霏々

音楽や小説など

霏々 vol.5

 さて、話が長くなってしまった。今さらそんな謝罪めいた言葉を零してみても何の意味もないとわかっているが、どうも僕は喋り出したら止まらない性分のようだ(もちろん、そのことを知らなかったわけではない。ただ、過失的な雰囲気を演出して許しを請いたいわけだ。これも何かの小説で引用されていた言葉の又借り的引用になるが、アメリカで二十人殺して死刑になった男の言葉がある。「この世で一番贅沢な娯楽は誰かを許すことだ」。それを言った人間がアメリカ人ではなく、関西人であれば「どの口が言うとんねん」的なツッコミを期待しての言葉だったと容易に想像がつくが、残念ながらきっとそれは笑えないジョークにしか成り得なかっただろう。裁判官や検察、そして遺族の感情を逆撫でしただけに違いない。まったく、仕様がない奴だ。「口は禍の元、沈黙は金」という言葉を教えてやりたい……せーの。どの口が言うとんねん!)。

 ここで、唐突ではあるが、この計画性のない文章を「散文」という言葉でお洒落っぽく演出している自分がいることに気がつく。「死」という重苦しい言葉を持ち出して、自らの面倒臭がり屋な性分を如何にも高尚なものであるかのように語ってみせたが、結局のところ僕がやっていることは、「この曲はメンバーでスタジオ入って、せーの、で鳴らして作ったんですよ」と、さも誇らしげにクオリティの低い楽曲を披露する才能のないミュージシャンと同じだ。いや、それにすら劣ると言える。僕は適当に思いついたことをダラダラと喋り倒しているだけで、井戸端会議ですべき話を紙面の上にばらまいているだけだ。三丁目の川上さんの旦那さん、もう二週間もお家に帰って来てないそうよ。これと何ら変わらない。

 しかしながら、面白いことにその井戸端会議で喋っているのは僕であり、そしてそれを聞いているのも僕自身である。僕は僕に向かって途方もないお喋りを続け、そして僕はそんな僕に辟易とした想いを抱いている。僕はこんなくだらないお喋りを聞くために、買い物を中断しているわけではない。いつまでもこんな話が続くのであれば、さっさと買い物を済ませ、家に帰ってドラマの再放送でも見ていた方が生産的だと思う。僕が聞きたいのはもっと手で触って確かめられるようなきちんと形を有する物語なのだ。

 先にも述べたように、僕は自分が物語を構築できるほどの能力がないことを知っている。能力どころか、そういったものを構築するという気概さえ持ち合わせてはいない。なぜならば、僕は面倒臭がり屋であり、それと同時に死という虚無を傍らに侍らせながら死んだように生きている人間だからだ。虚無から有形の物を構築することを放棄した者。すなわち、物語を書くことを放棄した者。こんな僕に、いったい何が書けるというのだろう。せいぜい今までこの可能性の塊である美しい白い紙の上にぶちまけてきた、卑しく脈絡のない駄文くらいだ。しかし、これは完全な矛盾であるが、僕はもっと手で触ることのできる「僕の」物語を読んでみたいのである。でなければ、この僕のだらだらと続けている文章の冒頭があんな形で始まることはなかっただろう。あれは断片的なイメージでしかありえない。文学的な「匂い」を孕んでいるだけの舞台装置。舞台さえ用意すれば、僕の創造性が何かを生み出してくれるような気がしていたのだ。だから、見切り発車で僕はこのお喋りを続けていた(もはや、僕のこの文章は「散歩的散文」ですらなく、ただの「お喋り」、いや「独り言」と化してしまったようだ)。

 僕はもう一度、冒頭のあの文章に立ち戻ることにする。散歩において、出発地点に戻るというのはある意味では、それは散歩の終焉を描くと言っても良い。僕はこうしてまた僕自身に対して失望しながら、散歩を終えることになるだろう。何度も味わって来た敗北感。どこを見渡しても勝者なんていないのに、僕はたった一人で敗者になったような気分だ。まるで頭の悪い、愛らしい女の子のように悲劇のヒロインを気取っている(いや、悲劇の「ヒロイン」ではなく、「ヒーロー」だろうか。いやいや、この問題は既に解決している。僕は悲劇の「英雄」なわけである……恰好つけすぎだろうか)。

