の多い人生だった。

②苦痛は芸術に必要か?

③苦痛から解放されてこそ真の自由であり、そこを目指す方が得だろう。

④では、どのようにして苦痛から解放されたか。

⑤キリストは様々な苦痛を乗り越えた。

⑥キリストは苦痛の中でも全てを赦し、受け入れ、愛を失わなかった崇拝すべき存在だ。

⑦そのような存在を想えばこそ、私たちもまたキリストのように苦痛を乗り越えることができる。

 

ということになろう。

 

3話 ダミアン・エコールズ

<魔術の正体>

本作はこれまでの2作と異なり、ほとんど対話形式の議論とは呼べず、本来のインタビューという形式にかなり近い。すなわち、ダミアンの意見が主たる部分であり、インタビュアーであるダンカンは彼の半生を持ち出すことで、ダミアンが己の考えを喋りやすい状況を作ることに注力している。互いの意見を戦わせる議論になっていないため、内容は非常にわかりやすく、ここではダミアンの考えをまとめ直すことしかできない。

なお、そうは言っても本作のコアは「シニカル」にこそある。ダミアンという主題をいかにシニカルに描いているか、ということを考えることが本作の楽しみ方にあるとは思うが、しかし、まずはダミアンの主張をまとめてみたい。

簡単にまとめれば、ダミアンの言いたいことは、自分は魔術に救われ、その魔術の偉大さをより広めたいと考えている、ということだ。前半は理性的に、そして謙虚に、まず自らが魔術に惹かれた理由を、東洋の仏教などよりも魔術の方がより西洋的でアーカンソーで生まれた自分には馴染みがあるものだ、という風に説明している。魔術の目的は基本的に東洋仏教などと同じように、瞑想し悟りを得て、苦難に打ち勝つということにあるとダミアンは主張している。さらに、東洋仏教が輪廻を繰り返すことで悟りに近づく、という考え方であるのに対して、魔術は自らの1回きりの人生の中で悟りを開く方法について記述していると、その有用性を示している。

そもそもダミアンが「悟りを開こう」と思った理由は、作中では詳しく説明されていないが、冤罪で刑務所に入れられて酷い目にあった自らを慰めるためというところになろう。ダミアンは魔術を学ぶことで、あらゆる苦難をポジティブに受け止め、自らの成長へと繋げられたと自己の体験談を語る。魔術は自らの人生の目的であり、悟りを開き、さらにその先の死後の魂の在り方についてまでダミアンは語るが、その段になっていくともはやインタビュアーであるダンカンの理解は追い付かなくなり、ダミアンの演説にダンカンは引きずり回されることになる。

 

<シニカルな描写>

最初、ダミアンは口数も少なく、とても落ち着いているように描かれている。魔術についても、歴史や東洋仏教との比較を持ち出し、かなり理性的に語られている。しかし、時々話は脱線し、例えば「口伝」という手法の弁護をダミアンは始める。これはダミアンが刑務所で師と仰ぐ人物から「口伝」によって魔術を学んだことに起因するのではないかと、全くの予備知識がない私は考えている。つまり、魔術というものは「体系化されていない理論」であるという負い目がダミアンにはあると思われる。それを払拭するために、「口伝」の正当性や有用性を長々とダミアンは説明し始める。この辺りで、最初のダミアンの冷静で客観的な語り口もまた、彼の「魔術信仰への負い目」から来る「言い訳」でしかないのではないか、という疑念が生まれてくる。ダンカンもそれを心得ているのか、自らの意見をダミアンにぶつけるのではなく、彼の考えを補足する質問を投げることを自らの役割としている。

ダミアンは努めて冷静に、客観的に魔術の素晴らしさを説明しようとしているが、インタビュアーであるダンカンが求めるものはそういった表層的な物事ではなく、よりダミアン自身と密接に結びついた意見である。故に、ダンカンはタイミングを見て、ダミアンの半生について触れ、彼のよりリアルな言葉を引き出そうとしていく。そして、そんなダンカンのペースに次第に飲み込まれ、ダミアンは少しずつ自分の主張に熱を入れ始めていく。

作中では、何度も「馬鹿笑い」が挿入されている。よく「高慢な成功者が、独善的なジョークをかまし、自ら高笑いをして、周囲もそれに合わせて愛想笑いしている」という映像を見ることがあると思う。それと同じような効果が、この「馬鹿笑い」にはあると思われる。ダンカンはダミアンと同じ温度感で「馬鹿笑い」をしているように見えるが、1話目、2話目を見ていれば、それがダンカンの「取り繕い」に過ぎないことは何となくわかるはずだ。ダンカンはそんなことで笑うような人間ではなさそうだし、そういう笑い方もしなそうである。

ただそのような「馬鹿笑い」を通じて、ダミアンはダンカンとよりわかり合えていると感じたのか、当初の客観性を少しずつ脱ぎ捨て、自らの主張に熱を入れていく。自分が苦難を乗り越えてきたことを誇らしげに話し、その中心には魔術があったことを説明する。そして、魔術の目的が「悟りを開くこと」、すなわち「苦難を乗り越えること」を超えて、「第2の死」のようなかなりスピリチュアルな話へと進んでいく。この辺りから、インタビュアーであるダンカンはほとんど何も喋らなくなり、ダミアンが一方的に自らの考えを喋るような展開へとスライドしていく。このことはすなわち、ダンカンがもはやダミアンの意見を理解できない段階になっていることを描写していると言える。

そして、そのまま話は同じ事件で冤罪逮捕された仲間であるバリーとダミアンが喧嘩するシーンへと進んでいく。女を取った、取られたという、それまでの高尚でスピリチュアルな話題とは打って変わって、ひどく即物的な内容だ。あえてこのような描写をしていることからも、ダンカンはダミアンに対してほとんど敬意など持ってはいないことが伺える。1話、2話では比較的お互いがお互いの議論に対してある程度の満足を得て、何か着地点と呼べそうなところを見出してから、インタビューが終わるが、この3話に関してはほとんど逃げるようにして、ダンカンはインタビューを引き上げている。

個人的な感想としては、ダミアンの魔術に対する見解にも面白味を感じたが、どちらかと言えばやはり、このシニカルな描写の仕方の緻密さにこそ本作の面白味が凝縮されているように感じた。

 

