遅読の私なので、原作を読み返すのに半年以上かかりました。通勤電車の中の10分足らずでちまちまと読んでいたせいですね。
あらすじ/配役
<ハードボイルド・ワンダーランド>と<世界の終わり>という2つの世界の話が並行して描かれています。この2つは双方の象徴にこそなれ、交錯することはなく描かれます。ネタバレもクソもありませんが、<ハードボイルド・ワンダーランド>が我々の住む現代(現代といっても1980年とかそれくらい?)であり、そこで生きる「私」の脳内世界として<世界の終わり>が存在しています。
2026年冬の舞台では、舞台の配役が絶妙に面白く、冒険譚を繰り広げる動きのありそうな側である<ハードボイルド>の主人公「私」として藤原竜也さん。そして、<世界の終わり>の主人公「僕」としてWキャストの駒木根葵汰さん/島村龍之介さん。この時点で1人の人間が<ハードボイルド>と<世界の終わり>に分かれているのに、<世界の終わり>の方では、「僕」と「影」が分断されているので、「影」役に宮尾俊太郎さんという配役になっています。
1人の人間が3人に分裂しているのです。これは原作の通りでありますが、面白いのが<ハードボイルド>の司書の女と<世界の終わり>の図書館の彼女は、同じ森田望智さんによって演じられていることです。すなわち、ここは<ハードボイルド>と<世界の終わり>がリンクしているんですよね。原作では、司書の女は結婚歴のある成熟した女性ですが、図書館の彼女は「少女」と評されることもあり、原作を読んだだけだとイメージが結びつかなかったりします。ただ、<ハードボイルド>の「私」におけるヒロインと、<世界の終わり>の「僕」におけるヒロインという意味で、立ち位置はシンクロしていたり、していなかったり。
ほかにも<ハードボイルド>の博士と、<世界の終わり>の大佐はその世界の秩序を知る識者として同じ役割を担っており、池田成志さんによって演じ分けられます。原作を読む限りは、ぶっとんだ博士と老獪な大佐の間ではキャラクターに大きな差があるので、それがどう演じ分けられるのか楽しみです。
また<ハードボイルド>の方では、敵組織である「工場(ファクトリー)」と関係する2人のヤクザ(のような人)が出てきます。大男と小男の2人組ですが、これが<世界の終わり>では門番と(森の発電所の)管理人で演じ分けられます。<ハードボイルド>の方では、お喋りな小男と、無口な暴力装置としての大男に分けられていますが、これが<世界の終わり>でどのように機能するのか気になります。原作では、<世界の終わり>の門番が屈強(暴力装置)かつお喋りなナビゲーターであり、管理人は物腰の柔らかい気弱な技術者という感じなので、そのキャラクターの変貌っぷりも気になるところですね。
この物語は<ハードボイルド>の世界から始まります。「私」は計算士としての仕事をするために、とある秘密の場所に呼び出され、動いているかどうかもわからなくなるほどゆっくりとした不可思議なエレベーターに乗せられています。そんな奇妙なシーンから始まるのです。村上春樹特有の鼻持ちならない、素敵な文章によって。
エレベーターを降りた先で出会う、初めての「私」以外の登場人物が、太ったピンクの女です。彼女の服は全てピンクで、後に判明しますが下着までピンクです。彼女の言動は非常に合理的かつ即時的で、恐れというものを知りません。が、出会った当初は彼女の祖父である博士に「音抜き」をされているため、「私」とまともに会話をすることができません。でも、何故かコミュニケーションは取れる。それほどにピンクの女の仕草などが雄弁なのか、「私」が汲み取る力に優れているのか。そんなちょっとした軌跡みたいなことが、むしろこの2人の関係性を親密にしつつ、かつコメディを演出しています。
このピンクの女を象徴する存在は<世界の終わり>には登場しません。故に、役を演じる富田望生さんは<ハードボイルド>パートにしか出演しないと思われます。
いきなりこの物語のネタバレになりますが、主人公の「私」は計算士として脳味噌をいじくられ、そこに新しい彼独自の世界である<世界の終わり>をインストールされています。この<世界の終わり>は元々「私」が脳の中に持っていた抽象的なイメージを、博士が具体的に再編成したようなものであり、「私」自身の理想とする世界であります。この<世界の終わり>を封じ込める弁が脳の中で焼き切れて、それによって<世界の終わり>に意識が飲み込まれ、<ハードボイルド>の私が死んでしまうというのがあらすじです。
