霏々

音楽や小説など

霏々 vol.8

 一つ目は、死んだ方が良いのに、僕が生きている理由だ。それについては、いくらか前に、「僕は死のドアの前にずっと座り続けていたものの、結局のところそれが開くことはなかった」というような話をした。僕は死を疎んでいる訳でも、嫌っている訳でもないが、ただ生物として死に対する恐怖は拭い切れなかった。死の痛みが怖くて、死ねなかったのである。もちろん、生が怖くないと言っているわけではない。ただ、生きることが怖いと言っても、現実的に僕を生から迫害するようなわかりやすい敵はいなかった。そして、僕はまだ生に対して、理解の余地があると感じていたようだし、大抵の恐怖は対象を理解できないというところから始まる。戦争が誤解や妄想から始まるのと同じように。そして、僕は何とか生の恐怖に晒されながらも、生の恐怖が死の恐怖に勝る前に、生についての認識を、死についての認識を通じて、つまり虚無の理解を通じて、手に入れることができた。そして、天秤の両側に乗せられた「生の恐怖」と「死の恐怖」の重さが等しくなった上で(あるいはいくらか「死の恐怖」の方がわずかに重くなった上で)、生から死への不可逆性を理由に僕は「もったいないし」という理由で生きているに過ぎない。これで一つ目の補足は終わり。

 二つ目の補足はすなわち、「なぜ僕は死んだ方が良い人間なのだろうか」ということだ。これをきちんと説明するためには、僕は自分語りをしなければならない。「死んだ方が良い人間」どころか、僕は実際に長い間「死のう」とし続けていた。死ねなかった理由は、さっき説明した通りだし、そこから得られたものについても既に長い散歩を通して説明している。というわけで、僕はいよいよその原点に立ち返り、自分語りをしなければならないようだ………………とは言っても、やはりそんなことはしたくない。それは僕の美学に反する、なんて言えば聞こえはいいかもしれないが、単に恥ずかしいだけだ。そして、そんなことをするためにこの散歩を始めたわけではない。先にも言ったように、ジャン・ジャック・ルソーならまだしも、この散歩の主は冴えない愚かな「僕」である。僕の人生がルソーの人生よりも人の興味を惹くわけもないし、となれば、わざわざルソーと同じような散歩の仕方をする必要なんて無いし、恰好悪い。僕はもっともっと恰好つけたいのだ。

 だから、僕は二つの挿話を入れることにする。前は、何の前置きもせずに挿話めいたものを入れてしまい申し訳なかった。今回は恰好つけずにちゃんと断りを入れる(しまった! 間違った! 僕は恰好つけたいのだった!)。

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 あの日、僕は十七歳の彼女を殺した。僕には彼女を生かすこともできたし、そして、実際に僕がやったように彼女を殺すこともできた。そのときの僕は、自らが彼女の十七歳の生死を握っているなんて気がつかなかった。

 誤解しないで欲しいが、僕は現実的に彼女に刃物を突き立てるなどして、彼女を殺したというわけではない。ただ、僕にはもう少しいくらでもやりようがあったし、そのやり方次第では、彼女の十七歳を殺すことにはならなかったと思う。

 僕は彼女の誕生日の前日から彼女と付き合い出し、そして、次の彼女の誕生日の前日に彼女と別れた。

 あっという間の一年だった。そして、彼女は十七歳だった。

 不思議なものだけれど、今の僕は十七歳のころの彼女の美しい生命力によって生かされている。ある意味で僕は殺人を犯したにも関わらず、その殺した人間の美しさに魅せられることでこうしてまだ生きながらえているようだ。

 彼女は僕にとって理想だった。

 優しく、頭が良くて、儚げで、そして優しかった。

 僕はずっと彼女と一緒にいたいと思っていた。にもかかわらず、僕は彼女の十七歳を殺し、そして、彼女とは別れることになった。あれからおよそ十年が経とうとしている今もまだ彼女のことを想っているにも関わらず、今では彼女がどこで何をしているかも知らない。全ての原因は僕が男だからだったとしか言いようがない。

