The Star Idol
素敵な時間というのは、こんな世界にもいくらか存在している。基本スタンスは「あ、私、厭世的なんで」と及び腰で生きてはおりますが、テトリスの真っ直ぐの棒をちょうど良く差し込むように、上手いこと手順を踏むことでその素敵な瞬間は訪れる。ただ、訪れた素敵な瞬間はぱっと消えて、後には何も残らない……なんてこともないと私は信じている。彼ら彼女らがそれを望んでいるだろうから。
会社勤めをしている身からすれば、たいして痛くもないちょっとばかしのお金と、何とか身を削って捻出しなければならない時間と、それから他者との交流を蹴っ飛ばして孤独に自分の中に積み上げたあれやこれやを持ち寄ることで、その機会を手にすることができる。万人にとって最善ではなくても、私は私という器において最善の美酒をそこに注いでいるという自負がある。だから今日もまた私は最善の行いを為したのだ。神様、見ってるぅ?
てなわけで、数日かけて溜めた仕事の成果を上手いこと今日に集中砲火し、つまるところはテトリスの真っ直ぐの棒。当初は自信がなかったので、事前にチケットは取れなかったのだけれど、当日券でも入れそうという情報は得ていたから、午前中に仕事の進捗を鑑みて会社のトイレでチケットを購入。ランチのため外に出たついでにコンビニで発券。会場の座席を確認して、「まぁ、そりゃ後ろの方だわな」と満足しているのかがっかりしているのかわからない溜息を漏らす。もう夏の熱気だわね。日傘は便利だ。擦れ違う人の顔を見なくて済む。
あとは消化試合でしょう。午後はゆったりと残務を片付けていればいいと思っていたのだけれど。私の予報士は当てにならない。結局、何やかやと仕事が降って来て、ギリギリで会社を飛び出した。スコールにご注意。
私は中高生の頃から女性アイドルが好きだった。映画やドラマに出てくる女性はどこかわざとらしい。でも、アイドルはわざとらしくない。逆に、男性アイドルはどこかわざとらしい。でも、映画やドラマに出てくる男性は色っぽい。全部が全部そういうわけではないのだけれど、ともかく私は女性アイドルがずっと好きだ。それでも二十歳までの数年間は少しだけアイドルから離れて、バンドに傾倒していた時期がある。アイドルを追うことは私の日常になっていたから全くさっぱりというわけではなかったにせよ、好きだった子が卒業したこともあって私のヲタク心は小旅行に出かけていた。けれど、大学生活において全く友達ができず、また誰も私のことを評価してくれなくなり、気が付けば「私の人生って何だったんだ」とありきたりなアイデンティティクライシスを引き起こしていた私は、海外通話料金なんて気にすべくもなく、コロッセオの前で浮かれて剣闘士ポーズを決める私のヲタク心を呼び戻した。
旅行鞄を床に転がしたまま、汗だくで開いたパソコン画面に映っていたのが、Kだった。
Kは良い。デビューに向けてひたむきな心持ちを語る彼女に打ちのめされた。世を恨み、私を辛み、逃げ場のなくなった私にとって、彼女は冷たい精神の泥濘を暖める燦燦たる陽光のようであった。そんな彼女を応援し続けた。鬱屈とした大学生生活を終え、さらに社会に出て人生に食傷してからも、彼女を応援し続けた。
が、そんな彼女も卒業コンサートで(コロナ禍でキャパ制限がかかっているとは言え)武道館を満員にして華々しく旅立っていった。彼女の卒業コンサートは生で見たけれど、あの時は私、適応障害で休職中だったっけかな。そう考えると随分と昔のような、いや、ほんのつい最近という気もするな。
Kが卒業しても、彼女が所属していたグループは相変わらず応援していたし、K自身のことも追うようにしていた。ちょくちょくコンサートにも顔を出し続けた。それでも心も体も疲れ切っていた私はあまり活動的になれず、自宅から応援することが多めにはなっていたな。けれど、最近の私は元気もりもり躁状態に転換したこともあって、かつ、Kがとても素敵なコンサートをやっているということを知り、今までにはないくらいの頻度で彼女に会いに行けるようになった。
そのようにして、今日もまた仕事をちゃちゃっと(だいぶ返り血は浴びたけれど)片づけ、彼女に会いに行ったというわけさ。
ちなみに今日はKが所属していた事務所の別グループの、エース格の子が卒業ライブをやっている。そっちにも行きたかったけれど、チケットは取れずじまい。でも、きっと私よりもその子に会いに行きたいと思う人が沢山いたはず。だから、それはそれでいいんだ。何か別の機会で彼女の卒業コンサートの模様を見ることはできるはずだし。それよりも裏被りしているおかげで、より前の席が取れて、より近くでKを見ることができるということに感謝しよう。なんでも前向きに。ビー・ポジティブ。
