*
まだ寒い日が続いていた。裕子は僕の部屋のベッドで寝転がり、慣れない酒を飲んでいる。初めから今日は帰らないつもりだったらしい。両親には一足早い卒業旅行で、友達とディズニーランドに行ってくると言ったようだった。すでに駅前のディズニーショップで買った家族へのお土産用のお菓子が部屋の隅に置かれている。
裕子は僕のぶかぶかのスウェットを着て、夢見心地で寝返りを打った。
まったくそんなこと気にする必要もないと思うが、僕は彼女がもう一か月後くらいには女子高生でなくなるのだ、と思った。惜しい、と思う。時間は非情だ。美しいものから美しさを奪っていく。しかし、時間は希望だ。時間がまた新しい少女を連れてくる。僕はただ待っていればいい。酔っている、と思う。
「せんせえ」僕を呼ぶ声だ。
僕は立ち上がり、彼女のもとへ行く。彼女からもうほとんど空になったチューハイの缶を受け取り、それをテーブルの上に置いた。かたん、と無機質な音が前頭葉のすぐそこで鳴った気がした。それから、僕は彼女の上に覆いかぶさる。
彼女の腕が僕に回される。唇を重ねる。
「私、やりたいことができた」
「やりたいこと?」
「そう」
「裕子は大学生になって何をするの?」
「早くカレシを作って、子供を作るの」
「子供」
「もちろん、女の子。そして、その子供を早く大きくして、先生の働いてる学校に入学させるの」彼女はいたずらっぽく笑って見せたが、目尻から涙の筋が垂れている。「そしたら、先生。私の娘をまた私みたいに抱いてくれる?」
「もちろん」僕は少し考えてみる。言葉が月から落ちて来た。「でも、おれはその子を父親としてこの腕に抱くことになるかもしれない」
僕がそう言うと、彼女は顔を背けて泣いた。今度は声を出して。
僕は月のせいだと思う。泣いているのは女子高生か、それとも女か。どうも女に見えるが、それは僕が酔っているせいだろうと思う。けれども、僕が髪を撫でみても、彼女はもはや女のようにしか反応しない。僕は心の中で溜息をついた。
南美、と僕は思う。助けてくれ、南美。
幾ばくかの時間、僕は裕子に寄り添って横になり、ずっと彼女に腕を回してやっていた。しかし、彼女は一向に顔をこちらに向ける気配がなかった。泣き声は止んでいたが、またいつ泣くやもしれない。まるで、梅雨時の気まぐれな暗雲のようだった。僕は雨に濡れた紫陽花を思い浮かべてみたが、もはや裕子はその可憐さに似ても似つかなく見えた。
仕方なく僕は起き上がり、そして独りで酒を飲んだ。ベッドの縁に腰をかけながら。「何かが欠如している」と僕は思う。エアコンの唸り声がうるさかったので、何となくエアコンを消してみた。部屋の中は世界の果てのように静かになった。
音楽が必要だ。
僕は音楽をかけてみる。できるだけシンプルなポストロックを。この場面にポストロックが適当なのかはよくわからないが、少なくともJポップではなさそうだ。ジャズやクラシックという気分でもない。僕を陶酔へと誘う、ミニマルミュージック的なうねりを持ったポストロック。それをつまみに僕は酒を啜る。
寒さで僕は目を覚ます。チリチリと痺れるような白色灯の光が頭上から降り注いでいる。もうあと僅かでも、その光から人工的な色合いが減ぜられていたら、僕はそれを天界からの御光だと勘違いしていたかもしれない。けれども、頭を振ってみると、僕はただただエアコンの消えた寒い二月の真夜中に、絨毯の上で寝転がっているだけに過ぎなかった。音楽も鳴り止んでいる。
僕は身体を擦りながら、エアコンの暖房のスイッチを入れた。ふとベッドを見下ろすと、裕子が布団に包まって眠っていた。幼い寝息を吐き出している。鼻腔がぴくりと震えた。
「もし、僕に何か一つだけ肯定できる権利が与えられたとしたら、僕は自分と裕子のどちらを肯定してやれるだろう」。何故だか、僕はそんなことを考えていた。
僕はベッドの縁に腰をかける。そっと布団の中に手を入れて、裕子の身体を撫でた。暖かい、と思う。人間が僕のベッドで深い眠りについている。そのことが何故だか僕には奇跡のように感じられた。この状態を「孤独でない」と呼ぶのだろうか。仮にそうだったとして、どうして僕はこんなにも冷たい。まるで、秋雨の泥濘のように。今は「冬」だけれど、と俯瞰した僕がケチをつけるが、僕はそれを無視した。そうだ。僕が冷たいのは暖房もつけずに絨毯の上で寝ていたからだ。二月なんだから、寒くなるに決まっているじゃないか。
僕は裕子の身体を少し押して、彼女と身体を密着させながら一つの布団に包まった。
暖かい、と思えた。僕はほっと胸を撫で下ろす。
気怠い暖かさ。心の底では、本当はこれを求めているのだろうか。
裕子が目を覚ます。「寝てた」と彼女は掠れた声を零す。「私、泣いてた」と彼女は僕に尋ねる。僕は微笑んで、彼女を抱き締めてやった。やはり彼女は女だった。
女を女として扱ってやることほど虚しいことはない。でも、それが僕の求めていることなんだろうか。本当の僕はそれを欲しているのではないだろうか。自分のことを特別だと思いたい僕が、虚しさの幻想を僕に植え付けているだけではないだろうか。
気怠い暖かさ。
「なんで私、推薦なんか取っちゃったんだろう」
「自分の未来を切り拓くためじゃないかな」
裕子は果物の品定めをするように僕をじっと見つめた。数秒後、彼女は僕が腐っていることを発見し、溜息を吐き出す。「どうして、そんなテキトーなことが言えるの?」
「百人に同じことを言ったら、九九人がおれの言葉を正しいと言うと思うけどな」
「正しいか正しくないかじゃなくて、テキトーかテキトーじゃないかの話をしてるの。思ってもいないことを言わないで、って私はお願いしてるの」
今度は僕が溜息をついた。
彼女に呆れたわけではない。自分がテキトーなことを喋っているという事実なんてとっくに知っていたからだ。「僕がテキトーなこと以外を喋ったことがあるだろうか」という哲学的な問答に電話の保留音を返し、僕は「それにしても、もっとちゃんとテキトーなことを言うこともできたはずなのに」と不思議に思う。
僕は自分の中で何かが色褪せていくのを感じた。
「セピア色のセピアっていうのは、ギリシャ語のイカスミが語源なんだ。昔は、イカスミをインクとして使っていたからね。だから、セピア色っていうのは本来は黒色のはずなんだよ。ただ、イカスミは紫外線に弱くて、時間が経つと色褪せてしまう。その褪せた色味をいつからかイカスミの色、つまりセピア色と呼ぶようになったんだ」
裕子は黙って僕を睨んでいた。
「しこたま酒を飲んで、朝方、トイレに起きる。三十年も前の古いジグソーパズルみたいな判然としない意識の中で用を足す。そして、自分が用を足す音を聞きながら、不思議な感覚に捉われることがある。こんなにも腑抜けた意識しか持ち得ない自分でも、自分の身体は無意識的に栄養素を取捨選択し、こうして排泄物を作り上げてくれている。これが生きているということなのかもしれない」
裕子はまだ黙ったまま僕を睨み続けている。仕方ないので僕は正直になって口を開いてみる。
「俺が思っているのはこういうことだよ。感傷的なイカスミが朝方、トイレで用を足す。そういうのが俺の頭の中では渦を巻いている。まるで、風呂場の栓を抜いた時みたいに。でもね、不思議なことに水は減らないんだ。だから、俺はそれをじっと見降ろし続ける。水は減らないのに時間ばかりが進んで行く。そして、いつの間にか朝になって、俺はまたくだらない先生ごっこを始める」
裕子が心配そうに僕のことを見つめている。もう睨み付けてはいない。カタカタと古いエアコンが音を立てた。僕たちの沈黙を埋めようとしてくれているかのように。僕は何の気なしにカーテンを眺めた。いつから洗っていなかったっけ。というか、カーテンは洗うものだったか?
