霏々

音楽や小説など

Symbol, implicit and closed pray vol.2

 ずいぶんと久しぶりにあの灯台を訪れた夕菜だったが、時の経過で夕菜がずいぶんと変わってしまったのと対照的に、灯台はかつての姿からまるで何一つとして変わっていなかった。波しぶきが付けたシミさえ、かつてのそれと同じように夕菜には感じられた。

 ところどころ白いペンキが剥がれて、灰色のコンクリートが剥き出しになっている。剥き出しになった箇所には縦横の規則的な線が引かれていて、それがレンガを積み上げて作られたものであることを物語っていた。大きくもなく、小さくもない。展望台を見上げると、少し首が痛くなるくらいは大きかったが、広い海を一人で相手にするには弱々しく見えた。灯台の円周に沿って、人がひとり歩けるくらいの幅で通路があり、手すりというよりは落下防止のための鉄製の柵が最外縁を取り囲んでいる。人差し指と親指で作った輪っかほどの太さの鉄の棒を数本組み合わせて作られたような鉄柵だ。三、四歩に一本の間隔で縦の鉄の棒があり、それを繋ぎ合わせるように二段組みで横向きの鉄の棒が柵として取り付けられている。上から一段目の鉄柵は夕菜の胸くらいの高さであり、二段目は腰くらいの高さだった。二段目の鉄柵が強度の問題で取り付けられているのか、それとも子供用の落下防止柵として取り付けられているのかは不明だった。

 風は強かったけれど、波しぶきはまだ足元を洗うほどではない。だから、灯台につけられた波しぶきのシミはきっと嵐の日にでもつけられたものなんだろう。初めて訪れたときから何度の嵐がこの海岸を襲っただろう。きっと片手じゃ足りない。しかし、そのシミの模様を見ていると、どうしてか夕菜は懐かしい気持ちにさせられた。

 灯台を背に、広がる海と向かい合う。

 灰色の水平線が見える。あの時は何を見ても花の色をしていた。海や波でさえ、青い薔薇の花弁に見えた。いつから海はこんな灰色の荒野に変わってしまったのだろう。足元へと伸びてくる白色の泡の手に引きずり込まれそうな心地がして、鉄柵を掴む手に力が入る。触った瞬間に赤錆に汚れたことに気がつくくらい錆の酷い鉄柵だったが、掴まないわけにはいかなかった。

 何もかも飲み込んでしまうような渦巻いた波は、夕菜に恐怖を感じさせる一方で一つの可能性を感じさせた。夕菜がここを訪れるのはこれで三度目になるが、二度目のときにはその波と渦は、夕菜の鮮やかな血液を海底へと飲み込んでくれた。夕菜の血は鮮やかな、どこまでも現実的な赤色をしていた。それは怨恨に取りつかれた殺人者を正気に戻す血飛沫の赤と言えた。

 血飛沫で顔を洗い、薔薇や白詰草の夢を追い払う。夢で見た感情は、辛辣な朝陽に焼かれて塵となる。世界を満たしていた影は、輪郭の檻に閉じ込められて、ただの現実の付属品へとなり下がる。

 夕菜と男の子の関係性を象徴していた指輪を波が浚い、渦が飲み込む。水中で一度きらりと身を翻し、暗い水底へと落ちていく。恋心や愛情というものを誤解していた報いなのだろうと、夕菜は思った。流れ出た血液の鉄分は、まさに身から出た錆というやつで、冷えて固まって瘡蓋になってしまう前に、海水で洗い流さなくてはならない。潮が肉を焼くようにじりじりと沁みたが、目を瞑って痛みに耐えているうちに、傷口は内側からゆっくりと閉じていった。痛みもなくなってしまうと、身体には瘡蓋も痕もなく、生まれたままの夕菜が残った。

 どうして彼と別れることになったのか、今の夕菜にとっては全くわからない。もちろん、かつての夕菜にも本当のところはわからない。恋愛の魔法に舞い上がっていた日々が、ちょっとしたバランスの加減で崩れてしまっただけだ。字のバランスが類まれなる彼でさえ、そのちょっとした加減を永遠に保つことはできなかった。落下して傷ついた身体から流れ出る血液を洗い流す儀式として、夕菜は指輪を灯台のふもとから海へと投げ捨てた。

 

