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J. D. サリンジャー「ナインストーリーズ」考察 vol.1 ~前書き・バナナフィッシュにうってつけの日~

さて、私の気に入りの作家であるサリンジャーについて書いてみたいと思います。好きな分だけ記事にまとめるのには抵抗がありましたが、友人がこの「ナインストーリーズ」という本を読んでくれたので、この期にもう一度自分の中で考えをまとめたいと思った次第です。

 

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ナインストーリーズ

 

 

0.前書き

ドロシー・オールディングという女性はサリンジャー代理人で、ガス・ロブラーノは雑誌ニューヨーカーの編集者のようです(たぶん)。ネットでざっと集めた内容なので、あまりあてにはなりませんが。

私の中でのサリンジャー像は、名声を恐れ、ごく小さな緊密した世界での愛を大切にしているような感じです。攻殻機動隊で有名になった「僕は目と耳を閉じ…」というライ麦畑での主人公ホールデンのセリフにも表れていますが、世俗との軋轢や摩擦、苦悩から逃げ、愛するものと小さくて平和な世界に隠れたいというのがやはりサリンジャーっぽい部分かなと思っています。まさに「ライ麦畑の捕まえ手」というところでしょう。

そんな彼をして考えてみると、この前書きにあるように、この短編小説の位置づけが、自らの生活圏内にあり、彼が文学と向き合う上での大切な戦友への「捧げもの」とされていることにも自然な納得感があります。「そんな大それたものじゃない。あくまで僕の文学を支持してくれる彼らへの恩返しみたいなものでしかない」と、そんなサリンジャーらしい捻くれと愛が感じられますね。と言いながらも、この2人の人物について調べたのは今回が初めてなのですが。

ページをめくると、さらに「禅の公案」、つまり禅問答の1つである「隻手の声」が引用されています。両手を打ち鳴らせばパンという音が聞こえますが、片手ではどんな音が鳴るのかという禅問答ですが、もちろんこれはなぞなぞではないため、「なるほどな」という答は存在しません。そんな禅問答の1つがあえてこの短編集の頭に掲げられているということが、私にこの記事を書かせることへの不安(申し訳なさ)を駆り立てているわけです。つまり、サリンジャーが望むところは、読者がこの一連の短編から何かはっきりとは見えないものを思考するというところにあると思うため、解説まがいのことをすることが非常に恐れ多いのです(事実、サリンジャーは他の文学作品で良く見られるような「解説」を自らの作品に付けることを強く拒んでいました)。が、しかしこの記事はあくまで、私がその禅問答の中へとより深く自らの身を沈めるための儀式的なものであると都合よく己に言い聞かせ、何とか進めていきましょう。

 

eishiminato.hatenablog.com

 

私が思う禅問答については、上記の記事の中で触れています。1話のドリュー・ピンスキーとの対談の中で、禅問答の役割とその難しさについて私なりの解釈を撒き散らしています。吐瀉物の処理が得意な方はぜひ。

 

1.バナナフィッシュにうってつけの日

サリンジャー作品の中での意味

サリンジャーはその後の作家活動をグラース家の物語を書き表すことに捧げるようになるわけですが、そのグラース家の長男であり、最も完璧に近い存在であり、言わば「サリンジャー教」の唯一神のような存在であるシーモアが本作「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公に据えられています。

執筆の時系列で言えば、このバナナフィッシュが書かれてから、諸々のグラース家の物語が書き連ねられることになるので、本作と後作に出てくる「シーモア」は別物として考えるのが妥当でしょう。しかし、彼が旅先で拳銃自殺を図ったという事実はその後のグラース家の物語でも変わることが無く、彼の自殺現場を描いたのは後にも先にも本作のみとなります。つまり、本作はサリンジャー世界の象徴的な事象として位置づけられており、半端な知識でテキトーに語るのであれば、聖書におけるキリストの磔刑シーンと同様の立ち位置にあると言えるのではないでしょうか。それは何も「死」を扱ったシーンとして同等という意味だけでなく、一連の思想体系における「象徴」としての役割を担っているという意味で同等と思うのです。

なお、ネタバレ的になりますが、この「バナナフィッシュ~」という作品について考えを掘り下げていくと、どうしてシーモアサリンジャー世界において、絶対的な位置に据えられることになったのかがわかってきます。キリスト教に精通したサリンジャーが本作で描いたシーモアは、人間(特にそれは作者であるサリンジャー自身)の持つ罪を背負って死んでいったのです。

というわけで、単なる精神疾患をわずらう青年の拳銃自殺としてだけでなく、その背後に隠された種々の要因や、それによって暗示される物事について考察を進めていきましょう。

 

 

・冒頭の描写について

ここではまだシーモアは登場しません。シーモアの妻であるミュリエルが何やら母との電話が繋がるのを待っている場面が、かなりの字数を割いて描写されています。まずはその描写について色々と思うところを書いていきます。

この冒頭の描写は、実にサリンジャー的な緻密(でやややり過ぎ)な描写です。もし、物語の展開や構成における導入目的だけで、この冒頭の描写をするのであれば、「ミュリエルは電話を二時間近く待ちながらも悠然としており、自らの容姿のメンテナンスに怠りがありません」とだけ書けば済んでしまうはずです。しかしながら、サリンジャーはこの数十字程度で片付く導入に対し、数百字を費やして、こまごまとした描写を行っています。しかも、サリンジャーはリアルな描写を好み、特に安易な暗喩のようなものをおそらくは意図的に用いることをしません。例えば、

彼が空を見上げると、そこには世界の果てまで埋め尽くす灰色の雲があった。

というような一般的な(面白味に欠ける)描写は、小説においてよく見かけられます。これは空の描写には間違いないのですが、その風景から登場人物の「彼」の心境を感じることができます。「灰色の雲」からは不安や悲しみといった負の印象を感じますし、「世界の果てまで」という修飾語によって、その不安が終わることが無く、また一寸の救いも無いという印象が付加されています。つまり、その物語の中の世界を書き表しながら、登場人物の心理状態まで仄めかすことができるわけです。このような暗喩は文章において非常に効率的な技術と言えます。

サリンジャーももちろん作家ですからこういう手法を使いはします。しかしながら、上述の「空」のような「これは明らかに暗喩だ」とわかるような描写をしたりしないのがサリンジャーなのです。彼のやり方はもっと難解で婉曲的なやり方なのです。

この冒頭の緻密かつ多量の描写ではミュリエルが普段どのような生活をしているのかが示唆されており、それによって彼女の半生すら想像させるだけの具体性があります。読者もこの描写をそのような「人物紹介」としての役割と捉え、ミュリエルという人間の社会的な位置づけなどを想像したりするでしょう。つまり、これだけ膨大な字数による描写は、単なる導入だけでなく、ミュリエルという人物をより具体的にイメージさせるために為されているのだと考えて終わるはずです。ですから、あえて文章の効果を考えようとまでしなければ、読者はサリンジャーの仕掛けた巧妙な印象付けには気づくことがありません。しかし、この描写にはただの「導入」・「人物紹介」だけに留まらない工夫がなされています。