「先生はもう私のことなんてどうでもいい?」
「そんなことないよ」
「推薦でも何でもとって、どこにでも行けばいいと思ってる?」
「どこにでも好きなところに行けばいいとは思っているさ。それは裕子の挑戦であって、俺にそれを邪魔立てする権利なんてないんだ」
「私と離ればなれになっても寂しくないの?」
「俺はむしろ、君の可能性を損なうことの方が怖いんだよ」
暖簾に腕押しだ、と僕は思う。糠に釘でも良い。でも、それらと「希望の朝」との違いがよくわからない。正しいことと意味のあることは全く別物なのだと思う。
僕が身体を起こし、裕子に唇を差し出すと、彼女は一瞬躊躇いながらも僕の唇を受け入れた。ゆっくりと優しく舌を絡ませる。下着もつけずに僕のスウェットだけを着込んだ彼女の胸に手を這わせる。スウェットの上から乳首を摘まんでやると、裕子は僕の唇の間で小さく吐息を漏らした。彼女の耳の穴を舐めてやる。いつものように彼女は切なそうな声を出す。それはカーテンの隙間から零れ落ちてくる月光のように、しっとりと湿っていた。僕は彼女のスウェットを下だけ脱がせ、そして自分も自分でスウェットの下だけを脱ぐ。彼女は熟れすぎて痛んでしまった果実のように股の間を濡らし、運命的なまでにすんなりと僕の性器を受け入れる。
そこから先のことはまるで覚えていない。
すべては冬の夢だ。かつての作家が語った冬の夢ほど華美ではない。しかし、冬の夢というものが失われるものの象徴であることには変わりなかった。
*
紫式部がまた僕に面倒な質問を投げかけてきた。力学的エネルギー保存の問題でジェットコースターが高いところから落ちて、速度を増し、そしてまた最初と同じ高さまで戻るという運動があった。
「確かに高さは一緒になったかもしれないです。でも横に移動してますよね。前の授業では、地面の上の物体を横に移動させるときに仕事をしてエネルギーを与えてやる必要があったじゃないですか。なんで、今日みたいなジェットコースターだと横移動で仕事をしてやる必要がないんですか?」
これが一つ目の質問。そして、
「実際の現実世界では、摩擦熱や空気抵抗でエネルギーが失われるから、厳密には同じ高さまでは戻らない。先生はそう言ったけど、摩擦熱とか空気抵抗でエネルギーが失われる意味がわからない。そもそも摩擦熱とか空気抵抗ってエネルギーなの?」
これが二つ目の質問。
物理教師からしたら、とても良い質問だと思う。なぜ授業中にしてくれないのか、と僕が言うと紫式部は「恥ずかしいから」と言った。「私は別に目立ちたくないし、皆の記憶に自分の名前を刻んでやろうという気もないの」。僕が、「名前も紫式部じゃないしね」と言うと、「清少納言でもない」と彼女は言った。確かに清少納言も良い名前だな、と僕は思う。
「まず、前の授業では物体を地面に対して水平方向に移動させてやるときには仕事が必要だと言ったけれど、じゃあ、仕事の式は覚えている?」
「力かける距離」
「その通り。じゃあ、考えてみて欲しい。摩擦がない地面の上で物体を動かすのに必要な力は?」
「てことは、力かける距離が――」
「はいはい。仕事もゼロになりますね。今回のジェットコースターは摩擦がないっていう設定だから、横移動に関しては仕事が関係なくなるってことでしょ」
「その通りだよ」付け足すとすれば、水平方向はエネルギー準位が一定だから、エネルギー保存則を考えるときには、水平方向の位置は問題とならない。
「はい。じゃあ、次。いま先生が言ったように、摩擦があれば仕事が必要になりますよね。そして、仕事ってのはつまりあっちからこっちへとエネルギーを与えることです。私が物体を押してエネルギー与える。でも、摩擦があるから物体の速度ははやくならない。てことは、物体には運動エネルギーが蓄えられない。これは合ってますよね?」
「合ってるよ。よく勉強してるじゃないか」
僕の言葉に清少納言は不服そうな表情を見せる。稀にだけれど、「頭が良い」と言われることが嫌いな生徒がいる。彼女もどうやらそのタイプのようだった。
「じゃあ、私が物体に与えたエネルギーはどこに行ったんですか? 先生は、この世界からエネルギーが無くなることは基本的にあり得ない、と言いましたよね」
「あぁ、言ったな。化学で質量保存則って習っただろ? あれとほとんど同じ意味でエネルギーも急になくなったりはしない。質量がエネルギーになったり、エネルギーが質量になったりすることはあるけど」
「ってことは、質量とエネルギーはイコールってことですか?」
「俯瞰的に物事を見るのであれば。でも、高校物理ではそんなことは考えなくていい。エネルギーも質量も独立して保存する。それで良いんだ」
「そんな胡散臭い学問、まじめに勉強する必要あるんですか?」
「いま俺も含めて皆がやっているのは学問じゃない。受験勉強だよ。学問と受験勉強を同じ土俵で考えてほしくはないね」
「そんなこと言う先生、初めて会いました」清少納言は呆れたように言う。僕は涼しい顔をして彼女の意見に同意の頷きを返す。
「話が逸れたね。君の与えたエネルギーがどこに消えてしまったか、ということだけど――」
「先生に質問があります」
「なんだ、急に。今まさにその質問に答えているところじゃないか」
「私の名前はなんでしょう?」
僕はきっと苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていたのだろう。清少納言はどこか勝ち誇ったように僕を見上げていた。
「私の名前はなんでしょう?」彼女は繰り返す。
「先生の名前はなんでしょう?」
「上原先生」
「下の名前は?」
「トオル。字までは知らない」
僕は言葉を失う。一瞬、「紫式部」あるいは「清少納言」という言葉を発しそうになるが、あまりにも馬鹿らしいのでやめておいた。その二つの言葉を放り投げてしまうと、あとには本当に何も残らなかった。空になったウイスキーのボトルみたいに。
