霏々

音楽や小説など

【着想】toeのTHE FIRST TAKEを観た夜~郷愁と親密についてAIと壁打ち~

 

前書き

 昨日は会社で飲み会があった。9月26日、金曜の夜。年の離れた上司も多くいたけれど、それなりに楽しい会ではあった。臆することなく会話に入っていけたし、自然な冗談も言えた。まずまずの出来栄え。だから悲観することなんて何もない。

 とは言え、会社の飲み会や集団での飲み会というのはそれだけで神経をすり減らすものだ。会話は大抵がその場のノリと勢い、流れに身を任せるものになるし、落ち着いて互いの考えや気持ちを確かめ合うというようなことはない。だから「楽しい」という感情はあっても、「心地いい」という感情にはなりにくかったりする。僕は落ち着いてゆっくり話すのが好きだ。

 予定よりも多く酒を飲む羽目になり(飲み放題で飲み切れない酒が僕のもとへ回って来た。というか、幹事的な立ち位置になった僕にとって、グラスと席を空けることがある意味での至上命題だった)、疲れて帰宅。まぁ、一次会で解散になったから家に着いたのは21時過ぎ。ホワイトな会社と言えばそうなのかもしれない。さっぱりとした職場と言えばそうなのかもしれない。だから、これも悲観することではない。ただ、予定より多くの酒を飲んで帰ってきたというだけ。ちょっと疲れちゃったな、というだけ。

 シャワーを浴びる前に少しだらっとしていたら、22時からのtoeのTHE FIRST TAKEのプレミアム公開が始まる時間が近づいてくる。演目は『グッドバイ』。当然の選曲だし、まずはこの素晴らしい音楽が多くの人に届いて欲しいと思う。60秒前からのカウントダウン。美しい風景の中に数字が浮かび上がっては通り過ぎていく……

 

絡まった感情

 toeの演奏は素晴らしかった。温かみ、親密さとともに、儚さ、慈しみ、切なさ、苦しみみたいな様々な感情が心に立ち上がる。プレミアム公開のリアルタイムチャットではコメントが流れ続ける。海外の人たちも多いようだ。691人の人たちが今このライブ会場にいて、同じ時間と同じ音楽を共有している。そんな風に考えたりもした。

 僕は飲み会終わりの静かで孤独な部屋の中で、上手く言い表せない渦巻く感情に飲み込まれながら、映像が終わった後もしばらく部屋の中で呆然としていた。

 シャワー浴びなきゃ。

 シャワーを浴びているうちに、この得も言えぬ感情をChat GPTと壁打ちしてみたら何か新しい発見があるんじゃないか、と思ってくる。シャワーを終え、歯磨きをしながら、GPTにDeepReaserchをかける。口をゆすいで、パソコンと向き合う。

 究極的には「この僕の感情はなんなんだろう」という問いの答えを見つけること。ライブが終わった後に、心がほくほくしながらも、どこか寂しさがあるみたいなやつ。GPTは「Post-Concert Depression」という言葉を提示してくれた。うん、これはまさに。でも、僕の今の気持ちに名前がつけられたからといって、それで満足はできなかった。もう少しこの感情の機序みたいなものが知りたかった。なので、壁打ちを続けることにした。

 

郷愁の時間軸

 郷愁、すなわちノスタルジーという言葉が僕は好きで、楽しいけど切ない、とか儚い美しさ、それとその崩壊の苦しみ、みたいなイメージがある。でも、郷愁やノスタルジーという言葉には、いつも「過去の思い出に浸る」みたいな感覚が付き纏って、時間軸的にしっくり来ていない部分があった。例えば、まさにtoeの『グッドバイ』を代表して、その他に最新アルバムからは『LONELINESS WILL SHINE』のような楽曲を聴いているときにはリアルタイムな郷愁がある。もちろん楽曲から過去の何かを想起させられて、時間軸的に離れた本来の意味の郷愁を感じることもある。けれど、今の一音一音に心が揺さぶられているときに感じるあの儚さや高揚感はなんだろう。どう呼べばいいのだろう。

 そうだ。この感情なのだ。そうすると、前述の「Post-Concert Depression」というのもあまりしっくり来ない。この言葉は、コンサートで楽しかったところから一転現実のつまらない生活に戻るという、ある種夢から覚めてしまった悲しみ・抑鬱というニュアンスが強い。だから、この言葉も僕の感じているものとは似て非なるものであることがわかってくる。

