積読チャンネルで紹介されていたこちらの本が気になりすぎてつい買ってしまいました。
私の読書筋力ではやや力不足感もありましたが、何とか読破しました。動画の方で事前に大まかな内容を知っていたというのも大きかったと思います。
実際に本書を読んでみたわけですが、大部分は動画で話されていた内容と変わらないように思いました。が、やっぱり一度動画でざっと見るだけでなく、自分で読んでみるとより脳に染みわたる感じはありますね。そしてこれから読書メモを作っていくことで、さらに自分なりの解釈を深めて、知見として使えるようにしていきたいと思います。
250ページくらいあるのですが、たぶん50か所くらい折っている(ドッグイヤーを作っている)ので、なかなか時間はかかりそうです。
- 本書の位置づけ
- バーンアウト欲
- 5章:仕事に対する理想の引き上げ…の要約
- バーンアウトって言葉はバエる
- かつてのメランコリアと似てるよね
- バーンアウト不可避説
- エンゲージの危うさ
- 雇用は負債
- 「女性化」する職場
- 開拓時代、ジョン・スミス船長の言葉
- カルヴァン主義
- 駐車場での経験
- フェミニストと労働
- ベネディクト会
- カリスマ的リーダー
- エリカ・メナのケース:慢性疲労症候群
- パンデミック下におけるテキサス州副知事ダン・パトリックの言葉
- まとめ
本書の位置づけ
仕事は私たちに尊厳を与えるものでもなければ、人格を形づくるものでも、生きる目的を与えるものでもない、と書かれています。例えば、コロナで職を失ったウェイトレスでも、それによって彼女の尊厳が失われることにはなりません。
でも、私たちが働いているときは、自分の尊厳と仕事が密接に繋がり合っていることを意識しているはず。だからこそ、ここ50年以上にわたって醸成されてきた私たちの仕事観というのは本質的には正当性を欠いているため、改められる必要があります。なぜならば、その「ずれた仕事観」というのが原因で私たちがバーンアウトしてしまうのだから。
バーンアウト欲
私たちの多くはバーンアウト文化が好きなのだ、と書かれています。
日本ではまだそこまで明確化されていないけれど、アメリカではバーンアウトは一種のステータスにすらなり得てしまうそう。ここで言うバーンアウトとは、疲労困憊になるほどに仕事に身を捧げたということ。自分の頑張りを誇りとするような文化が根付いていることをバーンアウト文化と呼ぶことができそうです。
しかし、そのすぐ後で筆者は、「仕事に対する自身の理想と現実のギャップを埋めるために無理を重ねた結果」バーンアウトが起こると定義をしています。要するに、ただ「頑張って疲れ果てた」というニュアンスではなく、どこか「失望」や「徒労感」のようなニュアンスを含んでいてこそ、バーンアウトと呼ぶべきと考えています。
あとで書くであろうこともここで書いてしまいますが、私たちの文化にはもっとカジュアルな意味での「頑張ったで賞」的なバーンアウト……つまり、精神疾患と呼べるほどの状態にはならないまでも、一時的に働けなくなるほどの疲労感を感じるくらい、仕事に打ち込むことが奨励されるようなバーンアウト文化が根付いているわけです。それに則って、人は自分の仕事に「理想と現実のギャップ」があるかどうかにかかわらず頑張らなければならない。運が良ければギャップは少ないし、運が悪ければギャップは大きい。そして、そういった文化は運が悪かった人をダメにしてしまう。だから、このとにかく仕事に打ち込むという文化は改められるべきだと筆者は考えているわけです。
5章:仕事に対する理想の引き上げ…の要約
まだ書籍の序盤の部分ですが、素晴らしく要約されているので、ここで書いておきます。
上述の通り、バーンアウトの原因は「理想と現実のギャップ」にあるわけですが、これはただ「現実がシビア」というだけでなく、社会や経済、文化の側面から無理やり私たちの仕事に対する「理想」が引き上げられていることにも問題があると筆者は指摘しています。つまり、「一生懸命働けば報酬以上のものが得られる」とか「懸命に働けば社会的な尊厳や高い人格が得られ、精神的な目的も達成できる」とか、いわゆる「やりがい」や「自己実現」みたいなものがあまりにも氾濫しているというわけです。
こういうことを言われ続けているせいで、私たちは仕事への価値を高く見積もりすぎてしまうし、仕事を通して自分が高みに近づくことを理想とするようになってしまうのです。そうなってくると、最終的には私たちの労働倫理における最高の美徳は「殉教」ということにまでなってしまうのではないでしょうか。でも、そういった文化が根付いて徳をするのは雇用主たちなんですよね。
バーンアウトって言葉はバエる
