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村上春樹「蛍・納屋を焼く・その他の短編集」感想~目に見えないものと宿命~

村上春樹の短編集「蛍・納屋を焼く・その他の短編集」を読んだので、その感想を書いていきます。

 

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蛍・納屋を焼く・その他の短編集

 

はっきり言ってしまえば、私はほとんど村上春樹さんの小説しか読んでいないと言えるくらいには、村上春樹さんの書く文章が好きです。しかしながら、もともと多読家ではなく、全作品を読んでいるわけではありません。今回感想を書かせていただく、「蛍・納屋を焼く・その他の短編集」に関しても、いつもの通り、文学部卒の友人から勧められて読んだ次第です。

最近私は適応障害という、まぁ、言わばうつ病のインスタントバージョンみたいな精神疾患にかかり、ちょうど「ノルウェイの森」を読み始めたところでした。精神を病んだ直子の気持ちに今ならより近づけるであろうと思ったからです。そこで、村上春樹さんの中でも映画化され、有名作と言える「ノルウェイの森」とも関係の深い本作にも手を出し、せっかくなのでこれから感想を書かせていただきます。

 

 

1.蛍

最初に書いておきますが、本作はそのまま「ノルウェイの森」の前半のエピソードになっています。

先にあらすじをざっと書いておきましょうかね。

主人公の「僕」は大学進学と同時に寮に入り、そこで生真面目過ぎて変わり者に見えてしまう「同居人」との共同生活を始めます。その寮は細部にわたってリアルに描かれており、なんてことの無いような出来事や寮の様子の描写も瑞々しく、読んでいて楽しい文章が展開されます。

それと並行するように、「僕」はある日「彼女」に出会い、高校時代のことを思い出します。「彼女」と「彼」は交際しており、「彼」は高校生の時に自殺をしています。「僕」と「彼女」は「彼」を失った痛みを抱え、共有しながら、「彼」のいない人生の続きを歩んでいきます。しかしながら、突き詰めれば「僕」と「彼女」は違う人間で、その痛みの意味もまた完全に同じものとは言えません。「僕」には「彼女」と「同居人」がいるけれど、「彼女」には「僕」しかいない。いや、むしろ「僕」すらいないのかもしれません。結局のところ、「彼女」は新しい「彼」のいない人生に馴染めず、「僕」に短い手紙を寄越し、療養所へと消えていってしまいます。

残された「僕」はある日、夏休みの帰省前の準備をする生真面目過ぎる「同居人」から瓶に入った1匹の蛍を貰います。「同居人」は「女の子にあげるといいよ」と言いますが、「僕」のもとにはもう「彼女」はいません。夜、「僕」は1人で寮の屋上に上り、淡い蛍の光の中に古い名も無い記憶を思い出し、そのまま蛍を瓶から出して逃がしてやります。

出来事だけ羅列すればそんなところです。

ちょうど「ノルウェイの森(上)」を読んだばっかりだったので、実はこの「蛍」はちゃんと読んでいないんですよね…ただ、ざっと読んでみて、「ノルウェイの森」と大きく違う点が2つあります。

1つ目は、登場人物に名前が与えられていないことです。「蛍:ノルウェイの森」の順で書くと、「僕:ワタナベ」、「彼女:直子」、「彼:キズキ」、「同居人:突撃隊」という感じになります。短編小説と長編小説では世界のスケールが異なりますが、短編小説というこじんまりとした、まさに瓶の中で淡く光るような世界観では、やはり「僕・彼女・彼・同居人」という人称が適切な気がしますね。

2つ目は、今ちょっと手元に「ノルウェイの森(上)」が無いので間違っていたら大変申し訳ないのですが、彼女(直子)の手紙の内容が割と大きく違います。本作「蛍」の手紙では、彼女が消えゆくような印象が強く、暗闇の中で1つの光の軌跡を残して遠くに飛び去っていく蛍と重なります。「ノルウェイの森」ではこの「蛍」パート以降にも物語が続いていくので、もう少しその後の展開を感じさせるような内容だったように思います。

大きな違いとすればそんなところでしょうか。

 

この「蛍」という作品からはナイーヴな美しさを感じます。核となっているのは「彼」の死です。「彼」の死は、「僕」と「彼女」の人生を冷たい混乱の中に陥れてしまいます。それにより、全体を通して主人公の「僕」によって語られる言葉はどれも冷たい諦観に満ちており、この作品のナイーヴな美しさを引き立てているように思います。様々な意味で不衛生的な社会とその冷たい諦観を繋ぐのは「同居人」です。この「同居人」がいるからこそ、「僕」は死と生活の天秤を自らの中に内在させることができ、結局のところ「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」というような哲学を比較的前向きな考え方で抱えていられるのだと思います。言い換えるのであれば、「僕」は「生という空間に死が点在している」ようなものとして捉えています。

しかし、対する「彼女」の方は、言葉上はおそらく「僕」と同じような哲学を抱えながらも、それはより後ろ向きな考え方で捉えているように思います。「彼女」にとっては「死という空間の中に自らの小さな生が孤立している」ようなものなのかもしれません。「僕」と「彼女」は確かに同じところに端を発する生きることに対する混乱を抱えながらも、ほどよく現実社会の中でその混乱を飼いならすことのできている「僕」と、それができない「彼女」の距離感は最後まで縮まり切ることはありませんでした。久しぶりに再会した時にあった1mの距離は、徐々に縮まり、「彼女」の二十歳の誕生日に「僕」の手は遂に「彼女」を捕まえたかのように思われます。が、「彼女」の混乱は「僕」が思うよりもより深く、遠いところにあり、「僕」の手は「彼女」の残像をかすめ、そのまま「彼女」という光は「僕」のもとから失われてしまいます。

最後のシーンで「同居人」からもらった蛍はまさにその象徴とも言えます。「僕」は1人きりの寮で、様々な失われゆくものの美しさに、さらにその諦観を重ね、世界の温度はまた一回り冷たくなっていきます。それがその夏の夜には、寒さではなく、少しだけ心地良い涼しさに感じられてしまうところが、この作品の1番素敵なところだと思います。

 