 

まずは、描写における時間軸の工夫です。前半部はミュリエルのやったことがこれでもかと羅列されており、きちんと電話の待ち時間の長さを読者に感じさせてくれます。対して後半部は、その2時間近くの時間の描写にかかったのとほぼ同じくらいの文字数を用いて、わずか数十秒を描写しています。ミュリエルの行動の羅列という意味では同じですが、文字が映し出す時間経過のスピードは前後半で大きく異なります。前半のダイナミックな時間の流れから、いっきに後半のスローモーションのような時間の流れに移すことで、ミュリエルの微妙な心情が読み取れる気がします。

まずは前半部の描写ですが、ミュリエルは母親にかけた電話が繋がるのを2時間近く待っています。しかし、その長過ぎる待ち時間に対し、苛立ちを見せてはいません。「結果が気になって何も手に付かない」という言い回しをよく聞きますが、逆に何もしないでいる方が色々なことを考えてしまい、自分で自分を追い込んでしまうようなことになりがちだと思います。言わば、ミュリエルはその2時間という時間を、「何も考えないように」過ごすためにあれやこれやと煩雑な日常行為を繋いでいると考えることができるでしょう。そういった描写から、ミュリエルは実際のところ「電話が繋がるのを心待ちにしている」ということが読み取れます。ただし、ミュリエルは自分でもそういったことを認めたくないのか、「無為に過したわけではない」という一言が添えられています。ここに彼女の自らの感情を律しようという無意識の葛藤が見られ、その葛藤は後半部の描写へと引き継がれていきます。

後半部は電話が鳴ってからミュリエルがそれを取るまでの緩慢な動作について緻密に描写されています。ただ電話に出るだけの描写にこれだけたっぷりと文字数を使うことによって、その行為がまるでスローモーションのように見えます。このように時間を間延びさせることで、そこには多分の含みがあることを感じさせます。つまり、ミュリエルは「電話に出たい/出たくない」の2つの感情の間で逡巡しているようです。ここでもミュリエルが自分自身の感情を律しようという無意識の葛藤が見て取れます。

総じて、これらの描写から見て取れることは、ミュリエルは母親と「電話をしたい/したくない」という相反する感情を無意識下で抱いているということです。サリンジャーは行動の羅列と、時間経過の緩急(それと、ちょっとした作者による所見を交えること)によって読者にそれらを提示しているわけですね。このミュリエルの微妙な態度については、後の母親との会話の中で間接的に(暗喩的に)説明されることになります。

 

次に、既に上でも書いてしまいましたが、描写に紛れた筆者の所見が見事だと思います。

でも彼女はその間を無為に過したわけじゃない。 

や、

彼女はしかし、電話のベルが鳴ったからといって、やりかけていたことを慌てて止めるような女じゃない。年頃になってからというもの、電話は鳴りづめだったといわんばかりに悠然としたものだ。

といったように、ところどころにサリンジャーの所見が述べられています。 

ミュリエルはあれやこれやという実のところ全く以って無為な事柄に時間を尽くしています。それでいながらサリンジャーは「無為に過したわけじゃない」と言っているのですが、これは明らかな皮肉です(上述の通り、「ミュリエルが自らにそう言い聞かせている」という緻密な心理描写を含んでもいるのですが)。また、「電話は鳴りづめだったといわんばかりに」という修飾語もまたミュリエルが高飛車な女であることを示唆する皮肉です。

ライ麦畑~」に顕著ですが、私はサリンジャーが世俗的な物事に対して嫌悪感を抱いていると思っています。ミュリエルはシーモアを愛していながらも、シーモアにとってはイデオロギー上の敵であることが物語の構成上重要なわけですが、そのことがこの挿入される僅かな筆者の所見によって、さりげなく仄めかされているのです。つまり、上記の2つの引用文があるおかげで、サリンジャーはユーモア混じりに「これは敵ですよ」と教えてくれているわけです。

 

長くなりましたが、まとめると、

・ミュリエルは母親に対して相反する微妙な感情を抱いている。

・ミュリエルの特性は「敵」として記述されるだろう。

ということが、行動の羅列的な描写を通して、読者に暗に訴えかけられている要素になります。つまり、この冒頭の描写は、単に物語の導入やミュリエルの人物紹介としてだけでなく、物語の解釈を進める上で重要な要素となる上記2つの前提を私たちに提示してくれているわけです。

私が絶対に正しいというわけではありませんが、とりあえずはこの2つの前提を以って、これから先の考察も進めていきますので、よろしくお願いします。

 

・母親との会話

まずこの2人の会話の役割として重要なのは、「状況説明」にあります。

ナレーションベースで行われる「状況説明」というのは、何というか作品の芸術性を貶めますよね。文学でも映画でも何でも。ですから、会話を用いて状況説明を行っているサリンジャーの文章表現能力は、単純なテクニックという意味合いでも非常に高度であり、作品としての品を保証してくれているように思います。

なお、冒頭の描写はナレーションベースでありながらも、それは状況説明というよりは、上述の通りミュリエルの骨格を作り出すことに主眼が置かれており、同時に俯瞰して見ればこの文章全体の方向性を定めるものでした。これもまたサリンジャーの高度な文章表現力を示すものであります。

さて、サリンジャーの技術を誉めるのはこれくらいにしておき、この会話の中で示される状況をざっとまとめてみましょう。

 

・ミュリエルは 戦争から戻ってきたシーモアと久々の旅行中である。

・ミュリエルの母親は精神に異常をきたしているシーモアを毛嫌いしていて、できることなら娘には彼と別れて欲しいと思っている。

・ミュリエルは母親の過保護でヒステリックなところを苦手としている。

・ミュリエルは愛するシーモアを否定されたくない。

・ただし基本的にはミュリエルは母親と同族であり、そこにはきちんとした信頼関係がある。

 

基本的には、その彼女らの旅行の内情みたいなのが会話の主軸となってはいます。しかし、上記の通り、そこにはミュリエルの旦那であるシーモアと母親に対する微妙な感情がよく表れています。シーモアに対する愛情と不安。母親に対する反抗心と信頼感。ミュリエルのそういった矛盾を孕むような感情が、この会話シーンを通して感じられます。しかし、このシーンで最も重要なのは、3人の関係性が示唆されていることです。異常と見られるシーモアの言動に対するミュリエルと母親のリアクションからそれがよくわかります。

例えば、シーモアが木を見て取り乱したことに対して、母親は「車を運転させるな」「また異常行動を取る」「娘に何らかの危害が加わる」というリアクションを取っています。対してミュリエルは「シーモアに運転させてみる」「木を見ないよう努力しているのが伝わって来る」とシーモアの異常性を認めながらも、彼を受け入れようというリアクションが見て取れます。ほかにも、シーモアがバスローブを脱がない理由について考える2人の会話などが3人の位置関係を顕著に表しているように思います。