本書にそう書かれていたわけではないですが、アメリカにおいては「疲労改善」とかそういう言葉よりも「打倒バーンアウト」みたいな表現にした方が、広告効果が高いそう。要するに、バーンアウトという言葉自体が一種のファッションであり、時代精神(ツァイトガイスト)であり、つまりはバエているということです。経済効果も大きく、「バーンアウト対策」を商売にしているコンサルティング会社は結構儲けてんじゃないの、ということらしい。
だから、みんな軽い気持ちで「バーンアウト」って使っているけれど、実際には結構深刻な場合もあるし、きちんと言葉の定義をすることから必要だね。というのが、本書の冒頭になっています。
それを助長したのが、ピーターセンの書いた「バーンアウトはミレニアル世代全員が患っている病だ」という言葉です。この言葉には「みんな辛いけどみんなで頑張ろう」的な一体感があって、むしろ私たちを上述の自己陶酔・破滅のバーンアウト文化に引きずり込んでいるきらいがあるというわけです。
そういうわけで「バーンアウトしている」と発言することは、人は常に働いてなければいけないというアメリカ人の理想を自分は実践している、と主張することでもあると筆者は書いています。これじゃあ、ダメダメですね。しまいには、バーンアウトという言葉自体が、「日常的な疲労」から「生命を脅かすほどの深刻な抑うつ状態」までを指す曖昧な言葉になってしまい、ひいては「うつ病」という厳格な病名を貶め、本当に精神疾患で苦しんでいる人を矮小化してしまうことに繋がってしまいます。
まるでバーンアウトがどこにでもあると示したり、その重要性を証明しようとすればするほど、かえってバーンアウトは日常の不満や失望の靄のなかに吸い込まれて、見えなくなってしまうと筆者は表現しています。
かつてのメランコリアと似てるよね
紀元前300年ごろに書かれた『伝道の書』でコヘレトは人生の儚さや虚無というものについて書いている。これをメランコリアと言うが、かつての精神生活を気高く追及する賢人はむしろそういったメランコリア(憂鬱のようなもの)を誇ってさえいたということです。メランコリアは頭脳労働や深い思索の末に訪れるものであるから、当時の社会においても優秀で高貴な人たちでないと持ちえないと考えられていたわけです。
現代のバーンアウトもそれに似てる、言わば「弁護士バッジ」とか「医師免許」みたいなものなんじゃないの、ということです。しかも、特に国家試験とかに合格する必要もなく獲得できてしまう。
バーンアウト不可避説
紀元数世紀くらいから続く砂漠の洞窟で修道生活を送る修道士たちは「アケーディア(別名:昼間の悪魔)」に囚われていたそうです。これは修道士が閉鎖的な空間で長時間いることで、あまりの時間の長さに耐えられなくなる一種の倦怠感や苦悩のようなもので、特に昼間に顕著にみられたようです。「いや、そんな生活してたらそうなるっしょ」と私たちは普通思うでしょう。
また電気が生まれた時代には、多くの人が神経衰弱と呼ばれるものに苦しんできました。私の好きなJ. D. サリンジャーの小説にもよく「神経衰弱」というような言葉が出てきますが、繊細で感受性が高く物事を深く考えられる人によく憑りついているという印象です。本書でも、ビアードという人が「神経衰弱は見目麗しく、知性が高い」というイメージを語っており、その時代のエリートであることを示しているそうです。「文明化され、洗練され、教育を受けている人々」によく見られ、マルセル・プルースト、オスカー・ワイルド、ヘンリー・ジェームズ、ヴァージニア・ウルフなど世紀末文学の作家はその多くが神経衰弱の診断を受けており、自身の作品にも神経衰弱者を登場させていたそうですね。
その頃から既に私たちの社会は様々な歪を抱えていたのでしょう。故に、そういった社会の中で自分の在り方や他社との関わり方のようなものを深く考え、自分の中に落とし込んでいく作家のような職業においては、「そりゃそれだけどうしようもないことを考え続けていたら神経衰弱にもなるでしょう」と思ってしまいます。
というような事例とほとんど同じ意味で、まぁ、これだけ働くことの重要性や価値が説かれている現代においては、バーンアウトなるものが流行するのは当たり前で、もはや不可避です。そしてそれがまだファッションレベルでのバーンアウトであるならみんなして好き勝手言い合っていればいいわけですが、実際には「理想と現実のギャップ」が大きすぎて本格的に潰れてしまう人もいます。