2.納屋を焼く

納屋とは何を意味するのか。彼はどうして納屋を焼くのか。不可解な紳士にかどわかされるようにして、僕は次第に納屋のことが頭から離れなくなっていく……と、作品を読んでなくても、これくらいの広告文を書けてしまうような印象的なタイトルですが、実際のところ、この作品を説明するとしたらこんな感じになってしまいそうです。

私はこの作品を読んで、トルーマン・カポーティのダークなテイストの作品に近いものを感じました(「夜の樹」や「夢を売る女」等)。一見して身なりが良く、品が良く、頭の良い紳士からはどこか説明のつかない、得体の知れない「恐怖」を感じます。冒頭に物語を牽引する女のエキセントリックでアバンギャルドな感じはどこか「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを思い起こさせますしね(これはさすがにこじつけ過ぎ?)。

まだ1回しかちゃんと読んでいないので身勝手なことを書かせていただきますが、序盤に現れる女は、興味深くなかなか面白いことを言うものの、基本的にこの物語においては奇妙な男を物語に登場させるための呼び水としてしか機能していません(最後にもう一度重要な役割を担うようになりますが)。むしろ、彼女が連れてきた男と主人公の僕が2人きりでビールを飲み始め、マリファナを吸い始めたところから、この物語は主題へと移っていきます。それも流れ星のように唐突に。

あまり分析めいたことをする気にはなりませんが、具体的なくせにあまりに多義的な話なので、このモヤモヤを少しは晴らすためにも、ちょっとだけ頭を使ってみましょう。

 

・世の中にはいっぱい納屋があって、それらがみんな男に焼かれるのを待っているように男には感じられる。

・焼かれた納屋はまるでそもそもの最初からそんなもの存在しなかったみたいに燃えて消えてしまう。

・だから、納屋なんか焼かれても誰も悲しみやしない。

・男はどの納屋を燃やすか判断なんてしない。男がやっていることはむしろ観察をすることだけだ。

・男曰く、モラリティーというのは同時存在のことであり、人間が存在するためにはモラリティーが必要だ。そして、そのモラリティーこそが、男が納屋を焼く理由である、というような口ぶりをしている。

・僕の家のすぐ近くの納屋を焼いたと男は言うが、 結局どこの納屋が焼かれたのか僕にはわからないままだ。

・女は僕の家の近くの納屋が焼かれたであろう日からそう遠くなく行方がわからない。

 

最初の話に戻りますが、これらのヒントから「納屋が意味するもの」「男が納屋を焼く理由」というのを私たちは想像しなくてはなりません。が、少なくともそれはどうも現段階で私には難しそうに思えます。

まず、上述の情報から察するに、「納屋」というものは「消えたことすら気が付かないようなもの」の暗喩であるように思います。

「燃やす」という行動自体にも非常に様々な意味が含まれそうな気がしますが、そこまでは私には追いきれません。例えば、伊坂幸太郎の「重力ピエロ」では、「燃やす」という行為に「浄化する」という意味を付与していましたが、今回の「納屋を焼く」ではイマイチ「焼く」という行為の副次的な意味合いが打ち出されていません。村上春樹の別の短編「アイロンのある風景」では「たき火」について描かれていますが、あくまで本作に限って言えば、「焼く」という行動の情景的な印象効果はありますが、ただそれだけと捉えていきましょう。重要なのは「納屋が消えてなくなってしまう」ということです。

そして、男は一貫して「納屋を焼く」ということに対する「主体性」のようなものを否定しています。男の口ぶりからするに、納屋は焼かれるべくして焼かれ、自分の存在はあくまでその焼かれる納屋を観察するためにある、という感じです。映画で言うならば「セブン」の「ジョン・ドゥ」の考え方に近い部分があるかもしれません。「自分はあくまで神の意思を実行しているだけだ」という感じです。これに対して、モーガン・フリーマン演じるサマセット刑事は「お前自身が楽しんでいる部分もあるんじゃないか」と鋭い指摘を投げかけます。もし、本作の「納屋を焼く」の男が同じような指摘を受けたとしたら、「確かに私は納屋を焼くことに喜びを見出しています。しかし、むしろ納屋の方が私に焼かれて喜んでいるのですよ。私と納屋はお互いにお互いの求めるものを与え、そしてそれはどこまでも自然の摂理に則った、ごく普通の変わり映えのしない現象に過ぎないんです」というようなことを言ったかもしれません。あくまで、私の憶測ですけれど。

要するに私が言いたいことは、この世界には「消えてなくなるべきもの」があり、男にはその判別がつき、また実際にそれを消す力を持っているということになります。そこには多少の身勝手な快楽主義的な部分があるにせよ、悪意はありません。例えば、妻のいる男性が他の女性と寝ればそれは断罪されますが、男性と女性が寝ること自体はごくありふれた自然現象です。同じように、他人の納屋を焼くことは器物損壊罪などに捉われるでしょうが、男の中では非常に自然な物事として捉えられているようです。

 

男はまた自らが「納屋を焼く」理由について、「雨が降るのと同じようなものだ」という上述の「自然の摂理」的なことを説明しますが、同時に「モラリティー」というこれまた面倒な議題を持ち出してきます。彼の中では「モラリティー=同時存在」ということらしいですが、これについて自分なりに解釈をしてみます。

つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。 

 と、男は「同時存在」の適応例を挙げています。これは非常に無味乾燥な言葉を使えば「客観性」となるでしょうか。「客観的視点こそがモラリティー=倫理観の根本だ」と言われれば、結構わかりやすくなりますね。カントだったかは「何が道徳的な行いか」という問について、「地球の人間全員がその行動をして破綻しなければ、それは道徳的行為と言える」というようなことを言っていたかと思いますが、この考え方も捉え方によっては「客観性」の結実ですね。自らの主体的な欲に基づくのではなく、自らを俯瞰的に捉え、さらにそれを世界全体へと広げていく。そうやって自らの行動がもたらす結果を多角的に考えることが「モラリティー」というわけです。