 僕に見えたのは、あのアスファルトの上の逃げ水。それがいったい何を意味するというのだろう。しかし、それは映像的暗示でありながら、すでにそれは僕の中で言語的暗示になってしまっているような気がする。「逃げ水」という言葉。それはどこまで行っても到達できない「何か」としての意味を持ち始めてはいないだろうか。とても恰好つけているような感触が拭えないが、それはシーモア・グラースの右掌に残ったシャーロットのドレスのレモン・イエローのようにいつまでも僕を捉え続けているような……

 やめよう。こんな話をしてみても、何の意味もない。僕が僕に対して暗示めいたことをしても僕はどこにも行けやしない。とても芝居がかっているし、ただの自己暗示に過ぎない。僕はやはり何かを語るべくしてこの文章を書き始めたに過ぎない。僕はどこにも到達できないままここまでやって来たが、このままでは臭いアーティストのインタビューみたいな感じになってしまう。僕の愛するミュージシャンが「インタビュー」という歌の中で、「ただの愛に価値はない」と嘆いていた。つまるところ、僕が持っているこの創意とそれを発散できないフラストレーションは未だその形を見せず、そしてキャッチーでもないわけで、となれば僕がこれまで書いてきた言葉もまた「価値のないもの」と言えるだろう。

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「何か見える?」僕は川の対岸を眺める彼に尋ねてみた。

 彼はしばらく黙ったままキラキラと光る水面に目を細めていたが、そのうちにふっと小さく笑って口を開いた。優しく感傷的な風が吹いていた。

「別に何が見えるというのでもないよ。ただちょっと昔のことを思い出してた」

「昔のこと?」僕はまた質問を投げかける。自分が何も語るべきことがないのをいいことに、彼に喋らせようとしているのかもしれない。「中学生の頃とか?」

「そう。中学生の頃のこと。すごいね、正解だよ」

「中学生の頃に何かあったの?」

「質問ばかりだ」彼は笑いながら言った。「まるでインタビューを受けてるみたいな気がする」

「ある意味ではそうかもしれない」

「誰がおれのインタビュー記事なんて読みたいんだろう?」

「さぁ。でも、少なくとも僕は読みたいね」

「そうか。なら仕方ない。喋るよ」彼は、観念したよ、とでも言う感じで身体を逸らした。僕たちは河川敷の斜面に腰を下ろしながら、夏の光を受けて妙な生命力を宿した対岸を見るともなく眺めていた。「おれが音楽を始めるきっかけにもなったある先輩がいたんだけど、その先輩のことを思い出してた」

「その先輩には感謝しないと。君の素敵な歌声が世に出なければ、きっと困ったことになってた」

「誰が?」彼は笑っている。

「全人類が」僕は真面目に答える。しかし、彼はなお呆れたように笑い続ける。

「まぁ、いいや。とりあえず、その先輩は色々と古い曲も知ってたし、ビートルズとかクラプトンとかもおれに教えてくれた。もちろん、先輩が教えてくれなくたって、いずれおれは自分で彼らに辿り着いただろうけど。でも、きっかけというのはそういうものだ。運命や必然を具体的な事象として表出させるためには、時期と出会いというものが規定される必要がある」そこで彼は一旦、口を閉じる。そして、「話が逸れたね」と小さく言った。いったい誰に似たんだろう。「先輩はいつもクールだったし、どこか余裕があって、そして良い音楽を聴いていた。先輩自身もギターをちょっとやっていたんだけど、あまり上手くはなかったね。歌はそんなギターよりもまずかった。それでも、おれは最初は先輩にギターを習ってたし、おれの方がギター上手くなってからもよく一緒に歌ったりしたよ。ただ、先輩は自分が上手く歌えないのをわかってたし、だから、おれと歌うたんびに自分は聴くのが専門なんだって言ってた。確かに、先輩の音楽の見る目……この場合は、音楽を聴く耳の方が正しいかな。まぁ、ともかく、先輩は良い音楽を聴いていたし、おれは先輩の薦める音楽を片っ端から聴いてるような感じだった。先輩からしたら可愛い後輩だったろうな」