感染症と同じようにバーンアウトは人々の間で蔓延してしまってはいます。大半の人たちにとってそれは、「いやぁ、コロナに罹って酷い目にあったよ」とか「ワクチン打った?」とかそういう時代感をある意味で楽しんでいるようなところがあるにせよ、一部の人にとっては「死に直結する」深刻な問題になっています。コロナ禍で誰もがコロナウイルスに感染するリスクを孕みながら生活を送っていたように、私たちの文化においてはバーンアウトはもはや避けがたいウイルスのようなものなわけです。あ、これは私が読解したうえでの話ですけれどね。
エンゲージの危うさ
本書においてはあまり深く書かれてはいませんが、ちらっと書かれていたことが気になったので、書き留めておきます。
そもそも「従業員エンゲージメント」を仕事の理想とすること自体が、バーンアウトの一因だと筆者は考えている。
要するに、会社への帰属意識高く、一生懸命前向きに働くことこそ価値があり、かつ生産性も高く企業、ひいては社会のためになるという考え方自体が危うい。そういう価値観が流布することによって、私たちはさらに献身的に働かなくてはならなくなる。それがバーンアウトを引き起こしていると考えているわけですね。
私の会社でもエンゲージメント調査とそのフィードバック、結果に対する議論が行われました。こんなただの曖昧なアンケートで何の総意がわかるか意味不明なものに、無理やり2次元4象限のグラフに感情をプロットされ、そしてもっと理想的なプロットになるにはどうしたらいいかを議論させられる。仕事の進め方を振り返るにはいい機会でしたが、これによって社員の帰属意識を醸成していこうという無理やりなやり方がまずお粗末だなと思いましたし、個人の働く上での感情の持ちようを統御していこうという動きと同一視できるのであればそんなに恐ろしいものはないですね。
雇用は負債
という考え方があるそうです。1950年代に「女性の臨時派遣社員」を、臨時で雇える有能で魅力的な事務員、暇つぶしで働いているので高い賃金も要求しない事務員として描いていたようです。つまり、当時の家庭は夫が主な稼ぎ手で、女性たちの稼ぎは「お小遣い稼ぎ」にしか過ぎなかったという家庭内の経済がありました。しかし、次第に「正社員は景気が悪い時でも給料を払う必要がある」が「派遣社員なら必要な時だけ雇って、仕事が終われば切ればいい」という企業によって使い勝手のいいものとしてさらに広まっていきました。しかし、こういった雇用状況は派遣社員の経済状態や心理状態に常に不安定で予測不可能を与えることになります。
また、直接雇用される社員と臨時雇用される派遣の間には軋轢が生まれ、さらに人員過多による弛みをなくすために人員削減を行うと、急激に忙しくなった時や誰かの病欠などの事態にスムーズに対処ができなくなりますし、要するに上述の派遣社員の心身の状況も加えて、やり過ぎは結果的に効率性さえ損ない、害しか生まないと考えることもできそうです。まぁ、それでも一定ラインでは派遣社員へ依存することも経済効率が良いことなのでしょうが。あと、いまは派遣社員メインで話していましたが、外部委託もそうですね。外部委託それ自体が問題だとは思いませんが、結局外部委託した先で同じような問題がある場合では、何も解決したことにはなりません。
安定した雇用がなければ、それは常に競争、悪く言えば蹴落とし合いが生まれ、その不安から人は職を守るために無理をしてでも働かなければなりません。「仕事で自己実現」という飴を与えられつつ、実際には能力ややる気、生産性が足りなければ職を失うという鞭も加えられている。飴と鞭自体は必要だと思いますが、それが過剰になってきているんじゃないかと私なんかは思います。
日本ではむしろ、「転職してスキルアップを」とか「自分の生き方にマッチする仕事を」とかでやたらと転職やフリーランスを迫られている気がします。さも今の会社を離れたらより自分らしさが見つかっていき、お金も増えて、時間も増えて、大満足みたいな。当人は何も変わってはいないのに。実際にそんな美味い話があればいいとは思いますが、目くそ鼻くそなんじゃないかと個人的には思いますね。そういう甘い話で釣りつつ、内面的には「みんなスキルアップして幸福な人生を自分で掴み取っていっているぞ」「自分の市場価値を高めるのをやめてはダメだ」みたいに不安を煽っているようにも見えます。
転職がダメだとは思いませんが、やたらとそういう風にして「もっと幸せに」とか「不幸にならないために」というので心的負荷をかけられると、ただ「転職する・しない」という問題だけでなく、普通に同じ会社で働き続けている人たちにも「このままじゃダメなんじゃないか」「自分の価値を証明しなければ」というような焦りが生まれてきます。それが結局、会社への殉教に繋がるんじゃないかと思うと怖いですね。
と、かなり愚痴を書いてしまいましたが、そんなことを考えました。あぁ、キモイ。
「女性化」する職場