4話 トゥルーディ・グッドマン

<ストーリー構成>

本作では、「聴く」ということがマインドフルネスの基礎であることを説き、そのままマインドフルネスの入門書のような役割を担っている。ストーリーに関してはトゥルーディがどのようにして「マインドフルネス」という手法に辿り着いたか、というところを主軸に進められ、終盤にかけては「マインドフルネス」がもたらすものについて、ダンカンとの対話の中で語られていく。したがって、議論は時系列に沿って、段階を踏むように語られるため、比較的わかりやすく、エピソードとして追っていくことができる。故に、ここでも基本的にはそのエピソードをなぞるような形でまとめ直す。なお、私はマインドフルネスに精通しているわけでもなく、ネットの記事をいくつか読んで本作と照らし合わせただけであるため、その意味を正確に捉え、言葉にはできないと思われる。が、それでも禅や瞑想といった物事の基本的な知識は何となく頭の中にあるため、大まかなところは理解できた。

人が何かを獲得する、あるいは何かに到達するためには他者のサポートが必要である。特に、人は対話の中で相手を救う、あるいは救う手段を見つけることができる。だから、困ったときは孤独になるのではなく、周囲に人を探すことが重要である。そして、そうやって他者と救い合うためには、「聴く」ということが重要となると説く。「聴く」という技術の向上を促すのが、マインドフルネスという手法であり、それに精通してくると、より高次元の神秘的な世界が見えて来る。つまり、世界を「聴く」ことができるようになるのである。これが議論の展開である。

 

<詳説:マインドフルネスに至るまで。そして、辿り着くところ>

まず、ダンカンはならず者が集まる酒場に不時着することになるのだが、そこでは何人かにインタビューを試みるものの、なかなか話を聞いてもらえない。これまでは最初に出会った相手にインタビューを試みていることから、この「聞いてもらえない」という演出が後のマインドフルネスの説明において、1つのフックとなっていることが想像できる。何人目かにダンカンが話しかけた相手はダンカンの無礼に怒り、ダンカンを殺そうとするが、それをトゥルーディが助けたことからインタビューが始まっていく。

トゥルーディはまず自らの身の上話として、愛するものが殺されたことをダンカンに話す。殺した相手を許すのは難しいが、怒りは自らの身を滅ぼすため、許せるようにならなくてはならない。しかし、そういった困難なことを成し遂げるには、他者のサポートが必要になると話す。ダンカンもそれに対して、「懸垂の棒」という例え話を持ち出す。つまり、「懸垂なんて無理」と思うが、先生に助けてもらいながら訓練することで徐々にできるようになった、という過去のエピソードを話すことで、トゥルーディの説明を補足する。他者の存在の大切さに気付いたトゥルーディは、自らと同じような孤独な人々が集まり、互いを癒す場を作ることを始めた。最初は立派な組織を作るのではなく、身の回りの人間を集めて個人的な集会のようなものであったが、それが次第に大きなものになっていったそうだ。その話を受け、ダンカンは自らの友人も似たような境遇にあった、と経験談を語る。その友人の身近なところには、彼を癒してやれる存在はいなかった。しかしながら、その友人は自らの苦しみを素直に受け入れ、ダンカンを頼ってくれた。彼が自分1人で抱え込むことなく、自分に助けを求めてくれたのは幸運だった、とダンカンは語る。しかし、トゥルーディは「運だけの話ではない」とダンカンを諭す。ダンカンがきちんと聴く耳を持っていたことが重要だった。話を聴いてもらいたい人間は、話を聴いてくれそうな相手かどうかを敏感に見分ける。トゥルーディはそう言い、ダンカンを褒める。なお、3話目とは異なり、ダンカンが自らのエピソードをトゥルーディに話し、それについての意見を求めていることから、彼が彼女に対してそれなりの敬意を感じていることが伺える。

トゥルーディはダンカンの取った「聴く」という行動を賞賛するが、ダンカンは「自分は聴くのが下手だ」とその賞賛を否定する。彼はとある人間に自らの趣味の話をまくしたてるように喋ってしまったが、悪いことにその相手はその数日後に交通事故で死んでしまった。残り少なかったその相手の時間を自分の退屈な話で無為にしてしまったことを悔やみ、ダンカンは自らの聴く力のなさをトゥルーディに言って聞かせる。そして、「もし彼がもうじき死んでしまうとわかっていたら、そんなつまらない話なんてせず、もっと上手く相手の話を聴けたはずだ」とダンカンは自らの後悔を話す。

トゥルーディはその見解に賛同し、末期患者はより様々なことに対して敏感であり、身の回りの事象を「知覚すること」、すなわち「聴くこと」に貪欲であると説明する。いかに死に対してリアリティを持てるかということが、「聴く」技術を熟練させるうえで重要なファクターであるかと考えを述べる。

ダンカンは聴くことの難しさについてトゥルーディに意見を求める。相手の話を聴いているつもりになっても、色々な雑念が沸いて、実のところちゃんと相手の話を自らに落とし込めておらず、何だったら結論を聴き逃すというようなことも多い、とダンカンは打ち明ける。そして、「聴く練習をしなくちゃならない」とダンカンは意見を表明するが、その「聴く練習」という言葉に対して、トゥルーディは強い共感を覚える。

この「死に対してリアリティを持つ」ということと、「聴く練習」ということについて、議論上のつながりはあまり見られず、話が飛んでいるように感じられた。しかも、「聴く練習」の一般解として「瞑想」が上げられ、ダンカンは「死の実感こそが瞑想と聞く」と言うが、それをトゥルーディが「いいえ。生の実感こそが瞑想」と答えるので、また話はややこしくなりそうである。しかし、こういったことは結局言葉の上での問題でしかなく、これらの議論の要旨はあくまで、「聴く技術を磨く方法」として「マインドフルネス」を持ち出すための「フリ」であるということだ。

私が調べたところによると、マインドフルネスとは「いまの自らの状態を知覚すること」と簡単にまとめられそうだ。具体的には、自分が息を吸い込み、胸が膨らむという身体的変化を、実際に言葉にしてみるなどの方法があるらしい。息を吐き出して、胸が萎んでいけば、「萎む」と口にする。雑念が混じったと思ったら、「雑念」と口にする。そうやって、「自分の現在」を知覚し、認識することで余計な不安や苦痛を追い払い、精神を落ち着かせ、同時に集中させていくというのがマインドフルネスという手法らしい。

作中では、「自分の精神の揺らぎを感じる」というような言葉で語られていたと思う。特に、話を戻せば、「相手の話を聴くのは難しい」というダンカンの意見に対して、トゥルーディは「相手の話を聴くのではなく、相手の話に対して自分の意識がどう反応するか、ということに聴き耳を立てるのだ」と答えている。だからこそ、「聴く練習」というのはすなわち「マインドフルネス」を行うことにほかならない。