と、これらのことを総合的に考えると、ミュリエルは「シーモア:母親=8:2」くらいの位置に自分がいると考えていそうです。数直線で言えば、「シーモア=0、ミュリエル=2、母親=10」という感じの配置を想定しているわけです。本来ならばミュリエルは完全に母親側の人種であり、「10」に近いところにいあるはずの人間であるわけですが、上述の「シーモアと木」のエピソードから鑑みるに、彼女は彼女なりにシーモア側に近づこうとしていることが伝わってきます。ミュリエルのシーモアに寄り添おうという気持ちの根源には、もちろんシーモアに対する愛情も多分にありますが、それ以外の理由も色々と含まれていそうです。

冒頭の描写シーンからミュリエルは自尊心の強い、高飛車な人間であることが感じられます。そのような女が「お前の夫は狂っている」と言われれば、反射的に反発しそうなものです。

また、会話シーンでは過保護な母親に対して鬱陶しいという気持ちや、子ども扱いされたくないという気持ちをミュリエルが抱いていることが見え隠れしています。母が心配してくるうるさい声に受話器を耳から遠ざける描写や、直接的に「気をもむの止めて」と言っていることからも読み取れますね。

同時に、ミュリエルのシーモアに対する愛情もまた成熟し切っていない印象があります。シーモアがミュリエルの事を「一九四八年のミス精神的ルンペン」と呼ぶことに対して、その文句の真意を理解してというよりは、単純に自分だけへの特別な愛称が与えられたこと自体に対する喜びから彼女はクスクスと笑っており、母親に咎められています。このやり取りも含め、全体的にミュリエルには所謂「恋に恋してる」状態であるような印象を感じます。

そのような様々な要素があるため、確かにミュリエルはシーモア側に立とうとしてはいるのですが、その優しさはどこか上滑りしているような印象があります。この「上滑りしている」という印象を強めているのが、時々挟み込まれる本当の意味での「雑談」です。緻密だなぁ、と思わされるのは時折雑談としてファッションの話が2人の間に持ち上がるのですが、ある場面では母親側から話を持ち出し、違う場面では娘のミュリエル側から話が持ち出されていることです。このことから、2人にとってシーモアの異常行動は重要な話題でありながらも、真に差し迫った問題として認識されていないことが伝わってきます。母親にとって娘の旦那と娘のドレスは等価な悩みの種であり、娘にとって母親のその悩みの種は同様に見当違いで鬱陶しいもののようです(シーモアの運転について聞かれ、「いま言ったじゃない。とっても模範的な運転だったって」とミュリエルは答えています。また、バレリーナというドレスの着た感じを聞かれ、「長すぎるわ。あたし、そう言ったじゃない」と答えています)。

この「雑談」は母と娘のリアリティ溢れる会話として作品の品を高めていると同時に、シーモアとこの女性2人の距離感を示している重要な部分というわけですね。

母はシーモアを異常者と決めつけ、シーモアの身の問題を解決するというよりは、異常者を娘から離すことしか頭にありません。一方のミュリエルはシーモアの精神が不安定であることを感じながらも、それを真っ直ぐ受け止めることができていません。シーモアの「木を見ないように運転」から彼の優しさを感じて満足し、旅先で居合わせた優秀とされる精神科医にはシーモアの容態を説明せず、ただその医師を母に対する牽制としてしか利用していません。こういった複数の要因を鑑みると、この母と娘はシーモアの問題について議論しながらも、それはただ上滑りしているだけで、解決には至らないだろうという雰囲気が読者にも伝わってきますね。

つまり、ミュリエルは「シーモア=0、ミュリエル=2、母親=10」という位置関係を想定しているわけですが、実際には「シーモア=-100、ミュリエル=2、母親=10」というのが彼ら三者の位置関係ではないでしょうか。ミュリエルには正の値しか見えていません。したがって、シーモアのことを「-100」ではなく、「0」と誤認しているのです(「0」は正の数でない、なんて意地悪は言わないでくださいね)。そういった食い違いが実際のところシーモアにどれだけの痛みを与えていたかは、この会話シーンからは読み取ることができません。が、少なくとも彼女たちにはシーモアを救うことができなかったという理由付けには十分だと思います。

 

冒頭の描写では、ミュリエルが母親に対して微妙な感情を抱いていることが示唆されていました。そして、その原因がシーモアという存在にあるということがこの会話シーンからは見て取れます。もしシーモアという問題が無ければ、ミュリエルは母の過保護なところに多少の嫌気を感じつつも、もっと母の考えに同調し、親密であったことでしょう。それはシーモアを除外したファッションに関する雑談シーンからも推測できます。

また、冒頭の描写では、ミュリエルがシーモアイデオロギー上の敵であることが示唆されていました。そして、この会話シーンではミュリエルはシーモアの側に立ち続けようとしているように見えますが、その努力はどこか上滑りしている印象があります。

つまり、冒頭の描写と2人の会話を総合して考えると、「シーモア=-100、ミュリエル=2、母親=10」という3人の関係性がよく見えてくるわけです。ミュリエルと母の相対距離を緻密に描写しつつ、その微妙な位置関係の揺れ動きからはぽつんと取り残されたシーモア。これによって、間接的にではありますが、シーモアが世俗的な場所からは遠く隔絶された場所で苦しみ、精神に異常をきたしているということが示されているわけです。

そして、そんな見事な記述の中でさらりと、この小説における最重要事項である「シーモアが戦争から戻って来てからおかしくなった」という事実が語られています。シーモア自身の口からは決して語られることのない事実です。ですが、これ以降の解釈をするにあたっては、この事実が重要な足掛かりとなっています。

 

ここまでのミュリエルを中心とした一連の記述は、はっきり言ってしまえば舞台設定にしか過ぎません。しかし、非常に巧妙に仕組まれた舞台です。後に続く、シーモアを中心に据えた記述こそが核心ではありますが、しかし彼のストーリーは捉えどころがなく、その真意を読み取ることは容易ではありません。もし、この前半のミュリエルが中心となったストーリーが無く、シーモアのストーリーだけだったならば、本当にただの精神異常者が幼い女の子と訳の分からない、筋の通らない会話をしているだけになってしまいます。非常に回りくどいやり方ではありますが、「戦争を機に、シーモアは精神を病み、ミュリエルたち俗世的な人間からは隔絶された世界に取り残されてしまった」ということが、この前半のミュリエル部の記述を通して得ることのできる舞台設定となっているでしょう。そして、ミュリエルや彼女の母が代表する世俗的な存在が、最終的にはシーモアを殺すことになるのだという予言をも孕んでいるのです。

 

 

・シビルとシーモア

ここからは先に既に若干ネタバレをしてしまった通り、シーモア自身を中心に据えた記述がなされていきます。これまでのミュリエルを中心に据えたパートについてざっとまとめると、「シーモア=??、ミュリエル=2、母親=10」という位置関係があり、ミュリエルは「シーモア=0」と考えていながらも、実際には「シーモア=-100」くらいなのではないか?という印象が読者には与えられています。しかし、これまでシーモアが直接的に作者によって描写されてはいないため、未だ彼の精神状態はヴェールに包まれたままです。