「先生は、物理なんて生徒に教える前に、もっとしなきゃいけないことがありますね」
「そんなことはない。俺は生徒の名前を覚えてお金を貰っているわけじゃない。君たちに物理を教えることでお金を貰っているんだ」
「そんなこと言う先生、初めて会いました」
「まさか一分足らずのうちに二回もそのセリフを聞くことになるとはね」
「自業自得です」
「で、なんて名前だっけ?」
「次の授業までに調べて覚えてきてください。これは宿題です」
「そんなことを先生に言う生徒、初めて会ったよ」
清少納言は楽しそうに笑った。少女的な笑顔。いったい女はいつそれをどこに置き忘れてくるのだろう。けれど、あまり人のことばかりも言っていられない。かつては、僕も抱いていた、宮部壮亮のような初恋の清らかさを、僕もまたいつかどこかで置き忘れて来てしまっていた。それは一度忘れてしまうと二度と取り戻せない。落とし物をしても戻って来るという神話があるこの日本という国においてでさえ。
「さて、先生もヒマじゃないからね。エネルギーの消えた行方だけど、一言で言ってしまえば、それは熱エネルギーに変わったんだ」
「物体の持っている速度が、エネルギーっていう基準の通貨を通して、熱に変わった」
「そう。前に教えた通りだよ」
「まぁ、それはわかりましたけど。じゃあ、聞きたいんですけど、どうやって物体の運動エネルギーが熱エネルギーに変わるんですか? 取引所みたいなところがあるわけでしょ?」
「取引所なんて無い。熱エネルギーも厳密には粒子の運動エネルギーなんだよ。この机はいま触るとひんやりとしているけど、一時間も外に放置しておいたら熱くなるよね。それは人間の目には見えないけど、机を構成している粒子、つまり原子や分子がより大きく振動しているってことなんだ。太陽の光からエネルギーを貰ってね。不思議なことに人間はその粒子の運動が激しいと、熱いと感じるようにできている。いや、厳密には激しく運動している粒子と、穏やかな運動している粒子が衝突すると、二つの運動の激しさはおよそ平均化されて、一方から一方へとエネルギーが移ったことになる。つまり、君の手のひらを構成する原子の運動が激しくなったことで、君の脳は『手のひらが熱い』と感じることになるわけだ。どう、想像できる?」
「まぁ、何となくは。じゃあ、摩擦熱ってのは、運動している物体が地面と擦れた時に、物体側の運動エネルギーが地面の運動エネルギーに分配されて、それを人間が見ると、地面が摩擦熱で熱くなったみたいに見えるってことですね」
「完璧な要約だ」
「なんか騙されてるみたい」
「そういうものだよ。物理という学問は人間の常識を砕いて、よりロジカルな幻想へと導くためにあると言っても過言ではない」
「先生が教えてるのは学問じゃないんでしょ?」
「だから、いま君に教えたようなことはテストでも受験でも出てはこない」
「じゃあ、今の時間は全くの無駄だったってこと?」
「質問をしてきた君が悪い。先生は授業ではこんなこと教えないだろう? なぜならそれは不要な事実だからだ。ただ、君が個人的な興味で聞いてきたのだから、先生もそれに対して個人的な善意で答えてあげただけだよ」
「授業でもそういう話すればいいのに。きっとみんなもっと授業を楽しんで聞くと思うよ」
「別に先生の仕事は君たちを楽しませることじゃない。必要なことを教えるだけ。高校生に必要なのは、受験に必要な知識だけだよ」
「そんなこと言う先生、初めて会った」
「いつの間にか、タメ口になってるな。ちゃんと敬語を使いなさい」
「ちゃんと先生が、教師らしい正しいことを喋る大人になってくれたら」
彼女は頭を下げ、「ありがとうございました」と言うと、一人で席に戻って行った。そして、一人で弁当を広げる。僕は黒板を「0」にして教室を出て行く。「頭が良い」と言われるのが嫌いなタイプ。教務室に戻ったら、彼女の名前を調べようと思う。
*
「なぁ、俺のことを怠惰な人間だと思うか?」
客が僕たちしかいないダーツバーで日野と二人でウイスキーを飲んでいた。
どうしてダーツバーになんて来ることになったんだろう。
僕が自問の答を探して視線を上げると、カウンター越しに若い女が立っていて、その隣では見るからに無口そうな男が何やら作業をしていた。やたらと体格がいい。
そうだ。僕は女に視線を戻す。僕と日野は居酒屋を出た後、適当に街を歩いていた。そうしたら、この女に「ウチに来てくださいよ」と誘われたんだ。
僕が答を求め、それがこんなに早く見つかることは少ない。今日の僕はツイていた。
「行為的には怠惰ではない。でも、精神的にはやや怠惰と言わざるを得ないかもな」
「精神的にね。でも、俺はこんなにも苦しんでいる。アフリカの飢えている子供が勉強もせずに、その辺をフラフラと歩いている。これは怠惰と言えるだろうか?」
「精神的に、というのは違ったかもな。表現が難しい。そうだな……例えば、こんな表現はどうだろう。x軸を現実、y軸を非現実とする。それぞれ正方向を勤勉とし、負の方向を怠惰としたとき、上原は第二象限にいるんじゃないか」
「さっき日野は俺のことを行為的には怠惰ではないと言ったはずだけど」
「行為については、また別の軸方向があるんだよ。あくまで精神性を二次元にプロットしたときに、上原は現実的には怠惰、非現実的には勤勉だって言いたいんだ」
「行為と精神がある。その上で、精神は現実と非現実の二次元にプロットされる」
「そういうことだよ」
僕は満足して席を立ち、ダーツマシーンへと向かった。何度か足がもつれそうになったが転びはしなかった。水彩画を浴槽に浸したみたいに、景色がぼやけている。
女の店員が僕に矢を三本渡してくれた。
僕は思わず吹き出してしまった。矢も持たずにダーツをしようとしていた自分が可笑しい。店員の女も笑っている。まぁ、いいさ。日野がこっちを見ていなかったのが残念ではあるが。