これを高度に実行できるようになると、すなわち、末期患者と同じように、この世界全般をより敏感に知覚することができるようになる。ダンカンは「吸い込んだ空気と一体となる」のようなことを言うが、これはつまるところ、「自分が息を吸い込んだ」という現在に対して自らの意思の揺らめきを感じるということだ。これを拡張していくことで、「宇宙を感じる」という感覚さえ得られると、ダンカンは語る。そして、トゥルーディはその言葉に賛同し、優しく頷く。

話の展開を整理すると、

 

①苦しみを乗り越えるためには他者の存在は大切

②他者と癒し合うためには、「聴く力」を向上させなくてはならない

③「聴く力」を磨くには、死=生=今を知覚することが重要

④「今の知覚」とは「マインドフルネス」の要旨である

⑤マインドフルネスに精通してくると、「今」=「宇宙」を知覚できるようにさえなる

 

と、やや当初の目的と最後に得られる結果が結びついていないように思うが、議論の展開としてはなかなか面白い。他者を救うために「聴く力」を磨くわけだが、その過程で自らはまた個人で自らの精神をより高次に押し上げる力を磨くことに繋がる。マインドフルネスなり、瞑想なり、そういったものはあくまで「自己鍛錬」という文脈で取り上げられることが多いが、「他者の救済」がその「自己鍛錬」の出発点になっていることに、本作の面白味が隠されているように思う。

 

5話 ジェイソン・ルーヴ

<解脱について説く>

まだ5話目だが、これは素直に凄いと認めざるを得ない。エソテリック・トラップ(=難解な罠)とあるように、非常に難解でもある。この文章は1回目の視聴を経て、あとは記憶を頼りにその作品の解釈を行うということをルールにして書いているが、今回ばかりは何度か巻き戻しをしてしまった(1度視聴し終わってから、もう1度見なおしたわけではないから許してください……)。

個人的な感覚としては、「悟り」という言葉よりも「解脱」という言葉の方が近いように思う。本作は「解脱」について、その「解脱」という所業の世界観を現代的に描きなおすことが主軸にあるように思われた。

ただその「解脱」について説明する、その語り口や結論に近い部分はどうも「カルト臭い」。ジェイソンの語る内容1つひとつは個人的にあまり間違っていないと感じるし、ダンカンもまた面白味を見出しているように思う。しかし、そこには「E=mc^2」という偉大な式をただの「原子爆弾の破壊力計算」とだけ捉え、語り、人々の心を惑わすようなニュアンスを感じる。自分の家に戻って来たダンカンが最終的に口にするのは「カルトだな」というセリフだが、そういった文章の組み換えはまさにカルト的だ。

 

<詳説:ジェイソンの提示する世界観>

まず大前提として、世界は単一の存在であるということがある。そこには時空間や個といったものは存在しない。時空間の中で、個を保ちながら生きている私たちからしたら、その「単一の存在」というものは、我々とその過去・現在・未来を含めた「総体」という見方をするとイメージしやすいだろう。その「総体」こそがオリジナルであり、全てであり、真実であり、本来であればその「総体」しか存在していないという世界観をまずは思い浮かべる必要がある。

そして、その「総体」の1つの側面、つまり1つの「現れ」が私という個でしかないのだと理解し、さらにその「現れ」というものが存在してはならない(なぜなら、「総体」は単一の存在であり、個や「現れ」なんて副産物みたいなものは認められない)というルールを受け入れることが、すなわち「解脱」となる。私なりにわかりやすく言えば(そして、アニメ映像で示唆されているように)、「私」という存在は、複数の「細胞」、より詳細に言えば「原子」から構成されている。しかし、それはあくまで「私の肉体」が「細胞」から構成されているのであって、「私」という存在を定義しているのは「細胞」ではない。もっと俗に言うのであれば、「私の魂」は「細胞」によって構成されているのではなく、ただ「私の魂」という単一の存在としてそこにある。この話において、「私の魂」を「総体」に置き換え、「細胞」を「私」や「個」や「現れ」という言葉に置き換えることで、当初の世界観を理解することができるようになると思う。

この世界観について、まずメジャー宗教を取り上げて説明している。「総体」が「網」であり、「現れ」を「結び目」とするような見方だ。ただ、やはりそのような説明ではイメージがしづらいため、VR(日本語的にはただ『バーチャル』とした方がわかりが良いかも)やゲームなどの喩えが本作では主に持ち出されている。と同時に、そういった喩えを持ち出すことで世界観はややチープになり、極端なニュアンスが付与されていく。

「総体」と「現れ」の関係性は、「現実」と「バーチャル」という関係に置き換えられる。勘違いをしないようはっきり言っておくが、私たちが受け入れるのに苦労する「総体」の方が「現実」であり、いま現在「現れ」という次元の中で私たちが活動する世界を「バーチャル」としているのである。「総体こそが真理である」というのがその前提として考えられている。ここから思考をスタートすることで、ただの「総体」の「現れ」でしかない私たちが生きる世界はバーチャル・リアリティ=仮想現実でしかなく、いわば私たちはそんな仮想現実におけるゲームを楽しんでいるのに過ぎない、という着想をジェイソンは説明している。

注意点としては、その「ゲーム」に喩えた世界観は虚無主義ニヒリズムではなく、非実在主義である、とジェイソンは語る。ただ、そのように端的に言い表していながらも、その2つの主義について明確な線引きが為されることはない。むしろ、最終的には「絶望=ホープレス」という言葉を多用する中で、虚無主義と近いニュアンスさえしてくるのだけれど、まぁ、これは本論の最後のネタバレのところで私の考えを詳しくまとめようと思う。

さて、このようにしてジェイソンは「この世界がバーチャル」であるという前提を作り上げた。そして、次は教科書通り、そのような世界の歩き方を説き始める。

そこで非常に重要な役割を担っているのが、本作のアニメによるメタファーだ。ダンカンは「アバターの刑務所」なる惑星に飛んできたわけだが、そこでは「ボブ」という人格をジェイソンとともに追体験し、観察するという立場に置かれることになる。ボブはこの世界において迷える1人の一般人のメタファーとして役割を与えられている。牢に閉じ込められたボブはまず同房の相手と喧嘩をして、結果的に看守に殺される。そして、死に際して何らかの超越的な存在から、その魂の価値を測られる。ボブの魂(≒罪)と、ジェイソン扮する鳥の羽が天秤にかけられ、ボブの魂(≒罪)の方が重く、再び生をやり直させられる。生まれ直したボブは再び同房の相手と喧嘩をしたり、脱獄を企てたり、するのだが毎回命を落とし、その度に自らの魂の重さを測られ、生まれ直す羽目になる。この「繰り返し」をあえて「輪廻」とは呼ばず、むしろ記憶を頼りに傾向と対策を考え、少しずつ脱獄という目標へと近づいていくストーリーにしていることが、ジェイソンの提唱する「ゲーム」という世界観とうまく付随している。つまり、何度もセーブポイントに戻ってやり直しを行っているような感覚にさせられるのだ。