ここで言う「女性化」というのは、実際にその業務を行う人が女性かどうかということでもなく、古くから上述の派遣社員のように女性対してなされてきた不公平な扱いが、相対的に男性にも広がってきているということを示しているそうです。
接客など細かい心遣いが必要な業務としてもそうですし、雇用の不安定さなどをとっても、かねてより女性が経験してきた不遇を今では制度上ではほぼ男女の境無く受け取っています。男性も女性の苦しみを知ったという意味では平等にはなったのかもしれませんが、どうせなら女性の苦しみを取ってあげるという方向にもっていきたいものです。
そして、性別の話だけでなく、こういった不平等は特にアメリカにおいては人種の話にもなっていきます。例えば黒人の生活はかなりストレスフルだそうですが、しかしだからといって、黒人の方がバーンアウトしやすいかというとそういうわけではない。むしろバーンアウトしているのは白人の方が多いそう。
これはずっと話してきたように、バーンアウトは「理想と現実のギャップ」から起こるものであるため、そもそもの「理想」がそこまで高くない状況を強いられている女性や黒人にとっては、多少「現実」が厳しかろうともそれでバーンアウトしたりはしないわけです。むしろ「理想」が高すぎる人の方がバーンアウトしやすい。女性や黒人など差別にあってきた人たちの辛い「現実」を改善することはもちろん必要不可欠ではありますが、バーンアウトに関して言えば、労働環境の改善だけでなく、むしろ私たちの文化に根付いている仕事に対する「理想」を扇動するような何かを排除する必要があると考えられますね。
その何かについては、筆者が次のような言葉を書いているので、そこを当てはめようと思います。
今日のアメリカ人がヘトヘトになるまで働くのは、一生懸命働けば良い人生を送れるという理想があるからだ。良い人生とは、物質的に恵まれているというだけでなく、社会的尊厳、道徳的人格、そして精神的目的に恵まれた人生だ。私たちが働くのは、働くことがあらゆる意味での繁栄につながると思っているからだ。(中略)しかし、働けばかならず幸せになるという約束は、ほぼまやかしだ。それは哲学者のプラトンが「高貴な嘘」と呼ぶもので、社会の基本的な仕組みを正当化する一種の虚構にほかならない。
その後もプラトンの言葉の補足として「高貴な嘘」の必要性に関することや、アメリカ人が自分の長所を「勤勉」と考えがちで短所が「怠惰」とは言わないことなどもありますが、要するに私がここでまとめたいことは、私たちの仕事は「女性化」し苦しみが増えている一方で、さらにどんどんと高い「理想」を押し付けられているということです。
開拓時代、ジョン・スミス船長の言葉
今では「充実感」のような抽象的で高潔そうな言葉に置き換わっているが、当初の仕事観は脅しだった。1608年に病が蔓延し、瀕死の状態にあった開拓地ジェームズタウンの指導者になったジョン・スミス船長は「毎日、私と同じように収穫をしない者は、翌日には川の向こう岸へ置かれ、その態度を改めない限りは怠け者として要塞から追放される」と書かれた布告を出した。これがアメリカ人の考える理想的労働の基礎となったと筆者は書いています。この脅しは新約聖書の「テサロニケ人への二番目の手紙」の一節、「働かざる者は食うべからず」を引用したもので、これは仕事を持つことこそが「尊厳」への唯一の道であるという考え方と対になっています。
これらの考え方によって、労働の役に立たない者、価値のある者と価値のない者、社会の一因と異端者をきっぱりと分け、その中間をなくしてしまったことが問題と本書では書いてありました。
現代における言説でも、それを顕著にするものがあります。ギャラップ社の調査によると、アメリカ人の1/3は仕事に100%コミットしていることになるそうで、むしろこれは少ない数字であり問題があると捉えれているそうです。なぜなら残りの2/3はやる気がない人と仕事に無関心な人であり、そのうち全体の15%を占めるやる気のない従業員は、生産性を落とし、雇用主に対して人件費を追加で34%も多くかからせることになるからだとしています。言い換えるならば「熱心な労働者がどんなに努力しても」「やる気のない人たちがそれをチャラにしてしまう」ということをギャラップ社は言っていることになると筆者は考えています。
これは明らかに言い過ぎですし、非人道的であると筆者も考えています。もちろん調査の信憑性自体が不明確(上述の通り、「自分が熱心である」と思いたい人が多いだけ)でしょう。エンゲージの高さ(の自認)と幸福度を突き合わせて考えるなら、ノルウェーはアメリカのほぼ半分のエンゲージ度合いだったにもかかわらず、地球上でも幸福で豊かな国の一つとして考えられています。そして、能力のない人間を足手まとい呼ばわりしてインクルージョンしないことの悲劇は、先日私が読んだ本でも強く書かれています。