 今となっては、別に「告白」なんて大袈裟な宣伝文句を使わなくても、いたって平常心で僕は自らがゲイであることを打ち明けられるようになった。

 しかし、十七歳のときの僕にはそれが無理だった。

 彼女に対して、愛情がなかったというわけではない。さっきも言ったように、彼女は優しく、頭が良くて、儚げで、そして優しかった。そんな彼女は僕にとって理想だった。

 だから、彼女が仲良くしてくれて嬉しかった。

 けれども、彼女は「男の僕」に恋をしてしまった。そして、僕は彼女と親密になるために、「男の僕」を利用した事実を否定はできない。そして、結果的に僕たちはお付き合いをするようになった。十七歳の僕は十七歳の僕なりに彼女に対して愛情を注いでいたと思うし、それに「男の僕」に恋をした彼女が幸せそうな笑顔を見せてくれていたのが、とても嬉しかった。

 彼女とはとてもたくさん話をした。

 音楽の話や、将来の話。それから、これまで十六年間の人生の話。

 でも、僕は自らがゲイであることを打ち明けることができなかった。誰にも言えなかった。そのことが苦しいと思ったこともあったけれど、でも、それはそれで仕方のないことだと割り切ることができてもいた。運が良いのか悪いのかよくわからないが、僕は可愛かったり美しかったりする女の子に憧れこそ抱くけれど、自分がそうなりたいとまでは思えなかった。だから、僕は男として振る舞い続けることにはあまり苦がなかった。女の子は僕にとって全てアイドルで、すなわち偶像であった。美しい絵画や刺激的な音楽と同じだ。同じ人間から生み出されたものではあるが、そもそもの成り立ちから僕らとは違う。彼らアーティストの人間性もまぁ好きにはなれるけれど、でも、それとは切り離して彼らの生み出すアートが好きだ。なぜなら、そこには人間性がないから。

 ただ、僕がゲイである理由は、僕が人間の「人間性」にしか欲情できないというところにある。女の子は僕にとって偶像であり、性の対象には成り得なかった。

 僕は、もっと人間的な、あるいは生物としての意地汚さや、愚かさ、そして獣臭さに性的な興奮を覚える。中にはそういう女もいるだろうが、僕としては女性のそういった面を見たくなどなかった。まるで、資本主義に冒された商業アートを見させられるような想いだ。

 だから、僕は男にしか欲情することができなかった。ましてや、僕の理想の偶像である彼女に対して欲情などできようか。

 そんなわけで、僕は彼女と性的交渉を設けることのないまま彼女と付き合い続けた。

「〇〇くん」

 彼女が僕の名前を呼ぶ。付き合い始めて365日目のことだった。

「〇〇くんが、私のことを大切にしてくれるのはとっても嬉しいの。でも、〇〇くんは本当に私のことが好き?」

「好きだよ」

「なら……こんなこと言うの、恥ずかしいんだけど……その、キスとかさ。したいと思ったりしないの?」

 僕は黙って彼女を見つめることしかできない。

「いつも手を握ってくれるだけだよね。それとも、あれかな。私の勘違いだったら恥ずかしいけど、明日の私の誕生日にしてくれるとか、そういうことかな?」

 彼女は自信なさげに笑う。

 僕たちは彼女の部屋にいた。いつものようにベッドの端に並んで腰かけながら話をしていた。西陽が窓から斜めに入り込んで、部屋の白い壁をオレンジに染める。カーテンはきちんと左右でまとめられて、可愛らしい装飾的なフリルのようだった。

「ねぇ、もう一年だよ。今日が一年の記念日。私、誕生日まで待てないの。わがままかもしれないけど……」

「わがままなんかじゃないよ」

「じゃあ、どうして?」

 どうして、か。

 それが言えたのなら、僕はどれほど楽になれるだろう。

 その時の僕の頭の中では、色々なことが巡っていた。僕が仮にここで、自分が性的には男にしか興奮できないゲイだと告白する。今まで誰にも言ってこなかったこと。もちろん、彼女が誰かに言いふらすなんてことはしない。そんなことをする子ではないのは十分わかっている。でも、なぜ、告白できない? 彼女を変な形で傷つけたくなかったから? そんな都合の良い解釈なんてないだろう。わかってる。僕は彼女に嫌われたくないし、気持ち悪いと思われたくない。僕の中の下手なプライドだ。ゲイとバレて気持ち悪がられるくらいなら、掴みどころのない男として終わった方がマシだ。くだらないプライド、虚栄心。最悪だ。

