霏々

音楽や小説など

「ケアしケアされ、生きていく」読書メモ

ゆる言語学ラジオをよく視聴しているのですが、そこで読書の仕方を紹介する回がありました。

 

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私は割と読書が好きな方なのですが、本当に読むのが遅くて……基本的には好きな本を繰り返し読むことが多いですし。新書や評論分の類はほとんど読まず、小説を読むことが多いこともあるでしょうか。とにかく、私にとって読書というのは、入浴剤を入れたぬるま湯での半身浴みたいなもので、できる限り長い時間その味わい深い世界にゆっくりと浸っていたいようなものなのです。まぁ、実のところ私は早風呂人間ですが。

だからこそ、私は本が好きな一方で、読書コンプレックスがあるんですよね。年間5冊も読まない人間なので。そして、そのコンプレックスを解消したいなぁ、と常日頃思っていたわけです。

なので、この動画は私にとって神からの救いの手のようなものでした。そう言えば、読書の仕方ってちゃんと習ったことがなかったな、と。動画の中で語られていたのは、もっと気軽に、自分勝手に、読みやすいものを読みたいところだけ、みたいなスタンスで読めばいいということでした。なるほど。好きな作家の本は、端から端まで味わい尽くしたい派の私にとっては目から鱗でした。もっと雑に、着想を得たり、ネタを仕込むためだけに読もう、と。

そんな私の初期衝動の第一犠牲者となったのが、この「ケアしケアされ、生きていく」という本でした。

 

動画の中で語られているように、できるだけ自分の興味が向くものがいいと考え、日頃から私は精神疾患を抱えている自分がどのように社会と折り合いをつけて生きていくべきかと悩んでいましたので、「共生」や「丁寧な生き方」、「脱能力主義」みたいな本がいいなぁとそういう本を探しました。また、いきなり難しい本を読むのではなく、まずは比較的簡単なレーベルの本から読むといいということで、ちくまプリマ―から選書しました。

それでもやっぱり私はまだ読書が下手なのか読み切るのには数日かかってしまいましたね。まぁ、今までに比べればめちゃくちゃ早い部類に入りますが。

そして、せっかく読み切りましたので、面白かった部分をメモとして残して、余力があれば自分なりの感想も考えてみようと思います。

 

 

子ども基本法

2023年4月に施行された「子ども基本法」の第三条第三項には、「子供が自らの発達の程度に応じて意見を表明したり、社会活動に参画する機会が確保されるべき」との事柄が記載されているそうです。そして、このような法律が出来ているということは、逆説的に考えれば、そうなっていない現状があると認められているから。なぜなら、法律とは常に情勢を反映して作られるものだから、という筆者の見解がありました。

私は決して拘束的な教育を受けて育ってきたわけではありませんが、それでも「こうあるべき」というものに支配されてはいたな、と思います。半分はそこからはみ出ることの恐怖があり、もう半分はその中で生きることの居心地の良さみたいなものもあったかと思います。私は割と大人たちが「こうあるべき」と考える姿に近づくのが得意でしたし、オリジナルな創造性を求められる方がどうしていいかわからなくなるタイプでした。なので、一概に周りの大人たちだけのせいとは言えないのですが、それでも大学に入ったあたりから、大人が求めるだけの自分であることに嫌気が刺すようになってきました。嫌気が刺す、というよりも、結局自分ってなんだったんだろう、という戸惑いです。

ひとり暮らしを始め、孤独に大学生生活を送るようになり、私の周りから私を評価してくれる人が消えると、私は自分のアイデンティティのようなものを失ってしまいました。そこに失恋という痛手も相まって、私は自分の価値がわからなくなりました。

そして、私は何とかそれまでの自分の在り方を否定しつつ、新しい自分の価値や生き方を模索し始めるのですが、その頃にはよく考えたものです。

なぜ誰も私という個人の価値を積極的に肯定してくれなかったのだろう。

と。まぁ、それは甘えと言えば、甘えでしょうし、恵まれている人間の贅沢だと言えば、その通りなのでしょうが。でも、私にとっては結構切実な悩みでした。

ですから、この子ども基本法のような基準がもっと強く適用される社会であれば、この私の悩みは生まれなかったかもしれないなぁ、と思いましたね。子どもが空気を読み過ぎたりせず、もっと各々感性を積極的に表明できるような環境であったならば。少なくとも大学生というギリギリのタイミングになってようやく、アイデンティティクライシスが起きるということは防げたのではないのかなと思います。

 