要するに、「できない」「できる」とはグラデーションかつ凸凹があるものなのにもかかわらず、例えば普通学級と特別支援学級みたいに分けることで、卑近な例を言えば子供たちの間でなんらかの能力が低い子を「障がい者」と罵るような事態が発生するわけです。子どもたちの間にも潜在的に「能力が低い」と見られることに対する恐れが芽生え、緊張感や抑圧が生まれてしまうのではないかと私は考えています。
そういった事態が本書で言えば、無理な労働・努力となり、結果的にバーンアウトを引き起こしていると考えられています。
だから、仕事にエンゲージする従業員を尊重する仕組みは、従業員に不安も与えるでしょう。その不安は不安定な労働環境(終身雇用という考え方がなくなっている現代)に蔓延していますし、ましてや労働は自分の価値とも直結するようになってしまっています。そして、そういった不安を抑制し、自分の価値を守るためにまた人々は、より過剰な働き方をするようになる。過剰に働けば働くほどに、そういった風潮がさらに労働者を軽んじ、より過酷な労働環境にしたり、自分の価値観と合わない労働に身を捧げる状況を作ってしまうのです。
カルヴァン主義
私はあまりキリスト教に詳しくないので、この話は面白かったです。
ウェーバーに言わせれば、プロテスタントの倫理観は、予定説を提唱したことで知られる16世紀の宗教改革者、ジョン・カルヴァンの神学理論に由来するそうです。予定説とは、救済されるものはあらかじめ神に選ばれているものであり、それ以外は滅びることが決まっているものという考え方です。善行を為したという原因があって、救済という結果が得られるという考え方ではありません。すでに、救済されるものは決まっていて、その証左として善行が表出するということだそうです。
私からしたらそんなのただのレトリックでしかなく、気の持ちようかなと思うのですが、神様は世界の発展を目指しており、それを達成するために人間を選んでいる。だから、自分自身が世界の発展に寄与しているかどうかを振り返ってみることで、自分が救われるに値する選ばれた人間なのかがわかる、と言われるとちょっと怖くなりますね。まぁ、結局、善行を為し、世界を発展させた人が素晴らしいと言っていることに変わりがないように思うのですが、でも常にそれを意識しながら生きていくというのはなかなかに辛いものがあります。能力がなければ救われないと言っているのと同じですからね。
駐車場での経験
筆者は大学教授になる前は、駐車場でのバイトをしていました。そこでは仕事に没頭することがなかったけれど、とても幸福だったと語っています。仕事に倫理的あるいは精神的意義を持たせようとする考え方を徹底的に排除していたし、仕事をすれば尊厳や人格の成長、あるいは目的意識が得られるという約束もなく、良い人生の可能性がちらつかされることもなかったそうです。駐車場の仕事で充実感を得ることができなかった私は、仕事以外の場所でそれを探さざるを得なかった分、文章を書くことや友情、恋愛に充実感を見出していたと言います。
そこに適切な報酬と、職場仲間との間の深い配慮のし合いなどがあったことも大きかったと筆者は書いています。本書ではこの駐車場でのエピソードが頻繁に出てきますが、それだけ筆者は自分をバーンアウトに追い込んだ教授としての仕事やそういった仕事のやり方しか求められなくしていた社会の構造を憎み、社会人になる一歩手前のこの駐車場バイト時代を楽しく思っていたのでしょうね。
フェミニストと労働
これは単に着想としてのメモ。フェミニストについても私はよく知りません。
結局、フェミニストは社会の中での女性の立場を押し上げたのではなく、労働時間を増やしただけに過ぎないのではないか、とのこと。ポスト工業化時代の女性たちは「欲しいものは何でも手に入れることができる」と繰り返し聞かされ育ってきて、子どももキャリアも、コミュニティも友情もすべて手に入れることができると思っています。が、実際問題として子育てを労働と捉える考え方もある中では、トータル・ワークに陥っているだけという気もしますし、普通に人間のキャパを超えている気もします。このような社会にあっては、普通の人にとってはそれが男であれ女であれ、すべてを全力で取り組むなんてほぼ不可能です。だから、女性の働く機会を損なわないのは大事かもしれませんが、働く時間を増進するというのはまたちょっと違う気がしますね。