 バスの到着時間の五分前に少年が現れた。いつものようにパーカーのポケットに手を突っ込んでいる。

「お待たせ」ぶっきらぼうに少年は言う。

「来てくれたんだ」

「約束は守る」

「約束なんてしてたっけ」

「言葉にしていなくても、夕菜がそう願えばそれは約束になる。もちろん、言葉にした約束も約束だけど」

 少年は見た目には年のころが十歳くらいだったが、話しぶりはとても大人びていた。年上の洗練された男のようでさえある。例えば、あの篠田のように。

「で、どこに行くつもりなんだ?」

 しかし、少年と篠田は似ても似つかない。篠田が仮面を操るのに長けているのと異なり、少年からは剥き出しの情緒を感じた。ただ不思議なのは、それが剥き出しであるという性格だけは確かに伝わって来るのに、あまりにもその情緒には抑揚がないため、その分だけより一層に掴みどころがないことだ。ぶっきらぼうな言葉は機械的な響き方をする。しかし、言葉の内容を辿るとそこには夕菜に対する優しさが紛れていた。もしかしたら、感情の表現方法をどこかに忘れてきたのかもしれない。五感ではなく、理性を持って彼の並べる文字列から真意を読み取るしかないということだろう、と夕菜は思う。

「行先は決めてない」夕菜はそうとだけ答える。

 少年は「そう」とだけ相槌を打つと、夕菜の隣に腰掛けた。少年の軽い身体くらいでは、錆びだらけのベンチもたいして苦にはならないようだった。

 行先は決めていなかったが、行く方向くらいは決めている。とにかく駅のある町とは反対方向に行く。つまり、夕菜はバスを途中下車して、この海沿いのホテルへとやって来たわけだったが、同じ行先のバスに乗って行けるところまで行ってみる。あの老人たちが住む、おそらくはとても寂しい町へ。そこに何があるというのでもないだろうけれど、行ってみれば何かを見つけられるかもしれない。夕菜はポケットの中で指輪を握りしめた。

 

 ホテルへとやって来て、日々は緩慢と流れていった。ホテルでは食事は出なかったし、近くに食堂や売店の類は全くなかったから、おのずと食事の回数は減り、夕菜は目に見えて痩せ細っていった。空腹が常に夕菜の頭の一部分を占めていたが、どうしてかその空腹がもたらすはずの苦しみは障子戸を隔てて零れる灯りや音のように、どこか別世界の物事ように感じられた。町に出てパンを一つ、二つ齧ると常夜灯を消すように、ふわりと空腹が遠のく。そして、柔らかな眠りが訪れる。

 毎朝、毎夕、灯台へと歩いていくのが日課になっていた。毎日訪れても全然飽きなかった。毎日歯を磨いても飽きがこないのと同じように。むしろ、しばらく歯を磨かないでいると口の中が気持ち悪くなるように、灯台へ行かないと夕菜の心は不快な粘り気に支配された。

 そこに行けば、高校時代に見た灯台があって、吹きすさぶ海風と、うなる波音が夕菜の心から不浄を払い除け、清めてくれる。篠田がもたらした不浄を殺すために、灯台と海は不可欠だった。これは自分にとって重要な療養なのだと夕菜は考えていた。

 篠田の件は客観的に見れば、強迫観念の一種と言えた。日常が篠田の監視のもとにあり、常に不浄な視線を感じるなんて、どう考えても精神疾患の類だ。いくらか暗示的な要素があるにせよ、暗示というものは大概個人的なものであるし、他人から見ればそれは暗示ではなく、ただの強迫観念である。医者に行って薬を貰えばよい。あるいは、定型文的なカウンセリングを受けるか、だ。

 ともあれ、そういった客観性など夕菜には全くの無意味だった。二日酔いのようにやり過ごして、「はい、解決」ということを求めているのではない。篠田が夕菜にもたらした問題は、ただのきっかけに過ぎない。真の問題はもっと別のところにある。つまり、神社の鳥居は穢れを持ち込まないために設けられた関所なのではなく、それより内側では穢れが抹殺される領域であることを示す警告として機能しなければならない、というような文脈の読み替えが必要あることを夕菜は感じていた。篠田は夕菜の抱える問題の暗示に過ぎない。

 それでもそのことを強く実感し、主観的に理解することは難しい。篠田は暗示に過ぎないけれど、しかし、あらゆる恐怖や不安といったものは全て篠田の容を取って、夕菜の目の前に現れた。篠田の目から逃げるために、夕菜は住み慣れた部屋を捨て、こんな辺鄙な海岸沿いのホテルへとやって来ていた。篠田からプレゼントされたイヤリングを捨てたときのように、屋移りをして日常を組み替えることで一時的に気分は晴れたが、それでも恐怖がぬぐえないとわかると、今度は自分の身体そのものが篠田に支配されているような気分になった。食が細くなったのも、案外そのことに起因しているのかもしれない。自らの細胞を削り取ることで、身体に寄生する篠田を殺すのだ。癌の腫瘍を外科手術で切り落とすのと一緒だ。しかし、そんなことをどこまでも続けるわけにはいかない。結局、いたちごっこなのだ。これは篠田という幻影をまとった自らの不具合を根本的に解決しなければならないということなのだろう。

