霏々

音楽や小説など

気晴らし 1

 こめかみの辺りにピリピリとした痺れを感じる。揺れる車両、汗を吸い込んだシートが湿気でムッとする匂いを放っている。ガラス窓にはいくつもの水滴が貼り付き、四隅は白く曇っている。水滴と曇りで歪んだ景色は、暗緑色の森と寒々しい田園風景。見知らぬ土地を走行する鉄塊。窓は閉まっているはずなのに、容赦なく冷気が染み出してきていた。ふくらはぎの辺りが旧式の暖房機から吹き出される熱風で暑い。淫靡でメロウな音楽が鼓膜を湿らせる。
 何年か経ったとき、僕はこの景色と感覚を思い出すことになるだろう。あるいは頻繁に。何かで、どこかで読んだ。生まれてすぐに死んだ赤子も、老衰で死んだ老人も、その死の瞬間に感じる「何か」があれば、それは等価な人生だ。僕の人生はクソみたいな代物だ。それでも、もし死ぬ瞬間に今まさに僕が感じている全てがフラッシュバックするのであれば、それだけで僕の人生はあらゆるものと等価になるだろう。いや、フラッシュバックとは違うのか。要するに、自分の中にそういう抱えている景色や感覚、その「何か」があればそれだけでいいのだろう。
 美しい、という言葉の定義を考える。アドレナリン的な感動、センチメンタルな感情、鎮静や陶酔、麻痺、安堵の吐息。僕が今抱えているこの感覚はどれに当てはまるか。そういう細やかなことはわからない。しかし、何年か経ったときにふと思い出されるもの。それが美しさなのかもしれない。あるいは何年か経ったときにふと思い出してほしくなるような「何か」。ずっと抱えていたいもの。主観的に「価値がある」と思えるもの。
 瞬間的に感じられる様々な刺激がある。それらも美しさと呼べるものがあるかもしれない。しかし、やはり時の流れで磨き、削られた残滓。それこそが美しさの本質だろう。もちろんそこには現実的な時間が与えられるという仮定が必要だが(本来は美しいものであるはずなのに、それが然るべき時の流れを経る前に当事者がこの世から消えてしまうという可能性もある。それを補償するためには、然るべき期間が与えられるという仮定が必要だ)。美しさは事実でなくて良い。それは主観であり、ただの移ろう感覚だ。逆に言えば、感性こそが美しさを定義できる。定義という言葉は不適切か。規定……これも違うか。感性こそが美しさを発現させ、存在を担保する。想像力で増幅することも重要なことであるかもしれない。
 言語化能力というのは商売になる。表現力もある程度商売になる。でも感性を増幅する想像力というのはそれだけでは商売にはならない。でも、仮に赤子のまま死ぬことよりも、より長く生きることに意味を見出せるのだとすれば、それは想像力を養えるというところにあるだろう。想像力を養うということは、様々な角度から様々な刺激を美しいものへと増幅させることが可能である。例えば、本文の最初のパラグラフでの描写。あれらから僕は自分のプライベートな記憶を遡り、然るべき時間が経過した上でもより熟成した感覚を味わうことが可能だ。自分の内側に自分だけの美しさを創造する能力。それこそが想像力と言える。金にはならないが何にも代えがたい価値はあるかもしれない。
 長く生きることは様々な痛みや苦労、虚無や失望を伴うだろう。それらを補って余りある価値が、想像力にはあるとは言い難い。というか、想像力ではそれを補うことができない。いわば、我々の苦悩はどちらかと言えば、実軸方向の問題である。美しさは虚軸方向の話だ。ベクトルが90°違うのだ。虚数にも正負がある。美しさと聞くと、普通はプラスのものを思い浮かべるかもしれない。しかし、僕が喋っている美しさはマイナスのものも含んだ虚数世界全てを指す。実軸から離れて虚数世界に思いを馳せる。その能力を想像力ということになる。赤子であれば、意図的にその虚数世界へ意識を飛ばすことは難しい。感覚的にはそれを知覚できるだろう。しかし、年齢を重ね、術を身に着けることができれば、割と意識的に虚数世界へと飛び立てる。先に行ったようにそのことに経済的な価値はない。人生における価値とも言い難い。しかし、生きることの価値を考えたときに、様々な割に合わない苦悩を孕みながらもまだ何かを見出そうと生きていくのは、想像力を鍛えることに何らかの個人的な価値を見出しているからではないか。僕はその想像力を養うという可能性に期待をしている。
 もちろん若い頃のように僕の感性は鋭敏ではないだろう。僕の抱く虚数世界もだいぶ固定化されてきてしまった。しかし、その凍り付いていく虚数世界の中でも、僕はわずかな火種に空気を送り込み、大切な灯をまだ見守り続けている。それが美しさを糧に生きるということなのだろう。生きることが美しいのではない。また、美しさが生かしてくれているというのでもない。ただ、生きている以上は、美しさの灯とともにある。
 ガラス窓の外では日が暮れ、森も田んぼも隠れて自分のつまらなそうな顔がガラスに反射している。首を捻り、額をガラス窓に擦り付けるようにして、それでも外を見ようと試みる。遠く、ここがどこかもわからない土地に、民家のオレンジ色の光がぽつんと光って見えた。

「有線ピヤホン3」レビュー

クラウドファンディングがかなり白熱した有線ピヤホン3ですが、本日8/20に手元に届きましたので早速簡単なレビューをさせていただこうと思います。

 

有線ピヤホン3 外箱

ピヤホンシリーズですが、まず箱からカッコイイですよね。これだけで「良い買い物をした!」という感動があります。

取り出してみると、これが結構ずっしりとした重量があり、高級品という感じもありますね。

 

有線ピヤホン3

 

 

1.音質~強み~

一聴して、「おぉ!ボリューム感がすごい!」という感じがありました。低音がかなり重めで、それでせせこましくなく、非常に広がりというものを感じます。ただ低音が大きく鳴っているというのでもなく、しっかりとクリアに聴こえてくるので感動しました。

低音に関しては、まず「粒立ち」から確認していきます。あまり良いイヤホンでないと、ベースの音が潰れてしまって16ビートなどが曖昧にしか聴き取れないということが結構あります。それを確認するための音源として、私はたいてい「シュガーサーフ(おいしくるメロンパン)」のベースを確認することにしています。

 

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はい。ちゃんと聴こえますね。ほかのイヤホンとの比較は最後にまとめて行うつもりですが、無線ピヤホン5と比べると、よりベースの音が生々しいです。無線ピヤホン5の方が若干音に加工・補正が入っているような感じがあり、マットに聴こえます。マットな分、「粒立ち」という観点では無線ピヤホン5の方がはっきりしている感じもありますね。とは言え、やはり有線は情報量が多く、いい塩梅で雑味もあり、それが生々しさを引き立たせています。にもかかわらず、音が潰れずにしっかり一音一音聴こえてくるのは、やはり解像度の高いイヤホンなのでしょう。

そして1番、有線ピヤホン3で聴いて感動した(相性がめちゃくちゃ良いと感じた)のが「D.A.N.」の最新アルバム「NO MOON」ですね。

 

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アルバム表題曲の「No Moon」では約1分あたりからのベースの低音の存在感がエグイです。

 

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アルバムの中でもかなり攻撃的な「The Encounters」もめちゃくちゃカッコ良く聴こえます。

この「NO MOON」というアルバムの音像は、

・低音が太く、よく響き、味わい深い

・多彩な装飾音(中音域~高音域)

・甘く、生々しいボーカル

という特徴があると思っているのですが、それらの良さが有線ピヤホン3によって最高潮にまで引き出されている気がします。逆に言えば、有線ピヤホン3の強みが上記のような点にあると言えるでしょう。

 

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なので、意外とピアノの独奏なんかでも音が痩せ細りしなく、豊かな音像を楽しむことができます。

このように総じてかなり迫力が出るイヤホンであると思います。

 

2.音質~苦手分野~

苦手分野というか、これは単純に好みの問題という気もしますが、「一長一短だよね」ということを簡単にご紹介させていただければと思います。

 

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以外なところで、個人的には「凛として時雨」や「TK from 凛として時雨」における私の楽しみ方とはちょっとマッチしていないなという印象でした。もちろん、低音を含めた音全体の迫力は素晴らしく、いつもよりも骨太な音像を楽しむことができます。しかしながら、どうしても私は鼓膜に突き刺さるような攻撃性の高いものを「時雨」に求めてしまいます。

有線ピヤホン3は長時間聴いていて疲れないイヤホンを目指したとのことなので、耳に刺さるような音域はあえて抑え込んでいるそうです。そう考えると、確かに「時雨」の音楽でも長時間聴いて疲れないので良いですよね。私は散歩しながら「時雨」を1~2時間爆音で聴き続けるというストレス発散をたまにやるのですが、大抵最後の方は鼓膜が疲れて、人の声なんかがまるで何重もの膜を通して聞こえてくるような感じになってしまいます。有線ピヤホン3ではそういった事態にはなりにくそうです。

なので、一長一短なのですが、どうしてもそういった刺激が欲しいときはいつも使っているイヤホンを使おうと思います。ちなみに、この点に関して言えば、無線ピヤホン5よりは有線ピヤホン3の方が攻撃的な音をしているように思いますね。というか、有線の方がやっぱりかなりタフな音像だと思います。より「生(なま)」です。

 

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そして、これは完全に強みの裏返しなのですが、「No Buses」のようなある種のローファイ感、チープさを楽しみたいときには、有線ピヤホン3は若干迫力が出過ぎるという部分があるかもしれませんね。バスドラムやタム、ベースが骨太になります。まぁ、でもこれは気にならないと言えばそこまで気にならないかもですね。むしろ、YouTubeとかの広告に迫力が出てしまう方がちょっとイラっとします笑

 

3.装着感

耳掛け式の有線イヤホンという意味では、私は普段オーディオテクニカ(オーテク)で耳掛け式のものを使っているので、そっちに慣れています。オーテクのものは耳にかける部分が針金のようになっていて、一度曲げたらその角度を維持してくれるような硬さがあるのですが、有線ピヤホン3のケーブルにはそういったものがなく、柔らかいです。なので長時間かけても耳が痛くなりにくいというメリットがありそうです。が、ちょっと使った感じでは、ケーブル自体にも結構重さがあるので、安定感は若干オーテクに劣りますかね。

あとはケーブルにはツイストがかかっており、その分ノイズは乗りにくくて音質は良くなると思いますが、耳掛け部の装着感と合わせて、ごてっとした重さがやはり気になりますね。もののけ姫でエボシが「やはりちょっと重いな」と言うくらいの感じですかね。慣れれば大丈夫だと思いますし、慣れない中でも別に扱えないわけではないので。

 

4.まとめ

私自身、オーディオマニアというほどではないので、細かいパーツの役割などはよくわかりません。わからないなりに、「良い音質で音楽を楽しみたい」と思って来たのですが、この有線ピヤホン3と出会うまでは基本的にオーディオテクニカの中で少しずつ高価なものを買うようにしてきました。

現状、私が使用しているのは、

ATH-E70

というやつで、だいたい4万円ちょっとの値段です。解像度が高く、前述の通り、結構耳に負荷がかかるような帯域までそのまま出力してくれるので刺激的です。このイヤホンを使うまでは、

ATH-LS400

まで、LSシリーズの中で徐々に値段を上げて来た感じです。リケーブルもしてみて、計5万円ほどかけたものを使用していたのですが、故障を機にE70の方を買ってみたら、そちらの方がリケーブル無しでも解像度が高く感じられたので、今ではE70をメインで使用しています。

人にイヤホンを貸してもらう機会もたまにあったのですが、中高音を含めた全体のバランス感が良いイヤホンが好きなのか、オーテクばかり使ってきました。

ただ、普段使いではどうしても利便性の観点から無線ピヤホン5ばかり使用しているという状況です。無線ピヤホン5もとても良いイヤホンですが、やはり情報量の多さと全体的な音の広がり、生々しさという観点では有線に劣る印象があります。なので、休日などに散歩をしながら音楽に没頭したい!というときには、大抵上記の有線イヤホンを使用しています。

そんな私の音楽生活の中に現れた有線ピヤホン3。33,000円という価格から考えれば上記のオーテクイヤホンよりも若干劣るかと思っていたのですが、全然そんなことはありませんでした。むしろ、私はこの有線ピヤホン3にめちゃくちゃ感動しましたね。正直、高音の突き刺さり具合以外は、有線ピヤホン3の方が「音の広がり」、「迫力」、「解像度」という様々な面で優れている印象です。高音の突き刺さり具合についても、裏を返せば「疲れにくい」という長所でもあるので、「ピエール中野さん、めっちゃいい仕事したな」と改めて感心させられました。

あとはどうしても装着感だけ慣れない(現状、やや不便と感じる)ので、そこだけ克服してこれからの音楽生活により楽しみを見出していこうと思います!