むしろ政治学者のカティ・ウィークスが言うように「労働社会は完成されたものではなく、克服するものだというヴィジョン」を持つことの方が大切です。本当に何でも手に入れたいのであれば、仕事観や家族観というものを改め、キャパを超えない中で色々なものが共存できるように価値観をアップデートしていく必要があるでしょう。
こういう言い方は昔の人たちに対するヘイトになるかもしれませんが、仕事と家庭に命を捧げていたかつてのサラリーマンには、Netflixオリジナルドラマを観る時間なんてなかったと思います。趣味の時間があるにしても、飲み会やゴルフ、草野球をしながら、平日早く帰れた日は家族で同じテレビ番組を観るとか、そういう感じだったんじゃないでしょうか。それが今や娯楽に溢れ、サブスク、YouTuber、VTuberなど一人でも楽しめる娯楽が死ぬほどに溢れている。そういった娯楽を楽しみながら、飲み会にも行って、ゴルフにも行って、家族団欒で同じテレビ番組を観て、なんてことはできません。普通に考えてキャパ的にも無理ですし、考え方や価値観も変わってきています。
でも、仕事観だけはむしろ悪化している。仕事に自分の存在意義を見出すような考え方はいまだに強固です。まぁ、もっと余暇を楽しんだりする派閥も結構出てきましたけれどね。いまがちょうどその狭間の世代なんじゃないでしょうか。
ベネディクト会
宗教団体、まぁ、教会みたいなものでしょうか。私には宗教に関する基本的な知識が欠落しています。が、このベネディクト会が面白いのです。
祈ることと働くことの重要性を説いていたベネディクト会の一派、「砂漠のキリスト修道院」では、その労働としてウェブサービスを展開していた歴史がありました。そのウェブビジネスはかなりの発展を見せるのですが、仕事が忙しくなり過ぎて祈る時間がなくなってきたことを理由に、サービスを終わらせるという選択を取ります。つまり、労働もしなければなりませんが、それは正しく祈るために必要なのであって、祈ることが阻害されてしまっては本末転倒ということです。
筆者がそんなベネディクト会に行ったときに、「働こうとしてしまうのは悪霊の仕業」というようなことを言われます。むしろ四六時中働いている方が楽だし、働きたくなる欲もあるけれど、それらを排して彼らは精神を集中して祈っているのだそう。だから、ある意味では「ムズムズ」しながらも、ゆっくりゆっくりと聖歌をうたったり、そういう宗教的な生活を丁寧に送っているそうです。
彼らの生活では仕事ができる時間は限られており、「あと少し」とか「キリのいいところまで」というのを許しません。時間が来たら仕事をやめて、祈りに切り替える。そのような厳しい宗教的生活を重んじています。
仕事は成果を上げるとどうしてもそれが評価の対象になってしまう。もちろん修道院の中ではその運営資金の多くを稼ぐ人もいますが、その人は自分の仕事による経済的な価値を誇ってはいけません。あくまでそこにいる人々は神の前で平等であり、真摯に祈りを捧げなくてはいけません。祈ることで自分の存在実感を確かめているわけです。成果によってのみ自分の存在価値が定められてしまう世界にいると人はすり減ってしまう。それは過剰な努力に繋がり、バーンアウトに繋がってしまう。
だから、この修道院ではバーンアウトの事例はほとんどないそうです。でも、ここまでのバーンアウトの定義などを振り返ってみると、それはそうだろうなという気がしますね。むしろほかの色々な問題がありそうだけれど、でも、バーンアウトはしなくても済む気がします。これが何かのヒントになればいいと思いますね。
カリスマ的リーダー
カリスマ的リーダーは労働者に利益をもたらすのか、それとも負担を強いるのかについては、学者たちのあいだでも議論があるそうです。カリスマ的リーダーは人々を鼓舞しますが、常に鼓舞され続けるのは疲れますし、それが労働条件の悪さをごまかすのに使われる場合もあります。しかし、エビデンスから見れば、一般にはカリスマ的リーダーはバーンアウトを防ぐ効果があるそうです。
ただ、どのような権威モデルでも、リスクは必ず伴うし、官僚主義は理想主義者を失望させ、脱人格化というバーンアウトの典型的症状であるシニシズムが組み込まれています。一方で、カリスマ的リーダーシップは本質的に不安定です。尊敬するリーダーがいなくなったあと、そのリーダーを中心にして築かれた権威システムをどうやって維持するのかという問題があります。すなわち、カリスマ的存在を中心に築かれた組織は人の感情に依存するところが大きいわけですが、感情は常に移ろうものでそう簡単に制御できるものではありません。それはもはや皿回しと同じくらいに難しい曲芸です。
