霏々

音楽や小説など

着想~全体主義・個別主義・攻殻機動隊~人間の情報管理容量の限界がもたらすもの~

※この記事は、思想や私の態度を表明するためのものでも、何らかの分析を行うものでもなく、単に一つの「着想」、すなわち「考え方」を整理するために、言わば個人的なメモ書きとして残すものです。そこには芸術性すらありません。

 

さて、記事のタイトル通り、久しぶりに攻殻機動隊S.A.Cを見直して、小さな着想の泡が浮き上がって来たので、こうして文章化しようと思いました。私は古いタイプの人間なので、ものを書かないことには頭の中が整理できないのです。

まず、なぜ攻殻機動隊を見直そうと思ったのかと言うと、「攻殻機動隊S.A.C_2045」という新シリーズの配信が予告されたからというわけではなく、ちょっと前に合コンで私の目の前の席に座った女の子が攻殻機動隊のファンで、そこで少しばかり話が盛り上がり、「久しぶりに見たいな」と思ったからという仕様もない理由です。

 

前置きはこれくらいにして、忘れないうちにタイトルについてまとめていきましょう。

 

まず、全体主義ですが、私の中での全体主義のイメージはナチスであり、すなわちは軍国、帝国主義的な「支配と暴力」の象徴のようなものです(それぞれの言葉がどれくらい学問的に正確な定義となっているかはわかりませんが、今後の文章も世間一般の定義と私の使う定義が合致しないこともあるので、悪しからず)。したがって、「全体主義=忌むべきもの」という感じではありますが、しかし集団の制御方法としては有用な一手段であるとも思います。また、人間の本来の欲求として、全体主義的な同調意識があり、また絶対的な先導者に支配されたいという感情があるということも、この「全体主義」というシステムについて考える価値があると思っています。当然、それと相反する欲求(=差別化によるアイデンティティの確立、独立・自立心)も人間には内包されていますが。

攻殻機動隊の中では、「電脳」という存在により、より情報ネットワークが強化され、人々の意識や持ちうる情報が共有化(作中では「並列化」という言葉が使われていますね)されることによりどのような社会影響があるか、ということが一つのテーマであるように私には思えました。すべての人間が制約なしに、あらゆる情報にアクセスできる社会においては、「笑い男」というセンセーショナルな存在、またそれに対する世間の評価が急速なスピードで、しかもより深く人々の間へと浸透していきます。それによって、実際に「笑い男」が先導者としての行動を取っていないにもかかわらず(むしろ、「電脳」の発展した社会においては、「不在」という状況によって)、自然発生的に「笑い男」というモチーフの価値が高められ、「笑い男」の複製=模倣者が出現していくという流れになっています。これは一つ、全体主義的な集団意識の流れと言えるでしょう。

例えば、ナチスではヒトラーが先導者として、演説の力や情報戦略によるプロパガンダによって、民衆の意識の中に「全体主義」という思想を深く浸透させました。対して、攻殻機動隊の世界では、「電脳」という科学技術によって、そもそもの同調意識が強化されやすいという土壌が築かれており、「笑い男」というトリガーによって、人々の考え方が統一されていく一連の流れが描かれています。これは現代社会においては、Twitterでの「バズる」という現象とかなり近いものがあるように思います。センセーショナルな話題に誰もがスピーディにアクセスできることによって、一定の思考ベクトルが一気に醸成され、そこに人間本来の同調意識が加わり、一時の絶対的な正義が生み出されます。つまり、小さな全体主義が形成されるわけですね。このような現象を過去のヒトラーは世界征服のために使い、攻殻機動隊S.A.C1の薬島幹事長は自らの出世のために使い、現代の商業家は金儲けのために浸かっているというわけです。