僕は三本の矢を投げて、それから振り返り、日野の代わりに店員に投げさせた。女は楽しそうに矢を放った。脊髄まで酒に侵された僕と違って、彼女の身体はまったくブレることなく、正確に矢を放るための動きをしていた。あっという間に僕は負けて、日野の隣に戻る。勝てないまでも、一度くらいはブルに当たってほしかった。僕は「全然ダメだ」と言いながら、ウイスキーの水割りを飲んだ。銘柄がわからなかったが、なかなか美味いと感じる。
「さっきの話だけど」日野はぼんやりとした調子でそう言う。
「さっきの話?」僕はまるで何も覚えておらず、聞き返すしかできない。
「精神は二次元にプロットされるみたいなことを話してしまったけれど」
「あぁ、その話ね」
「でも、実際は違う。精神は三次元なんだ」
「そのこころは?」
「誰でも知ってることだけれど、感情は四種類に分類される」
「喜怒哀楽」僕は口を挿んだ。
「そう、喜怒哀楽。その四種類がある。つまり、四点だ。立体図形を構成する場合、最低でも四つの頂点が必要なんだ。つまり、感情は立体的、すなわち三次元だと言える」
「いくつか質問があるがいいか?」僕はグラスを傾けながら言う。「いつから精神の話が、感情の話になった?」
日野は僕の方に定まらない視線を向けて、「さぁ」と首を傾げた。
「それから」と僕は言う。「同一線上に三点以上、同一平面上に四点存在する場合、点が四つでも立体にはならない。確かに立体が成立するためには最低でも四つの頂点が必要だけれど、四つの頂点があれば立体になるというわけでもない」
「たしかにそうだな」
「必要条件と十分条件の関係だよ。それでも数学の教師か」
「そうだな、数学教師とは言えないな」
日野はそう言って、グラスに入ったウイスキーを飲み干し、二言三言わけのわからないことを言うと机の上に突っ伏した。
僕は呆れたように笑い、女の店員に共感を求めた。彼女も呆れたような表情を浮かべる。
「先生」彼女は言う。
「なんだ?」僕は答える。
「せーんせ」彼女はにっこりと笑って、また僕に呼び掛ける。僕は「聞いてるよ。なに?」と答える。彼女は笑い続けたままだ。何も言わない……先生?
「もしかして、俺の生徒だった?」
「うん。やっぱりなぁ。道で会った時からそうじゃないかと思ってたけど」
僕は無意識に男の店員の方に視線を向けた。しかし、彼はこちらに全く興味がなさそうだった。女も「大丈夫だよ」とでも言うように、僕に微笑みを投げかける。
「先生でもこういうところ来るんだ、意外。って言っても、ただのダーツバーだけど」
「きみ、名前は?」
「教えない」
「じゃあ、どう呼べばいいかな」
「うーん。『きみ』でいいよ。なんか新鮮だし」
「うちの祖母ちゃんが『キミ』という名前なんだ」
「あら、可愛い名前」
「呼びづらいだろ」
「そんなことない。先生のお祖母ちゃんは、先生のお爺ちゃんに『キミ』って呼ばれてたわけでしょ」
「それが呼びづらい原因なんだって」
「でも、『きみ』と『キミ』じゃイントネーションが違う。だから大丈夫よ」
僕は何度か発音してみる。確かに、イントネーションが違った。僕は降伏の証に、グラスを空け、同じウイスキーの水割りを注文する。「きみ」は注文を受けるときに、ウイスキーの銘柄を言葉にしたが、それはあっという間に僕の右耳を通り抜け、左耳から出て行ってしまった。「俺の鼓膜はザルなんだ」という言葉をこれまでの人生で何回口にしただろう。
「先生、物理教えてたでしょ」
「そうだね。今でも教えてるけど」
「で、こっちの先生は数学」
「正解だ」
「名前は日野先生」きみは僕の右隣を指差しながら言う。
人を指差したらダメだ、と言いそうになってそれがあまりにも教師っぽいのでやめた。僕はいま教師として酒を飲んでいるのではない。
「で、先生は上原先生」きみの指先が僕に向けられる。正解、と僕は答える。「残念ながら覚えてたわけじゃないよ。さっき二人で話してるのをずっと聞いてたんだ」
「だろうね」
「ねぇ、なんの話してたの? 三次元とかなんか言ってたけど」
僕は日野との会話の中身を思い出してみた。しかし、さっぱり何も思い出せない。
「忘れたよ」僕は控えめに両手を上げて降伏してみる。僕は自分の持っている降伏のパターンの多さに何だか可笑しな気分になってくる。「それよりもきみの話が聞きたいな。きみはいま大学生?」
「残念でした。短大生です」
「じゃあ、ほんの一、二年前は高校生だったわけだ」
「ただの高校生じゃないよ」そう言って、きみは目尻に皺を作って笑った。「女子高生」
「いいね、女子高生。俺は大好きだ」
「それって教師の発言としてヤバくない?」
きみも僕も馬鹿みたいに口を開けて笑った。バーラックに並べられた無数のボトルが玉虫色に光っている。何故だか僕はまたダーツをしたくなった。目の前で無邪気な笑顔を浮かべる「きみ」と。
今度は「01」ではなく、「クリケット」で勝負をする。先に僕は三投し、「20」のトリプルと「5」と、それから「20」を撃ち抜いた。「幸先良いね」ときみは言う。僕は席に戻ってウイスキーを飲むと、「俺が勝ったら、連絡先を教えてもらうからな」と言った。きみは呆れたような顔をして、「わざと負けてあげよっか」と言った。
「私ね、ほんとはちゃんと四年制の大学に行きたかったんだ」
僕はそこで意識を取り戻した。いや、意識はあったのだろう。少なくとも、僕は一応彼女と会話ができていたみたいだから。しかし、全く以て記憶の連続性がない。そして、相変わらず日野はテーブルに突っ伏したままだ。いつの間にか、日野のグラスも空いていたが、それを僕が飲んだことは明白だった。酔いが回ると僕は何でもかんでも、そこにある酒を飲んでしまう。悪い癖だと思っているが、やめられるわけもない。それが「酔っ払う」ということなのだから。
「何か事情でもあったのか?」僕は尋ねる。
