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音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.71

適応障害と診断されて461日目(2022年1月18日)にこの記事を書き始めています。

前回の適応障害記事を書いたのが2021年8月17日で、復職から1か月程度経ったころでしたね。「治った!」宣言もしてしまったので、もう書くこともないかなぁと思っていたのですが、何となく日記的なものが書きたくなってしまいました。普通の日記として書くのもありかと思ったのですが、実のところまだ通院したり、この間はまた具合が悪くなったりしたので「適応障害シリーズ」で書くことにしました。

気がつけば適応障害と診断されて1年が経っていました。長いようで短い1年でしたが、1年前の状態と比べればだいぶマシになったような気がします。公園の鳩並みの低空飛行でありながら、何とか会社にも通えているのでとりあえずはよくやっていると自分を褒めてあげましょう。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

1.2021年8月~10月

あまりきちんとは思い出せないのですが、8月はお盆があったおかげで体力を保ちつつ何とか切り抜けられたように思います。もちろん休み明けは気分が落ち込んだように思いますが(笑)。9月、10月は多少浮き沈みしながらも、週末には人と会ったりして刺激とリフレッシュを享受することができていたと思います。ただ、仲のとても良い会社の先輩に合コン的なものに連れて行ってもらい、そこでかなり気持ちが落ち込み、久しぶりにロープを手に取ってしまいました。酔っ払った勢いで首を通してみたりもしましたが、「やっぱ死ねないよな~」とちゃんと恐怖を感じられるくらいにはパニックではなかったようです。本当に自殺未遂した時は、恐怖をねじ伏せるほどの強い希死念慮があったわけですが、今回はそこまで真剣には死にたいと思えませんでした。

しかし、その合コン(や日頃の仕事や何やら)でかなり痛手を負ったのは事実です。誰かに何かを言われたわけではないのですが、そこに集まった人たちのこと(特に先輩を除く男の人たち)が全く好きになれず、終始この世界の醜さを見せられているような気分でした。彼らの考えていること、彼らの当たり前、それらが全て自分には仕様も無いものに思え、「やはりこの世界はクソの掃き溜めだ」と落ち込んでしまったわけです。ただでさえ日々生きていくのに苦労しているのに、そんな風にして生きている世界の正体はコレか。もうこんな世の中からはおさらばしたい。と、お酒の効果も相まってややドラマチックなモードに入ってしまったわけです。

冷静になれば、彼らの世界と私の世界は全くの別物であるわけですし、彼らは彼ら、私は私、という具合に割り切って考えれば良いのであって、なんら私が落ち込む必要はないのです。もっと思慮深くなれば、彼らも彼らなりの苦しみの中で生きているのだから、それに愛を持って接するべきだと思えるはずです。それが正当であって、彼らに向けた憎しみを「人を呪わば穴二つ」的に自分に跳ね返してみるなんて馬鹿のすることです。でも、そんな風に感情を統制してばかりもいられないのが人間であり、受けた刺激の度合いと自分の敏感さ、疲労度によって統制できる限界も決まってきます。

だから単にその出来事はその時の私にとっては限界を超えた刺激であったのでしょう。そこから学んだことは、嫌なものには極力関わらない、関わってしまったときはきちんとケアをする、そして深刻にならないということです。病気になるまでの私はどちらかと言えば、死ぬための理由を増やすために、そういう嫌な機会には積極的に参加して「やっぱりこの世界はクソだ」と思うようにしていた気がします。でも、今の私はもうそういうことをやめようと思っているので、ちゃんと「逃げる」「ケアする」「暢気に」という方向に持っていこうと思っています。まだまだうまくできませんが、そんなことを改めて心に誓った出来事でもありました。

 

2.2021年11月~12月上旬

この期間は私にとって試練であるとともに、記念碑的に楽しい時間でもありました。

10月頃までは上述の通り、嫌なことなどあったにせよ、それなりに人と関わり合いながら会社にも馴染みつつ、心身の調子もほんの少しずつ上向いている時期でした。しかし、その一方で体調の良さにかまけて、残業を増やし、睡眠時間を減らし、受ける刺激を増やしながらケアを蔑ろにしていった時期でもありました。そして、少しずつ自分の中に疲れが溜まっていっていることを自覚し始めたのがちょうどこの11月頃です。

しかし、疲れが溜まっているとは言え、無意識下で「少しずつ良くなりたい」という考えがあるのか「生活リズムを戻して、体調を整えよう」という風には考えられませんでした。何となく会社からも「よし段々慣れて来たな。仕事ももっと頑張ってもらおう」みたいに思われているんじゃないかという気がしてもいました。そういうわけで、何となく何もない日を作ってみても「こんなんじゃダメなんじゃないか…?」というような得も言えぬ漠然とした焦燥感みたいなのがあったりして、結果的に私は予定を入れまくりました。この現象は同じように休職していた同期もあったようです。