ですが、官僚主義的統治であるにせよ、カリスマ的リーダーによる統治であるにせよ、従業員の仕事に対する「理想」と「現実」をうまくバランスをとってあげることが必要です。「この人のため、この組織のためになら死に物狂いで働ける」という「理想=動機」と、実際の多忙さが結びついている分には、バーンアウトというのは起こりづらいでしょう。逆に「ここで働くことで安定的な給与と適切な余暇を受け取りたい」と考える人が、ドライな環境で脱人格化的に働いていてもバーンアウトはしにくいように思います。「ゆでガエル」なんて言葉を使って、人々の恐怖心を煽るのは勘弁してほしいです。まぁ、オオカミ少年的にそれは本当のリスクになるときもあるのでしょうが。
エリカ・メナのケース:慢性疲労症候群
慢性疲労症候群に加え、境界性パーソナリティー障害やアファンタジア(脳内でイメージを描けない障害)を持っているメナは、1日のうちの活動時間を制限しながら生活をしているそうです。もともとブラウン大学(アメリカの大学かな?)で教鞭を執っていた彼女はある日体調を崩し、半年ほど寝たきりの生活を続けることになりました。その後、もう一度職場に復帰するのですが、結局体調は戻り切らず、フィンランドに移住してフリーランスでの執筆活動やアート作品の販売で暮らすようになったとのことです。
彼女曰く、「資本主義の枠からはずれたいまのほうが自由ではありますね。障害者なので、多くの社会から切り離されていますから」と答えています。ライターのジョハナ・ヘッヴァも、障害と資本主義を結び付け、病は「資本主義的な概念」と語っているそうです。ヘッヴァによれば「<健康>な人とは仕事に行ける人、<病気>の人とはそれができない人」を指すのだというそう。その結果、資本主義社会は病を通常の人間の一部ではなく、異常ととらえるようになります。ゆえに慢性病を患うということは、正常からの永遠の逸脱を意味し、社会から経緯を受ける資格がないことになってしまうという。
これを聞いて私はだいぶ怖くなりましたね。というか、めちゃくちゃ身に覚えがありますし、私も働けなくなった時期がありますから、あのときはかなりきつかったですね。もう自分は経済社会に復帰できないんだと思うと、めちゃくちゃ強い恐怖に襲われました。私は自分なりに自分のアイデンティティは別のところにあると自負していましたが、それでもこの社会で生きていくためには、経済活動に対する義理みたいなものを果たし続けなければいけないと考えていました。つまり、「ちゃんと働いているから、自分らしさについては放っておいて」という感じですね。でも、ちゃんと働けなくなった瞬間、私は自分のアイデンティティが全体から攻撃され、非難されているような気になりました。「働けないならお前の価値なんてないんだぞ。お前のアイデンティティなんてまったく意味ないんだからな」と糾弾されているようで苦しかったのです。
だから私はそれまで必死に働いていましたし、成果を上げることを頑張っていました。ですがそういった恐怖による「駆動」はめちゃくちゃ辛く、新しい環境で仕事が上手くいかず、周囲からも見下され、自分自身を追い込み続け、果てには私は職場に行けなくなりました。
そのような経験を経て、私は自分を見つめ直すことにしました。まず、その「上手く働けない自分」というのを受け入れる必要がありました。またもともと精神疾患があったようで、その治療も続けていくうちに次第に自分の心身の調子というのを常に気遣うようになりました。そして、だんだんと「無理をしない」ということを覚えていきました。私は以前のようにがむしゃらに働けなくなりましたが、絶えず不安や恐怖を感じながら働かなくてよくなりましたし、なんと言っても慢性的な疲労感や苛立ちというものから解放されていくようになりました。
メナの話に戻りますが、メナもまた「障害は、自分は体と感情とともに存在しているのだと教えてくれたギフト」と言い、障害を得たことで「自分は否が応でも体や感情とともに存在するということを教えられた」とも言っています。仕事も大事ではありますが、それ以上に自分という存在は仕事よりも自分の心や体から作られているということを肝に銘じておく必要があります。
パンデミック下におけるテキサス州副知事ダン・パトリックの言葉
「仕事に戻ろう、それが私のメッセージです。生活を取り戻すのです。事態には賢く対処しなければいけない。私たち70歳以上の高齢者は自分で気を付ければいい、国を犠牲にしてはいけません」と呼びかけたそうです。倫理的にどうかということはおいておいて、そこには「人は働くために存在する」というアメリカ文化の原理が剥き出しになっていたと筆者は考えています。健康な身体も、それを生産的につかわなければ意味がないとも捉えられます。