ちょっとややこしい部分の説明なのですが、「インセプション」という映画では夢の中でアイディアを植え付けるというミッションに立ち向かいます。このとき、現実の5分が夢の中では1時間になります。電車の中で転寝をしていると1駅分の僅か5分の間に膨大な夢を見ることがあると思います。そのイメージですね。そして、夢の中でさらに夢を見させると、現実の5分が夢の中の夢の中では、約半日にまで膨れ上がる…みたいなルールになっています。<世界の終わり>はいわばそんな世界であり、<ハードボイルド>の世界の「私」が、脳の中の<世界の終わり>に取り込まれて死ぬその僅かな一瞬に体験するのが<世界の終わり>での日々です。
これはほぼ永遠の長さを持っていると博士は説明します。<世界の終わり>はもともと「私」が持っていた理想郷を、博士が再編し、上手く組み上げたものですからとても居心地がいいんですね。ただ、その世界では「心」というものが邪魔になっており、「僕」は「心」の実体を示す「影」と切り離されます。「影」は門番の小屋に閉じ込められ、「僕」は「心」を持たない生活を過ごします。その中で図書館の彼女と出会い、たまに「影」と話し、楽器を手に入れ、少しずつ「心が重要なのでは」と気づいていきます。
<世界の終わり>に登場する人物の多くが、舞台の配役で見るように<ハードボイルド>の世界から引き継がれたものになっています。そんな中、唯一引き継がれなかったのがピンクの女です。これは私の解釈ですが、「私」の頭の中には、博士やヤクザ、それから心安らぐ愛情を向けるべき女性というのは、もともと存在していました。故に、<ハードボイルド>の登場自分つである、司書の女、大男・小男、博士というのは<世界の終わり>に引き継がれています。ただ、ピンクの女に関しては、完全に想像の範疇外であった。だからこそ、<世界の終わり>に引き継がれなかった。
このピンクの女が本作においては、本当に闊達で常に活き活きとしていて、<ハードボイルド>の冒険譚ではずっと「私」を励ましながら引っ張って行ってくれるのです。このピンクの女の存在が<現実:ハードボイルド>と<理想:世界の終わり>の決定的な違いであり、それによって「では、どちらの世界が本当に自分がいるべき場所なんだろう」と考える支点になっていそうです。
さて、それでは舞台観劇に向けて、あらすじを振り返ってみましょう。
まず、<ハードボイルド>の世界は上述の通り、1980年代の現実的な世界。ちょっとSFチックな部分もありまして、「私」は計算士という職業に就いています。計算士は、数列データを頭の中の特殊な回路を使用して、別の数列に置き換える暗号化を生業としています。暗号化の手法はいくつかありますが、その中でも特別なのは「シャフリング」という技術です。頭の中の個別具体な世界観を通して暗号化するので、暗号鍵は複製できず、完全に個人の脳味噌に依存します。
あるとき「私」は暗号化の依頼を受けて、不思議なエレベーターに乗せられます。ここが物語の入口。最初に出会うのは、ピンクの女。彼女とは会話をすることができませんが、とりあえずついていくと東京の謎の地下空間=下水道みたいなところに案内されます。真っ暗闇で恐怖すら感じる場所。そこを少し歩いていくと、博士の隠し研究所があります。博士はなぜか「シャフリング」のことを知っていました。ただし、この「シャフリング」は「私」が所属する「組織」から使用が禁じられていました。なので、一旦は断るのですが、なぜか博士は「組織」からの許可証を持っており、主人公は泣く泣く「シャフリング」を実施することになります。
この「シャフリング」は意識が飛ぶので誰もいない自室などで行う必要があるため、データを一旦持ち帰ることにします。博士は、お土産的に謎の生物の頭骨をくれます。こんなデカいの邪魔だけどな、みたいな感じも出しつつ、それを持ち帰ることにしますが、その頭骨の正体が気になり、「私」は図書館に行きます。調査は難航しますが、頭骨の頭頂部に1つの穴があることから一角獣の頭骨ではないかと当たりをつけます。といっても、一角獣なんて空想の産物。はて、なぜこんなものが。と、不思議に思いつつ、図書館の司書の女性に一角獣に関する本を尋ねるのですが、ここから村上春樹作品らしく、なぜか「私」とこの初対面の司書は良い感じになります。