というわけで、11月から12月上旬にかけて3つのライブに行ってきました。

・11月13日 yonawo @仙台Rensa(宮城県

11月21日 abura-derabu-2021 @USEN STUDIO COAST(新木場)

・12月05日 WWW & WWW X Anniversaries - No Buses × TENDOUJI(渋谷)

仙台のyonawoのライブは、ついでに牛タン食べたり、立石寺まで観光に行ったり、なかなかハードな旅行という感じでした。yonawoのライブは初参戦。椅子に座りながら楽しめる素敵な雰囲気のライブでした。メンバーみんなも緩く、温かい感じで、旅行の疲れも相まってほわ~と包み込まれるような感じです。終盤には、大好きな「矜羯羅がる」と「ijo」が立て続けに演奏され感動しました。

そして何と言っても、楽しかったのは「abura-derabu-2021」

人生で1番楽しかったライブと言っても過言ではありません。トリを飾ったToeは大学の頃から大好きなバンドだったのですが、なかなかライブに行けないままライブ映像を何回も繰り返し観るだけの10年近くを過ごしてきました。なので、やっと念願のToeのライブを生で体感することができ、本当に最高でした。いま思い出しても楽しかったですね~しみじみ。このToeのライブはそれだけでライブレポートを書きたい気持ちでいっぱいですが、ライブレポートが書けないほどに楽しむのを優先できた演奏でした…という言葉だけ残しておきたいと思います。

STUDIO COASTも初めて行きましたが素晴らしいライブハウスでしたし、その他の出演者も素晴らしかったです。個人的にはGEZANが良く、このライブを機にアルバムも買ってしまいました。フェスに参加しているお客さんもみんな音楽が好きそうで、音楽を純粋に楽しんでおり、合コンの時とは真逆の素敵な連帯感・親密感を感じることができました。もしかしたらちゃんと話せばあの合コンの場にも、このフェスを楽しめる人がいたかもしれないな~と思うと、何とも言えない気分になります。

TENDOUJIとNo Busesの対バンもなかなか良かったです。TENDOUJIは初めましてで、No Buses目当てで参加させていただきました。ライブの盛り上げ方などはTENDOUJIの方が熟練している感じがありましたが、やはりNo Busesの楽曲センスには脱帽ですね。どの曲も素晴らしかったですが、「Imagine Siblings」はどの曲とも雰囲気が異なっており、怪しく内省的で本当に素敵でした。生でこの曲を聴けただけで行った甲斐がありましたね。

と、そんな楽しいライブ以外にも休日には人と会う予定を入れたり、かなり活動的な11月でした。が、実はここで結構な疲れを溜め込んでいたんですね。。。

abura-derabu-2021のおかげで気分的にはかなり高揚しており、幸福感はあったわけですが、心身共にへとへとな状態だったとは思います。

 

3.2021年12月~2022年1月

そしていよいよ問題の時期に入ります。

疲れを溜めながらも年末に入り、ここで私は会社でとある仕事を1つ頼まれます。その仕事は別段難しい仕事ではないのですが、会社間の契約に関わるかなり煩雑かつ締切が細かく決められている仕事でした。やり方を知っていれば手順通りやるだけなのですが、会社内での制度や書類の作り方などが細かく決められており、人に1から全て教えてもらわなければできない類の仕事でした。これが非常に私の心を消耗させたように思います。本当にたいした仕事ではないのですが、とにかく締切にハラハラしたり、先輩に何度もお伺いを立てたり、と疲れてしまう部分がありました。

それに合わせて、年末ならではの「今日まで!」みたいな仕事が急に降って来たりと仕事場もどこかせかせかしたような雰囲気があり、それにもつられてしまったように思います。

さらに同期との飲み会、先輩との飲み会、偉い人との飲み会などに参加し、それぞれから意識の高い話や、「自分はこれだけ苦労している」みたいな話を聞かされ、「あぁ、自分はぜんぜんできていないなぁ。体調を保つのすらうまくできていないよ…」という気持ちになっていきました。

そしてそして、これは嬉しいことなのだとは思いますが、恋人ができまして、その相手に対して「あぁ、つまんなそうな顔してる」とか「嫌われないようにするにはどうしたら」というような悩みも増えていきました。

というわけで、12月22日。前日から頭痛はあったものの、急に熱が出始めて会社を1日休んでしまいました(コロナではありませんでした)。以前にも疲れが溜まったときに熱が出たときがあったので、今回もそれだったのでしょう。翌日の23日は何とかテレワークをだらだらやって凌いだものの、24日は午前中から涙が止まらず、フレックスを使って午後2時には年内の仕事を切り上げて年末年始休みに突入しました。