「すごいね。普通、そういうの聞くのってもう少し躊躇わない?」
「言いたくないなら別に言わなくてもいい。ただ、酔っぱらい相手に恥も何もないだろう? 喋りたいなら喋ればいいし、気が乗らないならそれまでだよ」僕はグラスを傾け、わずかに残っていた酒を舌先で掬う。下品だし子供じみているとわかっていてもそういうのがやめられない。貧乏ゆすりをやめられないのと一緒だ。「何か適当に見繕ってくれ」
きみは呆れたような笑みを浮かべ、「飲み過ぎだよ」と言いながらも、背中を向けて酒を作った。ふと会計が気になったけれど、お金くらいの問題でやめられるはずもない。
「勉強ができなかったの」きみは僕の目の前にグラスを置いて言った。「いや、この言い方じゃまるで私が、勉強が苦手って聞こえるね。まぁ、たしかに勉強なんて好きじゃないけど。でも、そういうんじゃなくてさ。ちょうど受験のときにお父さんが死んだの」
「そうか。それは残念だったね」
「大丈夫? こんな話して酔いが醒めちゃわない?」
「俺は最初から酔っ払ってなんかいない」
「ふふ。ちゃんと酔っ払ってるみたいね。まぁ、いいや。先生が酔っ払っていようがいまいが、どうせ私が話さないと間が持たないしね」
「そういうことだよ」
僕はグラスを手に持ち、それから少し考えてみた。何かが足りない。「何か豆のつまみとかない?」
豆のつまみ、って。と君は笑いながら僕にピーナッツを出してくれた。平たい皿の海の上にまるで玩具の戦艦みたいにピーナッツがいくつも浮いていた。僕は神の手でそれを摘まみ上げる。アルコールで溶けかけている歯が戦艦を噛み砕く。
「お父さんが死んで、お母さんが泣いて。そして、弟はサッカー部を辞めて、いわゆるヤンキーみたいな子たちとつるみだした。よくあることよね。まるでドラマみたい。でも、そんなことが自分の身に降りかかるなんて思ってもみなかった。私、小学生のころに合唱コンクールで指揮者をしたことがあるんだけど、あの時の感じとよく似てる。なんかさ、自分が自分じゃないみたいな感じなの。とりあえず教えてもらった通りに指揮棒を振ってるんだけど、指揮棒を振ってる自分を俯瞰して見てる自分がいて、そして知らないうちに楽譜は捲られていく。ふわふわしてるんだけど、同時にぎしぎし軋んでる音もする」
「人間は世界を知覚しているつもりになっているだけであって、本当に世界というものが存在しているのかわからない。本当は世界なんて存在しなくて、全部自分の想像力が生み出したものに過ぎないんじゃないか。そんなことを考えると、まるで自分が自分じゃなくなって、何か自分というものを超越したところに自分の意識が飛んでいく」
「難しいこと言うね。でも、たしかにそれと似た感覚かもしれない。とりあえず、私は私じゃないんじゃないか、っていう感覚がずっと付き纏った。まるで、私という役者が演じるドラマを私が見ているみたいだった。それで、そういうのが気持ち悪くて、私はいかりが欲しいと思ったの。自分の身体をどこかに繋ぎ止めてくれるいかりが欲しかった。手応えのあるものが欲しかった」
「そういうときは勉強をすればいいんだ。勉強はきちんと結果をもって答えてくれる」
「……」きみは驚いたように目を丸くしている。「たしかに」きみは瞬きをする。「たしかに、そうね。なんでそんな簡単なことに気がつかなかったんだろう」
僕は何度か首を縦に振った。特に意味もないことだが、どうしてか彼女を肯定してやろうという気持ちが芽生えていた。しかし、彼女の何を肯定してやればいいのか、それは僕にはうまくわからなかった。
「不思議ね。なんであの時の私は勉強に逃げ場を求めなかったんだろう」
「結局、きみは何に逃げ場を求めたんだ?」
「ふふ。それ、言わなきゃダメ?」
「ダメってことないけど、それを言うためにこんな長い前振りをしていたんだろう?」
「長い前振り、って。先生、ちょっと失礼じゃない?」きみは笑っていた。僕も笑って見せる。「まぁ、別にもったいつけるほどのことでもないか。とってもありきたりだけど、男に逃げたのよ。私よりも十個も年上のフリーター。高二のときにちょっとだけやってたファミレスのバイト先の先輩でね。バイトはつまんないからすぐにやめちゃったんだけど、そのフリーターの先輩が何度かデートに誘って来たから、それに応じてあげたの。そして、自分でも馬鹿だと思うくらいに当たり前のプロセスを経て、その先輩と付き合い始めた」
「当たり前のプロセス?」
「お父さんが死んだことを相談して、慰めてもらって、『この人やさしいんだ』ってなって、そして気がついたら付き合ってた。今だからそう思えるってんじゃなくてね、あの時の私だって馬鹿々々しいと思ってたわ。でも、馬鹿々々しいことなんて私の周りではとっくにいくつも起こってたし、『周りがそんなんなら、私もそれに流されちゃえばいいじゃん』ってね。もし、あの時の私が『私だけでもしっかりしなきゃ』って思えてたら、私のいかりは勉強になってたかもしれない。でも、甘ったるい私の考え方が、結局私のいかりとして男を選ばせたのよ。ねぇ、先生はやっぱり私のことバカだと思う?」
「いいや。別に」僕は素直に思っていることを口にしていた。「むしろ、救いを勉強に求める人間の方がバカだと思うね。そんな人間よりは、きみみたいに『救われない』ってどこかでわかってながらも、男に走る女の方がまともな気がするね」
「それ、本当に教師の言葉?」
それから先のことはたいして覚えていない。僕は日野を起こして、店の前で待ち伏せていたタクシーに二人で乗り込んだ。少しばかり走ったところで、そのタクシーは何も僕たちのことを待ち伏せしていたのではなく、あの店の女が呼んでくれたものなのだと気がつく。いや、そもそも僕が自分でタクシーを呼んでもらうようあの女に言ったのかもしれない。
日野を送り届け、僕が家のシャワーから上がると、一通のメッセージが届いていた。
先生の心って何次元?