そんな前段を踏まえ、このシーンではようやくシーモアが対峙している深淵について記述されることになります。しかし、シーモアの心理状態が直接的に記述されるわけでなく、あくまで幼児のシビルとの関係性を元にしか彼は記述されていないため、彼がどのような深淵と対峙しているのかを明確に理解することは困難になっていますね。しかし、状況を一つずつ整理していくことで、彼が直面している問題についてその枠組み…というか、原理原則のようなものについて思いを巡らせることはできるんじゃないでしょうか。

 

ここのパラグラフはまず、噛み合わないシビルと彼女の母親の会話から始まります。シビルはとても幼く、母親でさえ彼女の世界には踏み込めません。「日焼けオイルを娘に塗る母親と、落ち着きない様子の娘」という構図は、一般的な幼少期における親子関係ではありますが、つまるところ二者の主眼が異なっていることを示しています。母親は友人と会話し、お酒を飲みたがり、シビルに遊んでくるよう言うようなところも、2人の世界が相容れないところにあることを示しています。これは何も母親の無責任さを描きたいわけでなく、サリンジャーはとても公平な態度で(ミュリエルのときのような皮肉は用いずに)この場面を描き出しています。しかし、この描写がまた実に重要な役割を担っています。

子供は子供の世界に生きており、そこには実の母親と言えど、容易に踏み込むことはできません。これはれきとした事実であり、一般論と言えます。そして、この一般論というか、基本原理をサリンジャーは効果的に活用します。つまり、大人の世界=世俗的な世界から放り出されたシビルと、そんなシビルと世界観を共有するシーモアを描くことによって、三段論法的にシーモアもまた世俗から見放された存在であることを意図しているわけです。すでに冒頭においてサリンジャーはミュリエルを悪しく描写することで、シーモアの位置を示してはいたわけですが、ここではシーモア自身をシビルとセットで描くことで、その点をより強固に示すことになっています。

シビルとの会話の冒頭部において、シーモアはミュリエルの居場所についてシビルに尋ねられて「そいつは難問だよ、シビル。いそうなとこは何千とあるんだ」と答えています。具体例として美容院を上げるなど、彼の口ぶりからは作品冒頭の描写と近いものを感じます。つまり、筆者であるサリンジャーが皮肉っぽくミュリエルの行動を「無為に過したわけじゃない」と描写していたわけですが、主人公のシーモアもまた筆者と近しい印象をミュリエルに対して抱いていることが伝わってきます。そして、シーモアはさっさとミュリエルから話題を逸らします。

これにより、シビル側からの記述だけでなく、シーモア側からもまた、ミュリエルとシーモアが別の世界に属していることが説明されているわけです。再度数直線による説明を持ち出すのであれば、ここまでの描写を通して、シーモアが少なくとも「マイナス(負の値)」側にいることがわかるはずです。前のシーンでミュリエルは「シーモア=0」として、「母親=10」という基準のもと自らを「2」か「3」かと位置づけようと努力しているわけですが、それが些末で虚しいことでしかないことが、ここではあっという間に記述されているということになります。ミュリエルのシーモアに対する優しさは(若干空虚だとはいえ)貴重で尊いものであるわけですが、しかしそれはもはや現実的な効能を持ってはいないということですね。

そうして何の引っ掛かりも残すことなく、ミュリエルの存在は忘れ去られ、シビルとシーモアの会話が進められます。

 

シビルはシーモアのことを対等なボーイフレンドのように捉えているような口ぶりです。幼い女の子の可愛らしい一面であり、シーモアもそれに付き合い、彼女との稚拙で無垢な会話を楽しんでいるように見えます。噛み合っていないような会話の中にも色々と懸案するべき事柄はあるような気がしますが、とりあえず最初の議題である「シャロン・リプシャツとの関係性」について考えてみましょう。

シビルは幼いながらも、仲良さそうにするシーモアシャロンの関係性に嫉妬していますね。シーモアはシビルの嫉妬を宥めてやるために、「押しのけるわけにもいかない」や「シャロンをきみだと思うことにした」という言い訳をします。この辺りは、大人の男女のやり取りに近い、言わば「おままごと」のような雰囲気が作られています。が、シーモアはシビルの母とは違って、きちんとシビルと同じ視点で会話をしていることがここで示唆されています。現実的にもシーモアは砂浜に寝そべっており、シビルにより近い視点で喋っている点も実に配慮の行き届いた描写です。これらのことは、上述の通り、シーモアが世俗的な位置にいないことを補強する効果がありますね。

シャロンはその後も度々2人の会話に登場してきます。そして、その場面について共通点を見出そうとすると、1つのシーモアのシビルに対する一貫性のある態度が見えてきます。基本的にシーモアはシビルと同じ目線に立って、無垢なる存在との会話を楽しみ、そこに癒しを求めているわけですが、それだけではない部分があります。例えば、シーモアシャロンを出汁にして、シビルに自分の住所を言わせています。この瞬間、シーモアはシビルと対等ではなく、幼いシビルの知性を育もうとする教育者的な立場へと身を移しています。無論、ただ会話を楽しんでいるだけという見方もできますが、ほかにもシーモアシャロンを話題に「あの子は意地悪な真似をしたりいじめたりなんかしないんだ」とシビルに言って聞かせてもいます。シーモアはシビルに対して知性や道徳心を育もうとしていることが見て取れます。

そういったシーモアのシビルに対する教育心の際たるものが「バナナフィッシュ」という象徴に強く表れています。あくまでシーモアはシビルとの幼気な会話というスタンスを取っていますが、「バナナフィッシュ」を巡っての彼の言葉には、シビルという無垢なる存在に対して、この世界の深淵について言って聞かせようという意思が宿っているように私には感じられます。

 

あまり断定的な物言いはしたくありません。が、断定的な物言いをすることで理解が容易くなるので、とりあえず「バナナフィッシュ」を巡るシーモアの言葉を1つの形にコンバートしたいと思います。既にミュリエルと母親の会話の中で述べられている通り、シーモアは戦争に行って、戻って来た時には精神を病んでいました。この事実にフォーカスして以下のような読み替えを行います。なお、繰り返すようですが、これはあくまで1つのものの見方であって、確たる証拠を持ってこのような読み替えを行うわけではありません。私がここでやりたいのは、「バナナフィッシュ」という暗示がどういった機能を持っているのか、その可能性の1つを示唆することで、作品解釈に1つの方向性を与えるということです。

 

・バナナフィッシュはバナナの入った穴の中に入るときはごく普通の形をしている。

 ⇒軍隊に入るときはみな、普通の善良な人間である。

・いったん穴の中に入ると、豚みたいに行儀が悪くなり、バナナを七十八本も平らげたやつもいる。

 ⇒軍隊に入ると、善良な人間も急に残酷で汚らしい人間になり、七十八人も人を殺したりする。

・バナナをたらふく食うと肥ってしまい、入口につかえて、二度と穴の外に出られなくなる。

 ⇒人を殺してしまえば、二度とその残酷で汚い存在からは戻ることができない。

・バナナ熱という怖い病気にかかって、外に出られないまま死んでしまう。

 ⇒人を殺した結果、精神を病み、その苦悩の中で人は死んでしまう。

 