この24日は本当に久しぶりにヤバく、お酒を飲んでもいないのに希死念慮が強く湧いてきました。ただ何とかロープに手を伸ばすことを頭から払い除け、とにかく眠りに眠りました。年末年始は実家に帰省して、実家でも眠りに眠り、とにかく溜め込んだ疲労が回復するのを待ちました。

しかしながら12月25日~1月4日というかなり長いお休みの間にも体調は戻り切らず、年始から頭痛と吐気、疲労感を抱えながらほぼほぼ定時退社を繰り返し、現在に至ります。あまりにもしんどかったので、上司には体調が優れない旨を伝えており、それを免罪符にして今はゆったりとした生活を送っています。睡眠時間をきちんと取り、散歩を増やし、規則正しい生活を意識しております。まだ頭痛や吐気は取れませんが、気持ち的には少しずつ落ち着いてきたように思います。

薬も11月頃にはほぼほぼ飲まなくなっていた(お医者には内緒で勝手に計画的な減薬をしていました…笑)のですが、またちゃんと飲み始め、カウンセリングにも行きました。土日のどちらかは予定を入れない休養日として確保しています。一度大きく崩れてしまったので、今は体調を戻すことが最優先と割り切ることができ、11月頃のような焦燥感も今はあまりありません。

12月、1月と文学部卒の友達と会って、読みたい本や観たい映画が増えたのも、今のゆるりとした生活が充実していると感じられる理由の1つかもしれません。

そんなわけで酷かった時期は通り越して、今は安定していますが、低空飛行な日々を続けております。

 

4.年末年始にかけて触れた作品

というわけで、体調の事をつらつらと書いてきましたが、ここからが本当に私が書きたかったことになります。つまり、年末年始から最近までにかけて色々読んだり、観たりしたのでそれをここに記録として残しておきたいと思います。あぁ、これがやりたかった!

とにかく疲れていて、1日に10時間くらい暗い部屋で眠ったり、横になったりを繰り返すだけの年末年始でしたが、さすがに起きている時間にはどうにかして時間を潰す必要があります。そしてちょうどよく、年末には文学好きの友達とも会って色々と情報交換をしたり、刺激を受けたりしました。そういうわけで今回の年末年始はいつも以上に文化的なものになりました。

書籍

車輪の下ヘルマン・ヘッセ

 こちらは村上春樹の「ノルウェイの森」で町の小さな書店の娘である小林緑の家で主人公のワタナベが読んだ本ということで昔から気になっていました。年末に友人と会ったときにも当然お互いが好きな村上春樹の話になり、一緒に行った書店でついつい衝動買いしてしまいました。

 主人公のハンスは、年齢が10歳かそこらという感じでしょうか。田舎町で生まれ育ち、そこでは町一番の優秀、有望な子供ということで大人たちから過度に期待され、徹底的な教育を受けて州立の神学校へ入学しました。当時の田舎の一般的な家庭から一段階上流の階級に行くためには、そうやって学費の安い神学校に己の学力で入学するよりほかなかったようです。このハンスという主人公は作者のヘルマン・ヘッセ自身が投影されているそうで、本来は自然が大好きなただの純朴な子供でした。しかしながら、大人たちから課されたもののせいで、次第に勉強中に頭痛がするようになったり、明らかに病弱と見えるような身体つきになっていったり、子供が本来享受すべき自由で無垢な楽しみから隔絶されていきます。ハンス自身、それに対して反発も覚えますが、それとは対照的に功名心や虚栄心というものに絡め捕られ、結局のところ大人の言いなりになって見事神学校への入学を果たします。

 全寮制の神学校に入学してからもハンスは堅実で模範的な生徒として、教師や同級生からもそれなりに認められていました。しかしながら、そこで出会った詩の才能があり、自由奔放なハイルナーとなぜか最も深い友情関係を結ぶことになります。ハイルナーは、作者ヘルマン・ヘッセのもう一つの側面であり、ハンスとハイルナーを足したものがヘルマン・ヘッセの人間像であるという見方が一般的なようですね。ハイルナーは気分の波が激しく、子供らしからぬセンチメンタリズムを持ち、それ故に美しい言葉や物事に敏感でもありました。ハンスは自然を愛する傾向がある一方で、文学的なものやロマンチックなものにはまだ疎く、そういった部分をハイルナーによって徐々に引き出されていきました。

 そこから紆余曲折はあるのですが、結果的に自由奔放で癇癪持ちであるハイルナーは教師に睨まれ、それ故に同級生からも煙たがられ、孤立していき、ハンスだけが心を赦せる相手となっていきます。そんなハンスにもハイルナーは一度見捨てられるわけですが、真面目なハンスは「やっぱりハイルナーを大切にしよう」と再びハイルナーとの関係性を構築します。そうやって結び直された友情関係はより深いものになり、終いにはハイルナーの感性に引きずられて、それまで真面目だったハンスも次第に勉強に身が入らなくなっていきます。校長先生からもハイルナーと関わるなと言われたり、明らかに教師も冷たくなっていったり、そのことでハンスは少しずつノイローゼになっていきます。つまり、ハンスはそれまで真面目であることによって周囲から認められていたから、頭痛や鬱屈とした気持ちにも負けずに何とかやって来れていたわけです。しかし、学校の成績が落ちてしまえば、もう彼の拠り所はありません。ハイルナーと一緒に落ちていくしかないわけです。