 

最後に…

一聴して「良いイヤホンだ!」と感じますし、細かく聴いていくとその豊かでバランスの取れた音像の素晴らしさにも気づかされ、本当に良い買い物をしました。今までイヤホンも好みがあるし、音楽へのお金のかけ方も人それぞれだから、と他人に自分の気に入ったイヤホンを勧めることなんてなかったのですが、これは他人に勧めたくなるイヤホンですね。今のところはまだ一般発売されていないみたいですが、一般発売されるようになったら、ぜひプレゼントにもしてみたいイヤホンです。

改めて、感動をありがとうございました。これからいっぱい使っていこうと思います。

適応障害と診断されまして… vol.75

適応障害と診断されて656日目(2022年8月1日)にこの記事を書き始めています。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

また前回から2か月ぶりくらいの記事ですね。先週は結構しんどくて、今回の記事ではその振り返りと、多少回復に至った現在について書いていこうと思います。

 

 

1.出力を上げていく

次第に仕事で任されるところが増えてきました。周りからの期待も感じます。そうなると弱いのが私なんですよね。ついつい張り切り過ぎてしまうし、それに上手く応えられていないであろうことを自覚してしまうと、「あーあ」と苦しくなってしまいます。他人から期待されると自分で自分にも期待してしまう。思えば私の人生は常にその自分自身への期待と失望との荒波の中だったとも言えるでしょう。

適応障害を通じて、いや、適応障害という診断が下される前から私はずっとそういう自分が嫌で改めたいと思っていました。そういう期待と失望の間を行ったり来たりするだけの人生には疲れ果てていたし、苛々させられていて、私は他人からの評価だけに振り回されないよう自分自身の中に強固な価値観を作ろうと躍起になってきました。それが私にとって本を読んだり、音楽を聴いたり、こうして物を書いたり、散歩をしたりということで、そういう時間を大切にできているときは自分の中に平穏や安心というのを見出せている気がするのです。そういう意味では、私は大学生活を通じて、苦しいことも多々ありましたが、おおよそ大切なことを身につけられたようにも思うのです。

しかしながら、やはり私が社会に思い描くのは「点数」というものなのです。それなりの点数を取っていれば社会は自分を攻撃して来ないだろう。安心して本や音楽やに没頭するためには、社会が齎すノイズを極限まで減らしたい。そんな考え方が抜けきらないので、私にとって社会というのはどうしても怖くて、その怖さに負けて頑張らざるを得ない局面なのです。

病気の診断は私にとって良い免罪符でした。「病気なんだからできなくて大丈夫」という免罪符があればこそ、私はできない自分でいることを受け入れ、赦すことができていました。けれど、1番上にも書きましたように、もう診断が下ってから600日以上も経っているのです。となれば、もはやこの免罪符の効き目はほとんど消えてしまい、丸一日経過した後の虫よけスプレーくらいの効き目しかないんじゃないかと思ってしまうのです。

 

「自分のペースでやればいい」、「うまくできなくていい」、「会社なんて人生のほんの一部」、そのほか何でもいいですがそういう風にとにかくブレーキを踏み続ける1年を過ごしてきました。それである程度うまくバランスを取りながらやれてきた部分は大きいです。もちろん、何度かエンストしたり、コースアウトしかけたり、大変なこともありましたが。

免罪符の効能が効いているうちは、割とブレーキを踏むことに満足感を覚えることができていました。しかし、免罪符の効能が切れてきていると感じたとき、私の中にはやはり不安が芽生えたのです。周りから「さすがにもう大目には見ていられないよ」という声が聞こえて来るようでした。張り切ると体調が悪くなる。でも、頑張らないと社会から抹殺される。そんなどっちつかずの恐怖感に苛んでいたのが、4~5月くらいだったでしょうか。

GW明けにカウンセリングに行き、そこでそういった悩みを相談したところ、「ブレーキを踏み過ぎでは」という指摘を受けました。いやいや、何よりもまずブレーキを踏むことを覚えろ言うたんは、あんたやないですか。よっぽどそういう指摘をしようとも思いましたが、しかし痛いところを突かれていたのはわかっていました。そうですよね。私はブレーキを踏むことばっかり考え過ぎて、スピードを出すのが怖くなっているんですよね。そして、スピードを出していないことで、色々な人に抜かれ、周回遅れの視線を浴びることにも恐怖しているんです。だったら、ちょっとの勇気を振り絞ってスピードを出してみればいいんですよ。

「ブレーキを踏むことの大切さ、ブレーキの上手な踏み方、あなたはこれまでそういうのをちゃんと学んできました。真面目に学んできたからこそ、あたなはいまブレーキを踏むことばかりに目が行っている。今度はもう少し視野を広げ、アクセルの踏み方も勉強していきましょう。ブレーキとアクセル。極端ではダメです。上手くバランスを取りながら、丁寧なドライビングテクニックを身につけましょう」

そうか。私は極端過ぎたんだ。

目から鱗という感じで、そのカウンセリングを機に、私は中庸を目指すべくアクセルの踏み方を勉強してみることにしました。少しずつ出力を上げてみる。すると、思ったよりも自分がスムーズに、効果的に業務をこなせるようになっていることに気がつきます。もちろん同じ職場で1年近く働いてきた経験も大きいです。しかしながら、それだけでなく、今までは体や脳味噌に与える負荷を軽減するために、容量の30%くらいしか自分を酷使しないよう気をつけていた「たが」のようなものが外れた気がしたのです。最初はおっかなびっくりでアクセルを踏み込み、徐々に自分の容量60~70%くらいまで出力を上げられるようになってきました。思い切って、80~90%くらいまで頑張ってみちゃおうかしら。そんな風に7月の上旬までは、ある意味では健康な時の自分に戻りつつある実感を得て、結構満足感高く過ごせていました。このまま私は完治するんだろうな、と。

 

しかし、物事はそう上手くはいきません。仕事が壁にぶち当たり、またプライベートでもあまり好ましくない人間関係に巻き込まれて、疲弊してしまいました。すると、もう80%を保つことなんて苦しすぎて、生きているのが嫌になってきます。もう都会で生きていくのは無理だ。会社でやっていくのは無理だ。やっぱり向いていなかったんだ。そうだよ、私らしい生き方ってもっと別にあるはず。回復するまでは頑張ってみようと思ってここまで来た。回復してもやっぱり辛いじゃないか。だったら、もう潔く諦めてしまおう。それがいい、それがいい。

いつものようにそんな思考に囚われてしまいます。

 

2.初心に帰る

適応障害になって、私には色々な問題があることに気がつきました。

私はよっぽどの目に見える優位性がない限り、自分の苦しみ度合いでしか、自分を評価することができません。もしかしたらだいたい皆そうなのかもしれませんが、根本的に社会に対する怖れがあるので、「ほら、こんなに苦しんでるんだから許してよ。もうボロボロだよ」という免罪符を欲しがってしまうのです。運良く成果が出ているときはまだ良いのですが、成果が滞ると「上手くいかなかった分は、ボロボロになるまで頑張って取替えさせていただきます」という感じで自らを酷使してしまうのです。このような状態になると、私にとって指針となるのは、つまり計量の針を担うのは自分の苦しみ度合いになってしまうのです。

それは言い換えるならば、先ほどお話した「出力」という言葉になるかもしれません。仕事の成果は置いておいて、自分の出力を100%近くまで持っていけるか。あるいは、120%を超えるところまで。

ちょっとアクセルを踏み込んでみて調子づいた私は、いつの間にか適応障害発症当時と同じ「120%」を目指して日々奮闘しようと息巻いていました。結果、また体調を崩しかけ、週末はとにかく寝続けないと…という約1か月を過ごす羽目になりました。本当に自分って学ばないなぁと呆れてしまうのですが、どうしてかすぐに私は周りが見えなくなってしまう人間のようです。

自分がこれまで使って来た「出力」みたいな指標は、はっきり言って「針」が狂っている。そのことを再認識しました。もしかしたら私は自分に期待し過ぎているのかもしれません。出力を「120%」まで上げれば問題は解決できると思っているのです。そして、それはもしかしたらある意味では正しく、ほとんどの意味において間違っているのです。つまり、実際に問題が解決できるかは時の運によるでしょうが、出力「120%」まで出し切れば、それが免罪符になると考えているのです。免罪符さえできれば、実際的に問題が解決しなくても私にとっては構わないのです。なぜなら、私が頑張る理由は社会から攻撃されないためだからです。しかしながら残念なことに、私にとっては出力「120%」を出すことそれ自体が問題なのです。そんなに神経を焼き切るような出力は毒でしかなく、自分を壊すことでしかありません。

適応障害になる前までは、自分を壊すことで免罪符を得ることが何より重要でした。破滅願望というほどカッコの良いものではありませんが、早く壊れてしまいたいと考えているのが以前の私でした。

しかし、適応障害を経て、「壊れるのはやめよう」と今では思えます。漫画NARUTOで腹の中の九尾が暴れ出したら自動的に九尾を抑え込む術式が発動するように、「もういっそのこと壊れてしまいたい」と思ったら、自動的にブレーキを踏んで止まることを私は学びました。

昨日は日曜日。蓄積した疲労を少しでも癒すため、結局昼寝も含めて13時間くらいは寝ていました。カーテンを閉め切った部屋の中で。確かに、極力刺激を減らして寝ているというのは、体を休めるのにかなり効果的です。適応障害を経て、私はそのことを身を持って学びました。しかし、それだけ寝ても身体も心もすっきりとしない。そんな感覚が今朝はありました。それでテレワークでちょっと仕事をサボりながら、精神医学系の動画を観ていました。このあまりにも強い眠気はどこから来るのか。うつ病の回復期に眠くなると紹介されていました。おそらく今の私は一般的なうつ病の回復期よりはずっと回復した状態にあると思います。なので、その動画がとても参考になったというわけではありません。ただ、そういう動画を観るというのが、まさに適応障害からの回復期に私がしていたことで、必然的にそのときの心境が思い出されました。

ちゃんとブレーキを踏もう。

また、先日会社の健康診断があり、休職の際にお世話になった産業医の先生とお話をする機会がありました。「だいぶ出力を上げられるようになってきたんですよね」とちょっと得意げに話し、「だいたい80%くらいですかね」とカッコを付けて、ちょっと低めの数値を言ったりしました。すると、さすがはお医者さま。「100%なんか出さなくていいですからね。80%を維持することだけに全力を捧げてください。頑張り過ぎないように努力してください」と釘を刺されました。

なるほど。

 

いま、こうして文章を書いて頭の中を整理しています。

繰り返しになりますが、相も変わらず私のドライビングは酷いものです。ギッタンバッコン、まるで幼稚園児のシーソーのように乱暴に、急加速と急ブレーキを繰り返しているようです。それでも、まぁ、今回はぶっ壊れる前にブレーキを踏めました。今まさにブレーキを踏んでいます。まだ正気があるうちに。

昼間に見た精神医学の動画で、正気が無くなる病気がうつ病ということも言われていました。確かにな。ブレーキを踏めなくなる、アクセルを踏めなくなる、そういう異常な状態が病気の一面なのでしょう。アクセル…ブレーキ…アクセル…ブレーキ…これを上手にできるようになり、燃費が良く安全性の高いドライビングテクニックを身につけたときこそ、私はうつ病適応障害)を克服できたと言えるのでしょう。

 

3.価値観の再構築と持続的なアップデート

適応障害を機に、私はいくつか価値観を再構築してきました。

まずは、「死に向かって生きること」をやめました。やめようと思ってすぐにやめれるものではありませんが、とりあえず「やめた」ということにしています。それから、社会ともちゃんと向き合うことにしました。今でもちゃんと向き合えているかはわかりませんが、とりあえず「向き合う」と決めました。

自分が生きやすいと思える環境を自分の手で(他人の力を借りるにしてもちゃんと借りに「出向く」のです)、地道でも少しずつ構築していく。観葉植物を置く。誰かを食事に誘う。「あなたと過ごせて嬉しい」という気持ちを伝える。寒いときは靴下を履く。温かいお湯で手を洗う。薬を飲む。きちんと寝る。浴槽に浸かる。美味しいものを食べる。素敵な服を買う。散髪に行く。朝、体操をしてみる。よく笑う。人と話す。

小さなことから、これからも社会で生きていくために必要であることを少しずつできるようになってきました。

果てが見えないのが苦しい。いつまで頑張れば生きやすい土地に辿り着くのか。そう考えるとなかなかきついですよね。でも、考えてみれば、社会は常に変化していきますし、自分という人間も時間とともに変化していくのです。とすれば、いつまでもイタチごっこのように、私は自らをアップデートさせ続ける必要があります。1秒前の自分はもう既に古くて、今の自分に適した存在ではない。私は今の1秒、1秒を常に最良のものを目指してアップデートしていく覚悟と勇気を持たなければなりません。

それが強迫観念のようになったら苦しいでしょうが、少なくとも「勇気」を持って取り組んでみようと思っています。それが生きるということなのだと思います。

 

最後に…

まほろ駅前番外地」というドラマを久しぶりに見返しました。多田と行天の自由気ままな、それでいてどこか真面目臭くて、愛情にあふれた生き方が好きです。そういう風に生きたいと思います。今の私はなんてつまらない、不自由な仕事をしているんだろうと悲しくなってきます。私も自営業をやってみたいな。もちろん、自営業には自営業の苦しみがあるとは思いますが、自分にはそっちの方が向いているんじゃないだろうか。隣の芝生は青く見えると知っていても、そう考えずにはいられません。