 灯台と海が夕菜を癒してくれた。それは新しい発見と言えた。それまでは何かを物理的に切り落としていくことでしか、篠田の幻影を殺すことができなかった。しかし、夕菜は灯台と海の間に身を置いていると、不思議と篠田の幻影を殺すことができた。これは何かのヒントになるだろう。そう思い、灯台に通い続けているうちに、ここから投げ捨てた指輪のことが頭の中を支配するようになっていった。何年も前に投げ捨てた指輪。それは希望の光にさえ見えた。しかし、それを取り戻すことは不可能だった。波と海流がそれを攫い、どこかへと連れ去ってしまった。海は誰が思うよりも広く、ほとんど無限と同等の比喩だった。

 無限分の一はゼロだ。夕菜の耳元でかつての数学教師が囁く。

 

 バスがやって来て、夕菜と少年は二人でそれに乗り込む。一番後ろの席に並んで座り、匿名の汗を吸ってざらついたシートの手触りを確かめる。夕菜は少年を窓側に座らせ、自らの左手で少年の右手を握った。少年は一度、夕菜の方を見上げるが、何かを確かめたように小さく頷くと、夕菜に手を握らせたまま窓の外の景色に視線を戻した。

 少し進むと道は海側に折れ、防砂林の切れ間から灯台が見えた。いつもと違う角度から灯台を見て、夕菜は不思議な気持ちになった。

 そう言えば、灯台の上部、つまり灯篭の形はいつも夕菜に新鮮な感情を与えた。灯台のふもとまで行くと、その灯塔の白いペンキの剥げ具合や手触りはとても馴染み深く、懐かしい安心感を夕菜に与えたが、ホテルに戻ってふと灯台を眺めると、「あんな形だったけ」と思ってしまう。ふもとからだと近すぎて灯篭の形がよくわからないから、遠く離れたところから見ると「あれ?」と思ってしまうのかもしれない。

 バスに乗って、防砂林の切れ間から見た灯台も、同じような新鮮さがあった。

 高校時代の恋愛を思い出して、いったいあのときに感じていたものは何だったんだろう、と思うのと似ているかもしれない。思い出のもたらす懐かしさよりもむしろ、自分があんな恋愛をしていたのだという事実が不可解さとともに新鮮さをもたらす。

 夕菜の左手を少年が強く握る。

 夕菜は我に返り、ふっと息を吐いて、バスの車内を見渡した。何でも何かの暗示であるかのように考えるのはやめよう。くだらない暗示は篠田だけで十分だ。

 しかし、それにしても少年はいったいどこで指輪を見つけてきたのだろう。

 

「今晩、雨が降る」少年はすっかり日が暮れてしまった薄暗いバス停でそう言った。「風も強い。つまり、嵐がやって来る」

 左右に広がるクロマツの防砂林と雑木林は別々の禍々しさを醸し出している。夕菜が空を見上げると確かに、厚い雲は速い流れの中で不穏な動きを見せていた。

「どんなに夜が恐ろしくても、灯台に行ってはいけない。心どころの話じゃない。物理的に、身体的に死んでしまうよ」

 夕菜は頷く。「指輪があるから」。夕菜の言葉に少年は短く、端的に頷いた。

 

 バスはしばらくして次の町に入った。老人たちも次々とバスを降りていく。海に繋がる川を越え、橋の袂を今度は川を遡上するように山側へと走り出す。民家が減っていき、いよいよ本格的な山道へと入り込もうかというところで、また九十度に道を曲がった。おそらくここからは来た方向へと戻るルートになるはずだ。

 夕菜の推測通り、すぐにバスはもう一度九十度に道を曲がり、川を下る方向に向き直ったので、次のバス停で夕菜と少年はバスを降りる。結構な運賃を支払い、久しぶりに地面を踏みしめる。実質ここが一番端ということになるのだろう。時刻表を見ると、こちらもホテル裏の林間のバス停と同じく一時間に一本という停車頻度だったので、おそらくは乗って来たバスと同じルートが既定の運行ルートなのだろう。

 降りたバスの停留所近くに、神社の入り口があった。控え目な石造りの階段が斜面と垂直方向に延びている。階段は途中で斜面方向に折れ曲がっているようだった。夕菜は少年の手を引き、階段を登り始めた。