 そんなこんなでハンスは体調をとことん崩していく一方で、ハイルナーは学校への恨みから(ハンスと一緒にいることを厳しく禁止されたため)、学校を2,3日抜け出してしまいます。ハイルナーはそのささやかな冒険の後、また学校へ戻って来るのですが、当然学校側はハイルナーを退学に処すしかありません。

 残されたハンスはハイルナーという最後の拠り所すら失って、体調はもう戻らず、結局地元に返されてしまいます。「ゆっくり休んでまた復学しなさい」という名目でしたが、もう戻れないことは体調的にも学力的にも明白でした。ハンスは半年ほど何もせず療養を始めます。その期間には、幼い頃に奪い取られた自由を取り戻すように、大好きな釣りや森の散策に明け暮れました。しかしながら、そこで純粋な楽しみを味わう反面、「自分はそれらを享受すべき時期に剥奪されてきたのだ」という感覚が強く身に沁みます。ハンスはもう心身ともに成長してしまって、それらの遊びをどこか懐かしい、郷愁的なものとしか捉えられなくなっていたわけです。そんなハンスは何度も自殺を考えたわけですが、ずるずるとそれを行動に移せず時だけが過ぎました。その療養機関の中で、初恋のようなものもするのですが、それは結局成就せず、ただ引き出された性的な好奇心や欲望だけが宙をふわふわと舞い、うまくそれを制御することができませんでした。

 半年ほど経って、このままぶらぶらしているわけにもいかないだろうと、町の機械工に弟子入りすることに決めます。そこにはかつての同級生が既に弟子として働いていて、ハンスが弟子入りする数日後にはとりあえず一人前の職人として初任給を貰うことになっていました。かつて見下していた彼に後れを取っているという現状は、ハンスにとって少し堪えることでしたが、それよりもどちらかと言えば不安な社会進出において色々聞ける相手がいる安心感の方が大きいようです。

 実際に働き始めて初日からハンスは社会の生産活動に参加するやりがいのようなものを感じます。しかしながらその一方で彼は初日から疲弊しきってしまい、こんなのが週のうち6日も続くのに酷く恐怖します。もとからあまり丈夫ではないうえに、まだ心身ともに弱っており、周囲の人と同じように働くのは厳しかったわけです。なので、休日くらいゆっくり休んで英気を養いたかったのですが、上述の元同級生の初任給祝いがあるため仕事場の人間と昼から酒を飲みに出掛けることになってしまいました。そこでハンスは初めて酒を飲み、気分を高揚させましたが、しかし夕方頃になって酔い潰れてしまいます。ハンスは先に帰ることになりましたが、その帰り道に彼は川で溺れて死んでしまいます。

 自殺だったのか、自己だったのか、それは小説内で明らかにはされません。しかしながら物語は、その小さな町の信心深い靴屋のフランクおじさんが、ハンスの父に語り掛ける場面で終わります。フランクおじさんは、ハンスに対して色々期待し、そして強いてきたことで彼の心身を損なってしまった責任は私たち町の者、それから父親であるあなたにもあるのだと言います。決して神学校の人たちのせいだけではない、と。

 私個人の感想ですが、この終わりからは、作者のヘルマン・ヘッセが自分自身を救済するために「車輪の下」を描いたのだと想像させられます。太宰治の「人間失格」では、最後にスナックのママが、

「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

と語って終わりますが、これもある意味では太宰治が自分自身を救済するために用意した言葉のように私には思えます。苦しい記憶というのはたとえそれを現実世界で乗り越えたように思えても、実際には心の中に深く打ち込まれ、その傷はなかなか癒えることはありません。そこから救われるには誰かの助けが必要な場合がほとんどではありますが、なかなか人に助けを求められない人間にとっては、自分で自分を救済するよりほかありません。なので、そういう自分に対する救済を目的として文章を書いたりなんだりする場合もあると思っています。私自身ブログや創作物を書く大半の理由がそれですので、何となくそういう風に考えてしまいがちです。

 そういう意味で、私はこの本をとても好きになりましたし、またもともと読むきっかけになった「ノルウェイの森」で主人公のワタナベによって「いささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった」と評されている通り、素敵な小説でした。ヘルマン・ヘッセが生きた時代は私にはちょっとリアリティが無さ過ぎますが、ちょうど川の向こう岸を見る感覚では感じ取れるものがありました。少なくともそういった時代の先に現代があるのだなぁという感じです。そして、そんな頃から人間を抑圧しているのは、直接的には政治や制度ではなくて、周囲の人間によって無言のうちに為される「期待」と自らの歪んだ「虚栄心」なのだと思わされました。