全く以てなんのことかもわからず、僕はベッドの上に寝転がり、そして白々と照り付ける蛍光灯から枕で顔を守り、そして酔いと苛立ちの狭間で眠りに落ちた。
*
大きな時計の長針の上に僕は腰を下ろしている。がちゃがちゃと歯車の音を立てながら、僕を乗せた長針は先を急ぐ。しばらくすると、彼女の背中が見えてきた。誰だっけ。僕は海馬に疑問を投げかける。「忘れるということは存在しない。思い出す力が残っていないだけだ」僕の海馬が言い訳をしている。ふざけるな、と僕は海馬の腹を膝で蹴り上げるが、一向に僕は彼女の名前を思い出せない。もうすぐすれ違う。彼女が振り返ろうとする。長針と短針が重なる。めきゃ、ぎる、と古びた何かが壊れる音がした。長針の上から僕が振り返ると、首のない彼女が悲しそうに僕の向こうに広がる空を見つめていた。しばらく呆気に取られたまま、僕は失われた首から流れ出る血を眺めている。転がった頭はうつ伏せになってしまい、顔が見えない。顔が見えない。けれど、と僕は思う。また待っていれば、僕の長針はきみの短針に再び追いつくだろう。そのとき、きみは新しいきみになっている。だから、悲観することなく待っていればいい。
ちょっと待て。なぜこんな啓示的な夢を見なければならない。
*
柔らかい雨が降っていた。僕は学校の最寄り駅の一駅手前で電車を降り、どこで買ったかも覚えていない折り畳み傘を広げる。傘をさしてしまうとほとんど手応えの無い雨。降っているのかどうかさえよくわからなくなる。
僕はイヤホンを外して、自分の靴音と内気な女の独り言のような雨音を聞いた。目を閉じても、しとしとという音が雨の降っていることを知らせてくれる。相変わらず傘に手ごたえはないが。
なぜかはわからないが、ここのところよく昔のことを思い出す。
思い出すとは言っても、何か具体的なエピソードがあるわけではない。言葉にすることもできないような断片が、見知らぬ花の香のようにふわりと僕の周りを漂う。しかし、これは何の匂いだっけ、と記憶を辿っているうちにその香は消えてしまっている。だから、僕はいっこうにその正体が掴めず、ただもやもやとした気持ちを抱えるだけになってしまう。
しかし、そんな巻貝の奥を覗き込もうとするような手の届かない感触というのも悪くはない。難解なモードジャズと単調なミニマルミュージックを両腕に抱えたみたいに、僕はバランス悪く足を進めている。手応えのないこと。まるでこの雨のように。今の僕にはそれが必要な気がしていた。だから、僕は不可触の断片を思い出す。
たまに僕はこういった自分の傾向について考えることがある。
僕が限りなく連続した暫定的な答として持ち続けているのは、これまで愛してきた少女たちが僕をこうしたのだろうということだ。つまり、僕は立ち止まって、次々とやってくる少女たちを限られた時間の中で愛していく。ベルトコンベアで彼女たちは僕の元へと運ばれてきて、僕が手を加え、そしてほんの少しだけ僕によって形を変えられた彼女たちはすぐに角を曲がって視界から消えていく。残された僕には彼女たちがどうなったのか、想像してやることしかできない。しかし、いずれにせよ、彼女たちは僕までベルトコンベアに乗り込んで来ることを望んではいないし、僕にしたってここに突っ立って、新しい彼女たちが運ばれてくるのを待っている方が楽だった。
けれど、そんな生き方をしている人間が、自分なんていうものをどれだけ保てるだろう。
たぶんだけれど、彼女たちがベルトコンベアで角を曲がっていくとき、彼女たちに望まれてもいないのに、僕の一部もまた一緒にベルトコンベアで運ばれていってしまうのだろう。だから、僕には僕が残らず、ただカスかクズみたいな断片が積もっていくだけになってしまうのだ。
僕が僕であった時期は確かにあった。しかし、それは高校生までの限られた時間の中でしかない。そして、それまでの僕というものは、今の僕からするとまるで自分自身だとは到底思えない。「僕はかつて僕だった」という命題と、「僕はかつて聖徳太子だった」という命題の間には、結論上それらしい差異というものがないような気さえしてくる。無論、かつての僕が聖徳太子でないことは明らかだが。
僕はそこまで考えてしまうと疲れてしまい、そして急に歩くのをやめたくなった。
けれど、一度歩くのをやめてしまったら、僕はきっとここから二度と歩き出せなくなるだろう。一度歩くのをやめてしまったら、僕はこの場でうずくまり、そしてアスファルトの窪みに溜まった水を舌で掬い上げたい衝動に駆られるかもしれない。それがいったいどうした。別にいいじゃないか。そう思ったりもするけれど、その先にある何かを恐れている僕が、自らの足をこうして未だに前に進ませているような気がする。背中ではなく、へそのついている方向を「前」と言うならば。
気がつけば、いつも通らない道を選んで歩いていた。それが僕にできる唯一の抵抗なんだと思うと僕はやり切れなさで笑ってしまいそうだった。
いつも通る道からほんの数十メートルしか離れていないのに、まるで別の世界に迷い込んだような気持ちになる。住宅街の細い道。五件ほどのカタログ的な一軒家が立ち並ぶ袋小路。雨雲を移す車のフロントガラスと、ホテルマンのように立ち尽くす痩躯な庭木たち。形の無い雨を受けて全てのものが少しずつ、哀しそうに見えた。袋小路の中には藍色のコンクリートにチョークの落書きがあった。子供が描いた様々な色の無用物。ふと僕の頭の中に、イノセンスという言葉が浮かぶ。イノセンス、ともう一度僕は喉元で唱えてみたが、僕は頭を振ってそれを振るい落とす。こういうのはあまりに…………いや、適切な言葉が浮かんでこない。そもそも言葉で何かを言い表せると思っているのが間違いなのだ。言葉というものがあまりに不適切すぎる。目の前を車が通り過ぎて行く。追いかけるように、中学生の男女が自転車で駆けていく。ほんの数秒でそれらの音は消えてなくなった。朝の街の音が眠たそうな雨雲に吸い込まれていく。僕の頭に浮かぶ言葉たちと一緒に。雨雲はまるで僕たちを朝から守ってくれているように見えた。
