霏々

音楽や小説など

春甘 vol.2

 裕也は慌てて首を回し、そこに確かな人影を認めると、耳からイヤホンを抜いた。

「上原くん?」

 すらりとした立ち姿。肩まで伸ばした髪は黒く、グリーンのニットに暗い灰色のガウチョパンツを合わせている。化粧のせいなのか、ぱっと見てそれが白井海織と裕也はわからなかった。

 しかし、認識よりもわずかに早く衝撃の方がやって来て、裕也の目頭を熱くする。

「白井さん……」

「やっぱり。久しぶりだね」

 裕也は塵が目に入ったとでもいうように手の甲で瞼を拭い、それから笑顔を作って見せた。止まない風が海織の髪を靡かせている。

「何年ぶりだろう?」海織は視線を横に流して、指を折った。「高校卒業からだから七年ぶりくらい?」

「実際に話すのは八年ぶりになるかな。三年の初めにはもう……」

「そうだね。でも、なんかあんまり変わってない?」

「そうかも。白井さんはなんか変わった気がするけど」

「そう? あ、でも、なんか、こんな声だったっけ。もっと違った気がするけど」

「いや、白井さんこそ」裕也が言うと、海織は小さく笑った。裕也も小さく笑い返す。

 言葉に詰まったところで、裕也は自分が酷い身なりをしていることに気がついた。

地元の音楽フェスの記念Tシャツに黒い無地のパーカー。そして、小汚いジーパンにこれまた小汚いアディダスのスニーカー。これじゃあ、まるで本当にニートではないか、と裕也は臆するが、さてどう言い訳したものか……

「上原くんは今こっちにいるの?」海織は沈黙に耐えかねてそう尋ねる。

 裕也は、そうだね、とだけ答える。それから、あえて「こっちで就職したの?」と尋ねない海織の気遣いに感謝しながらも、全て正直に答えようと覚悟を決める。

 この間大学院を修了して、来週から社会人になる旨をまず伝え、それから計算が合わない部分は留年していたのだと打ち明ける。海織の「そうだったんだ」と言うときの微妙な表情を見ていないことにして、「冬の一限に起きれなくて」と冗談っぽく付け足した。

「まぁ、理系の人って割と留年する人多いもんね」

「かと言って、文系だったとしてもストレートでは卒業できなかった気がするね」

 取り繕うような笑い声。裕也は取りあえず自分の話題はここで切り上げ、海織に近況を尋ねた。海織は淀みなく喋り、今は関東で旅行代理店に勤めていること、それから今はちょうど帰省中であることを簡単にまとめて話してくれた。

「ほら、旅行代理店って春休みとか忙しいでしょ。だからずっと休みが取れなかったんだけど、この春休みの終わりかけの時期って、みんな新生活の準備だったりで少し余裕ができるんだよね。休みも貰えたから、いま一時的にこっち戻って来てるの」

 なるほど、わかりやすい。裕也は頷く。

「白井さんはもう働いて三年目? や、来週から四年目か」

「うん。私は学部までしか出てないし、それに留年もしてないから」おどけたように海織は笑う。裕也も思わず笑ってしまう。

 話を聞けば、海織はちょうど用事を済ませてきたところで、昼食もまだということだった。裕也が自分も昼飯をまだ食べていないことを伝えると、せっかくだから一緒に食事をしようということになった。もっとちゃんとした格好をして来ればよかった。裕也が嘆くと、海織は春休みだもんね、とちょっとずれた慰め方をしてくれた。

 裕也は案内されるまま海織の車に乗り込んだ。裕也は他人の車の匂いが少し苦手だったが、海織の黄色い軽自動車は不思議と嫌な匂いがせず、心を落ち着けることができた。「散歩してたって言ってたけど、ドライブとかしないの?」と海織が尋ねて来たので、裕也は「ペーパーなんだ」と答える。「だから、何かしようにも散歩しかできないんだよ」

「私も働くまではペーパーだったけど、研修中に日本中の色んなところを車で行かされたから、それで自然と運転できるようになっちゃった。今では、怖がって運転避けてた自分が馬鹿みたい」