ここで攻殻機動隊S.A.C1のキーワード「不在」について掘り下げると、作中では実在する作家のJ.D.サリンジャーになぞらえて、「あたかも新作を発表しないことで、その存在をことさら強調される…」のような例えが持ち出されていました。「電脳」によって人々の意識が容易に結びつく攻殻機動隊の世界観にあっては、人々が「笑い男」というモチーフに対して抱く幻想が、そのまま理想としてあり続け、オリジナルの介在による「失望」を受けずにどんどんと膨らんでいきます。「失望」という言葉を使いましたが、「笑い男」もまた1つの固定的な人格であり、そこには癖やコンプレックスなどから来る、民衆の期待とは異なる側面が必ず存在しており、それが露わになると民衆は「失望」してしまうわけです。しかし、民衆の間で醸成された「笑い男」に対するイメージはそういった期待を裏切る行動を取ることはありません。つまり、もはや「笑い男」は1つの個別な思考体系ではなく、ただの「民意」になるのです。そう、「オリジナルの不在」によって。そして、「民意」はいわば最強の幻想というわけなので、民衆の「笑い男とはこうあるべき」という理想の体現者として、より多くの民衆を惹きつけ、集団を一定の方向へと導いていくことになります。S.A.C1では偶発的に発生した「笑い男」事件を薬島幹事長が利用し、S.A.C2では合田一人が自らそういったモチーフ、すなわち「英雄」をプロデュースし、大衆誘導装置として利用しました。

こういった現象を総じて、私は「全体主義」という言葉のイメージを持っています。つまり、民衆の意識を何らかの方法によって統一することが私の中の「全体主義」ということになります。一定のベクトルを与えられた民衆の意思は制御しやすいため、まずは何らかの方法で民衆の意思を1つのモチーフに統合し、それによって利益コントロールを行うというシステムですね。

 

さて、繰り返しになりますが、この「全体主義」の重要な点は、人々の意識を統一する=並列化するということです。並列化されていくことで、人々は個性を失っていくという風に考え、「笑い男」として描かれるアオイはそこに絶望を感じます。しかし、それに対して少佐は、タチコマたちを一例として「好奇心がそれを打破する」と答えます。この少佐の考え方に対して、私は「たしかにそうだ!」と強い共感を覚えるのですが、それについて次に掘り下げていこうと思います。

 

そのために、まずは現代が「全体主義」的なのか、「個別主義」的なのかについて考えてみます。

「個別主義」については、私は「全体主義」の対義語くらいに考えています。つまり、「全体主義」という一種の危険な思想、あるいはシステムを成立させないようにするために、「全体主義の危険を想定しながら、人々が独立して個人の意思決定を行って行こう」というのが「個別主義」だと思います。したがって、私の勝手な解釈では、人類の歴史では「全体主義」が先に誕生し、その後「個別主義」が誕生しているように思います。これはある意味では、人間の本質を露わにする興味深い事例だと私は考えていますが、今は一旦それは置いておきましょう。私の好きなジャン・ジャック・ルソー(「社会契約論」の著者)がその辺については語ってくれていることと思います。

昨今のニュースで「個別主義」的なものと言えば、トランプ大統領の考える「アメリカ・ファースト」であったり、イギリスのEU脱退などにみる、いわば「自国ファースト」的なものと思われがちですが、これらはどちらかと言えば、「自国」という範囲に限定された全体主義と言えなくもないかもしれません。まぁ、どちらも、特にイギリスのEU離脱については、完璧な全体主義システムと呼ぶには程遠い気がしますが。人類全体の利益ではなく、一部の人間の利益を優先するという基本思想は「個別主義」的ですが、それによってもたらされる社会の動きは「全体主義」のもたらすそれと何ら変わりないと思うのは私だけでしょうか(ある意味「全体主義」の完成形であるナチスですら、そこには敵があり、特定民族だけの利益が追い求められていました)。

さて、話を少し変えまして、現代社会では、「平等」というのは一つの確固たる正義であり、「リベラル」という思想もまた正義となっており、「出生」という言わばこれまでの社会の根底にあった「差別の種」を排除することに重きが置かれています。この辺りは、前述の特定の範囲に限定された利益を求める「全体主義」に対抗する、「人類皆平等、そして自由」という考え方になります。「全体主義に対抗する」という点で考えれば、これは「個別主義」と言えなくもないでしょう。少なくとも、私の中では。

しかしながら、それだけ「個別主義」的な考え方が広まってきている現代において、「全体主義」的な傾向が排除されたかと言えば、そんなことはあり得ません。現代においても「全体主義」的な現象は散見されます。例えば、それは芸能関係で大きな猛威を振るってきたように思います。度重なる「不倫騒動」、「闇営業問題」などなど。人々の関心が高く、またメディアの力を受けやすいモチーフである「芸能」というジャンルにおいて、民衆の意思が一方向に誘導されることは多いです。そして、それを媒介するシステムは、この実世界では「電脳」ではなく、「SNS」です。この2つのシステムに共通するのは、「誰でも」「自由に」「アクセス可能」で、また「情報発信可能」という特徴です。