このボブのストーリーを見ていると、「怒り」や「殺意」、「敵意」のようなものが最終的には、魂の審判において重要視されているのではないかと悟らされる。つまり、そういった負の感情が少ない場合には、天秤は少ししか振れず(結局はボブの魂の方が羽よりも重く、やり直しをさせられるのだが)、このことからボブはそのような負の感情が「悪」なのだと感じるようになってくる。しかし、何度も何度も繰り返しを強要させられることに苦痛を感じるようになり、ボブは泣き出す。

この状態を観察しながら、ジェイソンはこの「繰り返し」の牢獄からどのように抜け出せば良いのか、自らの「ゲーム」という世界観に沿って、ダンカンに説明して聴かせる。

この世はゲームにしか過ぎない。しかし、ある意味では、人間というのはその「ゲーム」というものを求めているのだ。大昔から人間は神秘的なものに憧れて、その非現実的な空想の世界で自らの喜びを満たして来た。今は、それがVRゴーグルに代わっただけだ。しかし、よくよく考えて見れば、そんなゴーグルなんて使わなくたって、私たちが生きているこの世界はただの非実在的な「ゲーム」の世界なんだ。そのことを皆わかっていない。人は悲しみや苦しみを忘れるために、ゴーグルをつける。一時の快楽だ。しかし、ゴーグルを外せばまた現実に引き戻されて、そこには悲しみや苦しみが待っている。だが、繰り返して言うように、この世界はただの「ゲーム」だ。つまり、そもそも「悲しみ」や「苦しみ」といったものは存在していない。何も存在なんかしていない。だいたい、なんで「悲しみ」や「苦しみ」なんてものが存在していると錯覚するのだと思う? それは人々が「希望」に取りつかれているからだ。「希望」というのは、「明日にはこの苦しみは消えているかも」、「あの子は自分のことを好きになってくれるかも」、「何か素敵なことが起こるかも」というような考えのことである(作中では「煩悩」や「欲」という言い方はしないが、まさに「煩悩」や「欲」のことだ)。そういった考えに囚われているから、結局のところ「希望」は「悲しみ」や「苦しみ」に代わり、自らを刺し殺すのだ。人は「希望」というナイフで自らを刺し続けている。そこを脱するためには、「希望」を捨て、「絶望=ホープレス」を受け入れる必要がある。「絶望」という言葉は非常に悲劇的に聞こえるが、そういう感情めいたものではなく、単に「希望のない状態」、もっと言えば「希望に惑わされない状態」と考えればいい。ボブを見てみればわかる。脱獄という強い「希望」に囚われているから、結果的に苛立ちもすれば、看守を殺そうとしたり、邪魔をする囚人に敵意を感じたりするのだ。「希望」を捨て、ただ現状を受け入れ、そこにある流れに身を任せてごらん。ほら、なんだかんだと傷を負いながらも、最後には脱獄できたじゃないか。まぁ、最後の最後には死んでしまったわけだけれど、魂の審判を遂に乗り越え、こうして素晴らしい歌声で歌う人生を取り戻すことができたではないか。

このようにしてボブのストーリーも織り交ぜながら、ジェイソンは自らのその思想をダンカンに語って聞かせる。特にボブがついに魂の審判の乗り越えるときなどは、2人で一緒にその瞬間を祝ったり、非常に楽しそうでもある。

この長ったらしい話を一言でまとめると、まさに「解脱」という言葉がぴったりだと思う。「バーチャルな希望」を捨て、すべてを受け入れることで死の繰り返しから解放され、救われる。その一連の内容をわかりやすく現代的に描きなおしていると思えば、理解もたやすいだろう。

 

<カルトの仕組み>

ジェイソンの話は1つの世界観として機能している。つまり、この世界は「バーチャル」でしかなく、そんな「バーチャル」の世界では、すべての「希望」を捨て去り、「絶望」を受け入れることが唯一の救いの道なのだと説いている。ボブのストーリーも効果的に使って。

ダンカンもまたそのボブのストーリーや、ジェイソンの着想を楽しみつつ、基本的には前向きにジェイソンの話を受け入れている。が、最終的に自分の家に戻って来たときには、「カルトだな」という感想を述べている(映像では自分の大切な薔薇を神のように奉っているネズミに対して言っているが、ジェイソンの話のことを言っていないわけがない)。

なぜ、ジェイソンの話がカルトなのかと言うと、わかりやすくエキセントリックでありながらも「苦しみから逃れるためには絶望を含め、あらゆる物事を受け入れるしかない」という一般論を、「この世はバーチャルなゲームでしかない」という世界観によって補強することで、私たち一般人から自らの生に対する責任感を奪い去っているからだ。「バーチャルな苦しみからの解放」というのは、それだけ見ればとても有用な考え方だろう。しかし、ボブのようにただ全てを受け入れている状態を最高の状態としてしまうのは危険が伴う。最終的にボブは自らの考えを放棄し、周囲の為すがままになることで、脱獄を成功させている。ボブはもはや自分の生に対して責任感を持ってはいない。看守が殺されているのを見てもそれを受け入れ、自分が踏みつけられてもそれを受け入れ、結果的に多くの囚人が脱獄できて、自分も脱獄できているから良いものの、よくよく見ればボブは何もしてはいない。ただ責任を放棄しているだけだ。

自己の責任感を放棄させる特定の思想にどっぷりと浸かった人間は、とても操りやすい。言わば意思のない空っぽの人間だ。

ただ、そのような無の境地は、まさに「解脱」や「悟り」であり、私もまた求めるところであり、ジェイソンの話の基本要素は間違っているというわけではない。私が息をするこの世界がただの「総体」の「現れ」でしかなく、「欲」が人の苦しみの根源であるということにも共感する。仏教で一切皆苦というように、すべてを捨て去り、受け入れなければ、苦しみから逃れることはない。だから、ジェイソンの言う事のどこが間違っていて、単純に「ただの危険なカルト」と一蹴してしまうことは難しい。