仕事を、生き方を変えるべきかはまだ迷っています。考えてもわかりません。すべてはタイミングと言う人がいます。臆病な私はタイミングを逃し続けているのか、そうも思います。

それはそれとして、「まほろ駅前番外地」で主人公の多田は、多田便利軒の宣伝文句に「依頼は極力引き受けます」という文言を使っています。作中、何度も「何でもじゃない、極力だから」と仕事を断ろうとします。が、結局なんだかんだと言いながらどんな仕事も引き受けてしまいます。「極力」というのは「限界ギリギリまで頑張る」という意味です。それがいかに無茶なことなのか、適応障害になった私はわかります。多田もそのことに気づき、最終的には「極力」という文句を改めます。「何でも」に。

「極力」よりも「何でも」の方が無理難題なわけですから、普通に考えたら余計に苦しくなるだけのような気もします。けれど、何故かわかりませんが「何でも」にすることで清々しい気持ちというのも生まれてくるのです。

「極力」という言葉には、「受けたからには、きちんと責任を持って成果を出せる」という裏の束縛を感じます。そこには「うまくやらねば」という強迫観念のようなものもあるかもしれません。しかし、「何でも」にすると、どこか「失敗したって仕方ない」という雰囲気が漂います。それはある意味では自分への赦しのようにも思えます。これは私だけの感覚かもしれません。しかしながら、「カッコつけてないで、とりあえずすべてを受け入れて生きていこうよ」という気構えは私にとってはとても好ましいものです。あまり肩肘張らず、よくわかんないけど、何でもやってみたいとは思います。もちろん、ブレーキとアクセルに気をつけながら。

 

次回

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「ODD Foot Works×toconoma×ニガミ17才@Spotify O-EAST」雑感

本日、2022年5月28日、ODD Foot Works×toconoma×ニガミ17才のイベントに参加してきました。とても楽しく、感動的だったので、「ライブレポート」とまではいかなくても感想を残しておきたいと思い、ここに雑感を書かせていただきます。

 

2022.5.28

 

 

このイベントの名前は無く、出演者3組の名前と日付だけ。あとは素敵なサボテンをモチーフとしたアートワークですね。最初にはっきりと言ってしまいますが、私はtoconomaのファン(ライブはこれで3回目くらい?)で、ODDはほぼ初見、ニガミ17才はYouTubeで有名曲のMVを何曲か程度の感じでした。それでも三者三様…まさにこの言葉がぴったり来る本当に素敵なライブだったと思います。あまり知らないアーティストでも、良い音楽をしていたら楽しめる。そういう感覚を持っている自分が誇らしいとも思えましたね(笑)。まぁ、今回のライブに参加すれば誰でもそう感じていたでしょうが。

知ったきっかけはtoconomaのインスタで。相手がODDということで、ODDのファンの友人を誘いました。この時点では、まだニガミ17才の参戦が決まっていなかったので、「あと1組はだれだろう?」とワクワクしていたわけですが、まさかのニガミ17才でびくり。いったいどんなライブになるのだろう。そして、どういう意図があってのこの組合せなのか。というか、誰が主催したんだ、いったい。そんな期待と不安を抱きながら今日という日を迎えました。

 

少し話は脱線しますが、一緒にライブに行った友人と今日は丸1日過ごしました。昼は六本木のイタリアンでコースランチ(私はジェノベーゼを頂きました)。2000円弱でお手頃な感じでしたが、前菜の盛り合わせも美味しく、お喋りにも花が咲きました。そう言えば、だいぶ暑い1日でしたね。完全な夏服で出かけましたが、それでもだいぶ汗をかきました。ランチの後は、国立新美術館メトロポリタン美術館展に行きました。15~19世紀あたりの変遷が時代ごとにまとめられており、勉強になりました。なるほど、ルネサンスというのは、それまでの宗教画(キリスト教)のアンチテーゼであり、ギリシャ文化の再生(ルネサンス)がテーマだったのですね。平坦で浮世離れした質感のある宗教画から次第に細密でリアリスティックなルネサンスのタッチに。そして、最後には私の大好きな19世紀の印象派等の絵画も見ることができ、大満足でした。やっぱりルノワールの色彩感覚は艶やかで幻想的、シスレーは牧歌的で童心に帰らせてくれます(不思議とどこかセンチメンタル)。ゴッホドガセザンヌゴーギャンも、素人ながらにみな特徴があって素敵でした。友人はカラヴァッジョの絵がセクシーだと言っていましたが、確かに中性的な少年(あるいは少女?)の絵はエロかったです。その後、お茶をしながら共通の趣味である、有吉弘行のラジオ(サンデー・ナイト・ドリーマー、通称サンドリ)の話をしたり、これもまた充実した時間でした。

 

まぁ、これも今日という日のよき思い出ということで。

では、ライブに戻りまして。

 

ODD Foot Works

ライブ1番手はODD。一応、友人にオススメ曲を教えてもらって事前に一通り聴いていましたが、アーティストの雰囲気が掴めただけで楽曲を覚えるには至りませんでした。事前に聴いた中では「夜の学校」が結構好きでしたね。

今日のライブは5人編成。ボーカルとギターとベースがオリジナルメンバーで、MPCプレイヤーとDJ(という呼び方で良いんですかね?)の2人はサポートメンバーだそう。DJの方とボーカルの人が楽しそうに喋っていたので、ベースの人がサポートメンバーかなと思っていたら違いました(笑)。

音源を聴いた感じでは、カッコ良いけどかなり緻密に心地良いサウンドというイメージがあったのですが、ライブは結構粗削りな感じで勢いがあり、非常に熱量を感じました。今日から?ライブでの歓声がOKになり(ただしもちろんマスクは着用前提、シンガロングはNG)、そのこともあって会場はかなり盛り上がっていました。鋭く歪んだギターの音に、小回りの利くベースラインには演奏者としての確かなこだわりや技術を感じました。そして、ボーカルは低い声でありながらバックサウンドに埋もれることなく、エッジが立ったラップをこれでもかというほどに畳み掛けていましたね。発声もリズム感も確かな力を感じ、友人は「昔はそんなに上手くなかったけど」と言っていましたが、私にはとてもそう思えませんでした。かなりカッコ良かったです。

唯一、今日のライブで微妙な点があったとすれば、それは「客入り」だったのですが、MCではそれすらちょっとしたネタにしていましたね。「その後ろにできた微妙なスペースはサークルモッシュのために空けてんの?」みたいな感じで笑いを誘っていました。パフォーマンスがストイックでハードだった分、このMCで少しフロアの緊張も解けた気がしました。新曲も結構演奏されたみたいで(既存曲すらちゃんとわかっておらず、大変申し訳ございません)、特に最後から2曲目のBPM早めの楽曲は結構好みでした。最後の曲は、何となく私も聴いたことがあって、「N.D.W」という曲だそうです。それまでの楽曲と比較すると、何というか世界観というか、やや抒情的な雰囲気があり、盛り上がりながらもメロディアスでしっとりと胸を熱くしてくれました。

後半のMCで別のライブを告知していたのですが、「即完するんで、早めに」と結構大真面目に言っていたのが印象的でした。パフォーマンスからは何となく「怒り」というか、「気迫」のようなものを感じていたので、そういうファイティングポーズを取り続けるようなスタンスで音楽活動をしているのだと伝わって来て嬉しかったです。まだ30手前という若い人たちでもあるようなので、これからもそのスタンスを崩さず、カッコいい音楽を続けていってほしいなと思いました。

 

toconoma

こちらは今日の私の本命。楽器のセットが途中なのか、終わったのか、微妙なままぬるっとライブが始まりました。と言っても、MCから。「ストイックなODDの後に、柔和なおじさん達が出て来て…」みたいなMCでクスっと笑いを誘っていました。軽くだらっとしたお喋りから始まり、一通り笑いをさらった後、お馴染みの「Yellow surf」から。演奏しながら喋ったり、ソロ回しも朗らかに、楽しそうにやっているのが印象的でした。歓声OKになったということもあって、ソロ回しで幾度となく歓声を呼び込むパフォーマンスをしてくれたので、会場も一気に和やかで、かつハッピーな雰囲気に包まれました。音楽って楽しい!

先にODDがそのストイックなパフォーマンスで会場を熱してくれていたので、toconomaの砕けた雰囲気が逆によく映えていたように思います。続く「L.S.L」も穏やかで心地良く身体を揺らせました。その後は、「新曲」→「underwarp」→「新曲」→「新曲」という感じだったのですが、ベースソロとラストにかけての音の洪水で間違いなく盛り上がる「underwarp」はもちろんのこと、どの新曲も盛り上がる感じで良かったです。BPM早めで結構テクニカルなフレーズが多用されている曲や、シャッフルビート(というよりは、あれは3連符というイメージが強いか)の曲など、これまでのtoconomaのイメージとはちょっと違う新曲でした。新曲のうち1曲は、「まだ完成していない」らしく、曲名もまだないということでした。ライブでは完成していたように聴こえたのですが、これからまたアレンジがあるのだと思うと楽しみですね。

個人的には「Vermelho Do Sol」が聴けて非常にテンション上がりました(本当は「Evita」も聴きたかったのですが、また今度の機会まで待とうと思います)。toconomaのラテン調の楽曲って盛り上がるし、カッコイイから大好きなんですよね。本日3回目のベースソロも、メンバーから「やり過ぎだよね」と演奏中に野次が飛ぶなど、非常に楽しかったです。ラストはもちろん「relive」。これも間違いなく盛り上がりましたし、一度ブレイクしてからのギター石橋さんの煽りにはもう心を射抜かれましたね。音楽って楽しい、最高!という高揚感を残して、メンバーが退場していったのですが、すぐにキーボードの西川さんが戻って来て、「ちょっと早く始めたじゃないですか。だから、あと5分残ってるらしくて。もう1曲」とまさかの嬉しいサプライズ。本当のラストは「Seesaw」で見事にチルしてくれました。これぞアラフォーの貫禄!素敵!イケおじ!…イケオジとはちょっと違うか笑

ODDの若々しい迸りも最高でしたが、toconomaの「良いおっちゃん達」という雰囲気も良かったです。MCも面白く、互いに笑いながら野次を飛ばし合ったり、冗談を言い合ったり。曲中も演奏にただ集中するのではなく、楽し気にアイコンタクトを交わしたり、マイク越しに喋ったり、伸び伸びとパフォーマンスしている様子になんかこっちまで幸せになりました。とても良い時間でしたね。

 

ニガミ17才

ニガミのライブは初でしたが、もう初っ端からワクワクさせてくれました。こういう対バンイベントでは珍しく、ステージのカーテンが閉められ、そのまま照明も暗転。ゆっくりカーテンが開いていくと中央には、中国の女の子の例の被り物をした4人が。

 

例の被り物

KIRINの黄色いビールケースを積んだテーブルで何やらマイムをしていました。もうこの最初の演出で笑ってしまいました。もう本当に、三者三様って感じのステージングであることに、とても嬉しくなりましたね。

「おいしい水」、「ただし、BGM」など私でも知っているような楽曲をやってくれ、「ねこ、にゃん」という歌詞が印象的な「ねこ子」では、あくびさん(シンセのお姉さん)がティッシュ箱からティッシュを抜いて撒くという謎のパフォーマンスを。何となく全体的に、「コミカルなZAZEN BOYSかな」という印象を受けました。もちろん、ちょっとマスロックっぽい楽曲がそう思わせるのかもしれませんが、それ以上に、ギターのキレとベースのエッジの効き方がZAZEN感を感じさせてくれたように思います。

奇天烈で「らしい」楽曲が続いて、途中MCでは「あと5曲なんやけど、5曲のときに言うのって珍しいよね」みたいな面白い関西のお兄ちゃん感が堪りませんでした。ラストの楽曲(調べましたが、たぶん「かわきもの」という楽曲)は5拍子で、結構トリッキーだなと思っていました。が、それ以上に不思議なのが「あと5曲」と言ってから、この曲で5曲目。でも、嫌に5曲目来るのが早くないか、ということでした。ちゃんと時計を見たわけではないけど、明らかに体感でまだ持ち時間はありそうな感じでした。「あと5曲」と言ったときも「早いな」と思いましたが、「まぁ、長い楽曲もあるんだろう」と思っていたのであまり気にしていませんでした。が、これがラストって早すぎないか。

そんな私の懸念を打ち消すがごとく、途中で楽曲がブレイクすると急にMCみたいなのが始まり、「いま最後の楽曲が佳境を迎えてるんやけど、あと12分残ってる」と衝撃の言葉をフロアに投げかけました。もうそこからは「ちょっとZAZEN BOYSみたいなことやってみるわ」と言って「ハッ」と叫んでリズムを取ってみたり、「1,2,3,4」や「しろたま、しろたま(たぶん全音符のこと)」などと矢継ぎ早に捲し立てて、それに合わせてドラムとベースがバチっとフレーズをキメて来たり。さらには、「ドラムの上半身がいま5拍子を叩いていて、下半身が4拍子。ベースも5拍子のフレーズを弾いていて、お客さんが4拍子で手拍子。あくび(シンセのお姉さん)は卓球」と音楽についての講義が始まりました。ちなみに、あくびさんは手にピンポン玉を乗せて、卓球のラケットで素振りをしていました。そして、この素振りは後に明らかになるところによると、3拍子らしいです。そこからはもう4拍子と5拍子をボーカルの掛け声に合わせて行ったり来たり。

そして、そんな曲芸が終わったかと思えば、まだ時間があるとのことで、自分たちがプログレッシブ・ロックというジャンルであることをフロアに同意を求めつつ、今度はそのフレーズをヒップホップにアレンジ。ヒップホップが終わると、今度はフロアのお客さんにリクエストを求め、メタルにアレンジすることを宣言。そして、「メタルでベースソロできる?」「ベース:首を横に振る」「じゃあ、メタルの次はボサノバで。ボサノバでベースソロできる?」「ベース:首を横に振る」「じゃあ、ボサノバの次はロックで。ロックならベースソロできるやろ」「ベース:首を縦に振る」という茶番を挟み、その通りに演奏を実行。メタルもボサノバも最高に盛り上がりました。最後にロックに戻って来て、ベースソロをかました後、またオリジナルの5拍子のフレーズに戻るという圧巻のパフォーマンスを魅せてくれました。

ニガミ、いいじゃん。

そんなことを思わせてくれる、最高に楽しいライブでした。

 

総括

何度も言いますが、三者三様の素晴らしいライブでした。音楽って楽しいし、最高!