全国校則一覧

全国の公立高校の校則を、情報公開請求をして、それをウェブ上で公開するという取り組みがあるそうです。この取り組みを実施しているのは、現役の高校生らしいです。近年、少し常軌を逸した校則が取りざたされており、こういった大人が課した「不合理なルール」は子ども同調圧力で腐らせるようなものです。

私はあまりそういった校則について考えたことがありませんでしたし、客観的に見ても割と自由に学生生活を過ごしてきたように思います。ですが、上述の通り、私は「ルールを守っているんだから放っておいてよね」というような腐った考え方で生きてきた人間なので、もう少し権利団体や活動家のような一面を持って生きて来ても良かったかな、とこの話を聞いて思いましたね。

 

ゼミの自己紹介

「話しかけてもらったら何でも喋るんで、気軽に喋りかけてきてください」という言葉を、ゼミの自己紹介の場でよく耳にするそうです。確かに私も色々な場面で言ったことがあるような気がします。でも、これって「あなたに迷惑をかけるつもりはない。逆に私は迷惑をかけられても大丈夫」というかなり受け身なコミュニケーションの取り方。その背景には「他人に迷惑をかけてはならない」という同調圧力が蔓延している実態があることの証左と筆者は考えているようです。

常に「他人に迷惑をかけてはならない」という前提を強いられているのは、結構苦しいことかもしれません。私もまだその呪いに縛られていますし、おそらく一生それが抜けることはないでしょう。そしてそれが抜けない限り、私は一生孤独に過ごすしかありません。

 

スムーズに回る社会

定刻通りの電車、24時間営業のコンビニ。社会を円滑かつスムーズに回すためには、歯車となって我慢して働く個々人が必要になります。「忖度」や「迷惑をかけるな」という共通基盤があるからこそ、私たちは安定的にスムーズな生活を営むことができ、迷惑を被ることも少ない。反面、自分も他人に迷惑をかけられないという意味では息苦しい社会かもしれない。

昔、学校の国語の授業で、何かの評論文でこんな思考実験?か仮想世界の話がありました。

皆が幸せに暮らしている楽園のような世界。しかし、実際にはその楽園の維持には、地下の見えないところで強制労働させられている何人かの極度に不幸せな人たちがいました。このような世界の在り方は正しいでしょうか。

まぁ、よくある話ですが、実際には世界はそうなっていますよね。映画『ブラッド・ダイヤモンド』の世界のように、私たちが結婚式か何かでうっとりとした面持ちでダイヤモンドの指輪をはめていますが、そのダイヤモンドはアフリカの紛争で多くの血が流されたうえでここまでやってきたものだった、みたいな。そして、そのダイヤを購入するために、必死になって働かなければならない、という苦しみ。

というよりは、筆者が伝えたいことは、社会を円滑に回すためには犠牲が必要で、しかしそういった犠牲を生むことは、何かの拍子に自分が犠牲側になることを常に恐れながら生活するということであり、結果として特定の人間に対する人権の冒涜でありながら、同時に自らの首をも締めるやり方だ、ということです。

 

労働ファースト

仕事をしていない自分や、取り残される自分を不安に思うというのは、「労働ファースト」という価値観の現れ。1989年、平成元年に売り出された栄養ドリンクのキャッチコピー「24時間戦えますか?」。これはまさに「労働ファースト」の具現化ですね。

ここでは「労働ファースト」という言葉になっていますが、要はこれは能力主義成果主義というもので、社会に対して何かしらの価値を提供できない人間を貶める考え方とも言えます。上記の内容から引き継いで、こういった考え方は、逆説的に自分を恐怖で縛ることになると思います。つまり、社会を効率よく回し、幸福を生み出すには、能力のある人間が必要だ。だから、能力がない人間には価値がなく、価値のない人間は不幸になっても仕方がない。だからこそ、私たちは能力のない不幸な人間の側に落ちてしまわぬように、精一杯=24時間戦わなければならない。

こんな世界はやっぱり息苦しいです。

実際、私は高校生までは「私は能力があるから旨味を吸えている」と考えていました。それは大人たちからの評価という形で、私の価値が作られていたことに繋がります。私は大人たちから私の能力を評価されなくなったことで、社会から排除されたような心持になったのでした。そして一旦そういう風に考えると、そもそも私は好きで大人たちから認められようとしていたわけではなかったことにも気づいたのです。私は大人たちから評価を得るために色々なことを我慢して、空気を読んで、必要と思しきことをやり続けてきました。それはとても息苦しい生活だったように思います。