それでもやはり思うのは、「ほら、全てを捨てたボブは幸福になったでしょう?」というようなエピソードの作り方や、鍛錬で視座を高めるのではなく、ただ苦しみに疲れ、「虚ろ」になったボブがその幸福を手にしているという見せ方が、気持ち悪い。まるで、「言いなりになってればいいんです」という言葉の本質を、「バーチャル」だの「絶望」だのといった装飾的な言葉で誤魔化しているように思える。

言葉で誤魔化すということで言えば、ずっと前に前振りをしていた「非実在主義」という言葉もまたかなり怪しい。

ジェイソンは中盤で「虚無主義でなく、非実在主義だ」と自らの考え方を語っている。これはあくまで私なりの解釈でしかないが「虚無主義」という言葉にはやはりどこか「無気力」というものが漂っている。しかし、あえて「非実在主義」なる言葉を選んでいるのは、その思想において「無気力」を排除したいという狙いがあるのかもしれない。思想の奴隷は「傀儡」であるべきだが、完全な「無気力」でも困る。所謂「カルト」においては、何といっても「行動」が求められるだろう。つまり、我々の暮らす世界が「バーチャル」であっても、「行動」を放棄してはならない。この実在しない世界の中で何を「行動」するのか。そのように前振りをしていて、その「行動指針」を与える。一度この世界はバーチャルで空っぽのものだとして宙ぶらりんにしておくことで、人は縋ることのできる「行動指針」を求めるだろう。そこへ教祖にとって都合の良い「行動指針」を与えてやるというのが、言わばよくある「カルト」の構造だ。

本作ではカルトの「行動指針」までは言及されていない。ただカルトにとって都合の良い「傀儡」を作り上げるための思想、というか世界観みたいなものが提示されているだけだ。

ただ、1つ日本人の誰もが思いつくカルト団体の一例である「オウム真理教」の世界観と、このジェイソンの示す世界観は非常に似ていると思わないだろうか。ジェイソンの示す世界観を受け入れた人間に対して、「だから殺して非生産的なゲームから解放してやればいい」と言えば、あの地下鉄サリン事件のようなことを起こすことはそう難しくないのではないか。

 

6話 デヴィット・ニックターン

<小休止>

本作は「難解」というよりも、「捉えどころがない」という感じが強い。これまで様々な惑星を訪れていたダンカン……というかクランシーが、クランシー自身の生活空間の中で苦労するのが前半。苦労の末、ようやくシミュレーターで別世界に行き、「詰め込むな。心を広く持って受け入れろ」とアドバイスを受けてまた自らの生活空間に戻って来る。戻って来たところで、肉を失い、身動きが取れなくなった隊長から「精神世界に昇るときには報われる」と、これまた皮肉とも忠告とも取れるような言葉を貰う。

<詳説:これまでの話との関係性>

できるだけディティールには触れないようにしようと思うが、ざっと羅列しておくと、クランシーの身の回りには「1日に2回緑の油を塗らないと壊れるシミュレーター」や「1度も挨拶に行っていない3人暮らしの家族」があり、シミュレーターの修理工=隊長に連れられて行った先には、様々な色合いの危険な煙が立ち上る「立ち入り禁止区域」みたいなものもある。1つひとつの煙にはそれぞれの苦しみの性質があり、最終的にはその修理工=隊長は「おしっこ色の煙」に飲み込まれて、肉を失い、骨だけになり、電気ショックとも火あぶりとも取れるような苦しみの中で身動きが取れなくなってしまう。

結局、クランシーは隣人から緑色の油を盗み、シミュレーターを修理し、ようやく惑星へとシミュレートするわけだが、このときにはもう本作の半分以上の時間が過ぎている。

これらをまとめると「雑多な日常」と言えるだろう。

これまで5話分、ダンカンはシミュレーターを使い、クランシーと言うよりはダンカンとして、様々な刺激的かつ濃密な話をインタビューを通して紹介してきた。しかし、ここに来てようやく「クランシー」というキャラや、その主人公の彼が暮らす生活と言うものが見えて来る。私たちからしたら、クランシーの住む世界は摩訶不思議でエキセントリックに感じる。しかし、そんな世界の中にも「日常の煩わしさ」みたいなものがあり、そんな日常に絡めとられてクランシーが苛立ちを募らせていく様子が本作では描かれている。金を借りてる女から説教の電話がかかってきたり、ね。

「さっさとこんな日常から抜け出して、刺激的なシミュレートの世界へ行きたい!」という感じである。

そのようにして、ようやくクランシーは瞑想のスペシャリストであるデヴィットのもとへとたどり着く。そこで、瞑想の基礎である「Silence=静かに」、「Stillness=動かず」、「Spaciousness=空間」を教わるものの、「退屈だ」と瞑想を放り出して、猿を追いかけてしまう。そして、追いかけた先で猿に口をふさがれ、無理やり周囲の生命の営みに目を向けさせられる。そこでクランシーはこの世界の美しさを悟る。そういうストーリー立てだ。

デヴィットの会話の中でダンカン(ここではもうクランシーでなく、ダンカンで良いだろう)は「心のケツに大人のオモチャをツッコむような乱暴なことはすべきでない」と言う。ユニークな喩えだが、この言葉が意味するのはまさにこれまで5話のことだろう。様々な価値観、思想、着想に触れ、そのどれもが実に刺激的かつ濃密で、私たちの頭はそれでパンパンになってしまっている。得てして私たちや高尚な思想家は何かを自らに詰め込むことで、自らを向上させ、人々を救う人間になれると考えてしまいがちだ。しかし、「Silence」かつ「Stillness」かつ「Spaciousness」こそが他者を救えるのだとデヴィットは説いている。「部屋の中を物で満たしてみても、どこか孤独で虚しい」と言うダンカンに対して、さらにデヴィットは「部屋にスペースがあるからこそ、人を招き入れてやることができる」と説明する。4話で「聴く」ということに重きを置いていたトゥルーディの本質がここにあるように思う。つまり、「静かに耳を澄ませ」、「じっと身動きせず周囲を見渡し、相手を待ち」、かつそこに「人を招き入れるだけのスペース」がなければ他者を癒すことはできない、ということだ。そういった一連のことを聞いてダンカンは「なるほど!わかったよ!」と気持ちを昂らせるが、デヴィットは「それで、君が人を救える根拠はどこにある?」という意地悪を最後に言う。