友人がODDを好きだと知っていたから、誘って参加できたイベントでした。なんて奇跡的。友人も非常に楽しんで満足してくれたので、とても良かったです。

こういう楽しくて刺激的な出会いがあるから、対バンやサーキットイベントはやめられないですね!音楽、最高!

あと、O-EASTという会場も良かったです。やっぱりあれくらいの規模感のライブハウスって良いですよね~広くて盛り上がるし、それでいて音もパキっとしている。生々しい感じがあります。歓声がOKになったことをパフォーマーも本当に喜んでいるのが伝わってきましたし、渋谷の街も嫌になるくらいの人込みで(笑)。少しずつだけれど、コロナ前の日常が戻って来ていることを実感して、なんかそういう意味でも嬉しくなりました。

 

最後に…

体調を崩し、会社もあまり楽しくなく。早く田舎に帰りたいと思う日々ですが、こうやって楽しい日もある。だからまだ都会で頑張ろうと思えているような気がします。無理をしてまで耐え忍ぼうとは思わないけれど、それでも「もう少しだけ頑張ってみよう」と思わせてくれる力が音楽を始め、色々なものには宿っています。そういう微かな光明を辿って、何とか歩いていこうと思ってしまいますね。

高校生の頃、何の気なしに、そこら辺の高校生に混じって、RADWINPSの「閉じた光」を聴いていました。「嫌いになるにはもう少しで 好きになるには程遠くて うまいことできた世界だ」。この歌詞が、なんか響いちゃってます。

凛として時雨「DEAD IS ALIVE TOUR 2022@KT Zepp Yokohama 2022.5.22」ライブレポート

凛として時雨のライブに行くのは、なんだかんだと2019年の「Golden Fake Thinking」以来なので、3年ぶりとかになっています。配信ライブとかで楽しんでいたので、すっかり定期的にライブに行っている気分になっていましたが、ずいぶんとお久しぶりな感じでした。

 

DEAD IS ALIVE TOUR

 

1.雑感

先日のTK from 凛として時雨の「egomaniac feedback tour 2021」の最終日、東京国際フォーラム公演に参加していたこともあって、あまり時雨のライブは久しぶりという感じがしなかったのかもしれません。しかし、会場入りしてハイネケンを飲みしばらく経ち、toeの「I dance alone(album.remix)」が流れ始めると、「あぁ、これこれ!」となんだか懐かしいものが込み上げてきました。そして、照明が落ち、会場のドアが閉鎖されるといつものSEが流れて来て、ざわざわと人が立ち上がり出す。荒々しいSEの音が、ザラザラとした感触で心臓を逆撫でるので、否が応でも興奮してしまいますね。

ここから先、披露された楽曲については「2.セトリ」の章でお話するので、ここではまず雑感を。

まず第一に良いな、と思ったのは「ライブハウス!」というところです。会場であるZepp Yokohamaをライブハウスと言って良いのかわかりませんが、音の感じは上述の東京国際フォーラムとは異なり、かなりパキっと、ジャキジャキっと、ライブハウスっぽい感じでございました。とても生々しい音に1音目から高まります。

序盤はかなり音に切れと生々しい冷たさがあったのですが、ライブが進むにつれて次第に会場の温度も上昇し、音が箱に馴染み出すような感じがありました(おそらくは私の耳がいい塩梅で疲れだしてきただけなのでしょうが)。TKのギターの歪み具合が心地いい!照明も鮮やかで、曲の展開に合わせてレーザービームのようなぎらつき、包み込むような淡い色合い、くるくると回り出すライティングに、視覚的にも大変楽しめました。

細かいセットリストは後で詳しく書きますが、新曲の「竜巻いて鮮脳」にイメージが繋がるような楽曲が多かったと思います。「竜巻いて鮮脳」の楽曲レビューもいずれやらなければと思っているのですが、荒々しい黒い夜の海上、遠くから雷雲が近づいて来る…そんなイメージが楽曲冒頭にはあります。したがって、ライブの前半はそんな時雨の「海」や「水」というイメージに近い楽曲が多く演奏された気がします。イメージカラーは「青」で、何となくアルバム「just A moment」を彷彿とさせます。じめじめとして、暗雲が頭上を覆う日が多いこの梅雨の時期にはぴったりだなと思わされました。

ライブ後半は割と、そんなイメージから飛び出して、お馴染みの定番曲を含めて非常に盛り上がる、熱い楽曲が多かったです。ひたすらにぶち上がりました。全体を通して、私の好きな楽曲や、「ライブ映えするから演奏して欲しいけど、あんまり見れない…」という楽曲が多かったように思います。ちょっと意表を突くようなセットリストでもあったので、割と長いこと時雨ファンをしている私にとってはもう涎が出まくりでしたね。

大学生の頃から聴き続けているので、「竜巻いて鮮脳」のコンセプトでもあった「あの頃の感じ」を私も思い出し、感慨深く、それでいていつも通りの熱いライブにとても満たされる想いでした。延命公演(追加公演)も発表されたので、チケットを取ろうかちょっと思案中です。

 

2.セットリスト(細かく感想を)

もうSEから気分が高まっておりましたが、今回は上述の通り「意表を突くセットリスト」という感じがしているので、そういう意味でも全体を通して高まりました。これからライブに参加される方は、以下のネタバレは見ずに行かれることを強くお勧め致します。

 

M1. Missing ling

SEが鳴り止んでから、TKのギターがジャラ~ンと鳴らされます。まず、この段階で「なんかいつもと違うぞ!」となりました。重たく、暗いコード。そして、徐々にハウリングが鳴り響き…「Missing ling」のイントロがかき鳴らされます。個人的には意表を突かれ過ぎて、変な声が出そうになりました。2013年初のワンマン武道館ライブ(あれは確か10周年記念でしたね)のラストに演奏されて以来、私はずっと聴けていませんでした。白く眩いライティングとギターの轟音がフラッシュバックしました。あの時はラストの楽曲でしたし、「Missing ling」自体やはりラストの楽曲というイメージが強かったので、大変驚きましたね。

もうこの選曲で「今回はだいぶ気合い入ってるな」と。そして、1曲目からまさかのフィナーレ的轟音のギターソロが聴けて、もう何が何やら訳がわからなくなってしまいました。うん、控え目に言って最高でしたね(笑)。

 

M2. laser beamer

緑色のレーザーっぽいライティングと、ぴゅんぴゅんというギター音が印象的な楽曲です。1曲目の「Missing ling」の余韻が抜けきらないまま、「もう追いつけないよ!」というこの展開に胸が高鳴ります。そして、この楽曲はやっぱりライブで聴くと、ギターがなおエグイです。もちろんソロのぴゅんぴゅんも凄いんですけど、Aメロ歌いながらの鬼カッティング。もうゴリッゴリで、ちょっと異次元です。

そして、この楽曲は3年前のGolde Fake Thinkingで聴いたときから思っていたのですが、終盤のスネアがなんか可愛いんですよね(笑)。決して批判ではないのですが、「t透明と 透明と 透明と 透明を」の辺りで盛り上がるはずなんですけど、なんかスネアの「ポンっ」という音が異常に際立って可愛く思えてしまいます。これ、私だけですかね(笑)。

まぁ、そこから終盤の追い込みはやはりゴリッゴリなので、もちろん盛り上がりました。

 

M3. abnormalize

PSYCHO-PASS繋がりで、この定番曲。もう曲が始まる前の、ジャリラリ~ンというギターのコードでこの楽曲が来るのがわかってしまいますね。生で聴くと、イントロのギターのフレーズがより複雑に聴こえて、よくこんなのばっちりリズムに合わせて弾けるなぁと思ってしまいます。TKと345のハモリや掛け合いが美しくて、とても素敵です。

まず間違いなく盛り上がる楽曲ですし、この曲もまた終盤にギターソロがあって、そこも聴きどころの1つ。「laser beamer」からのスピード感を受け継いで、さらに遠くへと連れて行ってくれます。

 

M4. JPOP Xfile

昔は定番曲というイメージがありましたが、なんかこうして聴くのは久しぶりな感じがします。3年前のGolde Fake Thinkingでも演奏されていたはずなんですが。というわけで、久しぶりに聴く大好きな楽曲ということに、もうそれだけでワクワクが止まりません。

イントロの無骨なドラムもたまんなくカッコイイんですが、なんか以前よりもサビでのドラムのタイム感(走り加減)が凄く良くなっている気がしました。「君の名前なんだっけ」からのところです。そのおかげかとても盛り上がりましたし、フロアもみんな激しくノッっており、演奏している本人たちも楽曲終わりにフリーのアウトロを設けていたので、これはおそらく自他ともに認める素晴らしいパフォーマンスだったと思います。なんか改めてこの楽曲が好きになりました。

 

M5. DISCO FLIGHT

もう1つ前の「JPOP Xfile」が盛り上がりに盛り上がり、「フリーのアウトロから続けざま」という感じだったので、かなりテンションが上がりました。この曲はイントロのベースから、ギターのフレーズ…もう反則ですよね。中盤のギターソロも相変わらずエグイし。

そして、言わずもがな、この楽曲はとにかく「ドラム」です。ドラムのフレーズがとにかくカッコイイ。だからなのかわかりませんし、時雨のファンの音楽センスが高いということなのかもしれませんが、サビの「感情に入り込んだ空のリズムは」という箇所と「もう少しだけ見えないところで」の箇所で、みんなのハンズアップ(言葉合ってる?)のリズムの取り方がちゃんと異なっているんですよね。リズムの16ビートと8ビートの切り替わりに合わせて、きちんとノリを変えているのが凄いなと思いました。

今回のライブでようやく発見して、密かに「おっ」となっていました。また、脚を怪我されていたピエール中野さんも、ラストのツーバスを問題なく踏んでいたので、おそらく完治したのかなと思い安心しました。

 

M6. a 7days wonder

これは私の大好きな楽曲。特にライブバージョンは音源よりもダンサブルになったり、ギターソロがカオスだったり、とにかくカッコイイ。時雨ってどうしてもアップテンポな激しい楽曲が注目されがちですが、こういうミドルテンポな楽曲も本当に素晴らしく「聴かせる」んですよね。TK fromでは「Signal」がライブでは大好きですし、歌メロの美しさやギターのノイズが心地良いんですよ。ましてや、時雨本体では345の清らかな歌声も堪能できますしね。

この素晴らしい楽曲では、またライティングも本当に素敵でした。海底を思わせるような滲んだ深い青の色が、おそらくは終盤に演奏されるであろう「竜巻いて鮮脳」の嵐を予感させ、そんなところも最高でした。印象的なベースフレーズもカッコイイところですが、この楽曲は意外とギターが訳の分からないアルペジオを奏でていたり、ドラムの盛り上げ方が終盤重要になって来るので、本当に聴きごたえのある1曲だと思います。

 

M7. a symmetry

最初の1小節くらいは演奏されて何の曲かわかりませんでした。が、すぐに「これは!」となり、もうかなりテンション上がりましたね。私自身、時雨の楽曲を好き勝手並べて聴くときは、「a 7days wonder」と近いところで聴くので、本人たちが同じようなイメージを持ってくれているようで嬉しかったです。この楽曲もイメージは「青」で、そして言わずと知れた「ライブがヤバイ楽曲」です。まぁ、音源も素晴らしいんですが。

YouTubeかなんかでライブ映像が違法アップロードされていた気がするのですが、これがまたエモーショナルで素晴らしい(違法アップロードは素晴らしくありませんが)。Aメロあたりの、ボーカル・ギター・ベース・ドラムのポリフレーズ(複数のフレーズが折り重なっている感じ)が堪らなく、ライブでもそれをほぼ再現しちゃっているのが凄いです。みんな凄く細かくリズムを合わせられるんだなぁ、と。

