霏々

音楽や小説など

霏々 vol.3

 今朝、懐かしい夢を見た。バスを乗り間違えたせいで見知らぬ郊外の方に出てしまう。山間の小さな住宅地。夕暮れ色のインクを垂らされた薄暗い道と芳しい草の香り。ぼんやりと僕の肌を包み込む生温い空気感が、古い記憶を呼び起こさせた。そう言えば、前にも夢の中でこの場所を訪れたことがある。手段は覚えていない。今回はバスでやって来たが。酷く湾曲したY字路の一方には古いトンネルがある。前にここを訪れたときには、特に何の躊躇もなく、そのトンネルの向こうへと足を向かわせることができた。トンネルと言ってもそんなに長いものではない。しかしながら、そのトンネルは山の中へと続くトンネルで、僕がいま目に映している静かな住宅街とは、根底から異なる世界がそこには横たわっている。どこまでも物悲しい田舎の町、いや、村だ。古くに人の手で掘ったような、小さな用水路。疲れ果て、何も言わなくなってしまった木造の家々。そこでは一日中、薄暮の中に全ての物が沈んでいる。とても美しく、感傷的な空間だ。そこでは何もないが故に、すべてがあるとさえ思える。しかしながら、今朝の夢の中の僕は、そのトンネルを一瞥するだけで、乗り間違えたバスの辿って来た道を逆戻りする。その山間の住宅地に消えていく女子高生の背中をちらりと眺めて。どうやら僕は帰らねばならない人間になってしまったようだ。

 

 夜、眠りにつくとき、明日のことを考えるのではなくて、「どんな夢を見られるのか」と考える。そういう人間でありたい。それを見失わないでいたい。忘れない。

 

 夜中に急に降り出した雨は勢いが強く、窓の外の世界を全て打ちつけ、スピーカーのノイズのようにあっという間に部屋の中を満たした。それはどこか親密さを持って、音楽をかき消す。しかしそれも長くは続かず、網膜の明順応のように、わずかばかりの時間で雨は勢いを弱めた。僕は何かを誰かに言いたいような気持になったけれど、明日も早いのでこのまま眠ることにする。白色灯が冷える。瞼の裏にはその残像。鼓膜には雨の残響。

 

 記述や表現といったものは、対象を完全に写し切ることを元来の目的としている。しかし、その表現の対象が自己である限り、自分なんてものは決して完全ではないわけで、そこに目的と前提の間に矛盾が生じているわけである。故に、完全な私小説など存在はし得ない。

 

 それがどんな理由であれ、両手を挙げた人間を見ると、全員撃ち殺してやりたくなった。それくらい僕は色々なものに我慢のならない人間だった。

 

 僕は子供の頃、よく傘の先をすり減らしたものだ。学校の帰り道、まだ湿っているアスファルトの上を、ガリガリと傘を引きずりながら歩いた。しかし、今もたいして変わりはしない。言ってみれば、傘が自分になっただけだ。手ぶらで歩いているのに、足を踏み出すたびにガリガリガリガリと音がする。うるさいようでどこか小気味の良い音。そういう感覚。話は変わるが、僕はいつも思っていることがある。通り雨をやり過ごすには、まぁ、都合の良い、道端に打ち捨てられていた小汚いビニール傘。それこそが僕の目指すべき人間像なのだと。

 

「何か見える?」遠くを見つめる彼に僕は聞いてみた。

 

 さて、書き出してみたが、どれもたいして意味もないし、こんなことをした目的も特にはない。断片的イメージと言いながら、評論めいたことをしているものもあったが、とにかくこれらが僕の書き留めていた断片である。記憶ではなく、記録であり、どういう想いでそれらを書き綴っていたのか、正確なところは思い出せない。

 電車の車窓から見える街をすてきだと思う。しかし、電車は僕の気持など汲み取ることなく、そこを通り過ぎて行ってしまう。僕は少しホッとする。そのときの僕には目的地があった。

 要するに、そういうことなのだ。暗喩的というよりは、直喩と言ってしまってもいいかもしれない(正確な言葉の定義としては間違っているが)。何かしなければいけないことがあり、こうやって腰を据えて終わりのない散歩を楽しむ時間が無いとき、ちょっとした合間の時間で僕はこれらの言葉をメモ帳に記録している。決して数は多くないが、それでもどうも忘れてしまうのには忍びないものたちが時折浮かび上がって来る。

 それは儚い閃きであり、ありがちな喩えを持ち出せば、まるで線香花火のようでもある。パチパチとわずかばかりの時間だけ弱々しく火花を降らせる。ほかの花火に火を移せるほどの勢いはなく、起承転結もない。ただミニマル音楽的なうねりがあるだけだ。しかしながら、ミニマル音楽がそのうねりの中に完成形を見出すように、線香花火も装飾された火炎の一つの完成形である。僕の泡のような言葉も、それに準ずる完成形を目指したものではある。と、僕は僕を応援したいような、肯定したいような気持になるけれど、過去に発した言葉がその足を引っ張る。先ほど紹介したいくつかの「断片」の作品番号第何番かによれば、「完全な私小説など存在はしえない」ようだ(ついに僕は僕自身を引用し始めた)。こうやって僕は僕自身によって足を引っ張られることもしばしばだが、こんなにも足を引っ張られているのにもかかわらず、いつまで経っても足は長くならない。