しかしながら、あえて男は「客観性」ではなく、「同時存在」という言葉を使っています。「責めるのが僕であり、ゆるすのが僕」という言葉からは、一般的な客観性とはちょっとだけ違った意味合いがあるように私には思えます。「客観性」とは程遠い、「自己完結性」さえ感じますね。そして、男の「モラリティー」はその「自己完結性」をも含んでいるということになります。しかし、上述の通り、男は「自己完結的」でありながらも、多角的な「客観性」を有しています。本来相反するであろう2つの要素を複合し、男は「同時存在」という言葉を用いて、「モラリティー」を説明しています。

頭の出来の悪い私にはなかなかこの相反する2つの要素を1つにまとめ、わかりやすく説明することはできません。それでも何とか例を考えてみましょう。

まず、非常に生活レベルに近い喩えを持ち出すのであれば、10階建てのマンションの5階にあなたが住んでいるとします。あなたは家に帰るとき、エレベーターを用いて5階まで上がってきます。さて、このときあなたは「1階までエレベーターを戻してから部屋に戻りますか?」、それとも「エレベーターは5階に止めたまま部屋に戻りますか?」。5階はちょうど真ん中の階だから、5階に止めたままにしておけば次に誰が使うことになっても待ち時間は平均化されるだろう。いや、よくよく考えて見れば、最も使用頻度の高い階は1階だ。まず、エレベーターを使う場合を考えたとき、人は自分の部屋のある階と1階の往復となる。部屋を出るときは自分の階までエレベーターを呼び寄せるけれど、帰るときは必ず1階を使用する。であれば、1階に戻しておくべきだろう。何せ、外から疲れて帰って来た時に1階にエレベーターが無い、という状況はちょっと腹立たしいものだ。しかし、この際、人間の感情というものは排除して考えよう。あくまで時間とエネルギーの効率を考えよう。そして、仮に5階でなく、8階の住人だったとした場合、8階の住人はどういう選択をすべきか。8階に留めたままにすべきか、5階に送るべきか、1階に送るべきか。これは簡単だ。既に答えが出ているように、階の使用頻度を考えれば1階に送るべきだ。が、ちょっと待て。確かにそれは時間の期待値としては、1番良いのかもしれない。でも、エネルギー的に考えたときに1階に送るのは得策だろうか。8階の住人が家に帰り、8階から1階へと無人のエレベーターを送り返す。次に10階の人間がマンションを出るために10階までエレベーターを呼び戻す。これは非常に効率的ではない。時間的にもエネルギー的にも無駄だ。それは何も10階だけに限った話ではない。6階でも同じような無駄が発生する。というか、そもそもエレベーターは上に移動させる方がエネルギーを食う。上の階のほど位置エネルギー的に高いのだから、せっかく上まで上げたのであれば、わざわざ下にそれを無人で送り返すのはただの無駄でしかない。確かにマンションの住人の時間節約を考えた場合は、1階に戻すのが効果の期待値は高いかもしれないが、地球全体のエネルギー消費で考えた場合、毎回1階に戻すのはエネルギーの無駄でしかない。というか、そもそも無人でエレベーターを動かすこと自体がエネルギーの無駄なのだ。であれば、エレベーターはやはり降りた階で留めておくべきだろう……

さて、かなり長くなってしまいましたが、このように色々と思考し、最も適切と言える選択肢を考えるという行為は非常に多角的で、客観的と言えるでしょう。しかしながら、最終的にどこを着地点とするのか、ということについては基本的に個人の判断になります。もちろん、マンション住人やエネルギー問題の専門家を招いて討論を行い、1つの暫定解を見つけることも可能ですが、さすがにそこまではしません。となれば、あくまで自己完結させるしかありません。自分なりのモラリティーを模索したところで、結局のところ結論は自己完結的に導かれてしまいます。しかし、このような自問自答を行うことで自らの判断基準を見出し、自らにフィットしたモラリティーを人は手に入れることができます。

これが「客観性」と「自己完結性」を内包する1つの具体例ではあります。が、何となく「納屋を焼く男」が言いたいのはこういった問題だけではないように思います。というか、そういう生活レベルの話ではないため、何となく乖離した感じがあります(本質的には同じように私は思いますが)。なので、もう1つ、今度はちょっとだけより抽象的な議論をしてみましょう。

さて。まずこの世界に完全なモラリティーが存在するか、という問題ですが、カントだったかが言うように「全員がその行動をとって世界が破綻しないか?」という考え方は非常に完結でわかりやすいですが、それだけではあまりに厳密性に欠けます。私なんかは「人間が生きている」というだけで世界はだいぶ破綻に向かうように思ってしまいますしね。しかし、この世界を完璧に導くことのできる神がいたとしましょう。そして、その神が「人間はすべて生きなければならない」と導いたとします。結果的に人間は地球の資源を貪り尽くし、この世界を破綻へと向かわせてしまうかもしれません。しかし、それは完全な存在である神が導いた結論であり、故に人間によって破綻した世界こそが神の求める「完璧」なのです。もちろん、破綻した世界の中で人間は死に絶え、神が自ら宣言した「人間はすべて生きなければならない」という命題は達成されず、神は矛盾を抱えてしまいます。が、その矛盾さえも神は内包し、それは神による命題ではなく、ただの「世界を破綻に導き、人間を滅ぼすための欺瞞」でしかない。そんな風に都合よく捉えることも可能になります。

それではそんな全能の神において、客観性というものは存在するか。神には自己完結性しかないように見えます。しかし、神自体がこの世界を内包するため、神の視点こそが客観性そのものとなるわけです。

エレベーターと神の喩えを持ち出しましたが、これらのことから私が言いたいのは、必ずしも「客観性」と「自己完結性」は相容れないという訳ではないということです。この世界の捉え方次第では、客観性を突き詰めていった先にはどうしても自己完結性がありますし、完璧な自己完結性はむしろ客観性を内包します。つまるところ、それは行動規範という名の「モラリティー」として、社会の中に宿るというよりは、むしろ個人の中に宿ることになります。したがって、男が言うように、「モラリティーなしに人間は存在できない」ということになるのでしょう。

 