そして、もちろん「今この瞬間にみんな嫌いになって」の辺りで、もうTKが歌うわ弾くわのトランス状態に突入してからの盛り上がりは「ぱない」です。TKと345の胸を締め付けるような掛け合いから、ラストはTKがほぼ叫ぶように歌う感じ。そして、そんなに盛り上げたのに本当のラストでは、とにかく情緒的に静かに締め括る…あぁ、もう最高ですね。

 

M8. Serial Number Of Turbo

今回のライブでは唯一のアルバム「#5」より。アコースティックギターに持ち替えたので、「Tremolo+A」か「Serial~」だろうなと思っていましたが、やはりバランス的に「Serial~」でしたね。既にアルバム「just A moment」からはいくつも演奏されていましたから。

この楽曲、かなり好きなんですよね。とても穏やかで、儚くて。ほとんどTKが歌う楽曲なんですが、ところどころで345が出てきたり、ちょっとハモったり、その瞬間にまたすごい色彩感が出て美しいです。そして、サビ含め全体的にゆったりとした感じかなと思っていると、2番辺りから結構リズムも細かくて。その辺を事も無げに余裕で演奏する3人の演奏力が凄いなぁ、と思わされます。

ここまでぐうーっと盛り上がって来ていたので、とても良いクールダウンにもなり、ライブのメリハリを付けてくれる楽曲でした。

 

M9. illusion is mine

「Serial~」の雰囲気を受け継いで、これまた美しい曲を。前半はギターしかり、ドラムしかり、本当に音色が多彩でTKの美しい世界観を余すところなく表現してくれています。ライティングも「青」ベースで、本当に水の中にいるような感じ。それでいて、サビでは眩い光を感じさせてくれます。

ギターソロは水が止めどなく溢れ出る感じ。345のさらりとした歌声は空間を切り裂いて、時雨がただ激しいだけのバンドではなく、本当に繊細でセンチメンタルな優しさをも持つバンドなのだと感じさせてくれる素敵な楽曲です。終盤転調してからのドラムの手数はもうみんな大好きで、絶対的に盛り上がってしまうポイント。TKと345の掛け合いも相変わらず素敵です。アウトロのミュートしながら深いディレイをかけてのギターのアルペジオはもう完全に水中の泡そのもの。

 

MC by ピエール中野

脚の怪我があったからか、ドラムソロではなく、完全に喋りだけのMCでした。アクリルスタンドのお話をされていて、「買えば良かったな~」とちょっと後悔。でも、まだハロプロアイドルのアクリルスタンドも買っていないので、とりあえず我慢しておきます。ちなみに、MCの間、TKと345も退場せずにピエール中野さんのMCを黙って聞いていました。いつもドラムソロの間とかは袖に戻っているので、なんかちょっとレアな感じがしましたね。

また、MCが始まるとすぐに会場のドアが開けられて、換気がなされていました。感染症対策の一環だとは思うのですが、とにかくライブ会場は熱気がハンパなくて汗ダラダラだったので、涼しい風が供給されてとても心地よかったです。

 

M10. Beautiful Circus

MCのほんわかとした雰囲気から一気に1音で、また時雨のビビッドな世界に引き戻されました。心なしかBPMも原曲より速い気がして、ぐわんと盛り上がりました。何となくここから一気にギアが入った感はありましたね。前半はまだ演者も観客も会場も、微妙な硬さがあったのですが(それが当たり前)、ここから一気にそういった硬さなんか吹き飛ばして、ドライブ感満載のライブへ。

にしても、3人ともこの難曲をよくもこれだけブレずに弾けるものだと…本当に凄いです。カッコイイです。

 

M11. 想像のSecurity

ギターを持ち換えたので「何かなぁ」と思っていると、ギャインギャインのイントロ。んー、高まりますなぁ。もうギターが鳴いていました。吠えていました。荒っぽいTKの歌唱も昔懐かしいあの頃のままで、もう盛り上がらざるを得ん!って感じでした。

「今この二人はどこかで見たような」のところはもうMVそのままの鬼手数のドラム、32ビート。緊張感が溜まりません。ラストサビは、TKの緊迫パートと、広がりを感じる345のキャッチーパートが繰り返され、もう大好きです。

言葉が少なくて申し訳ございませんが、それだけ疾走感が素晴らしく、音が、リズムが、BPMが、気迫が…どこをどう取っても最高のパフォーマンスでした。

 

M12. ハカイヨノユメ

まじでこの曲は凄い、です。イントロフレーズも含め、ありとあらゆる箇所でのTKのギターの正確さがえげつないと感嘆させられます。どうしてあのスピードのフレーズやアルペジオを、あれだけタイム感まで完璧に、かつ綺麗な音で弾けるのか。先日、クラシックギターの泰斗であられる村治佳織さんのコンサートにも行ってきて、「やっぱギタリストってすげぇな」と思わされましたが、それとほぼ同じような衝撃を受けました。本当にリズムと音質がブレない。こんな荒々しい楽曲なのに、ギターが綺麗過ぎて引きました。そして、そんなエグイギターを追い詰めるように、ドラムもまためちゃくちゃ緊迫した、「ここしかない!」というタイミングでキメを入れて来るんですから、あらためてバンドとしての異常性を感じますね。

シャウトのところのハーフテンポは盛り上がらざるを得ないポイントですし、やっぱり時雨はTKと345の掛け合いだよなぁ、と大満足の1曲でございました。

 

M13. Telecastic fake show

あぁ、もう楽曲前の長~いギターの適当なコード鳴らし、「カポ2」というところから確定演出が。「来るぞ…来るぞ…」と思っていると、やっぱり来るんですね。「Telecastic fake show」。

これはもはやあんまり感想なんてなくて…というか、そんなこと考えている余裕もなくとにかく無条件に盛り上げられます。明らかに前半戦とは異なる、今まさに燃え尽きようとしているような焦燥感を感じさせてくれるパフォーマンスでした。普段はあまり走ることのなく、余裕を感じさせてくれる345のベースも心なしか、ギターとドラムに引っ張られて走っているような感じ。今の時雨がイヤモニでクリック音を流しているのかわかりませんが、これだけ荒っぽいアンサンブルだと、本当にバンドらしい良さがたっぷり味わえますね。

走っているんじゃない!これが僕たちのグルーヴなんだ!

 

MC by 345

最初はTKが話してくれました。最前列の人たちがめちゃくちゃ照明に照らされていることが気になっていたようです。345も「すごい青くなってると思って」と笑いを誘ってくれました。そして、すぐに「ベースボーカルの345さんです」とTKから紹介があって、いつものたどたどしい物販紹介が始まりました。

うん、345さんはいつまでも可愛いなぁ。「でっどいず、あらいぶ、びっぐてぃーしゃつ」、「える、てぃー、えす…てぃー、しゃつ」と英語を喋りにくそうにしている感じもたまんないなぁ。

ちょくちょくピエール中野さんにちょっかいを出されたり、TKにMCを回してもすぐに無言で返されたり、そんな「らしい」やり取りを微笑ましく眺めながら、最後のMCが終わります。

 

M14. am:345

この曲も、1曲目の「Missing ling」と同じく、初ワンマンの武道館公演が個人的に印象に残っている楽曲です。久しぶりに聴きましたが、やっぱり良い曲ですよね。なんか浮遊感だけでなく、ノスタルジックな雰囲気を持っている不思議な楽曲。アルバム「inspiration is DEAD」は「夕景の記憶」も含めて、なんかノスタルジーのようなものがあって、自然と涙が流れそうになります。「世界 消えて 無重力の遊泳」という短くも印象的な歌詞が、多面的な輝きを見せ、奥深く、味わい深く、遠くまで私たちを連れて行ってくれます。

3拍子になるところが、私はやっぱり大好き。そして、そこからの静寂も。

1番最後はあの頃の武道館公演と同じく、ミラーボールを回して。時雨では珍しい演出ですし、本当に強く強く記憶に残っておりました。それが再現されていて、楽曲自体の世界観とダブルパンチでノスタルジック。時雨の楽曲を聴いて癒されるというのも珍しい経験ですが、なんかずっと時雨が好きだったなぁと改めて思わされましたね。感慨深かったです。

 

M15. 竜巻いて鮮脳

ラストはこの曲(先日公開となった最新曲)。まぁ、そうなるだろうなと思っていたので、「待ってました!」という感じではありました。みんなまだ聴きなれていないのか、前半は若干ノリにくそうな感じも漂っていたのですが、さすがにラストに向けて徐々にフロアも引っ張り上げられていきました。

バッキバキのMVも最高にカッコ良かったですが、それと同等か、いや間違いなくそれ以上に熱いパフォーマンスを魅せてくれました。特にドラムが倍にテンポを上げるところは、得も言えない高揚感がありましたね。

ライブの前半から暗雲立ち込める荒れ模様の海をイメージしていたので、ようやく竜巻が下りて来て、全てを薙ぎ払ってくれ、もう大満足でした。ちょーかっこいい!この疾走感、やっぱり時雨だ。未だに失われず、それを持続し続けてくれている。本当にありがとうございます。

楽曲が終わってもギターのノイズがしばらくは拍手喝采の中で会場に鳴り響き、ノイズが完全に鳴り止むと同時にまた巻き起こる拍手。そこに「daylily」のSEが被さっていきライブ終了です。素晴らしいライブをありがとうございました。

 

3.ライブが終わって

本当は「傍観」も聴きたかった!というのが、まぁ、仕方ない本音ですね。でも、「竜巻いて鮮脳」もめちゃくちゃ盛り上がったし、「傍観」の無いライブではありながら満足感も非常に高かったです。おそらく私がそう思えたのはこれまで沢山時雨の楽曲を聴いてきたからでしょうし、何と言っても「竜巻いて鮮脳」のイメージを頭の中で固めていたからだと思います。

イントロの不穏な感じから、(何度も繰り返していますが)暗い空と海をイメージしていたので、「a 7days wonder」から「illusion is mine」までの一連の楽曲を、「竜巻いて鮮に脳の序章なのだ」と捉えられたのが感動を大きくしてくれたように思います。最近の天気の悪さから「just A moment」や「still a Sigure virgin?」辺りのアルバムを聴き返していたのも大きいです。

序盤でも書きましたが、ライブハウスというのも非常に良かったですね。時雨の荒っぽいパフォーマンス、特にエグ味たっぷりの ギター音を心行くまで堪能できたと思います。TK fromはホールコンサートが多いのですが、どうしてもホールって音がぼやける気がします。味わい深い雰囲気は出るんですが、あのTKのギャインギャイン鳴くギターはぜひともライブハウスで堪能したいところです。ライブ終演後も心地良い耳鳴りが続き、「これぞ幸福感」という感じでした。

久しぶりの時雨のライブ、最高でございました。

 

最後に…

Zepp Yokohamaを後にして。横浜の美しく綺麗な街。夜風が涼しく、高揚した心と体を心地良く冷ましてくれます。鞄からイヤホンを取り出して、「時雨を聴こうかな。でも、時雨はもう一旦大満足だしな」と、結局D.A.N.の最新アルバムを聴きました。

駅までの道のりで、「Take Your Time」、「Overthinker」、「No Moon」を聴きます。素晴らしくChillしてくれるこの街並みに、よく似合います。

明日は仕事なので、もう寝ないと。そんな風に急いた心もあるのですが、どうしてもこのライブレポートの記事を書くのが楽しくてやめられません。楽しい時間は長くは続きませんが、それでもこうしてたまに心の底から感動して、興奮させてくれる時間があるだけでも、生きていて良かったと思います。

これからも凛として時雨を聴き続けていきたいと思います。ついつい買ってしまった最高にイカしたステッカー、どこに貼ろうかな。

遠野遥「破局」感想

遠野遥「破局」を読了したので、感想を残しておこうと思います。

 

破局

 

遠野さんのお姿をテレビか何かで拝見して、「面白そうな人だな」と思っていたところに友人からオススメされたので読んでみました。別の本を読んでいたので、購入から読み始めるまでにはだいぶ時間がかかったのですが、読み始めたらあっという間に読み終えてしまいました。

 

 

1.ざっくり感想&紹介

読後感は「水を飲んだな」という感じでした。コーラでも紅茶でもなく、常温の水道水を飲んだ後のような感覚がありました。口当たりは別に悪くなく、でも若干の水道臭さがあり、味わいというよりは「口を湿らせた」、「単なる水分補給」という無感動が手応えとしてありました。私がこの小説に共感でき、すんなりと受け入れられたからそう感じたのかもしれませんが、どちらかと言えば文体や内容によるところが大きいように思います。

主人公の「私」はラグビー経験者で、大学で就活をする現在においてもトレーニングを欠かさず、立派な体格を維持しています。他者から見れば、無骨で寡黙なまるで古き良き武士のような印象を抱かれそうな性格と思われます。しかし、ほとんど一人称視点で書かれる「私」の思考は、実に細密でよく外部を観察しており、また内面的には様々な衝動が渦巻いています。それは、外界の観察⇒それに対する自分の中の感情的な反応⇒自らのモラルとの照合⇒周囲の期待の把握⇒どうすべきかの判断⇒行動、という一連のプロセスとして小説中で丁寧かつ淡々と描写されています。