だから、何とかそういった世界観から抜け出そうと大学時代に努力して、ちゃんと抜け出したと思っていたのですが、根っこの部分ではまだ社会の奴隷でした。社会はなんだかんだ言って奴隷であることを求め続けているだろうと思っていました。なので、会社に入ってからも、とにかく周囲から認められるように真面目に働き続けました。が、結局挫折し、それとともに私の世界は砕け散り、適応障害になってしまいました。

 

年齢確認ボタン

外国人のおじさんがコンビニで年齢確認のボタンを押すことを求められ、「なんでこんなくだらないルールに従わなければならないんだ。お前たちはロボットか」と罵倒する動画がバズりました。それに対して、同調圧力で「いいからルールを守れ」という人間も沢山現れました。これは、コロナのときの自粛警察とも通じる部分があります。

なぜこのようなルールがあるのかと考えると、法令遵守を厳格に求める政府と、その違反を問われたくないコンビニの経営層がそのような仕組みを考えたからです。これは実態としては「社会を滑らかに回すためのルール」でしかありません。そんな形骸化したルールを壊せないのが我々日本生まれの現代人。形骸化したルールは徐々に肥大し、我々はルールというものに対して感覚麻痺を起こし、思考停止に陥り、違和感が減っていき、どんどんと収拾がつかなくなっていきます。そしてそのルールに従わないマイノリティは糾弾されていく。

すると、ルールから外れることを嫌うようになり、「うまくいくかわからないことに意欲的に取り組もう」という心が失われてしまうため、それ故に何事にも楽しみや面白味を見いだせない若者が増えていくということでした。

 

経済成長の停滞と発達障害

経済が成長しないということは、そこに生きる人間の思考の根っこに「成長なんて期待できない」というスタンスが絡みつく事態を招きます。結果的に、個々人は現時点での能力のみで測られるようになり、将来的な成長は度外視で、現時点での能力が基準に達していない人は欠陥品=発達障害とラベリングされることになってしまいます。つまり、人に期待しなくなった社会のなれの果て、という感じですかね。

個人的にはこの論にはいささか懐疑的ですが、実際問題として発達障害と診断される人は増えてきていますし、そういう人たちが阻害される環境も広がっているように思います。社会と摩擦を引き起こす要因となる能力の欠乏のことを、精神疾患発達障害とラベリングし、差別しているのが現代の問題と言えるでしょう。

 

特別支援学級

特別支援学級などの個別最適な学びというのは、能力主義を助長し、より生きづらい社会を作っていく温床になっています。要するに、能力に応じた階層を作ることで、あらゆる階層の人間が、「自分は落ちぶれたくない」と抑圧されるからです。だからこそ、むしろ協働的な学びをもっと取り入れていった方が、一見手間がかかるようで、皆が心穏やかな社会を作ることに寄与すると思われます。

 

筆者の育ち

筆者の母は専業主婦で、父は出張でよく家を空け、家事には全く参加しなかったそうです。弟も生まれ、筆者は母の忙しさを忖度して、「ちゃんとしなきゃ」と常に思っていたそう。たまたま勉強ができたので、「ちゃんとしなきゃ」というスタンスが相まって、学歴やキャリアの形成は割とうまくいきました。が、うまくいったからこそ、その思考様式に磨きがかかり、自己抑制・抑圧が高まり、「もっと頑張らなければ」と歯を食いしばることがスタンダードになってしまう。それこそが生きづらさの元凶だったと筆者は気づきました。

 

生産離脱者

1951年に厚生省が出したレポートで、精神薄弱者、白痴、痴愚にあたるものや、これらの保護にあたる者は生産離脱者と定義されていました。このレポートではさらに、こういった精神障害者のために年々1000億円を下らない額の生産阻害を被っていると予測しています。

この「足手まとい」的な考え方は、ナチスの障害者抹殺計画(T4計画)と思想が同質です。このT4計画によってガス室で多くの障害者が抹殺されたわけですが、ここでの「成功」が後のユダヤ人虐殺への足掛かりでもあったとも言われているそうです。

日本でも1990年代まで「優生保護法」と呼ばれるものがあり、例えば、障碍者が結婚して子供が生まれると、騙してでも障碍者の強制不妊手術をしてもいい、という考え方がありました。「優生保護法」はなくなったものの、現代でも、障害児は授業の進捗を妨げるものとして、就学猶予・就学免除され、仮に学校に行くとしても特別支援学校に行けばいいということで、養護学校の義務化も始まりました。

これらはすべて「能力主義」の論理であり、単に能力で劣る人たちを差別するという不条理だけでなく、言わば普通学級にいる子供たちにも呪縛的に機能します。同質化された学校のスピードについていけなければ、「足手まとい」であり「生産離脱者」であるとラベリングされることになります。主要な意見に反対すれば、「空気の読めない」「変な奴」とラベリングされるのも同じことです。