 私が適応障害なんてものになってしまったのにも通ずるところがあるように思いました。私はハンスほどに優秀ではなかったにせよ、幼い頃から親や色々な人間に期待され、それに応えることで自らの虚栄心を満たし生きてきました。その過程では当然のように、ハンスと同じように周囲を見下してきました。そしてそれをただ心の内に思うだけでなく、態度や行動で示してしまうこともありました。それ故に年齢が嵩むにつれて次第に凡庸になっていった私は周囲からの反撃を怖れて、斜に構えた態度を取るようになり、何とか少しでも自分を非凡な人間であるように見せかけ、それによって自己防衛を続けてきました。上手く振舞えなくなってからも周囲の期待に応えようと必死で、おかげで「世の中は、社会は『期待』という視線で私をがんじがらめにしている」と考えるようにまでなってしまいました。こんなに息苦しい世の中じゃ生きていけない、と。そして早く死んでしまいたいと思うようになり、長い年月が経ち、結果的に私は会社の人事異動を機に「頑張って期待に応えなければ…!」が行き過ぎて、適応障害になってしまいました。

 そんな私をもこの「車輪の下」は救済してくれたように思います。もちろん手放しでそれに縋ってはいけないと思っていますが、靴屋のフランクおじさんが「私たち大人の勝手な想いがハンスという素敵な少年を損なってしまったんだ」と言ってくれただけで、とても救われたような気持ちになりました。私もたくさん悪いところ、醜いところもあるけれど、そうしてしまった周囲にも問題はたくさんある。だから、そんなに自分ばかり責めるなと言ってもらえたようで嬉しかったです。

 という感じで、長くなりましたが「車輪の下」を読んでの感想になります。ここからは少しずつテンポを上げていきたいと思います。

コインロッカー・ベイビーズ村上龍

 村上龍さんの作品を読んだのはこれが初めてになります。文学部卒の友人が好きな小説ということで、かねてより何度か話に聞いていましたが、今回は「ようやく」という感じで購入に踏み切ってみました。
 話を要約すると、生まれて間もなくコインロッカーに捨てられた赤ん坊の2人(キクとハシ)がそれぞれに人格上の不具合を背負いながら、グロテスクな現実世界でどうやって生きていくかというものです。ここで描かれる世界は一応日本ということにはなっているものの、退廃的でかなりカオスな、ある意味ではディストピアとも言えるような世界観となっております。新宿には化学物質で汚染された廃棄区画(ここでは狂人や浮浪者が暮らします)があり、売春(異性だけでなく同性も)や違法薬物に溢れています。描写もかなり生々しく、性的なものや人体に関するもの(肉や血)、そして悪意や軽薄さや暴力など、ちょっと気持ち悪くなるくらいでした。
 文体も独特で、人間の取り留めのない思考をそのまま文章化したような、句読点による整理があえて貧弱な癖のあるものでした。上記の生々しい描写と相まって、読んでいて気分が悪くなるので(個人的には)、最初の100ページくらいは結構読むのがしんどかったです。しかし、それにも慣れたころ、話もどんどんと展開していくので続きが気になってあっという間にページが進んでいった感がありますね。
以降、ネタバレを含みます。
 キクとハシは養護施設の時には重度な自閉症に苦しんでいたため、不可思議な音(赤ちゃんが母の胎内で聞く母の心音に近い音)を聞く治療を受けました。そして治療の甲斐もあって徐々に2人は安定していき、今は閉山した炭鉱の島に住む桑山夫妻のもとへと拾われるところから大きく物語が展開していきます。そこでキクは運動(棒高跳び)の才能を見出し、一方でハシはとあることがきっかけで「音」に囚われていきます。ハシはあらゆる「音」を聞き、その中から幼い頃に治療で聞かされた「音」を探すことが目的でしたが、それは後々にハシの歌手としての才能へとなっていきます。

 内気だったハシはその「音」を求め、先に桑山家から家出をして新宿の廃棄区画へとなだれ込みました。キクもその後、ハシを探すために新宿を訪れますが、ついにはハシとの再会も果たすのですが、その頃にはハシはすっかりと変貌していました。ハシは同性愛者になって、男相手に売春をしながら歌手としてデビューすることを夢見ていたのです。そして、2人は再会したもののまたすぐに離ればなれになってしまいます。ハシはその才能ですぐに華やかなデビューを飾りますが、異常な芸能界、そして大変なプレッシャーのかかるコンサートツアーの中でボロボロになっていきます。対して、キクの方はハシを追い続ける一方で幼い頃から感じていた破壊衝動の中に、とある希望を見出します。それは「ダチュラ」という精神錯乱を引き起こし、人間をとんでもなく凶暴化させる危険薬物へと結びついていき、それで新宿という町、いや日本という国を滅ぼしたらどんなにスッキリするだろうかという夢へと変わっていきます。

