なぜ、僕は面倒臭がり屋なのか。それを説明するにはおそらく二方向からのやり方がある。そして、困ったことにその二つは今のところ、僕の中で一点に収束してはいない。それぞれ別のところに到達する予定となっている。故に、僕はその二方向のうちどちらかを選ばねばならない。そう、散歩のときと同じように。
けれども、散歩のときも大概がそうであるように、分岐点で二つの選択肢に迷ったときには、二つの選択肢があることに気がついた時点で、既に僕の行きたい方向は決まっているものだ。もちろん、打算的な理由からそれなりに迷いもするし、場合によっては行きたい方向と別の道を選ぶこともあるが、たいてい僕はあまり深く考えることなく、何となく先に目についた道を選ぶことが多い。何故なら、目についたということはそちらに興味を惹かれたということなのだから。
という訳で、僕は主に自らの思想に則る形で、僕が面倒臭がり屋であることを喋ろうと思う。もう一つの道は僕のこれまでの人格形成に関する事柄から喋る道だが、これはどうも面白味にかけると思う。とかく、僕はいま自らの人格について語りたい気分ではないということだ。人格と思想は別物である。人格は歴史的であり、思想は理性的である。これまでの文章の流れからして、歴史にも理性にも僕は否定的な嫌いがあるように思われるが、どちらかと言えば理性の方を好いているのかもしれない。もともと理系だし。しかし、今は僕の好みの話をする段でもなく、僕はさっさと僕が面倒臭がり屋であるところについて、主に自らの思想の方面から喋らなくてはならない。寄り道の多い僕ではあるが、とりあえず、今のところ僕が目的地として持っているのはそれだけなのだから。
今しがた僕が読んでいた本では、全ての人間の共通の根底が死にあると書かれていた。色々と難しい言葉が多く、理解には苦しんだが、簡単にまとめると「生は人それぞれ個性的で多様性のあるもの。しかし、みな共通した死に向かっている」ということらしい。たしかに、死に方こそ人それぞれではあるが、それはあくまで生の彩りに対応したものであって、死んでしまってからはみな一様にただの死人である。生きている人がその死人に対して、口々に様々なことを言いはするが、死人にとってみればもはやそれは人ではなくなってしまっているのだから、ただの概念としての死に統合されてしまう。死人に口なしとはよく言ったものだ。死人は語られこそすれ、自らが何かを語ることはない。なぜなら、死人はすでに人ではなく、死そのものであり、概念は自らが何かを語ることはない。概念から何かを得て生きている人間が何かを語るだけだ……はて、簡単にまとめると言ったが、やや話がこんがらがってきた。もっとシンプルに行こうではないか。寄り道をして、ふらふらと羽ばたき毎に方向を見失う蝶々を追いかけてばかりもいられない。
その本では、その「共通状態の死」を出発点に我々の人生について語られている。まだ本を読んでいる途中の僕ではあるが、およそ彼の言いたいことは理解できているような気がする。引用ではなく、僕は常日頃からこの世界が如何に虚無であるかということを感じていたし、それについて考えたりしていた。何をしたって、何を為し遂げたって、結局のところ僕たちの行き着くところは「死」ではないか。僕の好きな漫画では、「どのように死んだか。つまり死に際こそが、その人間の生き様を表している」というようなことが書かれていたが、その言葉それ自体には賛同するものの、死んだ人間にとっては生き様などどうだって良いと言えるし、仮に生き様を気にするにしたって、死に際さえしっかりとしていればそれで良いんでしょうが、と考えてしまいそうな気もする(もちろん、そんなことはないのだけれど)。ならば何のために生きているのか。
死を共通の出発点とした場合、そこから浮かび上がって来るのは人生や生命といったものの本質が虚無、虚構であるということだけである。ではなぜ生きているのかと問われれば、それは「死ねないから」というだけであって、僕は慢性的に「死のう」と思っていた時期もあるが、結局死にきることもできずに今に至るため、そういった考え方をするようになった。そのことについて喋るのはあまりに僕自らの人格評論に近づいてしまうため、そこは一旦保留にしておこうと思う(よくあるバンドの活動休止みたいに、いずれそのまま復活することなく解散なんて事態も大いに想定されるが、とりあえず僕は「一旦保留」という言葉を使ってみることにする)。もう少し、客観的な立場から言葉を紡ぐとすれば、「死」というものに何らかの意味を見出そうとしても、これと言って重要そうな言葉にはぶち当たらない。例えば生物学的に、「『死』があるからこそ、『種』は自らのシステムを更新し、外的環境に対応し得るわけで、それによって『種』が存続できるわけである」という「死」に対する解釈の仕方もあるにはある。しかし、そんな言い訳を聞いたところで「じゃあ、その『種』とやらが存続することになんか意味があんの?」と、また捻くれた質問をすれば、その問答はどこまでも肥大していって、結局は「この宇宙が存在することになんか意味があんの?」という話になる。まぁ、それが哲学であって、人間的な猜疑心のもたらす最も明瞭で簡易的な到達点になり得る。宇宙に端があるように、我ら人間理性の問答にもそのような端が存在するわけである。