 彼女は不意に僕に背中を向けた。

 小さな背中。僕の為に巻かれた長い髪。彼女の腕は細く、身体は柔らかく、男の僕にそっと抱きしめられるのを待っていた。

 僕は抱きしめてやるべきだ。

 そんなことわかっている。

 でも、抱きしめたとしたらどうだ? 彼女はきっと僕に口づけを求める。仮に口づけだけなら許そう。けれど、もしそこから先に進んでしまったら……僕は彼女に欲情できない。

 彼女の啜り泣く音が、冬の細い雨のように霏々と降り落ち、部屋を満たしている。

「ごめんね」彼女は背を向けたまま鼻声で言う。「今日は帰ってもらってもいい?」

 彼女は両手で顔を覆っている。夕陽に染められ、彼女はこれまでで一番美しく見えた。

 僕はベッドの上から立ち上がり、そしてドアの前で一度彼女の方に振り返る。

 僕は無意識のうちに口を開いていた。

「ごめん、別れよう」

 彼女が声を上げて泣き出す。背中を向けたまま。けれども、その背中は未だに「男の僕」に抱きしめられていることを求めているように見えた。

 鋭い錐のように突き刺さる彼女の泣き声に耐えることもできず、僕は彼女の部屋を後にした。誰もいない彼女の家。階段を降りて、玄関を飛び出した。

 彼女の家の前の路地から、彼女の部屋の窓を見上げる。何も見えないし、何も聞こえない。ただ、路地に沿って、僕の黒い影が長く伸びているのが見えた。

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 あるときペンギンがアルパカに向かって言いました。

「そんなに毛がもじゃもじゃで暑苦しくないかい?」

 アルパカが答えます。

「むしろ太陽から守ってくれてるんだよ。君こそ、そんなに足が短けりゃ、歩くのが大変だろう」

「別に泳ぐから問題ないのさ」

 ヒトがペンギンとアルパカに向かって言います。

「君たちは、そんなに頭が悪くて不便じゃないかね」

 ペンギンとアルパカは顔を見合わせて、大声を出して笑いました。

「いやいやいや、頭なんて良くなりたいとは思わないね」

「そうさね。頭が良くたって生きるのが辛くなるだけだろう」

 ヒトは自分よりも頭の悪いペンギンとアルパカに馬鹿にされたような気分になり、怒ります。そしてポケットからピストルを取り出して、二匹を撃ち殺しました。

「食べるため以外に生き物を殺せる。だから、ヒトはいつまで経っても不幸なのさ」

 ペンギンの声が聞こえてきます。

「なまじプライドみたいなのがあるからそうなるんだ。ほかと比べて自分が優れていないと幸福だと思えないなんて、愚かの極みさね」

 アルパカの声も聞こえてきます。

 ヒトは肩を落とし、そして、ピストルで自分の頭を撃ち抜きました。

「「自分で自分を殺すなんてね。愚かで、不幸で、どうしようもない」」

 ヒトはカミサマにお願いしました。

「生まれ変わるとしたら、今度はペンギンかアルパカにしてくれ」

「ふふふ。カミサマなんてものはいないのに」

「ヒトが勝手に作り出したんだよ。プライドとかと一緒にね」

「そして、また自分とほかとを比べて、より良いものになろうとしている」

「懲りないねぇ」

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 結局、僕は他人から求められるように振る舞ってきたのだろうし、それ故に変な虚栄心みたいなものでしか自分を満たすことができず、最終的にはそのせいで誰かを傷つけてしまった。だから、僕は死ななくてはならないのであり、そしてまた、どこまで行っても無意味な宇宙の籠の中に閉じ込められてしまったままなのだ。死の義務はすなわち虚無を意味する。それが僕の得たものだった。