 階段を登り切り、振り返ると眼下にはこじんまりとした田舎の町と鈍色をした海が広がっていた。美しい景色とは言えないまでも、物悲しさを通じて心に訴えかけるものは何かしらあった。こんなところでも誰かが生活を営んでいるのだと思い、同時に自分もまたこんな風に生きているのだと思う。きっと世界は本来物悲しいものなんだろう。人間の生命がそうであるように。その物悲しさを打ち滅ぼすために煌びやかな都市というものを作っている。しかし、世界や人間の本質はそんなことでは変えることはできない。

 かつて朱色だったと思しき今ではすっかり赤銅色と化した鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れる。夕菜と少年のぼやけた影が褪せた砂地に浮かび上がっている。境内はコンクリート塀に囲まれていて、そのすぐ外側には路地があり、古い民家が何軒か並んでいた。不揃いな飛び石の間には防火貯水槽のマンホールがあったが、朽ちかけの社はいっそのことその身を燃やして欲しそうに夕菜には見えた。おそらく神社を火災から救うというよりは、隣接する民家のための貯水槽なのだろう。雑然と立ち並ぶ杉の木々は枝を広げ、空を埋め尽くしている。手水舎の水は干上がっており、古びた蛇口が項垂れていた。

 正面の木材からなる格子状の両開き扉は、鎖と南京錠で硬く閉ざされており、その奥には賽銭箱が納められている。見たところ賽銭箱以外には何もなく、卓球台が一つおけるくらいの小さな拝殿は四辺を例の木材の格子窓で囲まれているだけだったので、落ち葉やら何やらが散乱していた。拝殿の奥に本殿へと続く短い廊下が見えたが、本殿の中はあまりにも暗くて何も見えなかった。夜間に境内を照らすための電灯とそのケーブルが軒下に這わされていたが、もはやその電灯も夏夜に蛾を集めるくらいにしか役に立っていないだろう。神主の家系は既に途絶え、今では近所の老人が散歩がてらに参拝する程度に違いない。その参拝者だってきっと数年もすれば、何かしらの事情でここを訪れることができなくなるはずだ。

 拝殿の裏側に回り込むと、四方を窓のない木壁で覆われた本殿にちょうど横並びするように小さなお社があった。これまた小さいがきちんと鳥居まで設けられていて、小銭が積まれていたり、汚れた皿に盛り塩がなされており、一応は参拝者がいることの裏付けが取れた。

「夕菜は神様を信じている?」

「ほんの今朝まで信じていなかった」少年が不思議そうな顔を向けるので、夕菜は理由を語る。「まさか指輪が戻って来ると思っていなかったから。君が神様じゃなかったら、君に指輪を渡した人が神様なんじゃないかな」

「人が神様になれるのは、この国の宗教の重要な特徴だ。世界的な宗教では、もちろん仏教でさえ人は神の使い的なものにしかなれない」

「ふうん。君は本当に子どもとは思えないね」

「信仰がビジネス書籍に取って代わられた現代では、もはや神様なんて存在できないのかもしれない。人は十戒の代わりにコンプライアンスを学ぶ。神話の代わりに物理法則が原理原則となる。世を規定する物差しが変わってしまったんだ」

 夕菜は改めて社を眺めてみた。祈りとは何だろう。人は何を神に祈っていたのだろう。

 私が指輪の帰還を祈ったように、誰かも何かを祈るのだろうか、と夕菜は思う。

 指輪……どうして私はこんなものを求めたのだろう。

「悪を内から排除するには、神聖なる信仰が必要だから」

 少年の言葉が静かな境内に響いた。

 少年に手を引かれ、コンクリート塀の切れ目から民家の並ぶ路地へと出る。民家を何軒か通り過ぎた先に、狭い階段があり、そこを二人縦に並んで降りていった。歪なY字路がその階段を下った先にあった。下から登って来る道がほとんどU字カーブを描き、また坂を上っていく。しかし、そのU字のちょうどカーブが一番きつい辺りで、もう一つ道が分かれていた。

 その道は古いトンネルに繋がっており、トンネルは緩やかに曲がっていたから先までは見通せなかったが、明かりが漏れているのも確認できたからそんなに長いものでもなさそうだった。