やや議論がごちゃごちゃしてきましたね。

あちらこちらに自分が同時に存在し、同時に何らかの行為を行う。分身した自己は自己完結的な客観性を持ち、それに根差した行動規範=モラリティーに則って、ただ自然の流れの中で「納屋を焼く」。細分化された自己の責任の範囲を超えたモラリティーという名の大きな流れの中にあっては、男にできることはもはや納屋が焼かれる一部始終をただ観察することだけです。人間を形成する行動規範=モラリティーの獲得には、自己の細分化や同時存在が必要であり、そのようにして作られた強固なモラリティーの流れの中では、もはやそのモラリティーの所有者である自らですら、その行動について何らかの判断をすることすら能わず、ただの傍観者に成り下がる。

そんなようなことが男が納屋を焼く理由となるのでしょう。

 

さて。最後の謎は、「僕」の近くで確かに焼かれた納屋と、女の失踪です。短絡的に考えれば、「1つ納屋を焼く」=「1人の女をこの世界から消す」ということになるのでしょう。しかし、やはりそれでは文学としての広がりがありません。上述の通り、「納屋」とは「消えても気づかれないもの」の象徴であり、それは具体的な事物であったり、儚い記憶であったり、感情や想いといった類のものであるかもしれません。男はそういった古びて、もはや用途のない「納屋」を焼くための象徴です。私たちは普段から様々な不要物を捨て去り、自らのモラリティーに則って消していきます。

自分が生み出した自分という世界において、神であるところの自分は好き勝手に大切な何かを焼いて、消していく。なぜなら、そこには自分を構築するためのモラリティーがあるからです。もし、自らに対するモラリティーが完全に存在しない人間がいるのだとすれば、その人間は何も焼くことはなく、四次元ポケットみたいな無限に広がる納屋を持ち、そこにありとあらゆるものを放り込んでゆく能力を持っている必要があるでしょう。

「女」は実際的に失踪してしまいました。しかし、「僕」は「これまでにも何度かそういうことはあったからね」と軽く考えていました。エキセントリックでアバンギャルドな「女」は確かに「僕」にとって興味深い存在でしたが、その失踪について「僕」は「彼」から言われるまで気づいていませんでしたし、言われてもなお、消えてしまってもなお、「僕」にとってそこまで大きな影響をもたらしてはいません。本当はもっと大切なものだったはずなのに……

 

灯台下暗し、ということわざがありますが、端的に言えばそうなります。近ければ近いほど、その納屋が朽ちていっていることに気付かないものなのかもしれません。そして、その納屋はモラリティーによって焼かれて、すっかりと消えてしまう。消えてしまったことを思うと少しだけ胸が空くような、哀しさが風となって空洞を通り抜けますが、ただそれだけです。

トルーマン・カポーティっぽい、フリーキーで「恐怖」を象徴するような「男」が出て来る話ですが、最終的にはその哀しい冷たさにそっと触れるような実に村上春樹らしい小説かなぁ、とも思いました。

 

3.踊る小人

この短編集の中では、個人的に1番好きな作品かもしれません。端的に言えば、ギタリストのロバート・ジョンソンの「クロスロード伝説」みたいなものでしょうか。夢や欲望を叶えるために、踊りの上手い小人に魂を売り渡すというのが主題で、非常にわかりやすいです。そのわかりやすい主題を、村上春樹らしい突拍子もない世界観の中で、ユーモアたっぷりに描いています。

私の周りには(特に女性に多いですが)村上春樹みたいな起承転結もなく、ある意味ではうじうじだらだらと格好つけながら思い悩んで、一向に話が進まない小説が好きじゃない(もっと言えば、嫌い)という人が多いような気がします。そういうことを言われると、私はいっつも「それがいいんじゃないか。うじうじだらだらと格好つけながら思い悩む以上にこの世で楽しいことなんてないと思うけど」と反論してしまいます。が、この「踊る小人」という短編に限って言えば、村上春樹にしては珍しく、主人公は実に行動的で、思い悩み過ぎて立ち止まったり右往左往したりするということがありません。

それはそれとして。ゾウを作る仕事という突拍子もない設定に、帝国と革命(でも、結局、ゾウ作りにとってはどこが政権を握ろうが大して変わらない)、チャーミングな「小人」というイマジナリーなキャラクターの登場という村上春樹らしい要素は沢山散りばめられています。しかし、上述の通り、主人公が思い悩んで、届かないところに手を伸ばし、結局掴み切れないというような所謂「聖杯伝説」的要素はなく、あくまでこの話は教訓や暗示に満ちた、童話や伝承のようにまとめあげられています。

 

まずはざっとあらすじを。

退屈な日常の中にあって、主人公を含めた「僕」たちは実に人間的な欲望に捉われて生きています。「楽をしたい」、「退屈を紛らわせたい」、「美しい女の子を自分のものにしたい」というものです。中でも、「僕」たちは「美しい女の子を自分のものにしたい」という欲望に夢中です。そんな中、「僕」は夢の中で、実に踊りの上手い小人に出会い、その正体を知りたいと思います。そして、上手い具合にその小人の情報が集まり出し、実はその小人が先の革命で何らかの重大な超能力を発揮したらしいということが明らかになります。

そして、再びその小人が「僕」の夢の中に現れて、ある条件と引き換えに新人の美しい女の子をお前のものにしてやる、と言ってきます。その条件は「僕」が美しい女の子をものにするまで一切口を聞いてはならないというものでした。しかし、小人は怖ろしい幻想を見せて、「僕」に叫び声を上げさせようとしてきます。「僕」はそれになんとか打ち勝ち、見事美しい女の子を自分のものにすることができるわけですが、才覚のない「僕」がそんな美人をものにできたのは小人に憑かれたからだということがバレてしまい、最後は警官隊に追われる身となってしまいます。

そんな最中、小人はまた「僕」に、「逃げたいのならまた力を貸してやろうか」と提案してくるところで話は終わります。

 

ロバート・ジョンソンの「クロスロード伝説」について、ちゃんと話していませんでした。要約すると、あまりにもギターが上手いロバート・ジョンソンはどこぞの交差点(クロスロード)で悪魔と出会い、魂を売る代わりにギターのテクニックを授かったという伝説です。私の知る限り、彼が実際に悪魔に魂を売ったことで、どうなってしまったのかはわかりませんが、本作においては「小人」に魂を売り渡すと、「森の中で未来永劫踊り続ける」ことになるそうです。最初は女の子をものにするという欲望のために、小人の力を借りた「僕」ですが、今は警官隊に追われて生きるか死ぬかの瀬戸際です。ここでまた小人の力を借りるべきか、否か。