「そんなもんかな」

「そんなもんだよ。上原くんもきっと仕事始めたら、すぐに乗らなきゃいけなくなるよ」

 海織はシートベルトを締め、サイドブレーキを解除すると、左右を確認してから車を発進させた。話していたように淀みのない慣れた動作に、裕也は感心する。そして、かつての恋人の助手席に乗っている自分の現状にとてつもない違和感を抱いていた。

 近くに蕎麦屋があるらしく、そこへ連れて行ってもらった。店員に二名と伝え、隅のテーブル席へと案内された。ざる蕎麦を二つと天ぷらの盛り合わせを一つ頼む。

「休みの度にこっち戻って来てる……わけじゃないよね?」裕也は尋ねる。

「じゃないね」海織は笑って答えた。それから少し悩んで、再び口を開く。「ちょっと前におじいちゃんが体調崩してね。それまではおじいちゃん一人で暮らしてたんだけど、もう一人で生活するのも厳しいからって、ほんの三日前とかからお母さんたちと一緒に暮らし始めたの」

「それはそれは。大変だったね」

「うん。まぁ、そういうこともあったから、休みも貰えたしこっち戻って来てみたんだけど。ほら、郵便物とかをこっちに届けてもらえるようにする必要があるから」

「あぁ、それで郵便局に」

「そう。転出届ってやつ? おじいちゃんのことがあったから、もう家中てんやわんやで。急に一緒に暮らしたいって言われても、お母さんもお父さんも準備してたわけじゃないし、色々とやることが多くて」

「考えただけで大変そうだ。ていうか、それならこんな風にゆっくり昼食たべてて大丈夫? 家族で一緒に食べた方が良かったんじゃない?」

「ううん。最初から郵便局行くついでに食べる予定だったから。それにおじいちゃんも家に来てから、ちょっと体調良くなったみたいで。ようやくある程度落ち着いたから、気晴らしに外に出て来いってお父さんに言われて来たの」

「それはそれは」

「ごめんね、急にこんな話」

「いや、ぜんぜん。それよりもおじいさんのこと、お大事に」

 裕也は努めて冷静な表情を浮かべていたが、内心は思いのほか自尊心が傷ついていた。

 裕也が最後の春休みの間、何の生産性もなくだらだらと過ごしていたのと対照的に、海織はすでに会社を三年も勤め上げ、たまの休みに帰省すれば家族のためにあれやこれやと動いているわけだ。しかも、車の運転もできる。

 ざる蕎麦と天ぷらが届き、手を合わせて、箸を割る。

「上原くんは今は帰省中なわけだよね?」

「うん。と言っても、ほかに家を借りてる訳ではないから、厳密には帰省というのも違うと思うけど」

「どこで働くの?」

「まだわかんないんだよ。全国転勤があるような職場でさ。研修中に配属先が決められるんだ」

「そうなんだ。なんだか落ち着かないね」

「まぁね」

「どこに就職したの?」

「鉄道系」

「へぇ、なんか意外だね。車掌さん、みたいな?」

「いや、電車には乗らない。もともと鉄道なんて全く興味もなかったんだけど、研究室の先輩の紹介で」

「どんな仕事するの?」

「電車をダイヤ通りに止めたり動かしたりするシステムとか設備を管理するような仕事かな。説明しにくいんだ」

「ふうん。私の仕事は説明しやすいよ。旅行のプラン考えて、現地の色んな業者さんと話を詰めたりするだけだから」

「添乗員みたいなのもするの?」

「やるよ。ゆくゆくは色々な経理とか企画とか会社の運営みたいなこともさせられるんだろうけど、今はまだ下積みって感じだね」

 それから海織は自分の仕事の内容について、あれこれと話し出した。裕也は蕎麦を啜りながらそれを聞いていたが、海織の話は興味深く、裕也もあれこれと質問したり自分の感想を述べたりしていたので、なかなか蕎麦は減らなかった。

「私もね、最初はなんで旅行代理店になんか就職したんだろう、ってよく考えた。まぁ、今でも考えるんだけど。だって、皆が夏休みとかの時期に忙しいわけでしょ。人付き合いは多いし、色んなところ飛び回るから生活だって落ち着かないし」

