霏々

音楽や小説など

霏々 vol.6

 責任転嫁は僕の実生活における最大の武器であるが、僕の思想から言ってしまえば厳密な意味での責任転嫁というものは存在し得ない。なぜなら、僕が何かの責任を転嫁しようと思っても、その全ての矛先は「地球温暖化」などではなく、先より言い続けている「虚無」にほかならないからだ。虚無を相手に責任転嫁をやってのけたところで、その相手が「存在の無」であるのだから、責任を転嫁しようにも転嫁しようがない。暖簾に腕押し、糠に釘、虚無に責任転嫁。うむ、語呂が悪い。しかしながら、暖簾があったら何となく手で押してみたくなるし(糠があったら釘を打とうとは思わないかもしれないが)、とにかく僕は「虚無に責任転嫁」をすることで、それでもどこか救われたような気持ちを得ることができるような気がするのだ。あるいは、それはあらゆる宗教における神の立ち位置とほとんど等しいと言ってしまっても良いかもしれない。神は私たちを啓蒙し、そして苦しみから救うことでその存在を許されている。もう少し実感のある言葉で言えば、私たちは本当に困ったときは神に縋るしかないし、神は大抵の場合、「願い」を聞き届けるものとして、私たちに「願い」を慫慂する。不時着を試みる航空機の中で、どれくらいの人間が「神様、お救いください」と心の中で唱えることだろう。僕の勝手な推算で言えば、これだけ科学信仰が発達した現代にあっても、およそ九割の人間が(ほんの少しくらいは)神に祈りを捧げるに違いない。そういう意味で、人間が困ったときの拠り所として神様は必要なわけだが、人によってその神の形は異なる。たとえ宗派が同じだったとしても、厳密には個々人の中で抱く神のイメージは異なるはずだと僕は思う。しかし、神の(あるいは宗教の)重要なレゾンデートルは「困ったときに縋れるもの」と易しく定義できるわけだし、そういう意味ではそれらの有する機能の定義(つまり、仕様書)はほとんどみな共通だと言える。そういうわけで、年中無休で困りっぱなしの僕からしたら、年中無休で僕を救済してくれる神、あるいは宗教が必要なのだ。そこで、最も僕のバイオリズムやトラウマのようなものと合致した神を探した時に見つかったのが、すなわち「虚無」である。不思議なことに、僕は「虚無こそが真理である」というような内容のことを先述したと思う(明確にそういう言葉で表現したかはわからないが、そのような意味合いになるよう、あのとき文章を書いていたはずだ)。そして、少しは「神」や「真理」について考えてみたことがある人ならこの感覚はわかってくれると思うが、少なくとも僕の中には「神≒真理」というような等式(そこにはある程度の近似を含む)が成立している(中には「神は真理を与えるもの」、あるいは「神は真理とともにあるもの」というような認識を持つ人もいるかもしれないが、そういった場合は是非とも近似式を用いていただきたい。世界の現象を記述しようとする物理学の世界においても、思ったよりも近似というものは用いられている。僕はここで思想や哲学を語りたいのではなく、あくまで現実的な「神」や「宗教」の効能について語りたいのだ。近似の許されない数学を持ち出すのであれば、思想や哲学といったもっと純粋な理論的因果関係の追求をする際にしていただきたい)。話がまた長くなっているが、要するに、「神=真理」という等式があり(もう近似のことは忘れよう。長くなる)、そしてもともと僕の中には「虚無=真理」という等式も存在していた。そして、この度「虚無=神」というような等式も得たわけで、まぁ、三つ目の等式なんてあえて記述されるまでもなく、三段論法的にその等式は自明的に得られてはいたわけだが、ともかく「虚無=神=真理=虚無=……」というようなループを構成することができるようになった。単純な等式ではなく、ループと表現したのは、僕の中でそれらがあくまで近似的な数珠式に連なっているというニュアンスを伝えたいからだ。先にも言った通り、やはり、それらは厳密には異なるもので(言語とは記号であり、つまり、言葉の差異はすなわち記号の差異を意味する)、そして、それぞれの検討をループ状に繰り返していくことで僕はそのループの半径を縮小していく……その過程は言うなれば、僕の散歩的散文にほかならない。