余談…

七十八という具体的な数字は、シーモアが実際に戦争で殺した人数でしょうか。あるいは、単にこれまでのシビルとの「おままごと」的会話に倣って持ち出しただけの、ただのリアルを演出するための数字に過ぎないのでしょうか。いずれにせよ、シビルは虎の数やバナナフィッシュの咥えたバナナの数を「6」としており、「78=6×13」という数字上の関係性があることは確かです。もちろん、幼いシビルが自らの語彙の中で用いることのできる数字が「6」しかない、という現れとも捉えられるでしょうが。私の浅はかな知識で言えば、キリスト教的には「6(=666)」や「13」というのは不吉な数字らしいですね。数字を使って具体性を出す、というのは子供が「おままごと」でやるレベルの幼稚なレトリックではあるため、シーモアとシビルの幼く無垢な会話を演出するうえでは重要な手法です。が、そこで利用されている数字にこういう「不吉」が隠されていることからも、シーモア…もといサリンジャーが何らかの絶望を抱いていそうな気がします。

 

余談を挟みましたが、この世界にある根源的な悪や恐怖、不吉がこの「バナナフィッシュ」という空想物として、シーモアによって語られています。それは上述の読み替えの通り、戦争を具体的に象徴するものであるかもしれません。が、サリンジャーにとって戦争が醜いものの象徴であるという事実はあるでしょうが(※サリンジャーはノルマンディー上陸作戦に参加しています)、サリンジャーが「バナナフィッシュ」という存在を通して語りたいのはやはり普遍的な「醜さ」であると思います。「戦争」と「醜さ」と「バナナフィッシュ」。これらは互いに混ぜ合わされ、この作品の象徴として君臨しています。シビルとの純粋で無垢な、美しい会話の中で語られるバナナフィッシュの生態は、シビルのような真っ白な存在に対する重要な警告となっているわけです。

シャロンは良いお手本として、バナナフィッシュは悪いお手本として、シーモアによってシビルに提示されています。しかし、幼いシビルにはシャロンは嫉妬の対象であり、バナナフィッシュはシーモアと遊ぶためのユーモラスな存在になってしまっています。これはサリンジャーによる残酷な皮肉の1つではあるでしょうが、そこに確かにある残酷な現実はシーモアとシビルの平和的な会話によって奥の方に押しやられています。サリンジャーが書き出したいのは、つまりシーモアが求めているのはあくまでシビルとの平和で無垢な会話なのです。その無垢は、あまりにも幼く善悪の分別もついていないかもしれません。しかし、無垢こそがシーモアを癒すのです。

 

このシーンをまとめます。

会話の雰囲気からは2人は歳の離れた友人、あるいは恋人同士という感じがするでしょう。頭のおかしくなった青年と、理性が未発達な幼女との脈絡の破綻した会話劇とも見えます。しかし、それはあくまで表面上の出来事です。

シーモアは戦争を通じて、「バナナフィッシュ」という空想上の存在が暗示するようなこの世界の深淵と対峙することになりました。その経験から、彼は世俗からは「壊れてしまった」という烙印を押されることになってしまったわけです。結果的にシーモアはミュリエルが属するような世界からは遠く離れた場所に取り残されます。

シーモアが取り残された場所にやって来られるのは、シビルのような幼く無垢なる存在だけです。そこで、シーモアはシビルという尊い存在に対して、この世の中の恐ろしさを「バナナフィッシュ」という暗喩によって警告し、シャロンというシビルにとって身近な存在を通じて、彼女を良い方向へと導こうとするわけです。が、幼いシビルにはそういったところは理解できず、会話はただの脈絡を欠いた「おままごと」にしかなりません。が、そのことをシーモアは「良し」とし、彼女の無垢なる想像力(バナナフィッシュが見えた、と言ったこと)に対して感激し、彼女の足の裏に接吻をします。

 

私はシーモアについて、色々と作品には書いてもないことを言ってしまったように思います。なので、今一度訂正をさせていただきますが、シーモアはあくまで「壊れてしまった人間」です。彼の行動はミュリエルが証言するように常軌を逸していますし、このシビルとの会話の後、自室で拳銃自殺を図る程です。ですから、上述のような種々の事情を踏まえ、シーモアがどこまでも理性的にシビルを導こうとしていたわけではないでしょう。彼はただ彼の苦しみの中で、壊れていく過程で、シビルと出会い、彼女から癒され、彼女に何かを託したかっただけに過ぎないと思われます。

が、それでも彼はただ精神を病んだ異常者ではありません。彼はミュリエルのような世俗に生きる人たちからは見放され、「壊れた人」という烙印を押され、誰からも救われることなく拳銃自殺を図るしかなかった可哀そうな人です。バナナフィッシュの比喩は、彼が直面する苦しみを仄めかしています。普通に読めば、彼はそんな苦しみを、唯一自分の傍に寄って来てくれたシビルに対し、変な形で吐露しただけということになるでしょう。しかし、シャロンを持ち出してシーモアがやろうとしたことを考えれば、無垢なる存在(=シビル)を導こうというまでの強い意志がなかったとしても、少なくともこの世で正しいものが何であるのかという自問の答を、シビルとともに見定めたいと思っていたことでしょう。

このシーンの最後で、シーモアはシビルの土踏まずに接吻をします。きっかけはシビルが「バナナフィッシュが見えた」と言ったことです。上述の通り単純にシビルの幼く自由な想像力に感激したとも読めますが、バナナフィッシュが悲劇的な生活を送り、誰からも理解されない(見つけてもらえない)シーモア自身の比喩であることを考えれば、シーモアはこのシビルの言葉に救われたため感謝の意味を込めた接吻をしたのだとも読めるでしょう。そしてシーモアは「もうたくさんだろう?」とシビルと一緒に岸へと戻ってきます。戻ると、未練気もなくシビルはそのままホテルの方へと走り去っていき、シーモアはまた1人浜に取り残されます。

 

・拳銃自殺まで

シビルと別れたシーモアはホテルの自室に戻り、そこで拳銃自殺を図ります。自室に戻る途中のエレベーターで、乗り合わせた女性に対してシーモアは「自分の醜い足を見られた」として怒りを剥き出しにします。ミュリエルが証言するような常軌を逸した行動です。それが自殺の引き金になったような時系列ではありますが、少なくともそのときの怒りに任せて自殺をしたわけではないでしょう。結局、シーモアが拳銃自殺を図った理由は何のか。既に色々と書いてきましたが、最後にこの印象的なシーンについて考えてみたいと思います。

 