今日の会場のキャパは130人くらいらしい。小規模な劇場だ。言い忘れていたけれど、今日は音楽ライブではなく、演劇なのだ。大掛かりなものではなく、出演者も4人しかいない。しかもそのうち2人はまだ研修生という身分だ。つまり、正式にはまだデビュー前。それでも彼女たちは既にYouTubeチャンネルにも出演しているし、それなりのファンであれば当然の如く彼女たちの名前や顔を知っている。デスノートを持っていれば、その効果を適用できてしまう。では、何を以って、デビュー前と言うのか。通例では、自分あるいは自分が所属しているグループがメジャーレーベルから楽曲を発表することがデビューの定義になるようだった。と、それは大事なことだけれど、今はあまり関係のないこと。
もう1人の演者は宝塚出身のベテラン女優。私はその方面にあまり詳しくないので、どれくらいのネームバリューがある方なのかよくわかっていない。が、伝統と実力を兼ね備えたその一団の中で活躍してきたのだから凄い人ではあるのだろう。
そんな3人で脇を固めてもらい、Kはその舞台で主役を務める。
演劇のあらすじはこうだ。
Kが演じる主人公は、80年代の売れないアイドル。遅咲きでなかなか人気に火が付かないが、向上心が高く、前向きで誠実。そんな彼女があるとき2024年の現代にタイムスリップして、新しい環境でトップアイドルに登り詰める。と、まぁ、かなりわかりやすい物語の筋ではある。この演劇のために書き下ろされた楽曲も多く、事前情報を加味して総合的に考えれば、おそらくは演劇のほとんどがライブのような体裁になると思われる。コンセプトライブとでも言えばいいのか。ストーリーはあくまで演劇の背骨であり、実質的な血肉はKによる音楽ライブということなのだろう。
そして、実際に演劇を見てみるとまさに想像した通りだった。うん、良いものを観た。
普段の音楽ライブとはまた一風変わっていて、Kの演技を観られたのも良かったし、ありきたりではあるのかもしれないけれど、それでも破綻なく綺麗にまとめられたストーリーも楽しめた。普段はソロで活動しているKが、役を通して、あるいは時に役を半分降りながら演者たちと絡むのも楽しく観ることができた。そしてもちろん音楽のパフォーマンスはいつものように素晴らしく、いい塩梅に「役」というフィルターを通して為される歌やダンスはいつもとはまた少し違って観えもした。そういう色々が馴染み深くもあり、同時に新鮮で良い。
Kに限らず、アイドルに限らず、これまで沢山のライブや演劇を観てきた。本はあまり多読ではないけれど、好きな作品を時間をかけながら繰り返し読んできたし、映画やドラマ、アニメもそうだしバラエティ番組もそう。様々なコンテンツに触れてきたからこそ、こういうタイプのステージをまた面白く観られるのだろう。
100人規模の小劇場で、かなり近い距離間で、4人の演者という構成で、チープなストーリーと煌めく歌とダンス。これもまた乙ですな。なんの疑いもなくそう思える。
前に地元のレストラン兼ライブハウスみたいな場所で200人規模くらいのバンドライブを観た。妹が学生時代にサークルでやっていたバンドですらそこのステージに立った経験があるくらいの小規模なステージだ。アンプからの生音。ドラムも生音。めちゃくちゃ良かった。暖房が効き過ぎてて、途中で倒れる人がいたけれど(そんなに激しいバンドじゃないんだよ)、みんなが一体となって素敵な時間と空間と質量だった。
私は演者との距離が近い、小さな会場がとても好き。Kはもっと売れたい、大きな会場でやりたい、と思っているだろうけれど、でも私はこの距離感も好き。もちろん大きな会場にもそれはそれで良さってものがあるけれど。でも親密さに飢えている私にとってはやっぱり演者の瞳の色が伺えるくらいの距離がいい。