じゃあ、いっそこの世の存在するもの全てに意味なんてないんだ。そういうことにすれば、とりあえず、僕らは宇宙の端までロケットに跨って行く必要もなくなるし、議論も再開できそうだ。意味がないこと=虚無。これをスタート地点にすれば良い。そういうわけで、「死」こそが僕の、僕たちの出発点となり得る。
そして、この世界が虚無だとして、我々の為すこと全てが虚無である。だから、何をしたって同じ、何をしてないのも一緒。そう考えるのは至極当然のことであると思う。だから、僕はそういう言い訳をして何もしてない人を「そうだね、その通りだね」と受け入れてやることもできるが、しかし、僕が読んでいる本の著者も言うように、その虚無から何を構築するか、それこそが重要なのだと諭してやることもできるにはできる。この人生が虚無で虚構で、全く何の意味もないとして、それでも自らの人格を構築し、自らの生命の形を規定することが我々に与えられた自由である。生命というのは不定形であるし、外部からの様々なものの流入によって自らの形というものもいかようにでも変わっていく。あるものを受け入れ、あるものを吐き出して、そのようにして自らの人格を構築していくことこそが重要であり、そのようにして手に入れた個性こそが、万人の共通の土壌である「死」の対極に位置するものとしての「生」である。僕の読んでいる本ではそのような議論になっていると思われる(断定的な言い方ができないのは僕の理解力が乏しいのと、まだその本を途中までしか読んでないからだ)。
しかしながら、僕はそれでも「何をしたって、何もしてないのと同じだ」という考え方を捨てるわけにはいかない。
その本では、「死=虚無」とし、「虚無からの脱却=虚無からの構成力=生命」と説明している。しかし、その論を裏付けるのは「生命を定義するのは難しいが、『死』の対義語としてのみ『生命』を定義できる」という考え方に基づく。むかし読んだ小説でもそのような説明が為されていた。「死んだら人は変化できない。すなわち、生きているということは変化、成長することなのです」というようなことをその小説の中で、とある僧侶が口にしている(正確には、その小説の登場人物が読んだ本の中で僧侶がそう口にしていたのだが、あまりにもメタ構造が過ぎるので括弧の中に閉じ込めておこうと思う)。いずれにせよ、「生命」というものの不定形さ故に、「死」の背反としてしか「生」を規定できていないという事情がそこにはある。「死」の背反としての「生」というのも、これはこれでわかりやすいが、しかしながら、その考え方はあまりにユニット・ステップ関数的過ぎる。スイッチのONとOFFのようなものだ。僕はもう少し関数としての連続性を問うものの見方をしてみたいと思う。
生きているものはみないずれ死ぬ。
死は共通であり、生は個別であるが、その二つの間には確かに関連性、つまり関数的連続性がある。ダンカン・マクドゥーガル博士の「魂の重さは21g」理論はとてもキャッチーだし、興味深いけれども、死んだことによる変化を殊更強調するのは、結局のところ「死を遠ざけることで、死から生を守りたい」という感情論に近い部分があるように感じられてならない。僕はもう少し、死の延長線上にある生を思い描きたい。ここには特に理由はない。ただただ、僕は死を遠ざけたい派の人間ではなく、どちらかと言えば、いかにすんなり死ねるかを考えたい派の人間なのだ。だから、そんなに死と生を遠くに置かれては困る。死のドアの前に数年間座り続けたときのあの感じ。開きたいと思ってもドアノブがない。僕にはただただ開くのを待っているしかなかった。しかし、結局それは開くことがなかった。僕はようやく踏ん切りをつけてその場を後にしたが、帰り道の途中、「あれは実は引き戸だったんじゃなかろうか」という可能性に思い至る。一度足を止めてみたが、今さら戻るのも馬鹿々々しくなって、僕は振り返りもせず、こちら側に戻って来た。
そういう経緯もあるため、僕は割と「死」に対しては友好的だ。彼をそれなりに理解してやっていると思うし、未だ実感こそないけれど、彼の吐く息の白さを見たこともあった。だから、僕は彼への友好の印として、僕の思想を捧げたいと思う。つまり、僕は死の虚無性を好いている訳だし、だとしたら、僕が構築するべき生命もまた虚無的であるべきだと思うのだ。僕は有意義とかいう言葉があまり好きになれない。なぜなら、有意義という言葉はどこか虚無性を否定しているように聞こえるし、それは死を疎んでいるようにすら響きかねない。真理が、つまりこの世の全ての意味が虚無に帰結するのであれば、それを土壌に生きるべきだ。例の本でも、その虚無性を土壌に「生命とは虚無からの構成力である」と述べているが、僕はその言葉を踏まえた上で、それでも虚無的に生きたいのである。虚無が真理の資源として潤沢にその辺に漂っているのであれば、僕はその虚無を吸い込み、身に纏い、まるで人生が虚無であるかのように生きてやるのだ。だから、僕は何も計画しないし、ただ生に流されるように生きる。死ねないから生きているのであり、だとすれば、死という虚無に寄り添っていればよい。面倒臭がりという言葉では不正確かもしれないが、言ってみれば、僕にとっては全てのことがやるべき価値のあることではないが故に、必要最小限の何かであれればそれで十分という訳だ。僕はただ目的地もなくひたすらに散歩を続け、そして、足を踏み出し続けるために必要な燃料たり得るイメージの断片を見つけようと思っている。それが僕なりの虚無的な生き方というやつで、ともすれば、僕が面倒臭がり屋であるように他人の目に映る所以なのだ。現実的に考えても僕が面倒臭がり屋であることは否定しないが。