 まぁ、察しの良い方ならわかるだろうけれど、僕はまた自分がベラベラと意味のわからぬことを捲し立てるように喋り続けていたことを謝罪しようとしている。

 反省の無い謝罪は、謝罪とは言えない。

 よくある映画の中の話。犯罪をおかし、更生施設に入れられた少年がかけられる言葉。「真面目に真っ当に生きることが被害者への償い、そして謝罪になるんだ」。たしかにそうだ。謝罪とは、一方ではその謝罪の相手にとって何かをもたらすものではあるが、その一方では謝罪する本人にも影響を与えて然るべきだ。結局のところ、単純な優越感や苛立ちや怒りの捌け口を相手に与える為にしか、謝罪は対外的機能を有しない。謝罪とはむしろ自らに対してより有意義な効果を持っている(いくらか前に僕は「有意義」という言葉への嫌悪感を語ったように思うが、それでも僕はこの言葉を使ってしまう。なぜなら、僕にとって有意義なのは、他人の感情をコントロールすることではなく、自己形成を推し進めることだからだ。いや、これでは説明になっていないか。とは言え、面倒臭がりの僕にはこれ以上説明できそうにもない)。

 謝罪というのは自らの非を認めることである。こちらが間違っている、ということを表明することで相手には優越感を与えることができる。相手の懐を深くしてやって、怒りをなだめる。自己形成なんて恰好つけた言葉を使った僕ですら、現実の社会的立場にあっては、いとも簡単に謝罪の対外的効能に期待して謝罪をしてしまっているが、それほどに謝罪というものは効力が高いものだ。

 しかし、それ以上に、自らに対しての効能は大きい。もちろん、その対内的効能に期待していればということにはなるが。

多くの宗教は、その教義の中で、信者に自らを戒めるように勧めることが多い。神の怒りや悪魔の罠を持ち出して、信者に自らを悔い改めさせて、新たな段階へと自己形成を促そうとする。宗教によっては、わかりやすく神へ謝罪を行わせる場面だってきちんと用意されている。神への謝罪は、表面的には神に対する対外的な機能を匂わせる場合が多いが、しかし、本質的には人間の対内的効能を期待して設けられた機能と言えるだろう。にもかかわらず、人間は愚かにも、神への謝罪に対外的な機能を期待し、人を生贄に捧げて天災を宥めようとしたりもしてきた。もちろん、これは科学の発展していない時代に生きた過去の人たちだけを貶める言葉ではない。神への謝罪を忘れた現代人だって、謝罪の対内的効能の恩恵を受けずに自らを悔い改めていないという点においては同じである。

 またも話がずれてしまったが、僕もまた自らを悔い改めることを忘れて、自らの性癖によってベラベラと意味のないお喋りを続けてしまっている。もちろん、謝罪の対外的な効能に期待して「だらだら、ベラベラと喋ってしまい申し訳ない」と謝罪の言葉を並べ立ててみるのも悪くはない。しかし、謝罪の本質的な部分が対内的な効能にあり、それによって自己の変革を目指さなくてはいけないのだとしたら、僕はこの件について謝罪をする必要はないと言える。なぜならば、僕はこの自分の性癖を心の底から治したいとは思っていないからだ。

 謝罪の無い世界。それはきっと物騒なものになるだろう。

 謝罪について頭を巡らせた夜を通り過ぎて翌日の朝。強い風が吹き荒れ、暗い色の雲が空を満たしている。横殴りの雨が絶え間なく窓ガラスにまだら模様とストライプを描いていた。僕はぼんやりとベッドから起き出し、そして、さっきまで見ていた夢を思い出してみる。

 それは、ずっと「自分は死んだ方がいい」と感じ続けているような夢だった。

自分の近しい人たちの間で、僕はずっと不機嫌をばらまき、そして、口を開くことなく独りふさぎ込む。「ずっと部屋の中にいるせいで、きっとふさぎ込んでしまうんだろう」。そう言って、気をつかって彼らは僕を外に連れ出してくれる。気持ち良く晴れてはいるが風の強く吹いている丘にやって来た。無邪気な子供たちが描いた何枚もの絵を僕は持っていて、何故だか僕はおもむろにそれを思いっきり放り投げた。風に舞う画用紙。僕の近しい人たちが大慌てでそれを拾い集めるために走り回る――どうして僕はこうなんだろう。どうしてそんなことをしてしまうんだろう。頭の悪い子供みたいに、あえて傍若無人な態度を取って、その反応から自分への愛情を確かめたいのだろうか。にしても、僕はあまりにも死にた過ぎる。

 と、まぁ、こんな救いようもない夢だ。夢の中の僕もまた一言すら謝罪の言葉を口にしてはいない。

 別に夢診断をしたくてこんなことを書いた訳ではない。それにわざわざ診断なんてするまでもなく、その夢の中の僕はどこまでも僕自身であった。僕は僕のことがまだ好きになれていないみたいだ。もちろん、ある程度、許せるようにはなってきた。ほんの数年前までは僕は自分のことが許せなかったし、それこそ夜道を歩いている自分の背中を見つけたら、その後頭部に思いっきりコンクリートブロックをぶつけて脳ミソをぶちまけてやりたいと思っていたくらいだ。

 過激な発言、過激な思想。けれど、それは独りきりの六畳半を満たす暖房機の湿った空気の間で溶けていってしまう。