 多くの学生たちと運動家たちのせいでこれでもかというほど足が長くなってしまった「あしながおじさん」ではあるが、よくよく調べてみれば、彼は現代語で言うの所謂「パパ」でしかない。彼は、恵まれない環境にいる女に投資する形で自らの欲を満たした。Win-Winな関係というやつだ。それなりの資産家であれば、女一人を孤児院から出してやって大学に通わせるくらいどうにかできるだろう(無論、僕には無理だけれど)。その代償として、女は彼にわけもわからず手紙を書き続けるわけだが、それのおかげで知らず知らずのうちに作家として育てられていった。そして、一人の独立した人間として恋愛をしてみるが、孤児院で育ったことを彼女は相手に打ち明けられない。そのようにして思い悩んでいると、その恋人の方から「自分があしながおじさんの正体なんだ」と告げられる。うまく男が女を受け入れた形になってはいるが、シンデレラと同様、男のストーカー気質な一面が明かされる素敵な話である。女という生き物は元来追いかけられたい生き物ということらしい。「でもでも、ストーキングするなら金持ちかイケメンでよろ」。これだから女は、などと溜息を吐きながら、僕は若くてボディタッチの多い女の子と酒が飲みたいなどと考えているのだから仕様がない。

 それにしても人間の欲というのはいつまで経ってもほとんど変わらないように思う。シンデレラとピーターパンはいつまでも我ら人類の感傷的な英雄であるし(「英雄」ではなく最初は「ヒーロー」と書こうとしたのだが、「『ヒーロー』は男性名詞だから、『ヒーロー・ヒロイン』と書くのが良いだろうか。いや、それだと男性が先に来てきっと世間から何かを言われるだろうから『ヒロイン・ヒーロー』の方が良いかもしれない。レディ・ファースト的な思想から言って」などと考え出してしまうときりがなく、僕は性別の無い「英雄」という言葉を選ぶ――「英雄」の「雄」は「オス」ではないか、などと言わないで欲しい。既に僕は途方もない頭痛に悩まされている――このようにして、世の中はどんどん面倒臭くなるが、これが思いやりのある優しい世界を作る、ということらしい)、それ故に物語の形の基本も変わらない。

 先に話した「あしながおじさん」の物語しかり、物語の構造というのは基本的には、立場の違う二人の「出会い」→「for i=0 ; i<N ; i++ (接近 ; 分断 ; )」→「接近」→「ゴールイン」or「別れ」、という流れになっている。シンデレラは「N=1」の完成された形の物語と言えよう。このように、言ってみれば、物語には作法があり、それ故に完全を生み出すことはおそらく可能なことではあるが、そのためには理性的な働きをふんだんに用いる必要がある。プログラムチックに、決められた構成を順番通りにコーディングしていくことが重要になってくる。ただし完全な物語だとしても、それが世の中で受けるかどうかというのはまた別の話だ。世の中に受ける上で大切なのは、「立場の違う二人」という初期設定に対して如何に流行と新しさを盛り込み、ストーリーに対してはリアリティとユーモアを絡めながらどのようなリズムでfor文を回していくかというところにある。

 僕が最近買ったCDでは、友達のいない小学生と胡散臭い自称絵描きの浮浪者という二人を初期設定に。僕が好きなテレビドラマでは、殺人事件の被害者の兄と加害者の妹という二人を初期設定に据えている。リアリティ溢れる心情の揺らめき、そして、皮肉や自虐それから不器用と突拍子もなさから生じるユーモア。基本に忠実な物語の構成を彩るのはそれらの装飾品である。

 舞台、というのも重要な要素であるかもしれない。物語にはそれぞれ匂いというものがある。海には海の、森には森の、夏には夏の匂いがあるのと同じだ。ちょっとした仕草や言葉がその舞台の放つ色味と混じり合い、物語特有の匂いを作り上げる。ドラマでは俳優が一人変わるだけで、その匂いは微妙に変わるだろうし、詩であれば助詞一つでもそれは変わって来る。俳優にしろ助詞にしろ、その土台には舞台があり、人間の感性はそこを無視することは決してできない。そして、これは最も重要なことであるかもしれないが、舞台の色味や匂いというものは実は物語とは別の枠組みに存在している。断定的な言葉遣いをしてしまって申し訳ないが、僕はそう考えている。たしかに、先にも述べたように物語であればみな匂いを有している。言わば、物語は匂いの必要条件であろう(数式で表せば、「物語⊂匂い」と表現できる)。しかしながら、匂いを有しているからと言って、それが必ず物語になるかと言われればそういったことはない。匂いの中でも、理性を用いることで物語が物語である所以の構成を手にしたものだけが、物語となり得る。