とはいえ、Kはやっぱり悔しいのだろうか。グループの卒業コンサートだけに限らず、定期的に武道館を満員にできるくらいの集客力はあった彼女だ。そんな彼女が100人規模の劇場で、たった4人で構成された舞台をやるのはどういう気持ちなんだろう。グループ在籍時よりも明らかにビジュアルに磨きをかけ、歌もダンスもレベルアップしたというのに。グループという箱がなければ、私にはもうそんなに価値がないのだろうか。そんな風に思っていやしないか。もちろん演劇というのは、特にKが所属する事務所の場合は、一定の期間同じ会場で平日、休日関係なく連日開演される。しかも休日ともなれば1日に数回公演を行うこともある。だから、1回々々の集客数はあまり多くなくていい。チケット代も結構いい値段だし、元は取れているから興行としては成り立っている。
結局のところ消費という行為はフェアじゃない。
室伏広治があれだけの肉体を持ちながらも、ハンマー投げという決してメジャーとは言えない競技に身を置いたために、野球やサッカーであれば何百億と稼げていたはずなのに大損こいとるやん。と、そんな説を唱えた人もいたっけ。Kのビジュアルや歌やダンスのスキル、表現力は明らかに現役グループの子たちを凌駕するものではあるけれど、ソロアイドルというマイナージャンルに挑んでしまったKはもはや正当な評価を受けられないのかもしれない。言い方を変えるなら、関係性やストーリーといったプラス・アルファがなければ現代の消費活動には耐えられないのかもしれない。ただ「上手い」、「凄い」というだけではエンターテイメントとしては足りない時代なのかもしれない。
私は昭和のアイドルに詳しいわけじゃない。でも、彼女たちはたぶんただ美しい、可愛い、パフォーマンスが素晴らしい、人を惹きつけるカリスマ性がある、という点で評価され、人気を博したのだろう。ソロアイドルとしてやっていくことを選んだKは、幼い頃からそんな昭和アイドルが好きだったという。そんな彼女が今回の演劇では、売れない昭和アイドルが現代にタイムスリップして大人気になる、という筋書きを演じることになった。あるいはこれは彼女の願いなのかもしれない。演劇の中の主人公のように、SNSを駆使して、自分の魅力を発信し続ければ、世界はいつか自分に気づいてくれるだろう、と。
然れども、然れども。私だってこれだけKのことを愛しているけれど、結局のところ彼女がかつて所属していた一連のプロジェクトが今でも好き。そこにはいくつものグループが存在していて、沢山のメンバーが所属している。誰かが卒業しても、新しい子が入ってくる。伝統と楽曲は継承され、魂も継承され、様々なものが継承され、同時に新陳代謝が起きながら、ずっと進化し続けていく。ある種の永久機関みたいなものなんだ。メンバーの入れ替えによる新陳代謝があるおかげで、メンバー間の関係性やそれぞれの役割のようなものも変わっていき、どこかの残念な企業のように腐っていくこともない。見ていて楽しいんだよね。追っかけがいがあるんだよね。これって画期的なシステムだよね。こういうエンタメを知ってしまったら、もう昭和のアイドルには戻れないかもしれない。
でも、だからこそ、そんな時代だからこそ、Kの推しがいがあるというもの。ひたすら自分という枠組みと向き合い、自分がやれる最大限に対しストイックに取り組みながら、自分の存続のために必死になっている彼女の姿は闇夜に浮かぶ月のように孤高で美しい。
Kはずっと道を切り開く先駆者だった。
昔の話をする。Kのデビュー前。研修生から新しいグループでデビューするというパターンがずっと長い間なかった。そんなときに研修生の中でも注目度の高かったKをエースに据えて新しいグループが発足し、そしてどうにかこうにか苦行のようなライブハウスツアーを乗り越えて、グループは成功と言っていい功績を残した。おかげでライブハウスでのツアーという興行パターンも生まれたし、同時に研修生からの新グループ結成という後続にとって大きな波も作ることができた。またグループで活動しながらソロライブをするという功績も残している。これに続くメンバーはまだ多くはないけれど、今年も後輩メンバーがささやかではあるがソロライブをする予定がある。グループの卒業後は、既に卒業していたメンバーや新しく卒業したメンバーを集めて、夢の競演を実現するライブシリーズも作り上げた。
今回の演劇も新しい可能性だ。100人程度の小規模な会場で少人数構成での音楽パフォーマンス中心の演劇、という形。グッズ販売でも、抽選形式のオンラインストアと提携したりと、新しい試みに取り組んでいる。こういう様々な取り組みが成功していけば、今までであればグループ卒業後にアイドルを引退するしかない子や、芸能活動を続けるにしてもその活動レベルを下げざるを得ない子が減るかもしれない。そういう販路開拓みたいなことができるのは紛れもなく、Kに実力があるからであり、またグループ時代ほどではないにせよ、きちんと彼女のファンがついてきているという事実があるから。これらの点をもう少しファンは評価していいんじゃないかな。と、贔屓をしてみたり。