 そんなようなことがざっくりとした物語の展開になっており、かなりスリリングな内容なので文体に慣れれば結構楽しめると思います。「コインロッカーに捨てられたこと」は様々な場面で色々なメタファーとして登場します。明確に「これだ!」と言えるメッセージのようなものは私には整理できなかったのですが、人間はみな真っ暗なコインロッカーの中に孤独に閉じ込められているというのが共通したテーマになっているかもしれません。ハシはブーゲンビリアの花と一緒に捨てられ、その狭く暗く暑い箱の中で自らの嘔吐物に塗れて酷い匂いがしているところ、巡回していた警察犬に見つけられて生き残りました。そしてまさにハシは汚らしい廃棄区画や芸能界での生活の中で、華々しさと醜さに塗れて生きていきました。対してキクはコインロッカーを破壊せんばかりの大声で泣き、それによって駅員に見つけてもらい生き残りました。そんなキクは「ダチュラ」という薬で世界を破滅させることを目的として生きていきます。

 この2人が織り成す、華美であり同時にグロテスクで醜く、非常に暴力的なストーリーがスリリングで面白かったですね。

 個人的に印象に残っているのは、ハシがコンサートツアーの打ち上げで、若い女の子相手に性的に不能となってしまっているのをバンドメンバーに見られて、揉めたときに言われたセリフです。

なあ、どんなにいいものを食ってみんあからチヤホヤされても、お前は孤児でオカマだったことに変わりはないんだよー(中略)ーハシ、孤児でオカマだったことを忘れちゃだめだ。

というセリフなんですが、これは何と言うかとても大事なことだと思いましたね。私自身、色々と嫌な経験をしてそこから逃れたいと思い、大学の時は芸術や思想に傾倒し、適応障害になってからは「いかにマトモになるか」を考えてやってきましたが、根本的なところで自分は変わることができません。自殺未遂を犯すくらい痛い目を見たわけですが、私は結局、人の期待にがんじがらめにされて自分の虚栄心を満たす、汚らしい自分から変わることができないのでしょう。そして、そのことを忘れてはいけないわけです。そこから脱しようともがくのも大切なのかもしませんが、そんな自分といかに共存していくか。そして、それを自らの個性だと捉えていく。そういうことが大事なのではないかと、このセリフを通して思わされました。

 と、そんなところがこの小説を読んでの感想になります。短くするつもりがちょっと長くなりましたね…

 

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬(若林正恭

 オードリーの若林さんが書いた名著です。アメリカとの国交回復間近のキューバへ、不意に一人旅に行った時のことが書かれています。本書の冒頭では、若林さんが勉学に対するちょっとしたコンプレックスのようなものから、色々と世の中のことを勉強しだすところから始まります。そこで新自由主義、すなわち現在の日本などが置かれている実に資本主義的な競争社会に対する懐疑心が、社会主義国であるキューバへの一人旅の理由であるように書かれています。「スペックが高い」という言葉に代表されるように、世の中の多くの人間がほかの人よりも良い生活を手に入れようとして、必死になって自分の価値を高めようと奮闘している。しかし、どうも自分はそういう気持ちや感覚にはなれない…そんな20代の頃に抱えていた様々な悩みは、宇宙や生命の原理ではなく、人間が作り出した資本主義というシステムのせいだという知見を得て歓喜するのが本書の冒頭でした。

 そして、そんな現代の日本にそぐわない自分が訪れるべき場所として、キューバという国がフォーカスされたわけです。そして、実際にキューバへ向けて一人で旅立ちます。その後の内容は基本的にキューバのガイド的な内容にはなりますが、ところどころで入り込む日本やキューバという国に対する皮肉的な目線、それから自分自身に向けられるちょっと自虐的な目線には思わずくすっとしてしまいます。社会主義の国ではどのように人々が考えて暮らしているのかというのも結構しっかりと書かれていて、とても興味深く、同時に勉強になりました。衣類店も国営なので、キューバの若者はアメリカなどのアーティストの着ているお洒落な洋服を見て、「なんでああいう服が配給されないんだ!」と文句を言っているらしいです。そういう価値観、というか生活感の違いがとても面白かったです。

 若林さんの感じる資本主義と社会主義の違いについて、どのように上流階級に食い込むかの方法に関しての考察が個人的には「なるほど」と思わされました。社会主義ではコネクションや情報網などが何より重要で、中央権力に近い人間ほど優遇されるらしいです。対して、資本主義では学歴やお金を稼ぐ能力など、基本的には本人の努力や資質に依存するので、若林さん的にはやはり日本のような資本主義の方がフェアな戦いなのかもと感じたそうです。その一方で、キューバの人はスマホもまだ持っていなく、のんびりと陽気な性格で、夕方には海近くの街の通りに人々が集まり、楽しそうに話している風景に胸を打たれたりします。人々が互いに空気を読んだりせずに、生身の人間として心から話しているような雰囲気がとても美しく映ります。