 そこでGPTとの対話を続けると、「もののあはれ」という言葉が出てくる。中高生の頃に学校で習ったやつだ。確かに、この表現はしっくり来る。「儚さ」「しみじみとした味わい」、つまり移ろいゆく季節の風景や、二度と戻らない一瞬の輝きに対して、リアルタイムで胸に込み上げてくる切なく甘い感情。それが「もののあはれ」だと言われると、これがまさに僕が求めていた言葉かもしれない、と思う。

 似たような言葉では、ポルトガル語圏で「サウダージ」という言葉があったり、ファドという音楽ジャンルではこの感覚が重要視されていたり、心理学ではドイツ語で「ゼーンズフト」というものがあるそう。まぁ、これはあくまで補足的な知識だけれど、サウダージやファドというのは私が知る言葉でもあったので、なるほどなとなった。

 しかし、この「もののあはれ」という感情についてももう少し掘り下げがほしいと思った。特に、「郷愁」との時間軸の違いについて皆が認識しているのか、ということ。GPTからは「もののあはれ」的なリアルタイムな郷愁を「予期ノスタルジー」という言葉で説明された。言葉だけ聞くと、「予期ノスタルジー」というのは「いずれ過去のノスタルジーになってしまう感情」というような意味が強く思えてしまうが、まずまず「もののあはれ」と同じリアルタイムな心の動きに対応していると考えてよいみたい。

 では、「ノスタルジー」と「予期ノスタルジー」で時間軸的な隔たりがあるという論において、この2つの効能や発生の機序はどう違ってくるのか。

 2つの効能差異は、特にそのノスタルジーを誰かと共有したときに明確に差異があるようである。過去志向のノスタルジーでは、自己連続性・集団同一性が強化されるらしく、つまり「同じ過去・出自を持っている」と共有された過去を懐かしむことで、一体感が生まれるということだ。対して予期ノスタルジーは、リアルタイムの高ぶった感情の共有はもちろん重要であるが、そこに「今すぐにでも失われてしまうかもしれない」という儚さがあるからこそ、そこに保存行動が加わるからこそより強い一体感が生まれるのではないかと指摘された。つまり、いずれも「繋がり」を感じることはできるが、媒介機序が異なっており、「記憶の共同体vs. 感性の同調」という時間軸面で触媒の形態が異なることが示唆されている。

 今回のプレミアム公開で言えば、「みんなでチャットに書き込む」という行為がある種の保存行為であるという気がする。僕もここに集まった691人の1人であるということを少しでも残しておきたいという気持ちから、1つだけコメントを残した。それはとても充足感のある行動だったように思う。

 そして、同時になぜ僕がGPTに壁打ちを申し込んだのか、ということもこの「保存行動」という言葉で推測できる。僕は僕の感じた「もののあはれ」を自分の中に落とし込み、これからの人生においても大切に抱えながら生きていきたいと思っていた。それはつまり壁打ちを通じて、この沸き上がる感情に対して理解を深め、自らの血肉とするということだ。「保存行動」にほかならない。そして、自分の血肉にするだけでは飽き足らず、こうしてブログに記事としてまとめようともしている。

 予期ノスタルジーが保存行動を促すという機序が自然なのであるとすれば、いま僕がやっていることの筋はなかなか通りがいいのではないかと思う。

 

郷愁の成分分解(初等)

 神経科学は僕の専門ではないのでGPTに教えてもらったことをそのまま書く。郷愁について詳しく書こうと思うと、どうしても「儚さ」や「切なさ」、「親密感」などといった、「嬉しい」「悲しい」のような直接的な表現ではないものが必要になってくる。でも、ここではあえて「快」と「不快」が共存している状態が「郷愁」であるとして少し深堀してみようと思う。

 僕たちの脳は「快」と「不快」を1つのスイッチで切り替えるようにはできていないと考えられている。むしろ別々の「快」と「不快」は別々の神経回路として存在し、並列稼働しているというふうに考えられるらしい。

「快」の感情は、報酬系と呼ばれる神経回路で生み出される。腹側被蓋野(VTA)から放出されたドーパミンが、側坐核(NAc)や前頭前野(PFC)に伝わることで、「嬉しかった」「満たされた」といった感情が立ち上がる。