私が本書を真似て文章を書くなら…

文章を書くのに疲れて首をかしげると、机の端に置かれた観葉植物が目に入った。艶やかな葉と、少し萎びた葉とが見受けられた。緑には癒しの効果があるという。また、せせこましいこの室内で健気に成長する彼には、愛着というものを感じている。水を上げようか、と思う。しかし、昨夜も水を上げたことを思い出す。あまり水を上げ過ぎるのも良くないと聞いたことがある。多少「渇き」を感じるくらいの方がタフに育つそう。結局、私は視線をパソコンに戻し、また文章へと意識を集中させた。

という感じですね。この文章には他者(人間)が登場しないので、もう一つ別の例を書くと…

スーパーでゆっくり歩きながら果物を物色していると、同じように商品に目を奪われた初老の婦人が後ろ足で近づいてきた。この歳の頃の女性はたいてい視野が狭く、いつも自分の都合しか考えず好き勝手な足運びをするので、非常に苛々させられる。このまま私も彼女の存在が見えていない風を装って、わざとぶつかりに行くこともできる。それはそれで何らかの啓蒙活動(周りを見て歩きましょう!)になるだろう。しかしながら、歳を取るにつれて視野が狭まってしまうことは仕方のないことだし、自分の母ほどの年齢の彼女に対してはもう少し優しくすべきだ。彼女と衝突して、私たちがまた他の客の目を引いたり、邪魔になったりするのもやりきれない。私は溜息を飲み込み、そっと彼女に気づかれないように、彼女の後退のルートから横にずれてやった。私の肩ほどの背丈しかない彼女に憂いの微笑みを浮かべてやれば、どこか誇らしい気持ちにもなれたりするではないか。私の気づかいなどまるで気づくことなく、彼女は再び前進を始め遠ざかっていく。やれやれ、とようやく飲み込んでいた溜息をついて、私は私で果物の物色に戻る。

んー…書いてみると、なかなかうまく真似できた気がしませんね(笑)。というか、単に私の文章は長い。ダメダメです。

が、まぁ、こんな感じで結構、周囲の出来事を細かく観察して、それに対して自分の中に湧き上がる感情を知覚しながらも、最終的にはモラルや実質的な効率・効果を踏まえて自らを律し、適切な行動を取ろうとするのが主人公の「私」の常であるようです。そういう文体で、ほとんどが進んでいきます。

一事が万事、そんな感じなので、もしかしたら「主人公はノイローゼなんじゃないか」と思う方もいるかもしれませんが、主人公自身はそういう自分の傾向に何ら疑問を抱いていません。そういう自分を当たり前のこととして受け入れており、何か疑念のようなものを感じることもありません。そのような主人公が、決して広くはない人間関係の中で、上手くいったりいかなかったり、ということを繰り返していくのがストーリーの主軸です。まぁ、大方の予想通り、最終的にはうまくいかない部分が目立って来るのですが。

このように淡々とした主人公の思考につられて、私たち読者もどこか無感情な状態に誘われていきます。でも、やはりその常に一本調子な主人公の感じには、水道水に含まれる鉄の味のような異物感があります。明確な味はないので、すんなりと食道を流れていくのですが、その異物感は澱のように胃の中に溜まっていきます。それが本書を読んでの、私の読後感になっています。

 

2.主人公が抱える問題

上述の通り、主人公はどちらかと言えば、自分の感情を蔑ろにしています。そして、「適切」と思われる行動を取ることに終始しており、子細な思考と判断を機械的に繰り返します。が、彼の思考はたいていにおいて理に適っている気がします。所謂「マジレス」のように面白味や人間味に欠けるものの、不思議と「まぁ、そうだよな」と彼の行動には納得させられる部分が多いです。私自身、どちらかと言えば他人の顔色を伺いながら生きてきたので(上手くできていたかどうかは知りません)、彼の思考には共感させられるところが多かったです。自分の事は多く語らず、常に的確な状況判断を自らに求めます。そんな主人公に愛しささえ感じるほどでした。

しかしながら、やはり適応障害なんて病気にかかった私からすると、主人公の認知と行動は精神衛生上よろしくないと思ってしまいます。

彼(主人公)は常に自分の感情は二の次…どころか「そりゃ感情というものは湧き起こるよね。でも、基本的にそんなものは無視すれば良い。自分がどう行動するかの判断基準にはなり得ない」と無意識に割り切っています。この「無意識に」というのが、何よりも彼の問題を深刻にしています。彼にとっては感情を自分で知覚しながらも、それを抑制することが当たり前になっています。特に「笑う」か「笑わない」かまで判断している様子が緻密に描写されているので、よほど彼が自己の抑制に囚われているのがよくわかります。

こういう感情の切り捨て、割り切りということを続けていると、普通は精神疾患にかかります。感情というのは刺激に対する反応である場合が多く、それは言ってみれば「本当の自分」からの依頼書のようなものです。「今、あなた(つまり自分)は外部から刺激を受けています。それに対する反応として、これこれこういった感情が出来上がりました。では、この感情をあなた(つまり自分)にお渡ししますので、それに見合った行動を取ってください」という感じで、私たちは基本的には感情のままに行動すべきです。この感情の依頼書を無視し、理性的な判断などで別の行動を取ると、人は「ストレス」を感じます。社会的な節度を保つためには、感情を押し殺すことが必要な場面はあります。しかしながら、高度にシステマチックになった社会においては、よりその傾向が強まり、それ故に現代社会が「ストレス社会」と呼ばれるようになっているわけです。主人公の彼がどうしてそのように、自らを厳しく律する人間になったのか、その要因は明確には記述されていません。しかしながら、その徹底した自己抑制ぶりを見ていると、「これは精神衛生上よろしくないな」とは思ってしまいますね。

そして、そういった「ストレス」を溜め込みやすい性質であることに、主人公は無自覚です。なぜなら、そのストレスを溜め込むプロセスを無意識のうちにやってしまっているので。そういうプロセスを辿ることが彼にとって当たり前なので。

そういった彼の傾向を端的に表しているのが、「ゾンビ」のくだりですね。母校でのラグビー指導時に、彼は後輩に対して「自分は無感覚なゾンビだと思え」ということを熱く語ります。確か、彼が声高に自分の意見を述べるのは、ほとんどこのシーンだけだったように思います。その時には「ラグビー」という側面からのみ、「ゾンビたれ」という話をしているのですが、彼の生き方がまさに「ゾンビ」そのものであるように思われるわけです。そして、その無感覚なゾンビっぷりによって、彼が次第に(無自覚的に)追い込まれていくのが、この小説の主軸になっているように私は思いました。

 

3.主人公の行動指針

主人公の彼は無感覚なゾンビっぷりがある反面、一応行動指針のようなものは持っています。例えば、彼は筋トレや公務員試験に対して、非常に真摯に取り組んでいます。また、母校で後輩にラグビーを教えることにも熱心です。そんな彼の規範となっているのが、

・自分は公務員になるのだから正しくあるべきだ

ラグビーはスポーツなのだから勝てた方がよく、真剣に取り組むべきだ

・女性には優しくすべきだ(死んだ父の少ない教え)

というものです。また、彼はよく観察をして、自分の感情にも自覚的で、そして正義感のようなものも強いので、けっこう優しい心根を持っています。「みんなが幸せになればいい」と常々思っています。みんなが正しい行動を取ればみんなが幸せになれるのに、一部の人のだらしなさや身勝手さ、無配慮のせいで、不幸になる人がいる。あるいは、世の中にはどうしても理不尽な構造上の問題があって、みんなが幸せになるのは難しい。そういった見解を持っている節があります。

彼の言っていることや考えていることは、基本的には間違っていないと私も思います。でも、人間には感情というものがあって、全ての人が理想的な振舞をできるわけではありません。ましてや主人公の彼のような強い自制心というのは、そう簡単には身につきません。そして皮肉なことに、そういう強い自制心を持つ彼は、その自らの強い自制心によって追い込まれていき、最後には破局を迎えます。

確かに全員が自分の感情優先で行動するのではなく、他者や社会の期待に沿って行動し続けることで、世の中からはだいぶ理不尽なことは減って、みなが生きやすくなるように思われます。しかしながら、「では、みなが自分の感情を捨て去って、効率や効果だけを主眼に置いて模範的な行動を取り続けた場合、人間は幸せになれるのか」という問がなされたとしたら、結構悩むことになるのではないでしょうか。感情というのは理不尽で、時には人を傷つけ、人から何かを奪う事態を招きます。でも、結局のところ、感情が幸せを感じるのです。

主人公の持つそんなに多くはない行動指針は、大局的に見て「正しい」価値観のように思われます。しかし、言ってしまえばその「正しさ」にあぐらをかいて、「それさえ守っていれば良い」という彼の態度は、多くの場面で機能はするものの、やはりどうしたって細部では他人に苦しみを押し付け、また何よりも彼自身を檻の中に閉じ込めていると言えるでしょう。

主人公や優しい行動の取れる人間であることは間違いありません。また「みんなが幸せになれればいい」という彼の願いも、非常に崇高なものではあります。しかし、優しさや崇高さを隠れ蓑に、彼は自分の感情を蔑ろにしています。それどころか終盤では、彼の行動指針が実際にはあまり周囲からは奨励されていないのが明らかになり、結局のところ彼は他者の心や感情を見定め損ない、不和が生まれてしまっています。彼は無意識のうちに自分の「正しい」行動指針に甘えきってしまっており、様々なことに目を向けていなかったことが判明してしまいます。そして、最後の場面ではもはや自分の行く末にすら、目を背けてしまいます。

行動指針のようなものは人生を営むうえで重要なものであることは確かでしょう。しかしながら、その行動指針が目をくらませ、何か「それさえ守っていれば良い」という形骸的なものになってしまうと、それが人間を内から腐らせていってしまうのかもしれません。

 

4.様々な破局…一旦、事実確認

だいぶ抽象的な話を続けてしまいました。ネタバレにはなりますが、ここから本書の内容と先ほどまでの話を照らし合わせてみましょう。

まず、主人公は女性に対して優しくあれという死んだ父の唯一の教えをしっかりと守っています。だから、基本的には女性が望むように振舞い、自分の感情なんて奥にしまっておけばよいというような関わり方をしています。そういった彼の態度はこれまでも数多くの女性を惹きつけてきたようです。特に本書の多くを占める灯(あかり)との関係性では、次第にセックス依存症のようになっていく灯の欲求にどこまでも応え続ける主人公の姿が描かれています。トレーニングや食事、サプリメントなどで男性機能を向上させるという涙ぐましい努力までして、何とか彼女の性欲についていこうとしながらも、最終的にはもうついていけなくなり破局を迎える姿が事の顛末になっています。

反面、麻衣子はどちらかと言えば、主人公のように自制心が強く、厳しく自分を律するタイプだったので、割と上手く関係性を保てていました。が、麻衣子とはあまりセックスをする機会を得られず、主人公は満足できていません。しかし、「無理やりする」ことはレイプと一緒だという考えから、彼は麻衣子がシャワーを浴びている間に、自慰行為で性欲をひっそりと解消しています。どうすれば正解とかそういうことではありませんが、例えば生理でセックスができないにしても、「お願い」と手や口でしてもらう方法だってあったはずです。ここでも自分の感情は二の次で、女の子の都合を最優先させています。

麻衣子との破局の理由は明記されていません。単純に性生活のすれ違いとも取れるかもしれませんが、後半で既に主人公と別れている麻衣子はかなり抽象的で個人的な思い出話をします(小学生の頃に男に追い回された話)。その話を聞く限り、麻衣子はかなり複雑で感傷的な内面を持っていることがうかがい知れます。しかしながら、別れた麻衣子のその独白とも取れるような話に、主人公はこれと言って何の感慨も抱いていません。話を聞いての感想もなく、彼女が講義に間に合うかどうかを心配している始末です。恐らく主人公はそういう感傷的な部分というのを封じて、あくまで効率や効果を主眼に置いて生きて来た人間なので、「女とはそういうわけのわからない話を急にしだす生き物だ。そういう話をされても遮ったりせず、最後まで聞くのが男というものだ」というくらいの想いしかなかったのでしょう。案外、そういった主人公の淡白な部分が、麻衣子にとっては不満があったのかもしれません。