 

でも僕にはどちらかを選ぶことなんてできない。 

 

というところで話は終わってしまいますが、そこには「欲」と「業」に関する典型的な教訓がわかりやすく描かれています。

尋常じゃなく上手く踊ることで、様々な人間の心を操ることができる小人。その力を借りてしまう「僕」。そこにはどこか村上春樹自身が「作家」という職に対して考えていることが透けて見えるような気がするのです。

最初は退屈な日常を華やかにするための、どこにでもある至って凡庸な「欲」がスタートにあります。しかし、運が良いのか悪いのか、理由があるのかないのかわかりませんが、なぜか「僕」の夢には踊る小人が出てきて、そしてその不思議な力を貸そうとしてくれます。スパイダーマンに出て来る名言「大いなる力には大いなる責任が伴う」ではありませんが、普通の人が持たないものを、あるとき村上春樹は自分自身の中に発見してしまったのかもしれません。そして、最初はちょっとした好奇心と欲からそれを使ってしまいます。しかし、そこからはもう後戻りはできません。

 

あらゆる物事がそうだとは思いますが、人間はみな自らの生き方にある意味では祝福され、ある意味では呪われ続け、人生を歩んでいきます。私は「作家」ではありませんが、おそらく一生こうやって愚にもつかない文章を書くことで、自分の人生を送っていくでしょうし、それによってメリットもあればデメリットもあります。それは誰しもが同じことと言えますが、スパイダーマンの名言の通り、もし自分の中に常人には無い特別なものがあった場合、もしかしたら本来の自分では選び取らないような人生の選択をしてしまうかもしれません。言わば、能力によって自らの人生を決定づけられてしますのです。まぁ、これも万人に言えることかもしれませんが。

いずれにせよ、この作品の中で描かれている力とそれによる呪縛というのは、実に私好みするテーマですし、何よりも好きなポイントは「進んでも地獄、引くも地獄」という状況で物語が終わっていることです。村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の中で「アカ」という登場人物が主人公である「つくる」に対して、「手の指を切るか、足の指を切るか」ということについて話をしていました。そして「それが現実だ」と。私の敬愛するロックンローラーである山田亮一も、「ソナチネ」という曲で「銃か毒か選べったって、俺には結局同じに見える」と歌っていました。

 

「深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗き返している」という言葉をよく耳にしますが、まさにそれですね。ちょっとした欲をきっかけに「踊る小人」の特殊な力を受け入れた「僕」は、それに伴う業を受け入れ、八方塞の地獄に放り込まれてしまいます。「知らぬが仏」。こういう言い方は非常に高飛車で自信過剰だと自分でも思いますが、色々とあれやこれやと深く考えてしまう自分の性癖を呪ったこともあります。もし、同じような経験をしたことがある方ならば、きっとこの作品の教訓に対して共感していただけるのではないのでしょうか。

やや短いですが、わかりやすい作品なので逆にこれくらいで終わります。

 

4.めくらやなぎと眠る女

こちらもまた「ノルウェイの森」と関係性が深い作品です。「ノルウェイの森」の中では、本作「めくらやなぎと眠る女」で語られる病院でのエピソードが僅かに登場しており、少なくとも本短編集に編纂された「蛍」と「めくらやなぎと眠る女」の世界には共通の土壌があると考えることは充分に可能です。とは言え、「蛍」の登場人物である「僕」、「彼女」、「彼」と直接的に一致している部分は、「彼」にあたる「僕」の友人が若くして死んでいるということだけです。そして、「めくらやなぎと眠る女」の中心となっているのは「僕」と「いとこ」の物語であり、「僕」と「彼女」と「彼」が紡ぐエピソードは何らかの象徴という領域に留まっています。

 

また最初にざっくりとあらすじを書き出します。

まず「僕」は無職になって実家に戻ってきています。そこで右耳を悪くした14歳の「いとこ」の病院の付き添いを叔母から任されます。話は病院へ向かうバスの中、病院の食堂、そして帰りのバスという3場面で大まかに構成されています。

なぜ「いとこ」の右耳がいつまでも治らないのか、それは「僕」にも「いとこ」にもわかりません。「僕」は「僕」で混乱しており、「いとこ」は「いとこ」で混乱しており、2人は仲が良いとまでは言えなくても、どこか親密な雰囲気が2人の間には流れています。そして、混乱した「僕」は「いとこ」が診察を受けている間、病院の食堂でふと高校生の頃の記憶を思い出します。ただ、その記憶の中で「彼女」は「めくらやなぎ」と「眠る女」が登場する詩を書いています。それが一体何を意味するのか、それはよくわかりません。「いとこ」が診察から戻って来て、また2人は話しながらバスに乗って帰ります。

 

正直この「めくらやなぎ~」に関しては、まとまったことをうまく書けそうにありません。それぞれの要素があまりに象徴的過ぎて、それら1つひとつの情景は美しく、興味深いところがあっても、そこに関連性を見出し、何か1つの主張としてまとめ上げるのはちょっと私にはできそうにありません。

今もう一度ざっと目を通しましたけれど、結局何もわかりませんでした。面白いと感じるところは各所に脈絡なく散りばめられており、それでいて物語の総体として非常に印象深いという、私からすれば最高の作品であることは間違いないのですが……

 

あまりにわからないので、気になったシーンについて感じたことを順に書いていきます。

 

◆「いとこ」と腕時計

「いとこ」は時間やお金など、数字に細かく、何度も「僕」に時間を尋ねたり、気にしいなところを面倒に感じてきた「僕」に運賃の280円を手に握らされたりしています。一応、右耳が聞こえなくなった原因は「ボールをぶつけられたから」ということになっていますが、彼の神経質な部分も何らかの影響を与えているのではないかと思われるほどです。あるいは、耳が聞こえなくなったからこそ、常に自分が情報的な貧困状態にある不安感から、そのような神経質な気質になってしまったのかもしれませんが。