そして、一緒に「私」の家で、良い感じの夕飯を食べ、音楽を聴き、良い雰囲気になり、ベッドに行くわけですが、なぜかこの日は勃起しない。「そんな日もあるわよ」みたいな慰めをもらいつつ、「私」も自分自身に呆れ返ったりします。2人して、ちょっと影があって、世界を斜めに見つつ、それでもどこか余裕があるみたいな表情をして、やっぱり生きづらそうな感じで息が合うのが、村上春樹作品。
無事に「シャフリング」も終えた「私」は次の約束の日までゆっくりしていようと思うわけですが、急に自宅のドアがとんでもない音を立てて蹴破られ、マフィア2人の進入を許します。そして、その片割れの大男が部屋をめちゃくちゃにするのを諦めて眺めながら、小男が慣れたような口調で「何かを探しているわけじゃない。何かを探していった、っていう演出が必要なんだ」みたいなことを言うのを聞きます。部屋はめちゃくちゃにされ、最後には腹を少し切られ、「私」は呆然となります。
医者に行ったときには、「女との痴話げんかですよ。警察沙汰にしたくない」みたいな嘘を平然とつき、これもまた村上春樹っぽいなと思いつつ、SOSの電話をかけて来たピンクの女を探します。彼女の祖父=博士の研究所も襲撃を受け、博士はどこかに避難したということです。「私」もこれからどうすればいいか途方に暮れているし、ともかく博士なら色々な疑問を解決してくれるから、とピンクの女と合流することにします。
合流した後は、とにかく真っ暗闇の地底を探索する冒険譚が始まります。狭い道、穴だらけの道、ヒルだらけの道、謎の生命体やみくろの恐怖、そんなものと悪戦苦闘しながら博士を探すパートがひたすら続きます。
ようやく博士と合流すると、なぜ「私」や博士たちが狙われたのかの説明を受けます。「シャフリング」技術は、人間の頭の中にあるその人独自の世界をオリジナルの暗号鍵として使用し、データの暗号化を行う技術です。その技術の実現は成功したが問題があり、被験者の計算士が半年くらいで次々死んでいったそうです。なぜだか「私」だけが生き残ったため、「私」は非常に重要なサンプルになっていたというわけです。「シャフリング」は凍結されましたが、今回博士は独自に「シャフリング」技術の研究を再始動させ、それによって「私」は先日この地底に呼ばれたというのです。
「シャフリング」に使用する個人独自の世界と、現実を生きる意識はスイッチのようなもので切り替えて使うのですが、死んだ被験者たちはこのスイッチが焼き切れて、個人世界に現実意識が飲み込まれて死んだとのことです。「私」は何故だかそういうことが起こらなかったけれど、どうやら今回の「シャフリング」でこのスイッチが壊れ、残すところあと48時間程度の命である、と博士から宣告を受けます。誤差はだいたい前後30分程度と、とんでもない正確性で突き付けられます。
ただ、と博士は言います。現実ではぱっと死んでしまうかもしれないが、当事者の意識からすれば、死ぬ直前に個人独自の世界の方に意識が飛んでいき、そこで永久の時を感じることができる、その世界で永久に暮らすことができる。こっちの一瞬が、あっちの永遠のようになっている。時間というのは単一な振る舞いをするものではない。意識が感じる時間は、実際の現実の時間とは異なる。だから、怖れなくていい。君は君の世界でずっと生きることができるんだよ、と。
「私」からしたらたまったものではありませんが、この個人独自の永久世界というのが、<世界の終わり>を示しています。なので、<世界の終わり>も永久機関的な振る舞いをします。
<世界の終わり>の主人公である「僕」は心や記憶を失っており、その心や記憶を持っているの「影」とは切り離されています。そして、目には傷を負い、強い光を見ることができなくなっている代わりに、一角獣の頭骨から夢を読み取る「夢読み」としての資格を与えられます。