僕は足を踏み出している。誰に頼まれたわけでもないのに。
教師なんていつ辞めても良いと思っていた。というよりも、教師なんて辞めてしまった方が、僕はもう少し世間一般でいうところの健康的な生活というやつを手に入れられそうな気さえしている。僕をこんな「僕」という枠組みに捉えて離さないのが、この教師という職業なのかもしれない。でも、そう考えると、こうして僕に足を踏み出させているのは、教師という概念の下で息をする僕自身であると言えないだろうか。息をする、すなわち、生命活動を営む。生あるものはすべて死を恐れる。教師である僕が死を恐れ、僕が教師であることを願い、そしてそこに縛り付けている。僕は自らのアイデンティティによって手足に紐をつけられて、暇つぶしの人形劇に……僕は何を考えているのだろう。
あまりに自己愛が強すぎる。これは、完全なるナルシシズムだ。どうして僕は僕について考えると、こうも悲劇的な言葉を使いたがってしまうのだろう。「アイデンティティ」に「人形劇」。まったく笑ってしまう。僕の最も嫌いな似非シリアスドラマじゃないか。けれども、それが僕の実態なんだろう。僕がそれらを嫌うのはあまりにも自分的過ぎるからだ。同族嫌悪というものにほかならない。
景色について思い出そう。新しい道、新しい景色。
けれど、どうして僕はこんな風に僕を律しなければならない?
「せーんせ」
僕は驚いて振り返る。一人の女生徒がビニール傘をさして後ろを歩いていた。
「南美」
「え? ていうか、先生びっくりし過ぎですよ」
「あぁ、君か」
ふてぶてしい眼差し。いつも昼休み前の授業終わりに質問を持ってくる紫式部だった。彼女がローファーを履いている姿は初めて見る。もちろん、ビニール傘をさしているところも。よく磨かれたなかなか品の良いローファーだと思った。
「君か、だって。先生、まだ宿題やってないんですか?」
「宿題?」
「宿題。出したじゃないですか。もしかして忘れたんですか?」
僕は首を捻る。紫式部は溜息を吐いて、「な」「ま」「え」と言った。
あぁ、そう言えばそうだったな。
「期限は次の授業までのはずだったろう」
「とっくに2,3回授業してるんですけど」
「あぁ、それは言葉足らずだった。次の授業ってのは、いつもの昼休み前の授業のことのつもりだったんだ」
「だとしても今日です」紫式部は槍で突き刺すように言う。
「これからやろうと思ってたんだよ。やろうと思ってたところに、そういうこと言われるとやる気なくなっちゃうじゃないか」
「まったく、子供ですか。先生は」
雨は相変わらず、自分が雨降りということに気付いていないかのように静かに降っていた。軽自動車が狭い道を走っていき、僕たちは道の隅でしばし立ち止まる。学校というところを離れ隣に並ぶ彼女は不自然なほど小さく、そして若く感じられた。
「そう言えば、先生はこの間『熱は運動エネルギーだ』って言いましたよね」僕は先週の授業後に彼女にした話を思い出す。摩擦によって運動エネルギーが失われる原理について説明したのだっけ。「あれからちょっと考えたんですけど、冷たい風や流氷って運動している粒子の集合体ですよね。運動しているにもかかわらず冷たいのって、この間の話と矛盾してませんか?」
僕は空を眺めた。そして、すぐに雨に濡れたアスファルトを見下ろす。紫式部の話に、「たしかに」と頭を捻るよりほかになかった。「うーん」とか、「そうだな」と唸りながら僕は考え、そして、とりあえず思いついたことを口にしてみる。
「運動ってのは、秩序立てられた運動と、無秩序な運動にわけることができる」
「秩序?」
「ようするに、軍隊みたいに規則正しい動きと、君たち高校生の昼休みみたいにテキトーな運動ってことだ。熱っていうのは、あくまで君たちの昼休みのようにテキトーな動きの度合いを表している。誰彼構わず大声で喋って、ときどきバカみたいな叫び声が上がったり、どこかで何かが机の上から落ちる音がする。熱エネルギーが高いというのは、そういう状態だ。逆に、誰も喋らずひっそりとしてるのを熱エネルギーが低い状態とする。そして、今度は全員で体育館に移動するときのことを考えてほしい。状況やクラスによって、さっき言ったような熱エネルギーの高い場合とそうでない場合がある。がやがや騒ぎ立てながら移動しているのが、暑い夏の風ってことになる。対して、誰も喋らずひっそり粛々と移動しているのが冬の冷たい風だ。春のモルダウ川と、オホーツク海の流氷でも良い。とにかく、秩序的な運動とそうでない無秩序な運動があって、熱は無秩序な運動に分類される。だから、学問的には熱運動というのは無秩序な運動として考えられている。そのうち化学でブラウン運動というのを習うと思うけど、あれは熱運動する粒子が衝突し合って得られる無秩序な運動の総称を言う。まぁ、今は別に関係ないけどね」
「熱エネルギーが無秩序な運動だってのはわかったわ。うるさい生徒たちの移動をうるさいと感じるように、熱エネルギーを持った熱い風を暑いと感じるのも何となくイメージできる。でも、その熱運動ってのも結局は運動なわけでしょ。無秩序だろうが何だろうが運動している粒子がぶつかって来たら、私を構成する原子はその衝撃で揺れて熱いと感じるんじゃない?」