 キューバの良さ、日本の良さ、それぞれを噛み締める旅だったようですが、一方で最後の最後にもう1つのテーマが明らかにされます。これは本書のネタバレになってしまうのでここに書くのはやめておきますが、久しぶりに本を読んで泣きそうになりました。うん、やっぱり魂が乗っている文章って素晴らしいです。

 そして、私はとにかくこの競争社会のようなものが大嫌いなので、キューバのような国に行けばもっと生きやすいのかとも考えましたが、おそらく私はキューバでもうまくやっていけないだろうなと思いました。人間関係の苦手な私にとっては、ペーパーテストの点数や、その他色んな客観的な点数で評価してくれる日本の方が、まだ生きていく余地があるように思えました。

 

アニメ

かくしごと

 下品な下ネタ満載の漫画を描いている後藤可久士(カクシ)と、その娘の姫(ヒメ)のお話です。小学生のヒメの純粋さにほっこりし、何とか自分の職業がバレないようにと駆け回るカクシに笑い、重要な場面ではちょっと泣ける、そんな素敵なアニメでした。ほぼ1日で全話観てしまいました。絵もところどころの気合の入った場面では背景の色彩感が美しく、非常に素敵でしたね。

 特に教訓めいたものを考えたりすることも無く、純粋に楽しめたのが良かったです。ほか、色々とシリーズの続きを観たり、観返したりというのもありましたが、ちゃんと全話観たのが「かくしごと」だけだったのでこれくらいにしておきます。あ、でも一言だけ。「Sonny Boy」最高!

 

映画

寝ても覚めても

 文学部の友人から「ドライブ・マイ・カー」の映画が素晴らしかったという情報を貰ったものの、まだ観に行けていないので、代わりに同じ監督作品である「寝ても覚めても」を観ました。濱口竜介さんという方が監督をされているようで、ストーリーはちょっと突拍子もない部分もありましたが、あまり派手にし過ぎず、落ち着いていてどこか物悲しさを含んだ映像は確かに素敵でした。

 俳優の東出さんの不倫のきっかけになったとされる映画ということでしたが、そういう芸能ゴシップにはちょっと疎いのと、あまり興味がないのとで、その辺は特に気にせず観ることができましたね。

 教訓めいたものはなく、派手じゃなくて、感動もしなくて、ユーモアもなくて、ただちょっとした物悲しさだけがほのかに香る、何と言うか「しっくり来る」恋愛映画でした。展開が若干安い少女漫画っぽさを感じてしまうものの、基本的には退屈せずに見続けられたので良い映画なのだと思います。申し訳ないですが、こういうタイプの映画をまっとうに評価する言葉を私は持たないので、ただ「悪くない映画」という感想に留めたいと思います。観て得をするタイプの映画ではないのかもしれませんが、不思議と損をしたという気持ちにはなりませんでした。きっとふとしたタイミングでまた観たくなる時が来るんだろうなぁ、という感じです。恐らくは、疲れていて「今日は害の無い映画をだらっと観たいなぁ」というようなときに。

 

ジョゼと虎と魚たち

 こちらもたしか文学部卒の友人からのかねてよりのオススメで。妻夫木聡池脇千鶴が主演で、上野樹里なんかも出ていましたね。どちらかと言えば軽いノリで生きている青年が、不意に出会った足の悪い女性(自称ジョゼ)に出会って恋に落ちる話です。2003年の映画なのでちょっと古い感じもしますが、タイトルにも入っている「魚たち」がモチーフのラブホテルのシーンなんかは結構お洒落で素敵でした。

 ストーリー的には、まあまあ面白く、シンプルな恋愛ものという風に私には見えました。個人的に盛り上がったところは、物語の終盤で青年がある選択をした場面です。人の善意と、生活力、器の大きさ、そういうものが入り混じった結果、青年にとってはキツイ選択がなされました。十代かそれでなくても、二十代前半に見ていたら、もっと楽しめた気もします。それは精神的な年齢のこともありますが、どちらかと言えば、映画を古く感じてしまったという点で…

 というわけで、非常に申し訳ないですが、損をしたとまでは思わないものの、おそらくもう一度観ることはないかなあという感じでした。でも、観てないないよりは観た方が良い部類に入る映画だと思います!観なくて良いとは思いません。そういう意味では年末の時間のあるときに観れて良かったです。

 