「だろうね」

「たださ、あれはたしか九月だったと思うんだけど。夏休みが終わった後の気怠さが毎日だらだらと続いている何の中身もないような時期だった。良く晴れた日だったね。おれは放課後にいつものように先輩と一緒に帰って、そのまま先輩の部屋になだれ込んだ。綺麗な夕焼けが部屋の窓から見えたよ。ビートルズの『ミシェル』のギターを練習してたのを覚えてる。何度も何度も同じ曲を繰り返し流して、練習、練習、練習。歌詞の意味なんてわからなかったし、英語とフランス語の区別さえついてなかった。不思議だけれど、音楽はそれでも成り立つんだ。人間の知性は理性によるのみというわけではないんだね。理性は記号性と密接に関係している。それでも、言語という記号の読み方がわからなくても音楽は音楽として成立していて、かつおれたちがそれを知覚できるというのは、まさに人間の知性の懐の深さを証明しているような気がするよ。現に、優れた将棋指しは局面の悪さを、優れた物理学者は複数の定理の間にある矛盾を、違和感という何とも理性的でない感覚器官で知覚できるらしい……いや、話が逸れた。悪い」

 僕は「いいよ」と答える。時間はいくらでもあるし、寄り道だっていくらだってすれば良い。川の上を走る船は一隻もないし、見渡す限り堤防には誰一人としていなかった。こちら岸にもあちら岸にも。だいたい、僕という人間はどこまで行っても僕でしかないのだから、文句を言ったってどうしようもない。

「どこまで戻ればいいかわからないし、適当に話し出せばまた寄り道ばかりになりそうだから、さっさと結論から話すよ。その『ミシェル』を練習していた日。まだ陽が暮れる前に、先輩の家に電話がかかってきた。『ミシェル』のリピート再生の合間にその呼び出し音が聞こえて来た―

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「先輩、電話鳴ってません?」

 僕は先輩の方に振り返って言った。先輩は漫画を読みながら、「ミシェル」の旋律をピッチの安定しない鼻歌で奏でていた。

「あぁ、別にいいよ」

 先輩は出しっぱなしにされたペットボトルを見るような面倒臭さを滲ませて、部屋のドアの方を一瞥した。「ミシェル」のリピート再生がまた始まると、電話の音はかき消されて聞こえなくなる。僕は前奏の間中悩んだ結果、プレイヤーの停止ボタンを押した。ジョン・レノンは「ミィシェール」と名前を呼んだだけで、口を噤む。再び電話の呼び出し音が聞こえてくる。

「下まで降りるの面倒だし、いいって」

「いや、でも、何か用事かもしれませんし。何だったら、僕が取りましょうか」

「わかった、わかった。いいよ。お前はギターの練習してろよ」

 そう言って、先輩は手に持っていた漫画をベッドの上に無造作に伏せると部屋を出て行った。ドアも閉めずに。溜息と階段を降りる音が聞こえてくる。

 僕はしばらく待っていたが、電話での会話が聞こえてしまっても失礼かもな、と再生ボタンを押して、再度ジョン・レノンに歌わせてやった。

 2分43秒。曲が終わるよりも早く、先輩は戻って来て、僕の名前を呼んだ。

「父親が死んだらしい。悪いけど、今すぐ家出ないとになった」

 そのときの先輩の表情は何とも言えないものだった。部屋から夕陽が差し込んでいたけれど、もしかしたら先輩の顔は窓枠の影に隠れていたかもしれない。先輩は背が高かった。

 いつもクールな先輩の声が歌っているときのように揺らめく。泣くこともできずに、かと言ってうまく笑うこともできずに、ただ僕が帰るのを心待ちにしている。今すぐ家を飛び出したいけれど、後輩を一人自分の部屋に残していく訳にはいかない。そんな先輩の考えがすぐさま僕には理解できた。言語化されなくても、場合によっては、人はそれを理解することができるものだ。