まず、ミュリエルと母親との会話で、シーモアが浜辺でバスローブを脱ぎもしない事実が語られています。この理由を「大勢のバカ者どもに文身(いれずみ)を見られるのはいやだ」とシーモアはミュリエルに対して答えています。母は「文身なんかなかったじゃない」と言いますが、これに対してミュリエルは「いいえ。違うのよ」と反論したっきり、母との会話を切り上げようとします。その後でミュリエルはさらに「あたしべつにシーモアが怖いわけじゃないのよ」と答えていることからも、少なくともミュリエルはこのシーモアの「文身」発言の意図を承知していることが伺えます。

単純に考えれば、シーモアは戦争で負傷し、その傷跡が身体に残っているのだと考えられます。つまり、シーモアの言う「文身」とは戦争で負った傷のことですね。妻であるミュリエルならば、シーモアに残された傷を見ているでしょうし、そういったシーモアの醜い点についてあえて母に語って聞かせようという気持ちが湧き起こらないのも納得できます。最後のエレベーターのシーンでシーモアが乗り合わせた女に対して「足を見た」・「ぼくの両足は二つともまともな足なんだ」と言っていることから、その傷跡は足に残されている可能性が高いです。

また、実際に身体には傷跡がなかったにせよ、シーモアには何らかの「文身=戦争で刻み付けられた印」があったとも考えられます。それが心の傷だとするならば、様々に記述されているミュリエルの虚栄心の強さや母に対する反抗心から考えると、母からの問いをはぐらかしたことの理由にもなるでしょう(ミュリエルはシーモアが狂っていると認めたくないのです)。ただ、個人的には記述から読み取れるミュリエルの知性では、そういった微妙なシーモアの心の闇に対して寄り添えなさそうな気がするんですよね。

なお、ミュリエルは自ら「シーモアが浜辺でバスローブを脱ごうともしない」という話をしており、しかも、母にその理由を尋ねられて「あたしが知るわけないでしょ。肌があんまり白いからじゃない?」と見当はずれの答えを一度返しています。このせいでミュリエルが本当にシーモアの「文身」発言の真意を承知しているのか、疑念が生まれますが、ここは単に「口が滑った」というだけのことでしょうね。ミュリエルはシーモアが戦争で受けた傷を承知しており、バスローブを脱がないことをつい母親に漏らしてしまいますが、「シーモアを否定されたくない」という想いから一度ははぐらかしているのです。それでも「文身」という言葉に不信感を抱いた母からの問い詰めに疲れ、話自体を切り上げることにしています。ミュリエルとしては、シーモアが戦争で負った傷について母に説明するとなれば、彼が狂っていることを認めなくてはならない、と思っているのかもしれません。もちろん、そこにはシーモアのプライバシーや尊厳を守ろうという優しさから、母との会話を切り上げた部分もあるでしょうが。

 

そして、彼が身体的であるにせよ精神的であるにせよ、何らかの「文身=傷」を負っているという強い自覚があるとすると、シビルとのシーンでも重要な部分が見えてきます。

まずは冒頭のシーンで、シビルから「モット・カガミ・ミテちゃん?」と声をかけられた場面です。この時、シーモアは「びくりとして、右手で着ていたタオル地のローブの襟のとこを押さえた」という反応を見せます。このことから、ミュリエルの言葉通り、シーモアが自らの「文身」を見られることを恐れているのがわかります(「文身」が精神的な傷であっても、そこに対して強い自覚や倒錯があれば、やはり同じリアクションを取るでしょう)。しかし、相手がシビルとわかり、会話を始め、バナナフィッシュを捕まえる段となると、彼は躊躇なくバスローブを脱いでいます。

このことからシーモアはシビルに対してなら「文身を見られても良い」と思っていることが読み取れます。

シーモアの「文身」が身体的な傷だった場合、シビルという無垢で幼い存在はその傷の意味を理解せず、シーモアが戦争で負った「烙印」という見方をしないでしょう。そのことにシーモアは救いを見出しているわけです。前章の考察で「無垢さに癒しを求めている」と何度も書きましたが、「なぜ無垢さがシーモアを救うのか」ということはきちんと説明してきませんでした。しかし、その答えはまさにここにあり、「無垢なる存在はシーモアの文身を見ても、それを文身=烙印と認識できないため、シーモアを異常者扱いしないから」です。

シーモアの「文身」が精神的な傷であった場合でも、シビルのように無垢な存在にならその傷を見せられるという意味では同じです。現に彼は「バナナフィッシュ」という暗喩を出して、自らの傷をシビルに見せています。しかし、シビルは幼いため、シーモアにとっては重大な傷の象徴である「バナナフィッシュ」も、ただの空想上の存在としてしか捉えることができません。ありきたりですが、シーモアは「心の傷」を「心の傷」として見られることに耐えられなかったのでしょう。ですから、「心の傷」をそうとは理解できない無垢で幼いシビルに、シーモアは救われたのです。「無垢なる存在はシーモアの文身の意味を理解できない」という意味では、身体的な傷の場合と同じですね。

 

ここまで考えると、シーモアを苦しめていたものの正体が見えてきます。

シーモアには「文身」があり、その「文身」はシーモアが「バナナフィッシュ」であることを証明するものです。したがって、シーモアは自らをバナナフィッシュと証明する文身を見られることを心から恐れているのです。ですから、その「文身」を「バナナフィッシュ」の証拠として考える一般的な世俗をシーモアは疎み、恐れ、バスローブに身を包んだまま1人きりで浜辺に逃げ隠れているわけです。そして同時に、その「文身」を「バナナフィッシュ」の証拠として認識できない存在(=シビル)に癒されるわけですね。

シーモアは自分が戦争でやって来たことを悔やみ、自らが醜い存在であるのだと強い自責の念に囚われています。そして、その醜い存在であることを証明する「文身」を他者に見られまいと必死です。バナナを七十八本も食べて、醜く肥った自らの存在そのものが彼を苦しめているのです。

 

エレベーターに同乗した女が実際にシーモアの傷をじろじろと見ていたかはわかりません。上述の通り、シーモアの身体に実際的な傷跡があったかすら定かではないということもありますし、仮に傷があったにせよ、女がその傷を見ていたかも断定できないところです。もちろん、シーモアの身体に実際的な傷があり、それを女が確かにじろじろ見ていたという可能性も否定はできないでしょう。

ただ、いずれにせよ問題となるのは、シーモアが「見られている」という自覚を持っていたかどうかです。シーモアにとって「見られている」という状態はすなわち、戦争で犯した自らの罪を断罪されているのと同じことです。この絶え間ない断罪により、シーモアは精神的な異常をきたしており、言わばステレオタイプな「強迫観念」に囚われている状態と言えます(医学用語を使うと何でも味気なく聞こえてしまうので、悲しくなりますね)。そうして、再び自分を捉えたその強迫観念に背中を押され、彼は拳銃自殺を図ってしまいます。

構図というか、流れとしてはわかりやすいですが、シビルとの出来事にどのような意味を与えるかは非常に難しいところです。

シビルは確かに一度シーモアに救いをもたらしました。救済からの転落というその落差がシーモアを自殺へと追い込んだのでしょうか。もちろん、そう考えるのがスマートですね。ただ、せっかくこれだけ長々と色々書き連ねてきたのですから、もう少し違った見方も探ってみましょう。