そんな「いとこ」が高価だけど時間に不正確な腕時計について話すシーンが、なかなか印象的でした。

彼は過去に高価だけれどしょっちゅう時間がずれる腕時計を買ってもらい、それを1年くらいで失くしています。それから彼は時計を持っていないらしく、「僕」から「不便じゃないか?」と尋ねられるわけですが、これに対して彼は「そうでもない」と答えています。「むしろ時間の合わない時計を持っているというのは、それはそれで大変なものだ」と僕に説明し、それから「もちろんそれでもわざと失くしたわけじゃない」と弁明します。

この「いとこ」の価値観は、彼の「耳が聞こえない(聞こえにくい)」という特性とかなりマッチしているように思います。つまり、不完全な機能を抱えることの煩わしさという点で、自らの難聴と時間に不正確な腕時計とを重ね合わせているわけです。もちろん、耳が悪くなったのも、腕時計を失くしたのも彼の望みではありませんが。そして、そのような時間に不正確な腕時計を身に着けてきた反動なのか、彼はやたらと時間を気にして「僕」を少しだけ戸惑わせます。「僕」は困っているわけではありませんが、少なくともその「いとこ」の時間に対する神経質な部分を感じ取っています。

私はこう見えて(どう見えてるのでしょう?)なかなか忘れ物が多い性質なんですけれど、だからこそ忘れ物の確認は念入りにしています。それでも忘れるときは忘れてしまうんですけれど。でも、そういった自分の不完全なところ、苦手とするところってやっぱり自分ではとても気になるし、ある場合には周りから「そんなに神経質にならなくても」と思われてしまいます。ですから、私は極力物を持たないようにしています。プライベートで家を出るときは基本的に財布とスマホと音楽プレイヤーしか持っていません。本当は本やタオルやモバイルバッテリーや、あれやこれやというものを色々と持っていきたいのですが、そうやって「あれも、これも」と意気込んだ時って、いっつも何かしらを家に忘れて来てしまい、「あぁ、また忘れたよ」と悲しくなるんですよね。だから、「あれも、これも」という気持ちを抑え込んで、私はあえて持ち物を最小限に留めるようにしています。そのように「諦め」を用いることで悲しみを回避しているわけです。

ちょっと作品の内容からはずれてしまいましたが、機能不全から来る諦め、つまり不完全性の受容こそが本作の1つのテーマになっているのかな、と思います。少なくとも「僕」は「いとこ」の難聴について彼を責めたり、見放したりはせず、ただ受け入れています。そして「いとこ」の方も「僕」が無職の状態にあることを否定したりせず、ただ受け入れており、それにより2人には不思議な親密感が宿っています。

 

◆バスの老人たち

これはもはや気になるというより、物語の大部分を担っているため無視できない要素となってしまっていますね。真新しいバスと変わり映えのしない街、それから気味の悪い老人たち。

「僕」はバスに乗っている間、ずっと「このバスが正しい目的地に向かっているのか」という疑念に捉われています。特にバスに乗り合わせた老人たちによって、「僕」の不安感は増長されています。バスの巡回ルートを考えると明らかに辻褄の合わない服装、そしてそもそもなぜ同じ格好をした老人がこれだけの人数まとまって乗り合わせているのか。そして、彼らはどこへ向かっているのか。そして、「僕」は老人たちに惑わされて、バスの行先が合っているのか再確認することにまでなります。。

このバスの老人たちはなかなか執拗に描写されているのですが、その執拗さがそのまま「僕」が感じる疑念の執拗さに繋がっているように思います。私は子供の頃「ハリーポッターと不死鳥の騎士団」を読んだときに、ハリーを襲う悪夢とアンブリッジの悪意の執拗さに読んでいるこっちまで気分が悪くなってきた記憶がありますが、本作の老人たちからも同じようなものを感じます。

仕事を辞めてどこに向かうべきか懊悩する「僕」。そして、難聴の治療が難航している「いとこ」。彼らの抱える不安感は、不気味な老人の描写によって間接的に説明されています。

そして、老人たちは疑念や不安の象徴だけでなく、「居心地の悪さ」をも意味しているように思います。「僕」も「いとこ」も自らの不完全性により、社会にうまく適合できていない部分があります。2人は身近な家族にすら上手く馴染むことができずに、3年ぶりに会う従兄弟に対して、最も心を開いているような雰囲気がありますね。

このように様々な暗喩を考えることができますが、この「老人たち」の存在は本作において非常に強い印象を残していることは確かです。

 

 ◆「痛み」に関する会話

バスの中で、「僕」は「いとこ」について「痛み」の記憶について尋ねられます。様々な肉体的な怪我をしてきて、その都度かなりの「痛み」を感じてきたにもかかわらず、いざその「痛み」を思い出そうとしても「僕」はそれがどんな感じだったのか思い出すことができません。

たしかに不思議ですよね。私は慢性扁桃炎というちょっとした疲労ですぐに扁桃腺が腫れて熱が出る病気になった経験があります。これを脱するために扁桃腺の摘出手術をやったのですが、これがとても痛くて、痛くて。口を開けて喉についている扁桃腺を切り取るという強引な手術なんですが、まさか喉の中を縫うわけにはいかないので、切ったところの傷口は開きっぱなしです。粘膜だから再生力が高いものの、切った直後はとても痛みました。そして、手術の間は全身麻酔がかけられていたのですが、麻酔がとけた後は強い吐き気と頭痛に悩まされ、自分ではあまり記憶がないのですが相当呻いていたそうです。また、手術では口を開きっぱなしにするための器具を突っ込んでいたせいで、至る所に口内炎ができており、これがまた何かを食べるときに非常に痛みます。もう、普通の口内炎じゃないんですよ。いつもの口内炎がK君の家の近くにある東公園だとしたら、術後にできた口内炎は東京ドームみたいなものです。それだけ「痛い」経験をしたのに、今となってはその「痛み」をリアルに思い出せません。私が覚えているのはその時に「どれくらい痛いか」を伝えるために捻りだした、「もし同じ手術をしろって言うなら、50万円は持ってきて欲しいね」という比喩くらいのものです。