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 ―要するに、人が死ねば、どんなにクールな人間、それが例えばあの先輩であっても狼狽えることになってしまう。別に特別な価値があるというわけではないけど、死というものはそれだけ影響力のあるものなんだと、おれはそのときはっと気づいたんだ」彼はそう言葉にした後、小さく頷いて、そしてその頷きよりも小さく笑った。

「近しい人が死ねば、誰だって少なからず狼狽える。それでも、その先輩は十分冷静だったと思うよ」

「そうだね。でも、おれにとっては絶対不可侵の先輩が、ほんの僅かでも狼狽えていることを感じて、とても驚いたんだ。衝撃だった」そこで彼は一呼吸おいて、また対岸を眺めた。真っ青な空には鳥も飛んでいない。「でも、それがおれの生きる意味になっているような気がするんだ」

「生きる意味?」

「クイズ番組かなんかで、徐々に写真の変わっていく部分を当てるやつがあったよね。ゆっくりリンゴがトマトになるみたいな。でも、あまりにもゆっくり過ぎてなかなか気づかない。最初と最後の写真を同時に見比べれば違いなんて一発でわかるのに」

「あぁ、あったね」

「あぁいう感じで、ゆっくりゆっくり消えてしまえればいいんだ。そうすれば、誰もおれが死んだことに気がつかない。誰も先輩みたいに狼狽えなくて済む。でも、なかなかそういう死に方はできない」

「僕が急死したところで誰も狼狽えたりしないだろうけどね」

「おれが狼狽えるよ」彼はにっこりと笑う。「でも、だからさ。たったそれだけの理由だけど、取りあえず、そう簡単に死ぬことはできなそうだ。だから、おれは生きている。あの先輩の狼狽えた感じがおれの生きる意味になっている」

 僕は生きていることと、ゆっくりと消えてしまうことを考えてみた。あれと近いかもしれない。あれ、そう、夏場のアスファルトの上の蜃気楼。逃げ水。秋になっても、冬になっても、それが見えなくなったことには気づかない。誰も気づかない。そして、また夏がやってくるときに、視線の先に逃げ水を発見する。そして、夏が来ることを実感する。そういう風な死に方、生き方ができればいいのに、と漠然と思う。

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 僕が有する想像力、あるいは創造力と呼べるものなんてこの程度だ。これ以上は一文字たりとも捻りだせない。

 僕はこのところ、よく散歩をするようになった。それと反比例するように、この文章を書き進める機会が、気概が、減ったように思う。結局のところ、僕は僕の創意性に則って、この文章を書いている訳ではなく、ただただ、もっと生理的な理由、あるいは娯楽的な理由からこの文章を書いていたのだとようやく思い至る(当然、それは大抵の嫌なことと同じように、予感としては感じられていた。ただ、それを認めるのはなかなか精神的なハードルが高いものだし、僕は多くの人間と同じようにそれを見て見ぬふりをしていたのだ)。

 散歩が増えた理由については、夏が終わりに向かっているということにあるのではないか。少しばかり涼しくなって、外に出てみようという気持ちになりやすい。

 僕がこの文章を書き始めたときは、七月上旬にしては早すぎる猛暑が我が国を襲っていた。季節の巡りがおかしくなっているし、台風は続けざまにやって来て、異常気象を誘発している。いや、異常気象が台風を誘発しているのか? しかし、そんなことはどちらでも良い。きっと、地球温暖化が全部悪いんだ。今朝方、手を滑らせて落とした眼鏡を自分で踏んで壊してしまったのも、地球温暖化のせいだ。「寝苦しい夜が僕の安眠をこそげ落し、日中の注意散漫を生んだ」。ほら、何だって地球温暖化のせいにできる。あるいは、そういった全ての苛立ちを受け止める存在(つまりは、サンドバッグのようなもの)が、ストレス社会で生きる僕たちに求められているからこそ、地球温暖化は生まれ、そして存在し続けているのかもしれない。