この世界は、周囲を高い壁に取り囲まれており、街の中を川が横断していて、門は1つしかなく、そこは門番が守っています。門番は毎朝門を開け、獣=一角獣たちを街の中に招き入れ、街中で自由に草を食べさせます。そして、夕方になったら角笛を吹いて、獣をまた門から外に出します。街の人々はそんな獣の動きを当たり前のものとして捉えつつ、それぞれに静かにひっそりと暮らしていました。「影」は門番の管理下に敷かれ、逃げないように監視されつつ、門番の手伝いをして暮らしています。「僕」とはたまに会い、2人きりで話をしたりしますが、「影」には心も記憶もあるため、この<世界の終わり>の非現実的な感じに違和感を覚え、「逃げ出そう」と「僕」に言ってきます。
「僕」にはこの街の静けさが心地よく感じられ、日々が穏やかに過ぎていく完結性にも惹かれています。が、「影」に誘われても街を出たくない理由の1つが、夢読みの仕事を手伝ってくれる図書館の少女の存在です。彼女は、美しいだけでなく、何か「僕」の心に訴えかけるものを持っていました。夢読みは毎夜図書館で行われるのですが、そこで少女と過ごす時間を「僕」はとても大切にしています。
どうやら少女の母親は「心」を残していたため、森に追放され、それ以来会うことができていないようです。そして、「影」から離れて間もない「僕」にはまだ僅かに心の残滓のようなものがあり、それが少女の中に残された「母」の記憶のような何かに惹きつけられているのだというような感覚を覚えるようになります。「影」と本来の自分があるべき世界に戻るのか、それともこの理想郷とも思える場所で静かに暮らしていくのか、その選択が「僕」に突き付けられるというのがこの<世界の終わり>の物語です。
それぞれの世界でそれぞれに印象深いできごとがあります。そのうちいくつかを振り返っておこうと思います。
<ハードボイルド・ワンダーランド>
・司書の女は胃拡張。とにかく彼女との食事は1つのアトラクションのように楽しい。次から次へと料理や酒が登場してくる。デザートまでしっかりと。その後、一角獣に関する彼女の調査結果。物語終盤にも彼女との際限のない食事シーンが出て来る。
・部屋の破壊。上述の通りだが、大男と小男のコンビの来訪によって、部屋がめちゃくちゃに壊される。「組織」と「工場」の対立、博士と「僕」の立場の整理。
・地下の祭壇にて螺旋階段を登りながら脳裏に映し出されるダム開通式のニュース映画。ダムの壁に水流の影が映っているが、その壁が自分の影であることに気づく。水流と影というキーワードが、<世界の終わり>におけるラストシーンを彷彿とさせる印象的なシーン。
・博士による現状起きている事態と、シャフリングに伴う<世界の終わり>に関する説明。この物語の世界観を仔細に語っているが、これが舞台上でどこまで簡略化されるかが気になる。
<世界の終わり>
・大佐とのチェスをしながらの会話。この街と影とについて。退役軍人たちがこの壁の内側で平和に安住していることについて。大佐の言葉はこの不可思議な世界が、どのように成り立っているかや、この不可思議な世界でどのように生きていくか、ということについて暗示に満ちている。
・冬に凍死する獣たち。その切なく美しい描写もさることながら、後半では<世界の終わり>における永久性に獣が大きく寄与していることが明かされる。
・森の発電所への訪問。「僕」と少女と管理人。<世界の終わり>の独特の平板さがここでは後ろに引っ込み、僅かに「心」を残している管理人との会話は温度感が確かに異なる。この絶妙なチューニングが舞台上でどのように表現されるのか。また、楽器が登場するシーンでもあるので、そこも注目ポイント。
小説では、<ハードボイルド>の私の死が宣告された後の、日常に戻ってからの描写はどれも素晴らしく、1つひとつの日常が輝かしいものであることを思い出させてくれます。こういったただの日常を舞台で時間をかけて表現することはないでしょうから、これは小説を読んでの楽しみとなるかと思います。静かだけれど、厳しい冬の中で脱走を試みる「僕」と「影」の奮闘を背後に引き連れながら、現実世界で最後のひと時をしっかりと受け止める「私」の言動はどれも瑞々しく思えました。
はい。そんなところでしょうか。読むのに半年もかかったので、改めてここで原作小説について振り返ることができて良かったです。今はまた村上春樹熱にやられているので、「1973年のピンボール」を読み返しているのですが、やはりこの作品は至高ですね。しばらくはまた楽しい読書ライフが続けられそうです。
では、来週の1/29の舞台を楽しみにあと1週間、がんばっていきましょう。