そして、非常に「ニクイねぇ」と思わせる演出だが、この意地悪な問に対してダンカンは応えることができず、沈黙ののちに「それではコマーシャル」とデヴィットが冗談を言って現実世界の録音ブースで「声を録音している2人」の映像がノイズとともにちらちらと映し出される。

実際にいくら悟って何かを理解してみたところで、人を救えるかどうかなんてことはわからないだろう。化物語的に言うのであれば、「人は勝手に助かるだけだ」という感じだろう。1話で話されているように、薬は悪でなく、時と場合によっては人を救い得る、という論もある。2話で話されているように、キリストの痛みを思えば自分もそれを乗り越えられる、という論もある。3話で話されているように、魔術の崇高さ、神秘さにどっぷりと浸かることで苦しみから逃れるという論もある。4話で話されているように、人や世界の声を聴くマインドフルネスによって人は救われ、癒し合えるという論もある。5話のように、この世はバーチャルだからそもそも苦しみなんてものは存在しないという世界観が人を救うこともある。そういった種々雑多な思想を「心のケツに大人のオモチャをツッコむ」として、「そうじゃない。心に何をも受けれるスペースを作っておくこと。そこに人を招き入れる」という方法で人を救うというのがこの6話で見出された手法ではある。しかし、その方法ですら万能とは言えず、何だったら「空にする」という論だからこそ、そこには何か根拠や確信というものも存在はできない。

ただ、デヴィットのもとから自分の生活圏へ戻って来たクランシーは、肉を失って身動きが取れない隊長から「精神世界に昇ることで報われる」という言葉を貰う。そして、腹が減ったという隊長に林檎を与えて、「ありがとう」と感謝されるクランシー。それに対してクランシーは「かまわないよ」とさらりと答えて、彼の傍に腰を下ろし、ゆっくりとコーヒーを飲む。

この最後の演出が本作で得られたものを描写しているように思うが、それが何かを具体的に説明することは難しい。しかし、雑多な日常に戻りながらも、心の平穏を手に入れ、隊長に優しく手を伸ばし感謝され、それにさらりと答えてゆったりと座るクランシーの穏やかな様は、まさにデヴィットが説明する「Silence」「Stillness」「Spaciousness」を体現しているように思うのは私だけだろうか。

 

7話 ケイトリン・ドーティ

<死と向き合う>

6話目で悟りを開いたダンカンが訪れたのは何もない惑星。しかし、何もないので退屈し、ウォータースライダーを設置するも、水が流れていないので楽しくない。ホースを探すために自分が持って来た鞄の中身を覗くと、鞄の中に落っこちてしまい、そこで「死」と出会うといういつもの通り摩訶不思議なストーリー立てになっている。

「死」にインタビューをするわけだが、これまでのスピリチュアルな話とは打って変わって、人々がどのようにして「死」と向き合って来たかをどちらかと言えば、即物的に語る内容になっている。プロテスタントが「死体」を大切にするという風習から、戦争と終戦を経て、葬儀屋が「経済としての死」を導入した経緯が詳しく語られ、知識としては興味深いものの、正直に言えばあまり「思想としての面白味」は感じなかった。

端的にまとめれば、「死体を恐れず、まずは死体の横で時間を過ごしてみる。すると、死というものが実感できてくる」という内容で、あわせて「死に方、あるいは死後に向けた終活の大切さ」について説いている。

いずれも目新しい考え方とは言えない。しかし、これまで7話を通して最も即物的な内容であることには意味と主張がある。というのも、実際にこれまで色々な思想や着想に則って、生や死、存在や非存在、苦痛とそこからの解放などについて考えてきたが、そのどれもがやはり抽象的であり、具体的な現実での行動とリンクしているとは言えない。「死」といういかにもダンカンが好きそうな哲学的、形而上学的なテーマであるにも関わらず、そこで語られる内容はかなり具体的で、生活感が溢れている。それでもこの話をボツにせず、7話目に持ってきていることから、「死」をテーマに生活感溢れる内容を語るということに意味があると考えられる。

つまり、「死」とは具体的なものであり、私たちの生活にもっと密接して捉えるべきなのだということが、暗に仄めかされていると考えらえれる(もちろん、実際にそういう会話をしているのだけれど、作品としての立ち位置からもダブルパンチで説得しているようなものだ)。私たちはこれまで生や死について、世界の成り立ちや真理のようなものを踏まえて語って来たが、具体的に自分が死んだ後の財産の配分や、葬式の方法については何も考えていやしない。また知人が死んだ際に、その後整理や雑多な処理をしたという経験も、そう多くはない。葬儀屋任せにして、「はい。死にました。じゃあ、葬儀屋を呼んで、故人との別れを惜しみつつ、さっさと諸手続きをしましょう。明日は会社に行って、今日できなかった仕事の後始末が待っているのだから」という具合だ。死については、高尚な本を読んで、その真の姿の理解に努めることができる。

そういう態度に警鐘を鳴らす……まではないかないが、「死についてもっと生活と密接なレベルで考えよう!」というのが幼稚には聞こえるかもしれないが、とても重要で意味のあることとして本作では語られていると考える。

また、正直追い切れなかったけれど、本作はアニメ映像がなかなか面白い。おそらくは地獄のような死後の世界について、とてもコミカルに描こうとしたのだろう。色々と暗喩のようなものは隠されていそうだが、例えば、「鬼灯の冷徹」で描かれているあのコミカルな地獄のようなものを私は思い出した。今度観るときは映像だけを追ってもかなり楽しめるだろう(個人的には、話よりも映像に注目していればよかったかな、なんて思う)。

 

<私にとっての死>

本作を通しては、特別新たな知見を得るというのはなかった。確かに、葬儀屋という職業が生まれる経緯などは初めて知って面白いと思ったし、もっと生活に密接した「死」について考えるべきだと思い直す部分もあった。だが、私の「死」に対する価値観やものの見方というものが変わったということはない。それが個人的には不完全燃焼感があって、もやもやとしている。

そこで、ここでは私自身の周りであった「死」について思い出し、考え直してみようと思う。作品とはおそらく関係なくなるので、悪しからず。

現在から遡ること、およそ半年前。昨年10月に父の叔母にあたる方が亡くなった。彼女がいつ死んだのかを思い出すのに、私はLINEの過去のメッセージを読み返す必要があった。それくらい私は非情であり、また死というものを軽視しているということになる。