シビルにはシーモアの「文身」が見えません。シビルは「バナナフィッシュ」という存在の善悪もわからず、またシーモア自身が「バナナフィッシュ」であることも理解できません。シーモアはそのことに救済されているわけですが、そんな風に救済してくれたシビルも、海で遊んだ後はさっさとホテルに戻っていってしまいます。その後にシーモアが感じたことをいくつか推測し、それぞれのパターンで自殺に至った理由を考えて見ましょう。

 

まずは、シーモアが去っていくシビルの背を眺め、「あぁ、これで救われたな」と思った場合です。シーモアは「もうたくさんだ」と満たされており、シビルに感謝をしつつ、彼女を見送ります。しかし、その後エレベーターで再び強迫観念に襲われ、「救われたのではなかったのか?」という絶望が彼に拳銃を握らせます。と、これが上述の1番わかりやすい流れになりますかね。

次に、シーモアが去っていくシビルの背中を眺め、「寂しいな」と思った場合です。自らを救ってくれた存在が去っていくわけですが、その救済者の特徴は「シーモア」という存在を認識できない点にあります。つまり、シーモア=バナナフィッシュという見方ができないということは、すなわちシーモアが見えていないということです。この事実に対して、シーモアが寂しさを感じていたとしたら、シーモアは「寂しさ」を取るか、「断罪」を取るか、という究極の2択を迫られることになります。もはやシーモアが考える自らの存在理由が「断罪されること」のみになっていることを自覚し、そこに絶望して拳銃を握ることになるわけです。このような解釈は実に私好みではありますが、エレベーターで出会った女に対して、はっきりとした怒りを感じていることから、少し脈絡上の正確性は欠きますね。

となれば、やはり先に書いたような「救済からの転落」というのが自殺の理由で正しそうな気もします。救われたと思ったけれど、エレベーターの中で再び強迫観念に捕らわれ、「逃げきれないのだ」という絶望がシーモアに拳銃を握らせたのでしょう。

シーモアはシビルの土踏まずに接吻し、彼女に救済の感謝をします。が、その後で「もうたくさんだろ?」と言います。この時点で、彼は自らがもう十分に救済されたのだという自覚があるのかもしれません。ただ、そのような救済を以てしても、現実的にはシーモアは罪びとであり、罰を受けなくてはなりません。死刑囚が刑の執行直前に何らかの宗教的な達人を通して「神の赦し」を与えられても、刑の執行がなくなるわけではありません。

シビルに救済されたのち、エレベーターで再度断罪を受け、シーモアは取り乱します。「ぼくの足は二つともまともな足なんだ」という言葉からは、「神から赦されてもなお、自らがバナナフィッシュであるという社会的な事実からは逃げられないのか」という絶望と、世俗に対する怒りを感じます。社会によって否応なしにバナナフィッシュにされたのに、その社会に「お前はバナナフィッシュだ」と断罪し続けられる不条理に対する怒りです。

自室に戻り、拳銃を握る前と、引き金をひく直前に、シーモアはミュリエルを計2度見やります。

1度目にミュリエルを見る前、自室に戻ったシーモアはまず最初に、仔牛革とマニキュアの匂いを嗅ぎます。それらはミュリエルの虚栄心や世俗を象徴する、シーモアにとっては卑しい存在であり、故に眠りこけているミュリエルを「見やる」ときに「ちらり」という素っ気ない態度を示す修飾語がつけられていると思います。「人の気も知らないで」という思いもあっかもしれません。

しかし、淡々とした動作で拳銃を自らのこめかみに持って来るところで、シーモアはもう一度ミュリエルを「見やり」ます。このときの「見やる」という動作に対しては特に修飾語なども無く、特別な意図を探すことが難しいのですが、大事なのは彼女を見るのが「2回目」であるということです。「二度見」という言葉があるように、そこには何らかの「思い直す」とか「考え直す」とか、そういった逡巡が含まれるでしょう。

その逡巡の中身が何なのかを明らかにすることはできません。言わば、この短編集の前書きで提示された「片手の鳴る音は?」という禅問答の答を明らかにすることができないのと同じです。ただ、この逡巡の中には、妥当でないため先に破棄した一考察である「見られないことの寂しさ」が含まれているように思うのです。たとえ「文身」があったとしても、その「文身」込みでミュリエルはシーモアをちゃんと見ていたのです。たしかにミュリエルはシーモアの位置を誤認しており、彼の心の傷を正確には理解していませんでした。しかし、彼女がいかに愚かで浅はかであったとしても、そこには「寄り添おう」という気持ちがあったはずです(もちろんその気持ちにも幾分か俗っぽい理由があったに違いないですが)。ただ、そういった事柄ももはやシーモアの自殺を止めうるだけの力を持っていません。誰かに優しくされたり、救済されたりしたところで、彼がバナナフィッシュであるという事実を覆せるわけではないのです。

長くなったのでまとめ直します。

シーモアは引き金をひく前に、ミュリエルの愛情を思い出し、彼女のことを見やるだけの僅かな時間、死の行為から離れています。それはほんの僅かとは言えど、確かに救いではありました。しかし、結局のところ罪というものは消すことのできないものです。故に、シーモアは自らのこめかみを撃ち抜かないわけにはいかなかったのだと思われます。

 

・右と足

私はキリスト教徒ではないですし、またちゃんとキリスト教を勉強したわけでもないです。だから、この章に関しては、あまり自信を持って語れない部分があります。ただ、キリスト教には「洗足式」というものがあり、また十字を切るときには「右手」を使うということも断片的な知識として知っています。「フラニーとズーイ」に見るように、サリンジャーキリスト教に精通しており、そこに深い意味を見出してもいます。

 

シーモアがエレベーターの中で見られて嫌がるのは「足」です。今までの話を統合すれば、彼は「足」に「文身」があると感じているようです。「文身」は自らが穢れた「バナナフィッシュ」であることの証明であるため、つまるところシーモアは自らの「足」が穢れており、醜いものであるという後ろめたい自覚があるのかもしれません。

 

洗足式(せんぞくしき)とは、最後の晩餐のとき、イエス・キリストが弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13:1-17、新共同訳聖書)と命じた聖句により、足を洗うキリスト教の儀式。

Wikipedia「洗足式」より

 

キリストが自らの弟子の1人であるユダヤに裏切られ磔刑に処される前に、12人の弟子を集めて開いた最後の晩餐会で互いの足を洗い合ったらしいです。無知な私にはその意味がよくわかりませんが、きっとその「足を洗う」という行為には穢れを払う意味や、何かを赦し合うという意味があったのかもしれません。そう考えると、シーモアが自らの「足」に「文身」があると感じている状態は、つまるところ自らが穢れており、赦されていないということを示していたのかもしれません。

 

次に「右」についてですが、シーモアは最後に自らの「右」のこめかみを撃ち抜きます。つまり、十字を切る方の「右」手で拳銃を握っていたことが、「あえて」記述されているわけです。キリスト教においては、何に寄らず、左に対して右が優位であるそうです。これは復活の際に、キリストが父の右に座ったことにも理由があるらしいです。