SNSはある意味では、「誰でも自由に意見・情報交換が可能」という点では、「リベラル」の権化とも言えるでしょうが、そこには人々の同調意識の効果を高めてしまうという特徴もあります。それ故に、「バズる」という意思の一方向化現象が起こるわけです。そして、そこには少なからず「笑い男」事件と同じように、意見の最初の表明者である「オリジナル」が「不在」となるケースがあり、それと同じくらい「プロデュースされたオリジナル」というケースも存在しているでしょう。とは言うものの、SNSが「全体主義的な現象の誘導装置」というわけではありません。そこには当然、本来のSNSが持ちうる「リベラル」な「自由主義」、「個別主義」的なアンチ全体主義的な効果を高める効能も持ち合わせています。例えば、先述の「芸能人の不倫騒動」でも、最初は「不倫を糾弾する意見」が大半を占めていましたが、そのうちに「他人の私生活をとやかく言うのは違う」という反対意見が大半を占めるようになり、人々の意思はものすごいスピードで遷移を遂げていきました。そういう意味では、局所的に見れば「全体主義」的であるものの、ある程度のタイムスパンで見ればとても「個別主義=アンチ全体主義」的とも言えるわけです。

そうなってくるともはや何が「全体主義」で、何が「個別主義」なのか定義するのが難しくなってきます。つまり、現代のような高速で意思の遷移が起こる現代においては、もはや「全体主義」の中の1つの特徴である「思想誘導」のみを取り上げて、議論するしかないのかもしれません。

 

というわけで、ここからは「民衆の思想誘導(それが意識的なものであるにせよ、無意識的=自然発生的なものであるにせよ)」が存在するものを「全体主義」的と定義し、対して、「思想誘導から孤立した個人の裁量」が強く影響するものを「個別主義」的と定義していきたいと思います。

とすると、先述の通り、SNSは「思想誘導」可能のため「全体主義」的ですが、個人の趣味に関する情報を収集するための「個別主義」的な側面も持ち合わせたシステムであると言えます。結局、両面を持ち合わせているということは変わりませんが、随分とすっきり整理できたように思います。

ここで、議題を振り返りますが、「現代は全体主義的か、個別主義的か」。そんな問いを私は掲げましたが、むしろ現代は「全体主義的か、個別主義的か」を天秤にかけることで発展していく段階にある世界と言えると思います。いい加減「芸能人不倫騒動」を喩えに持ち出すのにも嫌気がさして来たので、「働き方改革」というものに喩えを変えてみますが、当初「働き方改革」とは「企業戦士ってどうなの?」、もっと仕事だけに捕らわれず、「一人ひとりが自由な人生を選び取ろうよ」という風に、まぁ若干話がすり替えられて捉えられていたように思います。それが少しずつ成熟していくにつれて、「じゃあ、自由な時間を作るために効率的に働いていこう、効率的に働くためのシステムや技術を導入していこう」という本来政府が意図していた方向へと皆の意識が向いていきました。そして、今では「いや、楽して働くのもいいけど、仕事が楽しい!と思えるようにしよう。それこそが働き方改革だ」というような意見も出て来たように思います。こんな感じで、一つのテーマについても、急速なスピードで意見が変わっていきます。そして、そこには一定の全体主義的な思想誘導、つまりトレンドが存在しており、民衆はむしろそこに必死に食らいついているような状況です。おそらくですが、多くの人がその急速に変化していく思想誘導=統一意思に対して、疲弊を感じるようなって来ているのではないでしょうか。そんな現代人がどこに救いを求めるかと言うと、個別主義的な考え方です。要するに、「まぁ、現状社会がそういう態度になっているのはわかるけど、それはそれとして、自分はこう生きていく」という風に、うまくバランスを取ることが現代人の生活の知恵となりつつあるように思います。まぁ、それすらも全体主義的な思想誘導だと指摘されるかもしれませんが。

このような状況を例えるならば、大嵐の中で上手く舵を取るのも困難な海の上で、何とか海底に碇を下すようなものでしょう。全体主義的思想誘導、トレンドの波にさらされながらも、どこかに個別主義の碇を引っかけて、船体のバランスを取る。まぁ、そんなこと現代に限らず、ずっと行われてきたことかもしれませんが、それでもより多くの人にとって、そのバランス感覚が重視されるようになってきていることは確かでしょう。