そして、そうやって「金額で表現したり」して何とか自分の「痛み」を相手に伝えたいというにも関わらず、どうやってもそれを正しく相手に伝えることはできません。「僕」は「痛みというのは最も個人的な次元のものだからね」と言っていますが、まさにその通りだと思います。「痛み」を増長させるのは、その「痛み」に対して正確な共感を得られないところにあるという気もします。「どうしてこれだけ痛くて、苦しいのに、それをわかってくれないんだろう」と思うと、とても孤独で悲しくなってきますよね。

それから耳の検査について「いとこ」は実際にやってみればあまり痛いということはないけれど、「痛いんじゃないか」と想像することが辛いのだと言っています。これもとてもよくわかるものです。

と、少し私の個人的な話ばかりになってしまいましたが、この「痛み」に関する会話の終着地点は「この先の人生で色んな痛みが待っているのかと思うとウンザリする」というところになります。

「いとこ」は聞こえにくい耳を抱え、不安や居心地の悪さ、痛みの予感に付き纏われながら生きています。それは上述の通り、「腕時計」や「バスの老人」などの様々な暗喩を通じて描写されているものの、この「痛みについての会話」の中ではかなり直接的に「生きていくことの辛さ」が書かれていますね。それに対してまた「僕」も強い共感まではしなくとも、「いとこ」の言わんとしていることに理解を示し、柔らかく受け止めています。

 

◆17歳の頃の記憶

このパートは基本的には「僕」が自らの17歳の頃の美しく、奇妙な思い出を反芻しているだけです。しかしながら、ところどころで時間軸は「現在」に移り、病院の食堂で「いとこ」の診療を待っている「僕」へと戻ってきます。そこには幻想と現実の入り混じった浮遊感と気味の悪さが漂い、不可思議な重力場を生み出しています。

「彼女」が入院する病院への道のりで、「僕」と「彼」は海岸べりでバイクを止め、木陰で一休みします。夏の陽射しで見舞いの品のチョコレートはどろどろに溶けていきます。そこで「彼」は「いまここにこうして2人でいることは変じゃないか?」と言い出します。何がどう変なのか、そこでは説明されません。ただ「現在の僕」は最後に「その友達はもう死んでしまって、今はいない」と句点を打ちます。

現在の「僕」は3年ぶりに会うあまり親しいとも言えない「いとこ」の耳の診療に付き添って、病院の食堂で古い記憶を思い返しています。「彼」の言葉はむしろ「現在の僕」に対して突き刺さり、今この瞬間に対する奇妙な想いを代弁しているように感じられます。やはり「過去の彼」と「現在の僕」に共通しているのは、うまく説明のできない「居心地の悪さ」なのかなぁ、と私は思います。その「居心地の悪さ」というのは、何となくお互いに苦手意識を持っているであろう隣の部署の上司と偶然歯医者の待合室で遭遇したときのような「居心地の悪さ」とはちょっと議論の次元が違います。「僕」や「彼」、そして「いとこ」が感じる「居心地の悪さ」というのは、特定の条件のもと感じられるものというよりは、常時漠然とうまく今自分のいる時間や場所に馴染めない感覚。

それはどういう風に説明して良いのかわからないものです。

例えば、自分はどうして生まれて来て、なんで生きていかなきゃいけないのか。未来には沢山の痛みが待ち受けていて、今の自分には居場所なんてない。不完全な機能しか持ち得ず、そんな不完全な自分を抱えながら、世の中に馴染むことも能わない。バスの中には同じような風貌の(それでもきちんと個別化可能な)老人たちが、慣れたような様子で私たちには想像もつかない場所へと向かっている。そうやって上手くこの予測不能な世界に馴染んでいる人間たちがいる一方で、どうして私たちばかりは、簡単な行先に向かうことにすら不安を感じ、ビクつきながらバスに乗っていなければならないのか。その問いの先にあるのは、「私たちの居場所はこんなところじゃないんじゃないか」という閃きです。

「僕」には17歳の頃のことが意味も無く鮮明に思い出されます。その記憶は8年という歳月が経った今でさえうまく説明のつけられるようなものではありませんが、少なくともずっと心の底には潜んでいたもので、ある種の親しみのようなものがそこにはあるようです。

「彼女の白い胸の骨」というのが「僕」にはとても印象的に思い出されます。

それが意味するところはよくわかりませんが、その「彼女の胸の白い骨」は生まれつき、少し曲がっていたため手術で正規の位置に治すことになりました。ですから、安直に考えれば「普通じゃないもの」・「馴染んでいないもの」の象徴がその「彼女の白い胸の骨」ということになります。そして、その象徴は「僕」にとってはもう1つ重要な意味を持っています。彼女の白い胸の骨は、彼女の……思春期の女の子の柔らかい胸の奥にあるものです。「僕」はふとその骨のことを思いながら、パジャマの首元から除く、彼女の胸元に視線を奪われます。歪んだ骨というともすればあまり考えたり触れたりしたくないようなもののすぐ傍には、どうしても欲を駆り立ててくるものがあり、「僕」を魅惑してきます。その相反する2つのイメージが「彼女」と「彼」との思い出となり、ずっと「僕」を捉えているわけです。

あくまで私なりの捉え方ですけれど、私たちは「自分たちの居場所」について上手く捉えることができずに、そこに上手く馴染めないでいます。しかし、同時に生きているせいで、否応なしにその「居場所」に縛られてもいます。それは螺旋状に私たちの中に積み重なり、ある意味では私たちを祝福し、ある意味では呪い続けているわけです。たしかこんなことを「踊る小人」の感想の中でも私は話していましたね。「踊る小人」ではより魔力的な意味合いを持って同じことを喋ったように思いますが、この「めくらやなぎ~」ではもっと繊細で、梅雨のようにじっとりとしたイメージで私は喋っています。

何と言うか、もはや作品の感想というよりは、ただの私の心情吐露になってしまいましたね。

 