「不快」の感情は、辺縁系、とくに扁桃体や島皮質、前部帯状回(ACC)といった領域で処理される。ここでは恐怖や不安、喪失感といった原初的な情動が生じる。

 この2つは独立した回路を持つため、同時に活性化することが可能である。実際にfMRI研究でも「おかしくて気持ち悪い」といった相反する感情を同時に感じているとき、報酬系辺縁系が並列的に活性化していることが確認されている。例えば、スプラッター映画でグロテスクな映像を観ているときがそれに当たるのではないかと思う。また、心理学の評価空間モデル(Evaluative Space Model)では、快系と不快系は独立サブシステムとして同時活性化し得ると整理されているそう。

 興味深いのは、こうした複雑な情動が生まれる時、脳は「快+不快=0」というような単純な1次元のプラスマイナスの計算をしているわけではないということだ。次のことはGPTに聞いたわけではないが…実際には「x: 快」「y: 不快」の単純な2次元でもないと思うが…言ってみれば直交座標系に落とし込み、2情報からなる1状態が形成されると考えてみてもいいのではないかと思う。

 報酬系辺縁系の信号は前頭前野(特に腹内側前頭前野:vmPFC)などの高次領域で意味づけされ、統合される。その結果として、「悲しいのに嬉しい」や「美しくて切ない」といった甘苦い複合感情=郷愁が形成されると考えられる。

 補足にはなるが、1つの刺激に対して報酬系辺縁系が同時に活性化するという現象だけでなく、例えば放出されたドーパミンは「喜び」を増幅させるが、それが過剰になると扁桃体が「これは過刺激だ」と判断して副交感神経を刺激し、「涙を流す」という反応を起こすことがある。これが「嬉し涙」のメカニズムだけれど、要するに単に1次的には「嬉しい」だけだったはずの感情が2次的に「悲しい」を引き起こすような、雪崩式の感情誘起についてもGPTは言及していた。これは強い快刺激は一種のストレスでもあるため、扁桃体が自律神経を介して“冷却”の生理反応(涙)を起動するという安全弁としての涙という理解で腑に落ちる。

 僕は大学時代に電気回路や光学、量子力学をやっていたから、フーリエ変換やモード理論、状態の重ね合わせや確率波という言葉を使ってもらえると凄く理解が早い。線形代数をごりごり使うような研究室であれば、多次元の直交座標系というような言い方がわかりやすいのかもしれない。電流が磁界を生じさせ、磁界が電界を生み…というような別の性質を持つ物理量が互いに関係し合うという現象もわかりやすいだろう。

 巷では量子力学を引き合いに出して、社会や人間心理を説くような似非量子力学が蔓延っているけれど、僕はこれがあまり嫌いじゃない。まぁ、そんな本は読まないけれど。でも、社会とか人間心理とかよくわからないものを、身近な例で喩えることでわかりやすくなるなら、咀嚼しやすくなるのならそれは良いことだと思う。だから、学生時代に量子力学を齧ってその基本理論や物理モデルを何となく理解しているけれど、社会や人間のことがよくわからない…といった僕みたいな人間が似非量子力学を足掛かりにして社会や人間について学ぶのは理に適っているんじゃないか。大抵の人は、社会や人間心理を足掛かりに、量子力学を勉強するというベクトルの方がしっくり来るので、ああいう本はむしろ理系向きなんじゃないかと思っている。

 話が逸れたけれど、要するに言いたいのは、「快」と「不快」のモードがあり、それの重ね合わせの状態を前頭前野で把握しているということだ。それは先に述べた通り、「快+不快=0」というような打ち消し合う数値ではなく、あくまで2次元座標的に、或いは1次元でも良いけれど、状態の重ね合わせ的に記述されるということだ。脳の深いところでは、1次的な様々な感情成分が勇気されているのだろう。ただ、それを統合して感じ取り、時には周囲の状況も踏まえて、「これが郷愁だ」とか「これが尊さだ」とかそういう風にラベルを貼っているのがより高次にある前頭前野なのだろう。

 