「変なお客さんはいるし」

「たしかに」海織は笑う。「でも、そういう変なお客さんも含めて、とても刺激的なことがたくさんあるし、何よりもそういう刺激とか経験を通して、自分が成長……って言ったらおこがましいけど、なんか変わっていけるな、って感じがするの」

「白井さんは変わりたいんだ」

「うん、まぁ」

 そこで海織は口を噤んでしまう。蕎麦を啜り、お茶を飲み、そしてまた蕎麦を啜る。

「いつか読んだ本にね、面白いことが書いてあった」裕也は何となく沈黙を埋めるようにそう喋り出した。「実家が靴屋をしている大学生の話なんだけど、その大学生には困った性癖があってね。男なのに、女を好きになれないんだ。かと言って、男を好きになるというでもない。そういう、人に対して恋愛感情や性欲を抱かない人間をアセクシャルって呼んだりすることがあるんだけど、聞いたことあるかな?」

 急に性の話をしだした裕也にやや怪訝そうな表情を海織は向ける。しかし、海織の中に形成された近代のリベラルな価値観と彼女の優しさが「ごめん、知らない」と何とか言わせる。

「恋愛感情自体を感じたことがないから、同級生の恋愛話にも共感できないし、どんな映画や本を読んでみても、そこには自分とは無関係の美しいラブストーリーが描かれている。そういう環境にずっといると自分は酷く人生を損しているという気分になるし、何よりも強い孤独感が主人公を襲う。延々とその孤独感について、ある場面では文学的に、またある場面では学術的に描写がなされる。決して明るい話ではないからね、読むのにとっても骨が折れた」

「でも、最後まで読んだんでしょ?」

「うん、読んだ。でね、途中でその青年は交通事故にあって、両足の膝から下を切断することになるんだ」

「酷い話だね」海織は放置されて干からび始める裕也の蕎麦を見ながら言う。

「そう、酷い話だ。事故のせいで大学も休学してしまう。でも、そこで不思議なことが起こるんだ。彼はそれまで感じたことのない恋愛感情を初めて覚える。けれども、それはやっぱり一般的な恋愛感情とは違ってね。履きつぶされた靴に彼は恋をしたんだ。そして、生まれて初めて強い性欲をも感じる。もちろん汚い靴相手に」

「その彼は、実家が靴屋だったっけ?」

「そう。当然、その彼も自分のバックボーンと今の状態の間に何らかの相関性があるんじゃないかと考える。そして、そこからはその作者得意の分析的描写が始まる。まぁ、その辺りは恋愛感情や性欲の成り立ちとか、多様性みたいな普通の話になっちゃって、ちょっと読み飛ばしちゃったんだけど。まぁ、最後には青年は近くの学校から靴を盗んで捕まってしまう。車いすで盗みを働いてるわけだから、そりゃ目立つよね」

靴屋さんからは靴を盗まなかったの?」

「人の履いた靴が欲しかったんだ」

「なるほどね。でも、もともと実家が靴屋さんだったから、心が痛んで靴屋から盗めなかったっていう部分もありそうだけど」

「もちろん、そういう部分もあるかもしれない。けど、主人公にとって新品の靴はきっと人間で言うところの赤ちゃんとか小学生みたいに見えたんじゃないかな。ある程度、成熟した相手を求めたんだと思う」

「そっか」

「まぁ、その辺についてはあまり触れられていなくて、大事なのはこの話の最後なんだけど」

「うん」

「その青年は初犯ということで刑務所には入れられなかったんだけど、彼は更生するために自分の意志で性器を切除するんだ。そうして性欲を失った彼は、靴への恋心を失わないまでも性的に興奮することもなくなったし、とりあえず盗みはもうはたらかなくなった。しかし、さらに少しするとまた新たな変化が訪れる。彼は普通の人間と同じように、同世代の女の子に、それまで履きつぶされた靴に抱いていたのと同じような恋愛感情を感じるようになった。そして、そこで話は終わる」