そして、麻衣子との一夜の浮気は、主人公が周囲の期待に飲み込まれやすい性質を示していると言えます。特に女性の期待には無意識のうちに応えてしまう(そこには幾分かの性的な欲求というのも含まれるでしょうが)。そういう傾向が、彼がなし崩し的にわかれた麻衣子と寝た理由になるでしょう。これはあくまで私の実体験というか、私の個人的な感覚になるんですが、自分の感情を蔑ろにしていると、色々なことが投げやりになってしまうんですよね。私は道端のフェンスにかけられた汚いビニール傘のような人間になりたいとよく考えていました。つまり、満たされている人からは必要とされないし、むしろ蔑まれるような人間でありながらも、急な雨に困った誰かにとって「汚いけど、あってよかった」と思われるような存在でありたいと思っていたわけです。私もまた女性に対しては、というか誰に対しても優しくしようと心掛けていました。自己犠牲、もちろん喜んで。でも、それって何も崇高な精神なんかではなく、ただ単に自分自身に価値を見いだせていなくて、投げやりに生きている証拠なんですよね。自分という存在になんの価値も見いだせない。でも、だからこそ、誰かの都合に絡めとられ、ただ乱暴に粗雑に必要とされてみたい。そんな気持ちで別に好きでもない女の子と付き合って、でも付き合ったからには愛情のようなものを向けて、それでいてほかに誰か自分を必要としてくれる人がいれば彼女の事なんか考えずどこにでもついていきました。何と言うか、この小説の主人公の浮気の場面はそういう自分を思い出しましたね。

そして、そんな主人公の投げやりな一面から齎された浮気のせいで、灯とも破局を迎えることになります。しかしそれとは別軸で、先に書いたように、こちらも麻衣子のときとは逆の意味合いで、性欲のレベルが釣り合わなくなってはいました。灯を満足させ切れないと主人公が悟った時点で、おそらくはもうダメになっていたと思います。灯の都合についていけなくなったわけですから、主人公は浮気がバレようがバレまいがいずれダメになっていたと思われます。だいたい、灯もこの性欲レベルの不一致を感じた時点で浮気の事を持ち出しているので、かなりずるいですよね。まぁ、それはとりあえずおいておきましょう。

あと大事な破局としては、ラグビー部の後輩の陰口ですね。コーチのような立場で、「スポーツなのだから勝って成果を出すこと。そのために努力を惜しまず、自らを追い込むことが自身の成長に繋がる」という信念を主人公は持っていました。そして、それを実現するために、やや厳し過ぎると捉えられてもおかしくない指導をしていたわけですが、当然ながらそのことに反感を持つ部員だっています。それは当たり前のことだと思うんですが、思いのほか主人公はそのことにショックを受けて、取り乱し、練習の帰り道で暴力的な一面を見せています。このことも、彼が自分の行動指針に囚われており、その行動指針を絶対的に正しいものとして改めることをせず、自らと(そして無意識的に)他人=部員に押し付けていることの描写になっています。結局のところ、彼は彼自身の正しさに則っているだけで、きちんと他人と腹を割って話せていないわけです。彼は彼なりの正しさを持っているわけですから、その正しさを理解し、「苦しいけど、ついていこうぜ」と思えない部員にも問題があるように思う部分もあります。が、やはり主人公が部員ときちんとコミュニケーションを取れていないから、部員の方にも不満が溜まっているのだと私は思います。「正しさ」だけでは割り切れない感情があるのですから、その感情に寄り添えてこその指導者、そして先輩だと私は思います。そういう意味で、主人公は自らの感情を切り捨てているが故に、そういった行動が取れていないのでしょう。

唯一、「膝」と呼ばれる彼の同級生の男の友人だけは、最後まで彼を大切な友人としてみなしていました。何と言うか、この小説の登場人物の中で、唯一好感が持てる人物だったように思います。主人公も主人公で、これまで書いてきたように色々と問題がありますが、でも基本的に私はこの主人公のことは愛しく思っています。確かに感情を割り切っているのは問題ですし、彼の独善的な行動指針には「んー、もうちょっと自分を顧みようよ」と思う部分もありました。しかし、大局的に見れば、やはり主人公の考えていることややろうとしていることは、結構正義感に満ちていているし、冷静で客観視もできているし、捉えようによっては思慮深く、不器用なりに他者を思いやろうという部分があって好きなんですよ。むしろ、彼のそういう美徳から、うまく自分だけの利益を引き出しているように見えるのが、麻衣子や灯、そして佐々木だと思うんですよね。だから、彼らの事はあまり好きになれなかったし、たぶん主人公も彼らの事はあんまり好きじゃなかったんじゃないかなと想像しています。ただ、投げやりで自分の価値を確信できていない、感情を切り捨てた彼にとって、彼という存在を少なからず必要としてくれる存在に彼は報いたかっただけだと、そう思います。しかし、「膝」は彼の「至らなさ」をある程度しっかりと認めたうえで、その「至らなさ」の上にある「美徳」を素晴らしいと言ってくれているような気がしました。それは「膝」の語り(手紙?)の中にある、『お前は規則正しい生活を送ってるし、酔っぱらって正気を失くすこととかもないから、たぶん公務員に向いてるよ』という言葉に隠されているような気がします。女の子とかと違って、「私に優しくしてくれるから」とかそういう自分にとっての都合を優先した理由ではなく、ただ単に自分の都合とは関係なく主人公のことを認めている言葉のように私には捉えられます。しかしながら、「膝」の『お前はどうして公務員になりたいんだっけな』という問には、主人公は結局答えることはありませんでした。そこにこの主人公の心の空虚さが表れているように思います。

 

追記

書こう、書こうと思いながらすっ飛ばしてしまいました。

主人公と灯が北海道旅行に行ったところで、主人公が涙を流すシーンが非常に印象的でした。「女性は体を冷やしてはいけない」という知識をもとに、彼は一人で自販機に暖かい飲み物を買いに行くのですが、どの自販機にも温かい飲み物は置いていない。そして、彼は灯に温かい飲み物を買ってやれないことを残念に思っていると、知らぬうちに涙を流してしまう…という場面です。

果たして主人公は本当に優しい人間なのか。

善意の行動が実を結ばず、それで気持ちが折れてしまうという、彼の非常に繊細な一面を示す場面のようにも取れます。が、そういうわけではなくて、多分この段階では既に彼が疲れ果てているということを示している「涙」のように私には思われます。涙を流しながら彼は自らの内に巣食う「悲しみ」に気づき、それがもうずっと続いていたということにも考えが及びます。しかしながら、彼はずっと様々な女性とともに過ごして来たし、苦労なく大学にも通い、肉体的にも優れている、という理由を並べ、「自分は悲しくなんかないはずだ」という結論を導き出します。この一連の知覚→認識のプロセスが、いかに「歪み」を含んでいるか。

認知行動療法という精神医学の療法があります。例えば、「会社に出社して先輩に挨拶をしたが無視された」という出来事があったとします。これに対して、精神的な負荷を感じやすい人は、「何か怒らせるようなことをしてしまったのではないか(不安)」というような認識を抱きやすいです。対して、「今日は機嫌悪いのだからそっとしておこう(私には関係ない)」や「気づかなかっただけだろう」という認識を持てる人は、精神的にタフで疲弊しにくいですね。このように事実=出来事を知覚したとき、どのような認識を持つかは千差万別であり、それには人によって一定の傾向があります。これを良い場合も悪い場合も「認知の歪み」と言います。「歪み」という言葉には否定的な意味合いが感じられるので、「認知の傾向」と言った方が正しいという人もいます。

本書の主人公は知覚したことに対して不安を感じるような認知の傾向はあまりないかもしれません。しかしながら、知覚に伴って湧き上がった感情を蔑ろにし、客観的な事実や世間一般論、自分の行動指針などを持ち出して、自分の感情を抑制したうえで行動を決める傾向があります。この「悲しみ」に関する自問自答もその傾向が強く表れており、結局彼は自分の感じた「悲しみ」が客観的事実に基づくと不適切であるという結論に至っています。

このような感情を蔑ろにし、空気というか自分と隔絶した何らかの指針に基づいて自分の行動を決め、同時に感情を思うようにコントロールしよう、いやしなければならないという彼の生き方は非常に苦しいものだと私は思います。それはじわじわと自らを腐らせていきますし、常に自分の感情が妥当なのかそうでないのかを気にするというのはとても疲れます。私もまたどちらかと言えば、そういう傾向が強く、お酒を飲んでいるときか完全に一人きりのときにしか、ほっと息をつくことができません。しかしながら、彼はお酒も飲まなければ、そういう自分の感情を感じるがままに発散する必要性すら感じていないように見受けられます。つまり、物心ついてからずっとその酷くキツい生き方を続けてきたわけです。たまたま彼が肉体的に、精神的にタフだったため、これまで何とかうまくやれていただけであって、本当は疲れ果て、傷つき続けてきたのではないでしょうか。

この自販機で温かい飲み物を買おうとするエピソードは、「涙」という心と体の「限界だ」というサインを彼が見逃す重要な場面と言えるでしょう。私も適応障害になってから、涙や頭痛、吐き気や眠気といった体のサインによく注意するようになりました。心の疲労は何らかの身体的な反応、サインを示してくれます。また、自分の感情というのにも自覚的になり、「苛々してる」とか「なんか悲しい」、「あぁ、疲れた」みたいなサインが出てきたら、よく休み、リフレッシュの時間を確保するようにしています。おそらく程度の差こそあれ無意識のうちにそれができる人がほとんどでしょうし、心身の体力ゲージに余裕がある人は多少無理をしても大丈夫です。しかしながら、自分ではなく、他者や社会やルールといったものを起点として自分の行動を抑制する傾向が強い、主人公や私のような人間にとっては、そういうことを自覚しながら意識的に生活を営む必要があります。

この自販機のエピソードの以降、終盤にかけて、彼は次第に自分の感情をコントロールできなくなってきます。特に「怒り」の感情ですね。「怒り」は「アンガーマネジメント」という言葉がある通り、感情に意識的にならなければコントロールが非常に難しい感情でもあります。疲弊した主人公はもはや自分の感情が妥当かどうかを検討するいつものプロセスを経るのが難しくなっており、その結果そういった検討プロセスをすっ飛ばして、怒りの感情に任せて暴力的な行動に走ってしまいます。部活後に陰口を聞き、その流れで電車で酔っ払いに絡むシーンや、灯にフラれてそれを追うシーンなどですね(こちらのシーンは「怒り」とはちょっと感情が違うのかもしれませんが)。

なので、大局的に見れば、自制心の強い主人公がその強すぎる自制心によって自分を傷つけ続けた結果、最後には自制できなくなるというのがおおまかな筋のお話と読み解けるでしょう。

ちなみに、愛すべき「膝」は彼とは対極的に、酒を飲んで自制なく、言いたいこと・失礼なことを言います。また自分のやりたいことを貫き通し、その結果、嫌われたり他者からくさされたり面倒な目に合っていますが、なんか生き生きとして見えますね。そういう対比構造もきちんと含められた非常に上品な小説と言えるでしょう。

5.総括

基本的に、私はこの小説の主人公にとても共感できます。私もまた彼のように、他人の都合に寄り添う事だけで生きて来た人間です。しかし、そのように生きているからこそ、とても苦しかったです。周囲に求められるがまま、テストで良い点を取って、褒められれば安心して、また満足もできました。でも、80点を取ったら、次は90点を周りは求めてきます。90点を取ったら次は100点。100点を取ったら、きっと「部活もがんばりなさい」とか「留学したらどう」とか、そういう他人の期待というのは際限がありません。そして、何よりもそうやって期待に応えることで安心する癖がついてしまうと、失望される時がより怖くなります。

でも、「期待に応える」ことはとても楽なことでもあるんです。それさえできていれば、他人は私を責めたりしないのです。だから自分らしい感性を大切にするだとか、感情の赴くままに振舞うというのは、全く必要のないもので、むしろ社会の中で悪目立ちをして非難される要因になってしまいます。周囲に馴染み、周囲が求めるように振舞う。私自身が何を目指さなくとも、自ずと周囲の人が私のやるべきことを決めてくれる。私はそういう目に見えない期待に応え続けていればそれでいい。そういう風にして生きてきました。

でも、結局、そんな心の無い生き方では好きになった女の子を正しく愛せもせず、彼女を失望させることになってしまいました。彼女に失望されて、私もまた自分に対して酷く失望しました。そこから立ち直る過程で、私は自分の感性を大切にしようと思うようになりましたが、自分の感性を大切にしたいという思いと、体に染みついた周囲の期待に応えようとする習性が常に戦うようになり、酷く苦しい年月を過ごしました。

私はこの小説の主人公ほど自制心が強いわけでもないし、肉体的に優れてもいません。ですが、「他人の都合で生きる」、「自分の感情を蔑ろにする」という点ではかなり共通の部分があるように思います。そのことで、私は長年苦しみ、1年半ほど前に適応障害を発症しました。つまり、自分を捨て去り、明らかに自分にとってしんどい環境に何とか適応しようと無理をしてしまったわけです。主人公が最後のシーンで頭痛や眩暈を訴えていますが、それは夜通し行われた無理な性交に疲弊していたからとも取れますが、私からしたら「遂に無理が祟って症状が出てきた」という風にも読み取れました。

主人公は肉体的に恵まれているので、最後はパニックとともに暴力的な傾向が表れたと思っていますが、私の場合は肉体的に貧弱なのでただいじけたようになり涙が止まりませんでした。ただ限界を超えたという意味では同じなんじゃないか、と。一番最後、警官に取り押さえられたところで、主人公はもはや自分という存在すら放擲しているような感じが窺えます。ただ空の美しさに射抜かれて、これから自分がどうなろうが知ったこっちゃない。そんな自分を見限った無責任さも物悲しいですが、何だかそこでようやくただ他人の期待に応え続けた自分というものを捨て去って、今は空の美しさに心を打たれているという忘我の境地に至れたのは救いでもあったのかもしれません。