「まぁ、そうだよな。物理は難しいな」僕は再び頭を悩ませる。普段使っていない脳みそが久々の出番にキリキリと悲鳴を上げている。「昔、ある気体分子が室温でどれくらいの速度で飛び回っているか計算したことがあったけど、たしか秒速数百メートルくらいだった気がする。計算に使う公式自体は高校物理で証明問題が出てくるくらい簡単なものなんだけど、そのことと合わせて考えると、風って台風とかでもほんの秒速数十メートルくらいだろ。熱運動の方が十倍も早く粒子は動いてることになる。つまり、熱運動はさ、小さな粒子一つひとつの無秩序な運動だから、風のように触覚では人間には感じられない。そして、その感じられない熱運動する粒子がある程度の集団で飛んでくるのが風なんだよ。滅茶苦茶に速く運動してる粒子が集団で君にぶつかってくればそれは暑い風になるし、たいして速くは運動してない粒子が集団で君にぶつかってくればそれは冷たい風になる」
「うーん」今度は紫式部が悩む番だ。僕はほっと一息つく。「じゃあ、冬に風が強い方が寒く感じるのは、元気のない粒子の集団が次々ぶつかって来ては、私を構成する粒子から無秩序な熱エネルギーを奪って、そしてどこかに飛び去って行く、っていうのがどんどん早いペースで続けられるからであって、逆に寒くても風が吹かなければ比較的暖かいのは、私から熱エネルギーを奪った粒子がまだその辺を凄いスピードで飛んでいるからってこと?」
僕は思わず声にならない声を漏らした。
僕は彼女の解釈を二、三度ゆっくりと聞かせてもらって十分吟味してから、「その通りだよ」と答える。まったく、若い子の頭の回転の速さにはついていけない。
そうこうしているうちに、見知った通りに出てきた。ここまで来ると、学校まではあと二分もかからない。僕はそれとなく紫式部の方を見やる。やや黒目がちな彼女の瞳が僕を捉えていた。
別にこのまま彼女と一緒に登校しても構わないのだが、基本的に生徒と慣れ合うことのない僕にとっては珍しい行動として周りの目に映るだろう。僕自身は、生徒と慣れ合うどころかそれ以上の親密な関係を築くこともしばしばだったから、特に珍しいとは感じないのだけれど。
それに、彼女もうだつの上がらない教師と一緒にいるところをクラスメイトなどから見つかったら面倒なことになるんじゃないかと思われる。教師の世界でさえ、「この間、誰々先生が誰々先生と歩いているのを見たんですけど、そういう関係なんですかね」という噂がしょっちゅう飛び交っている。より若い彼ら高校生がそういった類の話を好物としていないわけがない。
紫式部は僕の微妙な表情から何かを察してか、「じゃあ、宿題忘れないでくださいね」と言って小走りで去って行った。彼女の小さな背中を見る。雨空を駆ける黒い烏のように、僕の目には写った。どこか空疎な懐かしさを持って。
*
星が散りばめられた湖面の上に僕は立っていた。空気はどこまでも冷たく、身体を巡る血液にはところどころ霜が降りて、そのざらざらとした血流が僕の身体を内側から痛めつけた。頭上には人ひとりの視野では収めきれないほどの星空が凛と広がっている。僕の足元で揺れる水面に光る粒子はその頭上のものたちを反映しているだけに過ぎなかった。
湖は灰色の山々に囲まれていた。かつて、この湖の中心にあった小さな島の上に、小さな村があったそうだ。しかし、今ではほんの二畳程度の砂地しか残されていない。幾度の水害のせいだと聞いたことがある。仮にこの残された砂地がその村において最も標高の高いところだったのだとしたら、何故ここには何も残っていないのだろう。神聖なものを祀った建造物、あるいは村を象徴する記念碑のようなものさえない。僕が僕にそのことを尋ねると、祀られるべき神聖なものも、記念されるべき象徴も、いずれもこの村を想っていたからだろうと答えてくれた。水害の多いこの村において、標高とはすなわち命を守るものである。だからこそ、そこには人の足場として残すのが最もふさわしく、自らの権威を誇るために用いられることを彼らは許さなかったのだろう。
僕は納得して、湿った砂を爪先でほじくり返してみた。いくらか掘ると、浜辺の砂を掘り返すときと同じように、柔らかな水が浮き出して来た。暖かい、と思う。温泉が湧いているのかもしれない。
僕はその二畳の砂地を深くまで掘り進め、そして即席の湯船を作った。僕は服を脱ぎ、そこに身を沈める。思った通りだ、ここは温泉なのだ。暖かい。血液の霜が取れ、弛緩していく関節と、上気する頬。空を見上げると、やはりそこには視界に収まりきらない星々が夜の歌声に耽っていた。しかし、それはあまりに高く、手の届かないところにある。僕は諦めて、湯船の縁とほとんど同じ高さに広がる湖面に目を向けた。ぼうっと浮かび上がる光の粒子たちは夜空のそれよりも親密に感じられる。ただの反映にしか過ぎない彼らの方が、僕の心を優しく慰めてくれているような気がする。
僕は微笑む。
そして、微笑んだ瞬間、湯船の中に多量の水が流れ込んできた。冷たく、幾人もの命を奪ってきた水だ。水から手が伸び、僕を深い湖の底へと引きずり込もうとする。そうだ、ここは魔の湖なのだ。混迷した魂たちの殺意が僕の肺を満たす。気がつけば揺れる水面はずっと遠くに、僅かな色味として見えるばかりだ。どんどん沈んでいく。沈んでいきながら僕は考える。落ちている最中は恐怖しかないが、底に辿り着いてしまえば、そこは静かでどこよりも安心できる場所だ。静寂と安寧を手に入れる為の落下だと考えれば、それは悪くないどころか、むしろ僕の望むところではないか。
唯一懸念することがあるとすれば、それはブラックホールに落ちていくときに生じる時間の終末であろう。一般相対性理論によれば、重力により時間の進みは遅れる。すなわち、過大な重力体であるブラックホールでは時間の進みは非常にゆっくりだということ。いつまでも落ちていく……いや、しかし、落下を感じる僕の脳細胞もまた時間の進みが遅くなるため、結果的に自分の時間感覚は地表で普段自分が感じている時間感覚と……
*
僕は久しぶりにベッドから落ちていた。あまりに喜劇的過ぎて、思わず溜息が漏れた。