「このトンネルの先には、夕菜が求めているものがあるかもしれない」

「私の求めているもの?」

 そのとき白い軽トラックがU字カーブを曲がって走り去っていった。トンネルには見向きもせずに去っていったのが夕菜には不思議とわかった。

「そこには静かな村があるんだ。朝になれば鶏が鳴き、夕暮になれば烏が鳴いて、日が沈むと虫や蛙が鳴く。村の真ん中には小さな川が流れていて、手作りの小さな用水路がその水を家々や田んぼに引き込んでいる。川の水が村では大事な財産になっている。子供はよくその川に笹船を流したりして遊んでいる。流れはそれなりに急だけど、くねくねと蛇行しているおかげで子供が遊べるだけの砂利の河原や浅瀬があるんだ。とは言え、そういうのはあくまで魅力的な『要素』に過ぎない。本当に大事なことは、その村が一日中薄暮の中に沈んでいるということだ。最初に言ったように、確かに朝や昼、そして夜がその村には存在している。でも、そういう時間的なもの、とりわけ時刻的なものというのはあくまで観念にしか過ぎない。例えば、真っ白い紙に鉛筆の線で雲の形を描く。ただそれだけの絵に、『青空』という題名を付けたとする。すると、その絵は夕菜の頭の中で、青い背景に白い雲が浮かんだものに変わる。反対に、『夜空』という題名を付けたとすれば、当然、背景は黒くなり、雲は灰色に塗られる。それと同じで、その村はあくまで観念の枠組みとして機能しているだけに過ぎない。だからこそ、本当の意味ではその村は一日中薄暮の中に……いや、薄暮ですらないかもしれない。それはただの埃っぽいぼんやりとした線画に過ぎないのかもしれない。けれど、そういう世界がいかに素晴らしいかということは夕菜にもわかるだろ。そんな村がこのトンネルの向こうにはあるんだ」

 夕菜には少年の言葉がよくわからなかった。少年は「夕菜にもわかるだろ」と言ったが、実際のところ夕菜にはよくわかっていないのだ。

 ただトンネルの向こうから漏れ出る光が、やけに親密に夕菜の瞳に映るだけだ。

 ポケットから指輪を取り出し、指先で摘まみ上げてみる。片目を閉じて、その小さな輪っかを覗き込む。そのとき、すぅっと分厚い雲間が切れて、燃えるような夕陽が背中から射してトンネルやそれを囲う周囲の草木がオレンジ色に染まった。少年の瞳もオレンジ色に輝く。

「そこにはその指輪をくれた彼もいる」

 夕菜は思わず息を呑んでしまう。

「いや、正確には『いる』んじゃない。『作る』んだ」

「作る……?」

 望めば手に入るということなのか。さっきのトンネルの向こうの村の話は、そういうことを言いたかったのかもしれない。

「代償は?」

 夕菜の問いに少年は微笑みを浮かべる。その少年が僅かにでも笑うのを夕菜は初めて見た。「祈ること。それ以外は何も必要ない」

 

 その日は珍しく晴れていた。ただ、とても強い風が吹いており、波の弾ける音と風の音以外には何も聞こえなかった。少しだけ波しぶきが足にかかるくらいは波も激しかった。ホテルに泊まり込んで八日目の朝だった。

 ホテルの部屋に戻り、風で乱れた髪を梳かしている最中、ふと窓の外を見ると灯台のふもとに一人の少年がいた。遠目で見た感じではあるが、おそらく小学生から中学生くらいの年齢だろう。いったいあんなところで何をしているのだろう。風は強いし、波も高い。落ちたら間違いなく死んでしまうだろう。夕菜はその少年が無事にそこを立ち去ることを祈った。

 髪を梳かし終えた後で、ロビーに本を返しに行った。

 暇をつぶす道具なんて何も持ってきていなかったから、ホテルのロビーの小さな書棚に雑然と並べられた本を読むくらいしか夕菜にはすることがなかった。二十世紀のアメリカ文学の邦訳を読むなんて初めてのことだった。しかし、することのない世界において、その本は非常に潤いに富んでおり、最後まで退屈することはなかった。むしろ、そういったものを読んでこなかったこれまでの自分の人生の方がよっぽど潤いのない、退屈で湿気たもののような気さえした。

 同じ作家の本があったので、それを手にまた部屋に戻って来る。部屋に一歩踏み入れた瞬間、黴の匂いが鼻を突いたが、それも一瞬で消え去ってしまう。たぶん自分からも黴臭い匂いがしているのだろうと思うと、少し気分が落ち込んだ。とは言え、誰に会うということもないから、そんな風に気にしたって何の意味もない。

 ベッドの端に、借りてきた本を置いて、また窓から灯台の方を眺めてみた。

 少年の姿は、もうそこにはなかった。落ちたのではないといいけれど。