 そこまで喋り終えてようやく、裕也は自分のした話がひどく場違いで、かつどこまでも見当違いであることに気がついた。

蕎麦は干からびて、つゆの入った湯飲みの中で葱は沈んで存在を消してしまっている。天井付近の壁に取り付けられた扇風機も、そっぽを向いたまま死んでいるようだった。

「変な話をして悪かったね」裕也は俯きながら言う。海織は、ううん、とだけ答えて、静かな動作で蕎麦湯を作り始める。「なんでこんな話をしたんだろう」

「たぶん、私が『変わりたい』って言ったから?」

「そうだったかな。まぁ、そうかもしれない」

「で、結局、どういう話だったんだろう。なにか隠された深い意味でもあるのかな」

「深い意味、っていうよりも、単純にひどく皮肉的な話だと思う。主人公の青年は、最初は身体は普通だったけど、心は普通ではなかった。でも、色々とあって、今度は心は普通になったけど、身体は普通ではなくなってしまった。白井さんは『変わりたい』って言ったけど、今の話を読んで、おれは変わりたいなんて思えなくなったよ。要するにさ、何かが変わったからといって、それは苦しみの形が変わっただけで、苦しいことには変わらないんじゃないかと思うんだ」

「青年は念願の普通の心を手に入れたけど、幸せにはなれなかったってこと?」

「それはわからない。でも、仮に幸せになれたんだとしても、それはその青年が新しく手に入れた状況が彼を幸せにしたんではなくて、青年が変わろうと思って変わることができた、っていう達成感が彼を幸せにするんだと思う。その変化が良い変化か悪い変化か、ということは置いておいてね」

 裕也は残った蕎麦をとりあえず胃の中に押し込み、それから海織に倣って蕎麦湯を作った。独特の渋い香りが湯気とともに立ち昇って来る。

「つまりさ、もし白井さんが変わりたいと思うなら、もちろん白井さんだけでなく俺もそうだけど、何か状況が良くなることに期待したりせずに、ただ変わることを目的として変わるべきなんだと思う。さっきの話と似た話で、中学の社会の先生から聞いた話なんだけど」

「うん」

「その先生が学生の時に、雨が降った時に走るのと歩くのとどちらがより濡れないか、ってのを実験してみたらしいんだ。水を含みやすい服を着て、雨の中を走る人と歩く人にわかれて、どちらが移動の前後で服の重さが大きく変わるか計測したらしい」

「結果は?」

「どちらも同じ。要するに、何をしてみたって同じだけ雨には濡れる」

「最初の話よりもずいぶんとわかりやすい」海織は笑う。

「最初からこっちの話をしていればよかった」裕也も笑った。

 

 蕎麦屋を後にして、二人は海織の運転で海岸線をドライブした。特に目的地もなく、カーステレオからはローカル局のラジオ放送が流れている。独特の抑揚が施された女性司会者の声は、まるでテーマパークの案内人のようだったが、語られる内容は実に害のない人生哲学だった。

「ウシワカマルさんのカノジョさんはきっと、私の全部を好きになって、って言いたかったんじゃない? 例えば、ちょっと悪い例になっちゃうけど、よくネットで殺人予告して捕まったりする人って、現実世界では大人しそうに見えたりする人が多いじゃない? それと同じでさ、人間ってのは現実世界の人格とネット世界の人格は多かれ少なかれ違うものなんだよね。だからさ、カノジョさんもきっとSNSでは、ウシワカマルさんに見せているのと少し違う姿で生きてるんじゃないかな? そして、そんないつもの自分とは少し自分をウシワカマルさんに見てほしくて、アカウントのフォローをしてほしいんだと思うな」

 世界には様々な種別の人間がいて、ほとんどが同じような苦しみの中で生きているようだった。靴に恋した彼だって、例外ではないのかもしれない。

 海は春にしては青く、波も穏やかだった。裕也は助手席の窓ガラス越しにいつまでも変わらない風景を眺め、アスファルトに噛みつくタイヤの通奏低音に身をゆだねていた。海織はまっすぐ前を睨み付けて、アクセルに一定の体重を乗せ続けている。ときおり、信号や通りを渡る人のためにアクセルから足を浮かせたりしたが、ブレーキを踏むこともなく、車は氷の上を滑るように気持ち良く海岸線沿いの道を走った。

 裕也はふと昔のことを思い出した。海織と別れてから数か月後の中間テストの最終日だった。