ドント・ルック・アップ

 地球に彗星が衝突すると判明してからのあれこれを描いた作品です。「えぇ、もうそういうの見飽きたよ~」という方も楽しめる作品ではないでしょうか。現代社会を軽く皮肉りつつ、登場人物が戸惑ったり、困ったり、真剣になったり、あれやこれやと右往左往している様はどちらかと言えばコメディですね。そして、私の贔屓にしている「おませちゃんブラザーズ」でも紹介され、「ディカプリオが叫んでるのってなんか面白いよね」という感想にとても強い共感を覚えました。ただ、本作では叫ぶシーンはそう多くないので、レオ様の酒びっぷりを楽しむならやっぱり「ウルフ・オブ・ウォールストリート」が最高です。

 個人的にはこの映画にもあまりハマらず、コメディタッチなのはわかっているのですが、あまりにも登場人物たちに真剣味がないので、今観たい映画ではなかったかなあという感じです(今は「新聞記者」のNetflixオリジナルドラマをとても面白いと感じるモードなので)。ただ、ラストは素晴らしいと思いました。彗星の衝突ものなわけですから、自ずとラストは彗星が衝突するか・しないかということになると思うのですが、そういう意味でのあのラストは満足感高かったです。もし逆の結末だったらシラケちゃいますね…

 やっぱり人の善意が感じられる作品が好きなので、個人的にはビビッと来ることができなかったのが残念です。ちなみに母親は結構楽しんで観ていたようです。私はまだまだ若いということかもしれませんね。

 

罪の声

 刑事や記者ものに最近ハマっており(ちょっと前はヤクザものでした)、そういう意味で普通に楽しむことができた本作。とんとん拍子であまり「どうなってるんだろう」と悩む暇もなく事実が明らかになっていくので、感情移入はしにくい面があるものの、普通に面白かったです。小栗旬ってやっぱカッコイイよなぁ、と惚れ惚れしながら、スピーディな展開に退屈せず最後まで観切ることができました。

 様々な人物が絡み、時系列も複雑な点があり、かなりボリューミーなため、映画というよりはドラマで見てみたかった感も否めませんが、私のブームにマッチしているのでかなり楽しめました。観終わって、「あー面白かった!」と素直に思えたので、良い時間だったと思います。マイリストにも登録しちゃいました。

 

tick, tick…BOOM!: チック、チック…ブーン!

 元テレビ東京社員の佐久間プロデューサー(ゴッドタンなどを手掛ける方)がTwitterで絶賛していたので観てみました。ミュージカルなどが好きだったらもっと楽しめたかなぁという感じです。個人的には「ラ・ラ・ランド」よりは楽しめたものの、やっぱりちょっと苦手な分野だったかもしれません。

 面白いことは間違いないので、こういう分野が好きな人にはぜひオススメしたい作品ではありました。完成度も高いし、人間的な泥臭さ、そして素敵な音楽とハッピーエンド。好みはあるかもしれませんが、良い作品であることには間違いありません!

 

祈りの幕が下りる時

 東野圭吾作品なので間違いなく面白いやつです。お付き合いを始めた子から教えてもらいました。松嶋菜々子さんが美しい! そして、小日向文世は最高! というのだけでも、とりあえず覚えて帰っていただきたい。加賀恭一郎シリーズで、前に会社の先輩からオススメされて私も何作か読みました。「悪意」が面白かったですね。

 とにかくシリアスな場面が泣けます。小日向文世の演技に涙が止まりません。「泣きたい!」という方にはぜひともおススメしたい映画となっております。東野圭吾の作品って本当に愛が深くて重たくて、ミステリーなんですけど、それ以上に心にグッと来る作品が多いです。一般的に言えば「容疑者Xの献身」はかなり評価が高いと思いますが、それに匹敵する作品だと思いました。個人的には「白夜行」が映画もドラマもどちらも好きですね。特にドラマの方は何回も繰り返し観ました。これからも折に触れてみることになるでしょう。

と、そんな感じで様々なコンテンツを味わった年末年始でした。

 

最後に…

進撃の巨人」アニメのファイナルシーズンが始まったり、Netflixオリジナルドラマの「新聞記者」がかなり踏み込んだ内容になっていたり(監督が藤井道人さんで嬉しい!)、色々と今も現在進行形で面白いものに沢山触れている気がしますが、一向に体調が良くなる気配がありません。薬はまた再開しましたし、頭痛は日に日に酷くなっています。

それでもやっと皮膚科に行けたおかげで、顎や指の間のボロボロの皮膚は治ってきましたし、「ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクルFFCC)」をスマホにダウンロードしてみたら、中学生の時には理解しきれていなかった世界観の素晴らしさ、音楽の素晴らしさに感動したりと悪いことばかりではありません。

一進一退、いや三歩進んで二歩下がる、いや二歩進んで三歩下がるか。正確な加減算はわかりませんが、とりあえずそんな感じで何とかやっております。この記事を書き始めてから1週間経ってしまいましたが、何とか書き上げられて良かったです。まずは体調優先ですが、気が向いたらまた書こうっと。

 

次回

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