私が新幹線で故郷に帰り、死んだ叔母の家の床の間に着いたとき、彼女はもう葬儀屋によって死に化粧まで施されていて、白い布団の上で眠っていた。まさに眠っているように見えるくらい安らかな顔をしていた。ずっと1人身であった父の叔母は、甥である私の父を可愛がり、あわせて私のこともずっと可愛がってくれた。時折、父の名で私のことを呼ぶこともあるくらい、彼女は私たちを愛してくれていた。

そんな彼女のことを私の両親は慕っており、死ぬ前日も彼女のもとを訪れていたそうだ。癌に侵された彼女はもう末期で、医者からも長くないと宣告されていたが、「家で死にたい」ということで彼女は病院への入院を拒否していた。私の両親は入院を勧めたり、勧めることを躊躇ったり、彼女の考えを受け入れたり、受け入れられなかったり、と愛のある人間がするような一通りの苦悩をしてきた。徐々に物が食べられなくなり、久しぶりに見た彼女はとても痩せていたのだが、それでも意識は歳のわりにはっきりとしていたし、相当に具合が悪かったはずなのに、死の前日に私の両親に「もう遅いから帰るように」と促すほどに意志もしっかりとしていた。そんな彼女の様子を見た両親は、きっと不安と安心の綯い交ぜになった感情を抱えながらも、彼女の家を後にしたのだろう。「もう危ないかもしれない。しかし、こんなにしっかりとしている。気丈に振舞っているだけかも。いや、彼女の信念を尊重すべきか。放っておけないが、けど、きっとまだ大丈夫」。色々と両親の話を聴いていると、彼女の死の前日に、彼女の家を後にするときには複雑な想いがあったのだろうと推測される。

ここで1つだけ訂正をしておく。というか、時系列を明らかにしておく。

私の両親は彼女のもとを訪れて、一緒に夕食を食べたそうだ(確か、寿司と言っていたか)。もう先が長くないとわかっていたし、実際そのときの彼女はほとんど立ち上がるのもやっとという具合だったから、私の両親はかなり彼女のことを気にかけていた。そして、「これは……」と感じながらも、彼女に促されて帰ることになる。そして、そのおそらくは夜中、彼女は死んでしまった。暖房をしっかりと消した後で、居間の椅子から立ち上がることもできず。私の両親は胸騒ぎというのでもないが、やはり前日の彼女の様子が気掛かりだったので、彼女の家に電話をかけ、出ないので、家に駆けつけてみたら案の定……という感じだったそうだ。

そして、たまたま週末だったので、両親から連絡があったその日のうちに、私は会社終わりで実家に帰ることができた。実家に戻ると、荷物だけおいて、すぐに彼女が眠る家に向かい、そして死に化粧をした彼女と対面する。両親は目を赤くして、彼女の死を嘆いていた。葬儀屋がいて、丁寧な挨拶と諸々の最後の事務手続きを終えると、ほとんど私と入れ替わりという感じで出て行った。が、ぎりぎりのタイミングで、私が彼女の前で手を合わせるタイミングで、葬儀屋もまた手を合わせてくれた。普通の会社員が仕事終わりで新幹線に乗って故郷に帰って来るような時間だ。遅い時刻にもかかわらず、手を抜くことなく、丁寧に対応してくれた(もちろんそれが彼らの仕事とはいえ)ことに今更ながら感謝の念を感じている。

私は彼女の眠る姿を見降ろしながら、両親の話を聴いた。前日に彼女と夕食を食べたこと。きっぱりとした態度で「もう帰りなさい」と言ったこと。前から「最後は家で」と言っていたこと。暖房を消し、椅子の上で死んでいたこと。椅子から崩れかけ、まるでイナバウアーをしているような感じで死んでいて衝撃を受けたことなど。

私は誰かを評価できるような人間でもないし、評価したいわけでもないが、父の叔母を「立派だ」と思った。自らの死に方を決め、実行する。病に侵され苦痛もあっただろうに、頑なに家を離れようとしなかった。そして、これまで1人で生きてきたのだ。自分の生に対して、確固たる流儀があったからこそ、死に際してもその流儀を貫き通せたのだろう。漫画NARUTOうちはイタチ鬼鮫に「人間の価値は死に様で決まる」と語っていた場面を何となく思い出した。それくらいカッコイイと思った。

茶道の師範をしていた彼女は私たちと彼女の家で会う時ですらきちっと身だしなみを整えていた。死の1年ほど前、少しずつ老いも厳しくなってきていた彼女だったが、私と妹と一緒に分厚いステーキを食べに行って喜んでいた。茶道の師範を辞めた後も、私の母に茶道を教えていたし、誕生日にはいつも立派な筆字で私にメッセージをくれた。父が幼い頃に買ってやった土産を大切にテレビ台の上に置いていた。そういう立派な生き方をしてきた人が、立派に死んだのだ。とても私には真似できない。身体的な苦しみも大きかったと思うが、死と自分らしく向き合い、凛と死んでいった彼女を私は心から尊敬している。

だから、私は死んだ彼女と会っても、特に泣きたいとも思わなかったし、寂しさは少しあったけれど、悲しみという感情ではなかった。むしろ、言葉は適切ではないかもしれないが、凄いものを見せられて興奮していたと言っても良いかもしれない。

ただ、今になって思い返してみると1つだけ不思議な感情があった。

私は死んだ彼女を見て、可愛らしいと思ったのだ。これは決して性的な倒錯というのではなく、まるで赤ん坊を見るような心地に近い。何というか、あれだけ厳かであった父の叔母が死んで、無に帰った後の様というのが、どうしてかまだ何も知らない無垢な赤ん坊のように見えたとで言えばよいか。そう、死によって、無知で無垢で、とても弱い存在に変容したように感じられたのだ。「お疲れさまでした」と送り出す想いもあり、同時に「世界へようこそ。素敵な気分?」と新生児を抱きしめるような想いもそこにはあった。

この不可思議な「愛」の感覚というのは、今の私にはまだ形容する力がない。

これまで私は「死」に対して、羨望や親密さを感じていることを裏付けるような話を書いてきた。このブログにも先日アップロードした「Death and the flower」はまさに私が死に救いを求める話だし、「水流」や「茫洋」といった、かなり私自身に近い話では最後に主人公が死んでいる。このブログのタイトルにもなっている「霏々」では、三木清の思想に倣って死の定義をスタートに自らの生き方をどう規定するか、私らしく自問自答を進めた。だから、私にとって「死」は最も近しい原理であり、その姿もまたかなり明確になっていると思っていた。