だから、というわけでもないけれど、こういう形態の演劇というか実質的に音楽ライブというか……に参加できたのは結構嬉しいし、素直に良かったなと思える。まぁ、ディナーショーみたいなことをやったり、一人ミュージカルみたいなことをやったりしている子もいるので、Kだけが飛び抜けて特別というのでもないにせよ。それでも、歌とダンスに圧倒的な自信がある彼女だからこそのこういうステージはファンとしてはなかなか観ていて頼もしいと感じる部分が多い。
役柄と彼女自身の趣味、特技が相まって、やはり昭和アイドルらしい歌い方をさせたら、Kは抜群だ。きゅるきゅるとカールしているような甘い歌声、あるいは楽曲によっては草原を渡る爽やかな風のような歌声。天性のクリスタルボイスは、高音になれば島雲の上を飛び跳ねる天使のよう。それでいて場面によって力強く訴えかけられもするし、霞んで消えゆくようにも魅せられる。Kという輪郭をきちんと持ちながらもその中で七色。彼女のオリジナル楽曲ではより彼女らしく、また演劇のストーリー上、実際の昭和アイドルの楽曲(「時をかける少女」とか「青い珊瑚礁」とか)を歌うこともあったのだけれど、これは明らかに昭和アイドルのDNAを引き継いでいてまた絶品。何よりも彼女が楽しそうなのが私としても嬉しくなってしまう。
ダンスはあくまで繊細で可憐。緩やかで可愛らしいダンスをしているときですら、もう体に染みついているのか、指先まで神経は研ぎ澄まされている。リズムは的確で、ニュアンスをつける首や肩の角度もどれも彼女らしい、というかアイドルらしい。昭和アイドルの楽曲を歌うときは気持ち柔らかめで曖昧なニュアンス。逆に自分の楽曲ではもっと極端にポップな表現へと。どこをどう切り取っても、彼女がどういう風に見せたいのか、パフォーマンスしたいのかが伝わって来て、とてもとても楽しい。
けれど、そんなパフォーマンスに魅せられながらも、いつも一番に驚くのは彼女の登場シーン。しかも暗めのステージだとなお驚く。
なんてったって、彼女は発光している。
初めて彼女を見たとき……それは彼女がまだ中学校を卒業するよりも前だったけれど、その頃からその輝きは何一つ変わっていない。あぁ、このステージのために心と体と技術を鍛錬してきた人間なんだな、と一目でわかる。凡人とは一線を画す、圧倒的なオーラ。リアリティのなさ。異様とも言えるほどの肌の白さ。凝縮されたような華奢な骨格。そしてなんと言っても黒目の大きさ。深い井戸の底を思わせる、或いはそれは宇宙や銀河といった類か。そんな澄んでいて深い黒い瞳が、彼女が私たちとは違う地平で生きていると錯覚させる。
彼女がステージに立った瞬間、そういった不思議な感覚に侵される。
まぁ、「はっ」と息を呑む、ってこと。なんど彼女に会いに来ても、ちょっとびっくりするのですよ。
色々な面で低予算ではあっただろうその舞台でも、意図的に気合を入れていたところがあって、それは衣装だった。たぶんそうだと思う。普通のアイドルの音楽ライブでも、多くても3ポーズ程度しかないけれど、この1時間程度の短い舞台の中で4ポーズの衣装が用意されていた。どれも彼女の細い脚を映えさせるドレスタイプで、昭和のテイストを宿した黄色い衣装、現代のポップなイメージによく合うピンクを主体としたカラフルな衣装、Kの美しさを際立たせる瀟洒な黒い衣装、そして最後はいかにもアイドルらしいぱっきりとした赤い衣装。どれも少しずつ違った彼女の一面を引き出していた。けれど、私は黒い衣装が凄い好きだったな。ワンポーズごとにウィッグで髪型も変えていたけれど、この黒い衣装のときの髪形も盛れていて好きだったな。
日々の忙しさに、というか季節の変わり目の疲労に苛まれて、椅子に座ってパソコンに向き合うということができなかった。にもかかわらず、文章を書きたい欲みたいなものが溢れていて、いくつも「新しい文書」を立ち上げてみたりもした。書いてみては、疲れて立ち止まり、一から読み返してみるとこれが全然面白くない。深いため息とともに、それを「没」フォルダに放り込む。デリートで白紙に戻す勇気まではないのが私だ。
気が付けばあの舞台を観てからもう半月が立とうとしている。
おいおい、感動が薄れちゃいないかい?