しかし、実際のところ、近親者が亡くなったりしない限りにおいて、ロックダウンにおいて自由な時間が増えたことで生きる楽しみを見出した人は少なくないようだった。これは「働くべき」という強迫観念から解放されても、人間は思ったよりも尊厳を保ちながら幸福に暮らせるということを示しているように私には思えます。
働くことが一概に素晴らしいこととは言えない。みんな同じ方向を見るように扇動されていただけで、労働習慣や文化がパンデミックによって壊されてしまえば、割と多くの人が思ったよりも自由に「時間」を使い、幸福感を得るようになっていったりもする。そのことを踏まえて、これからも労働とは向き合っていく必要がある。というか、そういうことを考えるいいきっかけになったというわけです。
また、パンデミック時にはみんながエッセンシャルワーカーへ感謝したり、配慮したりするようになりましたが、そういう気遣いが労働者をシニシズムに追い込まないためには重要でもあります。奇しくも、感染症が1人ひとりの配慮によって拡大を防止できるように、またバーンアウトも1人ひとりが人間関係(事業者と客の関係とか上司と部下との関係とか)に配慮を行うことで拡大を防止できます。
結局のところ一般論に行きついてしまいますが、気遣いこそがすべてを解決に近づけるというわけですね。
まとめ
バーンアウトというのは、私たちの「労働こそ至高」という文化が作り出したものであるため、その文化を打ち砕く必要があります。具体的には、「理想と現実のギャップ」が問題となっているわけですが、そのうち「理想」というのが主に文化から醸成されるものですので、この文化を改め、私たちが労働に求める「理想」というのをもっと無理のない妥当なものに変える必要があるというわけです。
そして私たちの「現実」を向上させる方法についてはあまり本書では述べられていません。強いて言うなら、最後の「お互いに配慮する」とかそういうところになるでしょうか。指針としては、ベネディクト会の話のように、労働時間を明確に決め、無理をさせないというような働き方が求められてもいます。が、それをどうやって実現するのかまでは触れられていません。
私個人の実感で言えば、依然として転職業界によるプロパガンダは力強く、「スキルアップしなきゃ」とか「自己実現しなきゃ」みたいな圧力を感じるのですが、一方で政府は「働き方改革」とか「ワークライフバランス」とかそういう言葉を使って過剰労働を撲滅しようともしてくれているような気がします。電通社員過労自殺事件などもありましたし、私たちの働き方というのは少しずつ変わってきている気がします。
本書はバーンアウトを問題にしていますが、私にとってはやはり社会全体に流れる差別意識みたいなものが問題の根源であるように思います。つまり、「働けない奴は人権がない」みたいな価値観ですね。仕事を通じて充足感を得られるなんて本当に稀なケースだと思います。私もかつて入社当時の職場ではそういう経験をしてきました。仕事自体は全然面白くなかったですが、周囲の人と親密に助け合いながら認め合いながら働くあの環境はめちゃくちゃグルーヴ感があって楽しかったです。
しかし、逆説的に言えば、そのグルーヴ感を崩さないためにも、私は一生懸命働いたり、感性をみんなに合わせなくてはいけませんでした。それはそれで結構大変だったように思います。そして新入社員だったので、「会社で働くってこういうことか。周囲の人に働きを認められてこそなんだ。そこから外れると、あの先輩みたいに隅っこに追いやられて、バカにされて過ごさなきゃいけないんだ」と思うようになってしまいました。そのような経験をしてから、次の職場に移り、そこがかなりドライで無愛想で、そしてパワーバランスの明確なところだったので、私は初日からけちょんけちょんにやられて、全くの自信を失ってしまい、そして「このままで排除される」という恐怖を感じてしまったのです。
でももしも私が「別に仕事なんてどうでもよくない。確かにあのおっさんは何だかうるさいけど、適当に受け流して定時になったら帰ろ。そして好きなバンドのライブに行って楽しもう」のように考えられていたら、たぶん潰れていなかったと思います。だから、まずは自分の中の仕事観を変えることが重要です。そのうえで、できることなら私にそういう労働観を植え付けてきた社会全体を少しずつ変えていければいいと思います。なんだったら、かつての私が抱いていたような恐怖感を持ちながら働いている人に対して、「大丈夫だよ。社会はそんなに残酷じゃない。人それぞれの生き方そのものが尊厳なんだ」ということを語って聞かせていきたいものです。
というわけで、非常に面白い読書体験でした。ついつい自分のことを多く語ってしまい、また1万5千字も書いてしました。丸1日費やしましたが、こうやってだらだらと文章を書くのも楽しかったです。ありがとうございました。