十字が意味するのは、もちろん「十字架」です。キリスト教はキリストが全人類の罪を負って(過剰表現すれば「肩代わりして」)磔刑に処されたことが、その信仰の根幹であると私個人は考えております。十字を切る行為はそんなキリスト教への信仰心を表明すると同時に、つまるところ磔刑を再認識するための行為とも言えるでしょう。繰り返しになりますが、磔刑は人間の罪の罰し、同時に罪からの解放をもたらす手段として捉えることができます。ですから、人間の罪を罰し、同時に罪からの解放をもたらす磔刑を象徴する、十字を切る行為を行う右手…でシーモアは自らの命を絶つことが明記されている…というのは、一つ重要な要素であると思います。

 

戦争で(78=6×13人の)人を殺し、穢れた自らの罪を、シーモアは(足を通して)自覚し、そしてそれを断罪するために(磔刑を示唆する右手で)拳銃の引き金をひいたわけです。

 

この「バナナフィッシュにうってつけの日」という物語上でも、これらの事実は重要なニュアンスを含んでいるわけですが、むしろ本作以外のサリンジャー作品に対する影響を考える上でこれらの事実はより重要度を増すように思います。つまり、最初に述べた通り、本作の主人公であるシーモアは、言わばサリンジャー教(すなわちグラース家)の要として以後の作品において非常に重要な位置に掲げられ続けています。その理由は、上述のようなキリスト教における重要な要素がこの「バナナフィッシュにうってつけの日」において記述されているからと言えるかもしれません。シーモア≒キリストとでも言えるようなグラース家の物語の発端が本作では垣間見れるのです。

 

ちなみにですが、「シーモア~序章~」という作品の中でシーモアが書いた詩には「右手で猫を撫でる」描写があります。この「右手」とあえて明確に描写するのは、具体性によりリアリズムを演出するという即物的な嫌らしいものとしてではなく、むしろ非常に抽象的かつ多義的な意味を持たせるためのものであると、サリンジャー自身のアバターであるバディを通して説明がなされています。このことからも、あえて「右」のこめかみをシーモアが撃ち抜いていると記述していることには、キリスト教における様々な逸話を含んだ実に多義的な意味が隠されているはずです。サリンジャー作品をきちんと理解するにはキリスト教を勉強する必要がありますね。

 

・「バナナフィッシュにうってつけの日」というタイトルについて

原題は「A Perfect Day for Bananafish」です。バナナフィッシュが意味するところは既に言葉を尽くしている通りです。問題は「うってつけの日=A perfect day」というところですね。「バナナフィッシュ日和」とも言い換えられそうです。ただ、直訳するのであれば「バナナフィッシュにとって、完璧な日」ということです。

シーモアは「バナナフィッシュ」を探しに、シビルと海に行き、そこでシビルによってバナナフィッシュは発見されます。シビルがバナナフィッシュを見つけたことに感激するシーモアですが、自らに刻み付けられた罪が拭え切れないものであることを理解し、彼は自殺してしまいます。

バナナフィッシュの生態について、シーモアは「彼らは実に悲劇的な生活を送る」とシビルに説明しています。なぜ悲劇的なのかと言えば、これもまた既に説明をしている通り、自らの醜い行為によって逃げ道を絶たれ、最後には死んでしまうからです。バナナフィッシュであるところのシーモアが自らの醜い行為により逃げ道を絶たれ、最後には死んでしまうこの1日は、まさに「バナナフィッシュ的に完璧な1日」と言えるかもしれません。まずはそれがタイトルの1つの捉え方と言えるでしょう。

そして、「A perfect day」という言葉が「うってつけの日」や「申し分のない日」、「~日和」というニュアンスを持っていることから、どこか無垢さを感じますね。「今日はピクニック日和」みたいなそういう幼い頃の無垢な感情が思い起こされます。幼く無垢なシビルと一緒にバナナフィッシュを探しに行く…そんな素敵な1日を指して、「バナナフィッシュ日和」というタイトルをつけたのではないかと思います。

結果的に悲惨な話ではありますが、シーモアが自らの罪を見定め、自らを罰することで神の赦しを得られたという意味では、ハートフルな1日とまではいかないものの、贖罪を達成した大切な1日でもあるわけです。ただ、まるで英語の授業みたいですが、冠詞に「The」ではなく「A」を用いていることからも、それがあまり記念碑的なものではなく、我々人類にとってありきたりで普遍的な1日であることも指し示してもいます。

ノルマンディ上陸作戦で戦争を経験したサリンジャーにとって、本作は贖罪の意味も込められた重要な作品であったのでしょう。そして、自らの罪を負って磔刑に処されたシーモアはその後のサリンジャーの作品の中で、絶対的な信仰の中心として生涯を通して掲げられることになるのです。

 

最後に…

かなり長くなってしまいましたが、これでも正しく書けているのか自信がありません。私にとってサリンジャーはやはりいつまでもヒーローであり、彼の作品について思いを巡らせることは、楽しいと同時に非常に神経を擦り減らす行為でもあります。

いつもは無責任にベラベラと思ったことを書き連ねるだけなのですが、今回ばかりは何度も書き直しを行い、とても慎重になって書き進めた次第です。とは言え、結局はまとまりのない文章になってしまうので、自分の文章構成能力のなさが嫌になるのですが。

そして、怖ろしいことに私は「ナイン・ストーリーズ」のレビューをするそうです。そうです、つまりこれで9分の1です。

まぁ、この「バナナフィッシュ~」はサリンジャーを語る上でもかなり重要な作品なので、その分重たくもなってしまうだろうと想定していたわけですが。

ただし、本作はこうして記事にする前からもずっと私の中で考察を進めていたものなので、ある程度どのような内容になるかは書く前から検討がついていました。しかし、「ナイン・ストーリーズ」の中には、まだ私自身考察が足りていない短編もあります。そいつらの記事を書くにあたっては、いったいどれだけの労力が必要になるのか、考えただけでおそろしいですね。なんて言ったって、私はこの「バナナフィッシュ~」と出会ってからすでに7年近く経っているわけですから。

 

 

梅雨らしい梅雨は久しぶりだなぁ、と思う今日この頃。

嫌いだった病院の駐車場で幼稚園バスを降りて、祖母と一緒に水浸しの道を帰る。レインコートと長靴。坂道を流れ落ちる雨。湿った木の匂い。

祖母は私が中学生の頃に死んでしまったけれど、その頃には私はもう祖母という人間を関係性上の祖母としか捉えていなかったように思います。土砂降りの雨の中で、幼稚園バスで運ばれてくる私を待っているとき、祖母はどんなことを考えていたんでしょうかね。彼女の葬儀の日は雨でした。あのときの私が、いま私が思い出している断片を思い返せていたら、もう少しくらいは彼女の死を悼むことができたかもしれません。

 

2. vol. 2 コネティカットのひょこひょこおじさん

eishiminato.hatenablog.com