 もう少し簡単にまとめ直そう(自分で書いていても何が何だかよくわからなくなってきた)。僕はそこまで感受性や発想力の豊かな人間ではないためこういった喩え方をするが、インストゥルメンタル・ミュージックや抽象画は匂いを有しているが、物語性は有していないと言えるだろう。もちろん、聞く人や見る人によっては、そこに何らかの物語性を見出すことができるかもしれないが、アンディ・ウォーホルのポップ・アートのように受動側の認識性能を前提にした解釈がそこにはあるように思う。あらゆる芸術やコミュニケーションが受動側の認識性能を前提としている、という考え方があるのは重々承知しているが、そこまで深い話は僕にはできない(言えるけど言えない、ではなく、単に能力的に不可能なのだ)。つまり、匂いと言うものは、芸術性におけるプラトンの言うところの「イデア」的なものであって、それをどのようにして表現するか、という部分で物語が存在しているわけである。すなわち、物語は手段の一つに過ぎない。

 僕が先ほど紹介したいくつかの断片は、言ってみれば、その「匂い」から「物語」へと形成される段階にある代物ということになる。いや、それは少し恰好つけすぎたか。僕の持っていた断片は言わば、「匂い」から「物語」へのなりそこないみたいなものだ。なぜならば、そこには物語が物語である所以の、「立場」や「出会い」、そして「接近」や「分断」もなく、ましてや「ゴールイン」も「別れ」もないのだから。僕が提示できるのは「舞台」くらいのものだろう。しかし、その「舞台」という一つの要素でさえも、決して世の中に受けるような流行や新しさといったものは持ちえない。とは言うものの、前述したインストゥルメンタル・ミュージックや抽象画のように、物語性がなかったとしても人を感動させることは可能だろうし、世の中に受けないからといって、そこに「匂い」が存在しないということもないだろう。そして、僕はその「匂い」を作るために、自分の記憶を――疑似的な記憶を――辿り、そこから何かを見出さなければならないのである。

 その何かを僕は簡単に発見することができるだろうか。否。芸術的な才能のない人間なので、そう簡単なことではない。僕はスマートフォンを持っているし、そこには地図アプリだってダウンロードしてある。アプリを起動させて、目的地を検索しようとする。しかし、そこで僕はフリーズしてしまう。僕はパソコンやら何やらの電子機器よりも頻繁にフリーズする。まるで、火星人に火星語で話しかけられた時みたいに。何故なら、僕は目的地というものを持っていないし、それを見つけようにも見つけられないのだ。だから、僕は仕方なく、目的地もなく歩き始める。知っている道を辿ることもしばしばだが、大抵の場合、知っている道からは僕の欲しいもの、つまり目的地を再発見することはない(とは言え、たまには「これが僕の欲しかったものだ!」と既知のものからひょんな気づきを得ることもあるが。例えば、「なんか小腹が空いているけど、スナック菓子も、チョコレートもなんか違うんだよなぁ」とコンビニの中をうろうろしている最中に、ふと苺大福を見つけ、「これだ!」となるような感じだ……伝わりにくいだろうか。ともかく、僕は記憶力があまり良くないだけでなく、記憶の探索能力も非常に低いため、自分の知識の中にあってもそれが何か思い出せないということが多々あるのだ。しかし、いずれにしても、地図ばかり眺めていたところで「苺大福」の存在を思い出せるわけではないので、僕はとりあえず歩いてみるしか、うろうろしてみるしかないのだ)。括弧は終わったが、どうやら括弧の中で僕は既にこの議論の答を述べてしまったようだ。だから、再び僕は結論を繰り返す。たとえ僕が求めているのが既知のものであったとしても、それを見つけるために散歩に出てみるしかない。況や、僕の中に無いであろう何かを見出すためには迷う他ないではないか……をや。申し訳ない。学が無いもので、「いわんや~をや」の適切な使い方がわからない。

 物語を作り上げるというのは非常に骨の折れることだ。

 まずは自らの描きたいものが何であるかを見つける。そして、その上で、舞台や人物の初期設定を行う。ある意味ではそこで全ての準備が終わったようなものではあるかもしれないが、もしそれなりに物語としての完成度を上げたいのであれば、その物語の構成までかなり理性的になって詰めなければならない。その一連の内容は計画的な海外旅行と似ているかもしれない。

 しかしながら、僕は海外旅行などあまりにも計画性を必要とするものがあまり得意でないのと同じように、物語を作り込むのが得意ではない。これまでと同じように、その理由についてあれやこれやと言ってみても良いのだが、ここは端的に言おう。僕は、すなわち、面倒臭がり屋なのだ。やれやれ、僕の十八番である「言い訳」をすることすら面倒臭がるなんて。どれだけ僕は面倒臭がり屋なんだろう。

 物語を作り込むのが苦手な理由については、僕が面倒臭がり屋であるという説明だけで十分だと思うが、僕がどれくらい面倒臭がり屋なのか、ということについてはもう少し色々と喋ってみても良いだろう。それくらい、面倒臭がり屋の僕であっても面倒臭がらずにやれるかもしれない。