確かに断片は薄れてしまった部分もあるかもしれない。でも、この間、舞台の配信があってそれで復習できたし、YouTubeでKと同時視聴イベントまであったので、2回も復習ができてしまった。そこで得られたいくつかの発見や具体的な情報もあったけれど、基本的には直接舞台を観に行ったあの日のことを思い出しながら書いていきたい。
といっても、もうだいたいのことは書き終えている。私が言いたいと考えていることは今のところあと1つだけ。
先にも書いたけれど、やはり何と言っても彼女の美しく、不思議な瞳について。
彼女は幼い頃からやや釣り目なところがあった。それがコンプレックスで、目じりにテープを貼って矯正したり……みたいなことも昔はやっていたそうだけれど、今でもその釣り目な感じの名残はある。特に伏し目がちになると、彼女は陽気できゅるっとした可愛らしい女の子から、一気にアンニュイな雰囲気を纏った女性へと変貌する。その瞳の在り方はまさに彼女のパフォーマンスと符合しているように私には思える。繊細な心の機微を歌うとき、彼女は目を細めて、冷たい憂いを演出することができる。逆に愛らしさを前面に押し出し、淡い少女の恋心を表したいとき、Kは大きく目を開いて、少しうつむき加減に愛を語らう。目を大きく開いても彼女の大きな黒目のおかげで、むしろ自然で素朴な印象さえ与える。
さて、喋りたいことはだいたい喋り終えたと思う。書いてみれば、なんてことない。400字詰め原稿用紙1枚分くらいの内容。私の要約能力が熟達しているのか、あるいは私の作文能力が終焉を迎えているのか。まぁ、明言するまでもない。
夏が本格化し、もう一生、熱っちぃ地球を冷ますことはできないんじゃないかと思っていた矢先、帰省先で冷ややかな空気を感じている。昨晩まとまった雨が降って、辺りは鎮痛剤を呑んだみたいに静謐で涼しい。
音楽をかけながらキーボードをぱたぱた。Kの美しい姿を瞼の裏に思い描いている。都会の喧騒から離れ、こんなしっとりとした涼しい風に身を委ねていると、彼女の凛とした姿ばかりを思い出す。薄暗いステージの中でスポットライトを浴びる彼女は昔からずっと綺麗なままだ。正しい鍛錬を怠りなく続けてきたK。続けられるだけの高潔な精神を持つK。歳月とともに彼女の神聖さは極まっていく。時間はKの味方なのだろう、と思う。
私は時間とともに腐っていく。日々怠惰に、何かを諦め、その代償に誰にも求められることのない文章を書いて、自らの鬱屈とした想いをお焚き上げしている。その灰は雲となり、雨を降らし、この世界を薄暗いステージにする。そこで輝くKを思い浮かべて、踊り、歌わせる。それだけが私にできる唯一の神聖な祈りかもしれない。
パラグラフを変えてみても、火照った脳みそは大した文章を生み出せない。だから、これくらいで今日も終わりにしようかな。
次にKに会いに行く予定はまだ立てられていない。でも、また近いうちに必ず。
Kがステージに立つ限りは応援していくつもりだから。