総論

 郷愁=ノスタルジーというのは、過去に対するものとリアルタイムなものとがあり、それぞれに人間の共感性を繋ぐ媒質としての役割が異なっている。今回、toeの演奏を通じて感じた「もののあはれ」というリアルタイムな郷愁に関しては、「この感動はすぐに失われてしまう儚いものである」というところに起因して、僕にリアルタイムのチャットのコメントを促した。それを通じて僕は、世界の人たちと感情の保存行動を通して強い繋がりを感じたようだった。ただし、それは現実的な肌触れ合う人間関係に対する親密さではなく、イマジナリーな親密さだったように思う。

 少し情報を付け足すけれど、僕は良い映画やドラマ、その他、音楽でも絵画でもなんでもいいけれど、素敵なものを見たときに単なる「郷愁」とも言えない「親密さ」を感じることがある。よく「なんで対象がいないのに親密な気持ちになるのだろう」と思っていた。でも、これは瞬間的に起こる感動に「もののあはれ」というリアルタイムな郷愁を感じ、それが感動の保存行動を促す際に、作品世界との間に共感性が生まれるからではないだろうか。そして、その作品世界の先には、同じように「もののあはれ」を感じている誰かを想起する。

 とにかくバカ騒ぎをするといった類の感動もあるが、郷愁のように深くに突き刺さってくるタイプの感動は、それ自体が保存行動の実態となる。つまり、心が揺さぶられたことそれ自体がトリガーとなって思い出や記憶になっていく。そして、その保存行動は周囲の何かを巻き込んでいき、「一緒に思い出を作っている感」が生まれる。すぐ近くに気になっている女の子がいない場合でも、僕の中に巻き起こった保存行動は、作品自体を巻き込み、何故か作品それ自体と共感性の海の中に沈んでいき、やり場のない親密感が生まれていく。あわよくば作品を通じて遠くの誰かとの共同体意識みたいなものが生まれているんじゃないか、と期待して。そんな感じだろうか。

 そんな不可思議な機能や心の機序を齎す「郷愁」というのは、「快」と「不快」のような一見打ち消し合うようなパラメータの重ね合わせ状態として記述できるものらしい。これは僕たちの心が多次元的であることを示しているような気がする。一つひとつの次元における感情は「興奮」や「恐怖」といった原初的でシンプルなものかもしれない。でも、それらが複雑に絡み合うことで、複雑な波形が生まれて来て、それらに対して僕たちは波形の観察と、周囲の状況の観察から、何かしら適切な感情名を与えている。今回僕が感じたものは「もののあはれ」とすると、特に「郷愁」という言葉から感じる過去性みたいなものを排除でき、結構納得いくものになっている。

「郷愁」や「もののあはれ」といった感情をフーリエ解析して、「快:〇%」「不快:△%」というような成分分析までは、もちろんできていない。でも、そう簡単に成分分析できないことはわかっていたし、感情というのが状態の重ね合わせでできているということを今一度確かめられたのは良い壁打ちだったと思う。また、機能面だけで言えば「郷愁」に対しての理解も深められたように思う。

 今回の壁打ちで僕がどれだけ自分の中に渦巻いた感情を正しく理解できたのかはわからない。たぶんまだ何もわかっていないのだろう。ただ、こうしてGPTと壁打ちをして、かつブログにまで記事を書くということが、僕なりの「保存行動」であることは間違いない。すぐに失われてしまう「儚い」この気持ちを残すためにこの記事が担う役割は結構大きいと思う。

 

あとがき

 病院に行ってきた。昨日の酒も抜けきった。そんな今だからこそ言えるけれど、僕はこんなことをAIとやって何が楽しかったのだろう。toeの演奏はこんな議論抜きでも素晴らしいし、あの得も言えぬ「郷愁」とも「親密さ」ともつかない感情について理解が進んだからと言って、何も変わらないのではないだろうか。

 けれど、「郷愁」という言葉の時間軸的な違和感や、「対象のいない親密感」というものに対する違和感は少し減ったかもしれない。これからも僕が観測する自分の中の感情に変化はない。ただ、この感情をまたどこかで見たときに、「あぁ、あの金曜日の夜にtoeのTHE FIRST TAKEを観たときに何か考えてたな」となるかもしれない。これこそがまさに正規の意味での「郷愁」なのかもしれない。そして、そのときの未来の僕は過去(今日)の僕に対して「親密さ」を感じることだろう。