◆「めくらやなぎと眠る女」の詩

「彼女」は入院中に「めくらやなぎと眠る女」に関する自作の詩を書いていました。

・めくらやなぎの花粉をつけた小さな蠅が耳からもぐりこんで女を眠らせる。

・ある年齢に達しためくらやなぎは上に伸びるのをやめて、下に下にと伸びていく。

・暗闇を養分にして育つ。

・女を眠らせた蠅はそのまま女の体の肉を食べてしまう。

・眠った女に会うために、若い男は一人でめくらやなぎが茂り、蠅が飛び交う丘を登っている。

・しかし、若い男が丘の頂上に辿り着いたときには、既に女の体は「ある意味では」蠅に食われてしまっている。 

それが詩の大まかな設定と筋書きです。この詩が何を意味しているのか、それは非常に難しい問題です。まず情景としての美しさについて、それはそれとして受け止めましょう。その上で、詩の意味について考えていきます。

まず、「めくら」・「やなぎ」・「耳」・「蠅」・「丘」というキーワードの意味ですが、これを調べるのはもはや花言葉的にかなり面倒で由来も確証も持てないことになりますので、やめておきましょう。「実は『柳』という植物には〇〇という意味があって…」というようなことを喋ったところで、「ダイヤには心を浄化する作用があります」と言うようなものです。そのように考えることが良いか悪いかということはわかりませんが、少なくとも今の私にはちょっとやる気になれません。というわけで、キーワードの副次的な意味については一旦度外視します。

すると、話は非常に簡単です。

暗闇を糧に成長する「めくらやなぎ」があり、その花粉は蠅という媒介者を経て、女を眠らせてしまう。そして、女は眠らされただけでなく、その媒介者である蠅によって肉体を食われ、損なわれてしまいます。女を助けようとする「若い男」という希望は存在しているものの、結局彼が何とか丘の上に辿り着く頃には、女は損なわれてしまった後です。

これをさらに簡潔に言い換えると、私には次のように解釈し直せます。

この世界の暗く、嫌な側面を糧にして生きる何らかの存在がある。そして、その存在の断片は、細かい粒子となって私たちの意識を蝕んでくる。最後には、それは意識だけでなく肉体すら捉えてしまう。そこからの救いの手というのもこの世には存在しているはずだけれど、いつも間に合うことが無い。

つまり、死んでしまった「彼」も、居心地の悪さを抱えながら生きる「僕」や「いとこ」も、その世界の暗く、嫌な側面に捉えられており、おそらくはそこから救い出されることがないのです。思春期の「彼女」はそういった世界を実に瑞々しい詩として描き出し、「現在の僕」はその詩の云わんとするところを、8年越しに漠然と実感しているという構図になっていると私は思いました。

 

◆「インディアンを見ることができるというのはインディアンがいないってことです」

「いとこ」の好きな「リオ・グランデの砦」という映画の中のセリフです。「いとこ」は耳のことを言われるたびに、そのセリフを思い出すそうです。「僕」はそのセリフに対して、「誰の目にも見えることは、本当はそれほどたいしたことじゃない」という意味として捉えました。みな「いとこ」の「耳の異常」それ自体に注目していますが、そういった誰の目に見えるような「耳の異常」ってのはそんなにたいしたことじゃない、と言ってやりたかったのでしょう。

しかし、作品全体として考えたとき、このセリフの意味合いはもはや「めくらやなぎと眠る女」の詩との関連性なしに考えることはできません。

このセリフは裏返せば、「目に見えないインディアンがいる」ということを意味しているように思います。というか、「目に見えないからこそインディアンが存在している」ということになろうかと思います。空想の世界にしか存在しない「めくらやなぎ」とその花粉を運ぶ「蠅」。それはこの世界では決して見ることのできない存在です。しかし、見えないということはむしろ確実に存在しており、その不可視性こそが「めくらやなぎ」の正体であるわけです。

そんな世界の中で、「僕」と「いとこ」は肩を並べ、最後にはまた「28」番のバスに乗ってお互いの生活の中へと帰っていきます。

 

さて、結局この作品を通して、何が主題となっているのか、それはわからないままで、とりあえずの整理をつけることもできませんでした。

救いのない世界の中で、救いを諦めかけている者同士が肩を並べている。

落ち着くところはそこなんでしょうけれど、それを表現するために、実に印象的な物語が紡がれているというのが、この作品に対する私のとりあえずの感想になります。

 

5.三つのドイツ幻想

こちらに関しては感想を省略させていただこうと思います。

省略させていただく1番の理由は、もう疲れたから、ということ。

2番目の理由は、新幹線の時間が迫っているから、ということ。

3番目の理由は、感想を書きたいと思えないから、ということです。

三つの短編はそれぞれに非常に着想やイメージとしての面白味に富んだ作品ですけれど、「感想」というものを書くには不適切な気がしてなりません。もちろん、「あれが意味することはこうではないか?」とか色々と考える余地はありますが、もはやそれはロールシャッハテストみたいな様相を呈しそうなのでやめておきます。

 

6.最後に…

久しぶりに読書感想文を書きました。急いで書いたので結構大変でしたね。やっぱり適当なことを書き連ねているだけの日記とは、かかる労力が全然違います。

しかしながら、なかなか良い頭の運動にはなりました。本当はもっと深堀したかったのですけれど…でも、まぁ、村上春樹の作品を深掘りすることにどれだけの意味があるのかはよくわかりませんし、正しく評価するための知識を得る労力は、また計り知れないものがあります。なので、あくまで「感想」です。

ただ、本作は素敵な短編集であることは間違いないので、ぜひ読んでみていただければと思います。というか、少なくともこんなデタラメな記事を読んでいる方は既に読了されていると思いますが。まぁ、あくまで個人的な趣味、気晴らしでやっていることなので、この記事を読んでくださった方に対して私が求めることは特にありません。

 

今日はよく晴れています。音楽を聴きながら、猫が眠る実家のリビングで文章を書くにはうってつけの日です。ただ、明日は東京の方で心療内科の受診があるため、今日のうちに向うに戻る必要があります。本当はもうとっくに東京行の新幹線に乗っているはずなんですけど、この記事を書いているせいで既に何本か見送ってしまいました。そろそろ重い腰を上げなければ…

というわけで、今日はこの辺で勘弁しておいてやりましょう!