しかし、この父の叔母の死によって、私はまた「死」の新しい側面を知るに至った。その触媒となったのが、このミッドナイト・ゴスペルの第7話であることはこれまで書いてきた通りだが、やはり「死」にしろ、何にしろ、実際に触れていくことで理解が深まるのだろう。私は「みぞの鏡」に映る物理学者だ。「観察」こそが理解と議論の出発地点であることを忘れてはならない。

 

さて、本作に戻るけれど、この7話はやや退屈ではありながら、再度「死」に対しての「奢り」を取っ払い、向き合わせてくれるという意味では、非常に有用な作品であった。一通りの感謝を置き並べ、最終話へと向かおう。いやいや、それにしても楽しみだ。

 

8話 デニーン・フェンディグ

<愛は消えない>

最終話。もうやられてしまった。興味深い作品、でなく、素晴らしい作品であることを本作を通じて感じた。

ダンカンが、自らの母(既に亡くなっている)にインタビューをする回だが、ダンカンが生まれたときの話から始まり、心理学者であった母が考える人格形成にまつわる話、とにかく苦しいという人がどうやってそこから救われるか、と話題は微妙に次々と移り変わっていく。というか、徐々に核心に近づいていく、と言った方が正しいだろう。

これまでのように、特定の立場や学術的・哲学的・宗教的背景に則った話でないため、そこにはエキセントリックさや鋭利さのようなものはなく、民間療法的な普遍的であまり根拠のないような話になっている。しかし、母が愛する息子に語って聞かせる、この世界での生き方というのは、圧倒的な普遍性を有しながらも、そこには反論や弁論のようなものが必要ない、どこまでも真実に近い言葉がとても密度高く渦巻いている。格好つけた言葉をやめれば、これは説や理論ではなく、想いの話と言える。

私はJ.D.サリンジャーの書いた「フラニーとズーイ」という作品が好きだ。宗教的な話を多分に持ち出しているが、苦悩の種は割と現実的であり、描かれているのは家族間の愛情。このミッドナイト・ゴスペルと通じる部分があるかもしれない。「フラニーとズーイ」はその表現方法がかなりゴシックな文学ではあるが。

母が心理学者であり、その「瞑想(のようなもの)」方法はとても具体的で、かつスピリチュアルな雰囲気もあるため、一瞬ちらっとこれまでのような説や理論に近い温度感の話かと思ってしまうが、しかし終盤になるにしたがって、母の死を嘆く息子をその母が慰めるという核へと突き進んでいく。今しがた「慰める」と言ったが、「勇気づける」とか「励ます」とか「諭す」とかそういった言葉の方が感覚としては近いかもしれない。そういう目線で見ると、最初の母が息子の誕生時についてのエピソードを聞かせたり、途中「瞑想(のようなもの)」のやり方を説明したり、色々な要素はあるけれど、一貫して母がダンカンに言って聞かせたいことは「愛は消えない」ということである。しかも、ただ「愛は消えない」という命題を伝えるのではなく、それを実感させ、かつその実感を活力として今後の人生を切り開いていかせる、というのが母の目的である。と、描いていることから、ダンカンが自らを救う目的でこの作品群を作っていることが見て取れる。

村上春樹はその初期の作品の中で、「自分自身を啓蒙するような文章を書きたい」というようなことを登場人物に言わせている。ダンカンはまさにそういうことをしようと試みているのだろう。

私が本作に対して語れることは少ない。というか、語りたいことはもうほとんど語り終えてしまった。つまり、愛に溢れた作品であり、ダンカンが自らを慰める目的で書いているということ。8話全体を通して考えると、この最終話があるからこそ、また全体の見え方が変わって来る。ダンカンは溢れる好奇心でインタビューをしているのは間違いないが、その好奇心の根底には「救われたい」という願いがあるのだろう。そして、最終的には、自らが生み出した、母に救われるのである。

 

 

◆ 感想を書いた感想

めちゃくちゃ疲れました。本当はどんどん観進めたいのに、ブログに感想を書くと決めてしまったことで、かなり時間がかかりました。とは言っても、全部で4日程度でしょうか。疲れましたが、楽しい時間でした。

特に、辛くなってきた6話目あたりで、一旦小休止的な話が出て来てくれたのは、助かりました。そして、そういった部分も含め、何よりも驚いたのは、オムニバス形式の作品と思っていたら、きちんと順序や構成が練り込まれていたことです。特に5~8話目までの流れは完璧でしたね。5話で難解な話が出て来て、それを打ち消す6話目。この6話目で精神的な悟りを得て、7話目ではかなり即物的な「死」に対する話。で、「死」について向き合う素養を手に入れたうえで、すべての帰結となる8話目の母との対話。あと、時系列が前後しますが、1話目のイントロダクションとしての役割の担いっぷりもまた凄いですね。比較的理解しやすい「薬物」という話題を持ち出し、対話では薬物を軸に据え、そのメタファーとして映像ではゾンビを持ち出し、話と映像がリンクしていることもわかりやすく示しています。

ただ、やはり最後の8話目があるかないかで、この「ミッドナイト・ゴスペル」の作品としての意味はだいぶ変わって来るというところが、作品の本質だと思います。臭いですが「愛がすべてを補完している」ということですね。

本当は8話目についてはもっともっと色々と書きたかったです。「今を知覚すること」が「自らの存在を認めること」であり、ひいては「自らの核が愛であると感じること」に繋がります。そして、その「愛」は「痛み」や「死」によって存在を明らかにされ、だからこそ私たちは「痛み」や「死」を乗り越えられるのだということ。この考え方は学問などではないですが、1~7話までの全ての話ととても良くリンクしています。そういうことについて、また私らしくダラダラと書きたかったのですが、さっさと肝となる言葉を書いてしまったので、その後に続く言葉を書く気が失せてしまいました。

ダンカンは自らが生み出した母に救われたのです。

この作品の動機がそこにあり、また映像でもそのことが暗示されていますので、ご確認いただければと思います。そして、それこそがまさに私が本作を心から好きになってしまった理由なのです。私もまた仕様もない創作物をこのブログで吐き散らかしていますが、仕様もないとわかっていながら、それでも書くのをやめられないのは、自分で生み出したものに、慰めてもらいたいからなのです。

 

最後に…

7話の感想で、自分の書いたものを色々と羅列したので、せっかくなのでリンクを貼っておきます。

eishiminato.hatenablog.com

eishiminato.hatenablog.com

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はい。宣伝です。

それにしても充実した数日間だったなぁ。そして、疲れました。