余談ですが、その全体主義と個別主義の天秤を置く土台を作り上げることが、金儲けの重要なところだと私は思います。昔は特に「金」そのものがその土台であったために銀行が設けていたりしたわけですが、現代ではSNSのプラットフォームなどが利益を得るように変化してきているように思います。

 

さて、攻殻機動隊に話を戻すと、攻殻機動隊の世界で想定されている世界観について、まずは導入の文章を引用してみます。

 

企業のネットが星を被い、電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなる程情報化されていない近未来 

 

この言葉から、さらに着想を広げていきます。この導入から逆説的に言えるのは、最終的に「高度に情報化された未来では国家や民族が消えてなくなる」ということです。では、「高度に情報化されておらず」、「国家や民族存在する近未来」とはどういうものでしょうか。私が思うに、「高度に情報化される」とは、『すべての情報がすべての固体に共有される』ということです。つまり、完璧な並列化です。S.A.Cの最終話でアオイが憂慮した未来は、この「完璧な並列化」が為される未来であり、「笑い男事件」に見る「Stand Alone Complex」と呼称可能な並列化による一方向への模倣、すなわち個性の喪失が危惧される未来ということです。

アオイが存在する時系列では、まだ人間ひとりが管理できる情報には限度があり、人間は自分の容量と傾向に合わせて、自らに取り込む情報を取捨選択しなければなりません。そして、その「取捨選択」こそが個性を作り上げるのです。それは現代においても同じで、「取捨選択」という言葉をこれまでの着想の中で使って来た言葉に変えるのであれば、「全体主義と個別主義のバランス」ということになります。どのような全体主義的な要素をどれだけ自分の中に取り込み、同時にどのような個別主義的な要素をどれだけ自分の中に取り込み、社会の中でバランスを取っていくか。それこそが現代人における取捨選択であり、「個性」になるというわけです。三木清という哲学者は彼の著書の「人生論ノート」の中で、「生きること=虚無からの構成力≒個性の確立」というような言い方をしていましたが、まさにそのようにして人間は生きていくわけですね。

そして、反復にはなりますが、情報管理要領による制限が、取捨選択、つまり個性の確立を促すわけであり、もしより「高度に情報化」された未来が訪れ、すべての固体がすべての情報を有し、並列化されたとすれば人間は「個性」を失い、よって同時に「生」も喪失することになります。アオイはそのような未来を思い描き、絶望しているわけですね(それは途方もない悪意に対するホールデン的な絶望とはまた別軸で存在しています。あるいは、その二つの絶望は複雑に絡み合いながら…)。

現代の私たちはまだ電脳化されておらず、人間ひとりが管理できる情報量には限りがあります。したがって、好むと好まざるとにかかわらず、みな自然と情報の取捨選択を行い、それによって個性を確立されていきます。それが上手くできず、例えば全体主義的なものに流され過ぎて、取捨選択を忘れていくと、あるとき人間は「あれ、自分ってなんだろう?」と思い恐怖するのかもしれません。なぜなら、取捨選択をしないということは、個性を確立していないということであり、すなわち生を失っているということになり得るからです。かと言って、個別主義的なものだけに頼って生きていくことは、多くの人にとってまだ難しい世の中でしょう。なぜなら、人間の世界は、人間の生来の特質によって「全体主義」が先に生み出されるような世の中なのですから。

 

現代は情報に溢れ返り、その多くの情報が何らかの意図を持って垂れ流された情報であり、あるいはそこには一定の方向性が内包されており、自分か個別主義的な思想に則って取得した情報にも、全体主義の種が紛れており、知らず知らずに全体主義の波に流されているということもあり得るでしょう。そして、そのことを知り、愕然とし、怒りを覚えたり絶望を覚えたりすることもあるかもしれません。また、そこからさらに思考を飛躍させて、この情報化の波がさらに私たちをどこに押し流していくのか想起して、恐怖を感じる可能性もあります。

人間の情報管理能力が無限にまで高められたら…

その中で私たちはどのようにして、個性を確立して、生きていけば良いのか。その答えを少佐は「好奇心ではないか」と言ってくれています。

これは逆説的に、現代においても、情報の波間で怒りと絶望と恐怖に震える私たちをも救うことになり得るでしょう。少なくとも、情報管理容量に制限がある現代でならば、その「好奇心」は私たちが生きるうえで、より有用な武器として機能してくれるはずです。