願わくば、彼の忙しない思考が破綻し、心を取り戻す旅に向けた癒しの眠りが訪れますよう。

 

最後に…

何だか変なまとめ方になってしまいましたが、まぁ、「考察」ではなく、「感想」なので。酷く個人的な感想になってしまったのも良いではありませんか。それよりも、既に寝る予定の時刻を1時間も過ぎてしまっています。日中あんなに眠かったのに…これだから私は自制心がないと言われるのです。

でも、やりたいことをやる。それが何より大事です。周囲の期待に応えて、仕事を第一優先にしてちゃあ、やっぱりそっちの方が不健康なわけで。今から寝支度をすれば、それなりに睡眠時間も取れるはずでしょうし、そんなに大きな問題も無いはず。土日にしっかり寝ましょう。

破局』…さらっと読めましたが、どういう感想を持って良いのか難しい小説でしたね。ただ上にも書いた通り、小説の主人公の事はまるで昔の自分を見ているようで愛しくもなりましたし、それ故に同族嫌悪的な部分もありました。また、もし私が体を鍛えていたら、適応障害になったときに上司の事をぶん殴って、警察沙汰になっていたかもしれないと思うと、ちょっと笑えなかったですね。貧弱で良かったのかもしれません。

あと、同じく芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』や、最近読んだ今村夏子さんの『ピクニック』など、最近の小説は書き過ぎず、描写メインで読ませるというのが流行っているんですかね。個人的には後期のサリンジャー作品のように「書き過ぎでしょ、それは」くらいにインクでギトギトの文章の方が好きだったりします(初期のサリンジャー作品も描写多めで都会的と言われながら、どちらかと言えば直接的な言い方をしていないだけで、「これでもか!」というほどに書き込んではいるんですけどね)。大好きな村上春樹さんの作品も、淡々とした描写ではなく、そこには暗喩や見解、思索や苦悩が見て取れることが多いです。最近の流行りっぽい、淡々とした描写も色々と考察のしがいがあって楽しいんですが、なんか「この作品からあなたは何が読み取れますか?」と試されているようでちょっと居心地が悪いような気がしないでもない…みたいな。

いや、何でもありません。この『破局』もちゃんと面白かったし、それで充分です。ただ、個人的には最初から余白を意図して上品に書きまとめた作品だけでなく、「余白が無いくらいに書き詰めたけど、それでもまだ考える余地は沢山あるよね」というスタンスの作品にも出会いたいものです。ヱヴァンゲリヲンやミッドナイト・ゴスペルみたいにカロリー高めのやつです。二郎系、ニンニク、野菜マシマシ、みたいな。

良い読書体験ができると、また欲深くなってしまう自分の業を呪いながら、今日はもう寝ようと思います。久しぶりに長い文章を書きました。

それではおやすみなさい。

適応障害と診断されまして… vol. 74

適応障害と診断されて581日目(2022年5月18日)にこの記事を書き始めています。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

何だかんだと2か月以上ぶりの記事になりました。こうして記事を書くのは決まって「順調とは言えない何かがあったから」という感じなのですが、それでも以前に比べれば全然体調は良いと思います。段々と病気は治ってきていて、ただどうしても持ち前の人間性は変えるのが大変で…と、そんなフェーズに差し掛かっている気がします。

 

 

1.HSS型HSPという自覚

最近は割と調子良いなぁ。もちろん油断はできないけど。

4月、新年度になってからそんなことをよく考えるようになりました。前はブレーキを踏むのも、周りの目を気にしながらおっかなびっくり、という感じでしたが、徐々に柔らかく、あまり周りから悪目立ちしないようにゆっくりと自然な動作でブレーキを踏めるようになってきたように思います。本当に車を運転するのと同じで、こういうのも慣れていくものなのですね。コツというのもまだ上手く言語化できる気はしませんが、全ての始まりは「自覚」というところにあるのだと思います。

認知行動療法では、自分の中に認知の歪み(傾向)があることを知覚することに重きが置かれています。それはつまるところ「ストレス」をしっかりと把握することです。できればある程度定量的なイメージで。自分がどれだけのストレスを受けているのかを明確に知覚できるようになるほど、今どれくらいのブレーキが必要なのかがわかります。

例えば、職場で苦手としている人と関わって、「また迷惑そうにされた」とか「自分の行動を否定された」ということがあると、私は一旦仕事をうっちゃります。「はい。重たいパンチもらいました~。もうしばらくまともに頭は機能しません。ここで怒りの感情に任せて反発して仕事に打ち込んだところで、また頭痛やそわそわ感に悩まされます。なので、はい、一旦トイレ休憩挟みます。仕事はもう残業ほぼ無しで帰ります。これは私という人間の機能を保つために必要な措置なので、とやかく言われる筋合いはありません」と開き直り、ちゃんと療養のための時間を取ります。あるいは、帰宅してさくっとお酒を飲んで寝る、とか。

翌日目が覚めて、まだ体が重ければ、フレックスを活用していつもより30分くらいゆっくり会社に行くのもありです。テレワークなら思い切って、昼休みをいつもよりちょっと多めに取ってみたり(笑)。音楽を聴いたり、ゆっくり長風呂してみたり。そういうのも良いですね。

そういう風に、きちんと自分がダメージを負ったことを把握し、それに見合うリフレッシュをきちんと行います。そして、でき得る限り、そういったダメージを負う場面を避けるというのも非常に重要ですね。苦手な人、場面には極力近づかない。そういう苦手が避けざるを得ない場合は、仕方ないので手厚いケアで中和させるよう心掛けています。

しかしながら、そういう風にストレスやダメージにばっかり意識が向くと、どうしても日々を慎重に過さなければなりません。また、今の職場は前の職場に比べて圧倒的に、人間関係が希薄で、「この人のために頑張ろう」とかそう思わせてくれる人がとても少ないです。仕事が個人プレー多めということもありますかね。なので、正直仕事がつまらなく、気分が高揚することが少ないです。そんな状況で、さらに慎重に暮らしているので、結構「憂さ」みたいなのが溜まっていきます。「何か楽しい事を日々の中に見出していかないとな~」と考えることが増えてきました。

色々と不安が先行してすぐ疲れてしまうくせに、そうやって何か「刺激」を求めてしまう傾向がどうやら私にはあるようです。いや、もちろん多かれ少なかれ誰にでもそういう傾向ってあると思うのですが。しかし、まだ自律神経やメンタルが弱っている私は、そうやって憂さ晴らしのためにやった行動で疲れてしまうので、そこのバランス感覚が非常に重要なのだと最近よく思うようになってきました。こういうのって、まさにHSS型HSPの人間の大きな悩みだと思います。

本当に自分がHSS型HSPタイプの人間なのかはわかりません。ひょっとしたら私の思い込みかもしれません。しかしながら、どうも自分がそういう傾向を持つ人間なのだと自覚して行動するのが、今の私には色々と都合がいいみたいです。「憂さ」を溜め込まないように、ある程度「楽しい事」を求めながら生活をしつつ、それで疲れが溜まって来たらきちんとケアを行う。例えば、週末の土曜日に楽しい予定を入れたら、翌日は何も予定を入れないで基本的には家の中や散歩をして過ごす。そんな風に常にバランスを考えながら生活することで、今のところ割と上手くやれている気がします。

4月の休日とGWは予定が詰め詰めで、結構疲れる日々が続いていました。4月にはSYNCHRONICITYという渋谷のサーキットイベントに行ったり、高校時代の友人とキャンプをしたり、前の職場の先輩と2泊3日の旅行に行ったり。GWは仙台までライブを観に行き、軽く観光し、あるいは朝まで飲み明かす日があり、スカイウォークでジップラインを楽しんだり。それから恋人と2泊3日の旅行にまた出掛けたり。そんな感じでかなり活動的な日々を過ごしていました。平日もよく外に食べに行ったり、職場の引っ越しがあったりと、なかなかに刺激に満ちた日々だったように思います。正直、GW終盤は疲れ果てていましたね…笑

でも、そういう風に「今はとても刺激が重なっている。だから間違いなく自分は疲れている」という自覚があればこそ、GW終盤は部屋から一歩も出ない日を作ったり、数日間誰とも喋らなかったりというケアを行えました。また、5月に入ってからは、極力新しい店を開拓するのではなく、馴染みの店でランチしたり、あるいはコンビニで買って来た冷凍パスタやカップラーメンを食べて、刺激を減らすように心がけています。そして、そのように自分を労わっている時間も、それはそれで充実しているように思えているので結構いい塩梅です。

そういう風にダメージとケアのコントロールを上手くやっていくことで、この何とも操りづらい「自分(おそらくはHSS型HSP)」という乗り物でも何とかやっていけるのではないかと思えるようになってきたのが最近の実感であります。

 

2.そうは言っても…悲しいこともある

私は以前よりこの日記の中で「サンドリ」=有吉弘行のラジオが好きと言って来たように思います。なので、上島竜兵さんの死はかなり堪えました。その報道があった日は実家でテレワークをしていたのですが、正直仕事がほとんど手に尽きませんでした。実家とは言え、日中は両親とも働きに出ているので、家の中で一人きりです。一人きりだとずっと悲しみやもやもやとしたもの(それはやっぱりどうしても希死念慮で…)に囚われてしまい、適応障害で会社を休んでいた時のようにぐるぐると反芻思考に絡めとられ、具合が悪くなってしまいました。

なんで上島さんみたいな良い人が死ななくちゃならない世界なんだろう。なんで上島さんや有吉さんの悪口を言う人がいるんだろう。上島さんは何が悲しかったのだろう。こんな世の中じゃ、繊細な人からボロボロになっていくだけじゃないか。やっぱり死ぬのが1番楽だし、妥当なことなのかな。私ももう嫌だな、こんな世界。やっぱり死んだ方が賢い選択だよな。もう苦しまなくて良いんだもんな。上島さん、私ももうそっちに行ってしまいたいよ。あぁ、もうこんな風に何かある度にショックを受けたくない。あぁ、もうこんな風に何かある度に死にたくなるなんて嫌だ。疲れたな。面倒だな。何も考えたくないな。仕事なんてやってる場合じゃないよな。もうさ、死んだ方が楽だよな、絶対。

と、そんなことがぐるぐると頭の中を周り出して、適応障害になるより以前から抱えていた希死念慮をぶり返し、適応障害が発症した時のようなどうしようもない反芻思考の渦に囚われてしまいました。しかし、何とか夕方までのらりくらりと、軽く仕事をしたり、音楽を聴いたりして耐え凌ぎ、ようやく夜には両親も帰って来て、少しほっとしました。「上島さんが死んで、結構辛い。落ち込むわ~」とそういうことを言えるだけ、まだマシでした。この日、たまたま実家でテレワークをする予定となっていて良かったです。もし、今の自宅で一人きりで夜を迎えていたら、結構ヤバかったように思いますね。いざとなったら「いのちの電話相談」に電話していたとは思いますが、やはり気の許せる人に心情を吐露するのは、結構な救いになってくれます。

この辺は、やはり一度適応障害の時に両親と腹を割って話していたのが良かったように思います。心身の不調や、ちょっと繊細な私というものを理解してもらっていたので、そういうマイナスなことを喋れました。前までの私と両親との関係だったら、そういう弱音は吐けなかったと思うんですよね。そういう意味では、やはり親子関係というのはできるだけ正常化させておくべきだと改めて感じました。

しかしながら、そんな両親であっても、もう私が仕事に復帰して1年弱経っているので、だいぶ私の弱さには鈍くなっているように感じました。というか、私自身、それでも両親に全ての心情を吐露できたわけではありません。本当はまた希死念慮に囚われて死にたくなったのですが、「ショックだわ~」くらいのことしか言えませんでした。ですから、当然両親としても「上島さん、びっくりしたわ」くらいのことしか言ってくれず、そこは何と言うかちょっと不満も残ります。でも、まぁ、違う人間なのですから仕方がないですよね。両親だって私の弱っているところなんて見たいはずもないでしょうし。

両親の前で強がれるようになったのは、回復してきたからだと思います。しかし、両親の前で弱音が吐けないのは、また本音で喋ることに対して臆病心が出てきたことの証明かもしれません。くよくよして、それを他人に押し付けるのも良くないとは思いますが、できるだけ本当に弱っているときくらいは、ちゃんと言葉にできるだけの勇気を持ちたいものです。

 

最後に…

いつもよりだいぶ短めの記事になったと思います。たぶん、そんなに書くことがなかったからだと思います。上島さんの件で、久しぶりに渦巻いた負の感情を文章にして発散したかったのかな。書いたらちょっとすっきりして、「もういっかな」と思えました。こんな風にインスタントに自分の感情をコントロールするのは、あまり良くないのかもしれませんが、溜め込んで腐らせるのが前までの私のダメなところだったので、こうやって適宜ガス抜きをするのは大事なことかもしれません。

また気が向いたら、、、というか、ガスが溜まったらここで文章を書きたいと思います。書くことはやはり私には救いのようです。

それでは、また。

 

次回

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