そういった評価軸を内面化してしまうと、必死になって社会の求める能力主義や生産性の向上に寄与できる人間になることだけが重要な価値であると考えるようになってしまいます。このような能力主義と生産性を大切にする、生産性至上主義は、様々な観点での効率化を図る一方で、我々が生きる社会を息苦しくしている元凶でもあります。

 

他者の他者性

他者はあくまで他者であり、個々人の在り方を尊重する必要があります。他者を自分と切り分けて考えることで、改めて己の唯一無二性を捉え直すことに繋がります。これはオープンダイアログ(生きる苦悩を抱えた急性期の精神障碍者に、薬物投与一辺倒ではなく、対話を用いる方法)で主張されている考え方です。

自分と異なる価値観や考え方を持っている個人だと理解することで、生産性至上主義的な価値観で抑圧された自己を慰めることができると考えられます。

 

他者にイライラするということ

他者にイライラしているということは、自分の中で許容できないスキーマや価値観と出会っているということになります。それは対象を許容する力のない自分の影と出会い、それを認めたくないという状態を突き付けられていること。なぜ相手がそうしているのか、他者には他者なりの合理性があるのだと理解できるようになってくると、自分の内的合理性も確認できるようになり、単にイライラが減るだけでなく、自分から自分に向けられた抑圧の視線も軽減できるようになってきます。

例えば、私は駅でちんたら歩いている人にめちゃくちゃイライラするんですが、相手の事情を鑑みればそれが仕方のないことだと理解できる場合もあるでしょうし、そもそもが相手は他者なのだから自分の思い通りには動かなくて当たり前ということをもっと理解すべきなんでしょう。そして、そうやってイライラしているということは、自分もまた「駅の中ではそそくさとスムーズに歩くべきだ。ちんたら歩いて流れを阻害するような邪魔な存在になってはいけない」という呪縛に囚われていることになります。なんて生きづらい。

 

理性の悲観主義・実践の楽観主義

なんとなく語呂が良いので抜粋してみました。他者は不確かなものとして存在しているから、とりあえず他者の関わり合いやケアというのは、頭の中であれこれ考えても仕方がない、もっと楽観的に実践的に取り組んでいこうよという考え方です。

他者との関わり合いの中で、無理にルールを当てはめようとすれば、それは結局相手をルールで屈服させることになり、一見スムーズに理解し合えたように思えても、実際には相手を抑圧していることになってしまいます。なので、他者の他者性を理解するということは、とにかく楽観主義的に他者のとの関りを実践してみるしかないのです。

でも、個人的には「理性の悲観主義」ということで文章を書いてみたいですね。『キャバレー・クラブ・ギミック』という曲の「理屈っぽい性分と妙な自尊心が邪魔で笑えもしないのさ」という歌詞が思い出されました。

 

毒親

管理が厳しく、自分の都合や理想を押し付けてくる母親の話はよく聞きます。が、そこに父親の存在は見えてこない。それも大きな問題ですよね。

 

■まとめ

当初、余力があれば自分の感想も添えようと書いていましたが、残念ながら余力はありません。そもそも数日に分けてこれ、書いてますし。

まぁ、それでもざっくりと感想を書くのであれば、とにもかくにも「インクルージョンが大事」ってことなのかな、と。効率を求めて、人間を階層ごとにわけ、生産性至上主義を推し進めていくと、それは短期的には楽ができるしスムーズでいいけれど、内面に息苦しさの根が降りるよ、ってことになるでしょうか。それを防ぐためには、清濁併せ吞むように、様々な他者とその他者が持つ事情、つまり多種多様な他者性と共生していくしかないよね、ってことです。手間はかかって仕方ないし、整然とはしていないでしょうが、明示された、あるいは暗黙のルールに縛られず、みながもっと自然に自分の都合を表明しながら伸び伸びと生きていけるようになるはずです。

私自身、自分が生産離脱者となってから、都合よく「インクルージョン」的な考え方をするようにはなっているのですが、上述の通り、未だに様々な場面で能力主義的なものに則って他者にイライラしたりしてます。それでも、まぁ、昔に比べれば随分と我慢もできるし、イライラもしなくなってきましたけれど。

ともかく、私はもうこの抑圧的な世界にはこりごり。無自覚に私に様々なものを強要してくる社会が大嫌い。もう知らんもんね、と思ってしまいます。

 

そんな私にはぴったりの一冊でありました。

ごちそうさまでした。