霏々

音楽や小説など

霏々 vol.9

 けれども、いくらか面白いことも発見した。

 たとえば、散歩は楽しいし、虚無を思えばこそ、色々な無意味が感動に繋がることも往々にしてある。例えば、アスファルトの上で揺らめく逃げ水を見て、小さい頃の僕は無感動を覚えた。なぜなら、それが何の意味もないことだからだ。しかし、今となって思えば、その無意味性こそがすなわち真理であり、神であり、つまるところこの世の全てであるわけだ。そのことを僕は発見してしまった。そして、そういうものの見方を手にしてからというもの、全ての無意味なものが、僕に感動をもたらすようになった。もちろん、その無意味性に辟易とさせられることも多々ある。しかし、それは僕が有意義を求める社会の上に立っているときに主に感じられるものであり、僕が独り、実際的であろうと仮想的であろうと、散歩を楽しんでいる間には、その無意味性がやはり感動をもたらすのだ。

 いくら言葉を並べてみたところで僕の見解は変わることがない。いや、少しくらいは変わるだろうか。でなければ、新しい発見なんてものはあり得ない。しかしながら、僕はこうやって無意味に、無意義に言葉を吐き出し続けることで、少しずつ虚無的真理に近づいているような心持がするのだ。RPGの勇者みたいに、少しずつ武器を強い武器に変え、新しい呪文を覚え、そしてラスボスの待ち構える魔王の城を目指している。もし、問題があるとすれば、実際にはラスボスなんてものが存在していないことだ。でも、ラスボスがいないからと言って、僕はこの散歩をやめることができようか。いや、できまい。なぜならば……そもそもの定義からして、これはただの散歩であり、これと言った目的などないからだ。散歩をしながらでしか、散歩の目的は見つけられない。あるいは、人によっては、散歩の目的は散歩をすることそれ自体だ、と言うかもしれない。それはそれで間違いではないだろう。

 さて、こうして僕はまた最初の出発地点に戻って来た。

 何の変哲もないアスファルトの上の逃げ水。

 夏も終わろうとしている。いつごろ、逃げ水は見えなくなるだろう。そして、僕はそれが見えなくなったことにちゃんと気がつけるだろうか。いや、気づかない方が良いのかもしれない。不在が意味を持ってしまう時点で、それは存在が意味を持っていたということになってしまう。それは、これまでの僕の口ぶりからすれば、僕の望むところではない。

 退屈なひと夏。僕の心を満たしてくれたこの退屈な散歩を、将来の僕に捧ぐ。

 退屈な思い出として、次の「創作=思い出すという行為」に繋がれば、それこそがこの無意味な散歩が、次の虚無を生み出すための意味となろう。このだらだらとしたお喋りを僕が求め続ける限り、この散歩はいつまでも続くはずだ。なぜなら、情熱は引用されて然るべきだから。はぁ、また引用を使ってしまった。

 

                                  2018.8.25