霏々

音楽や小説など

春甘 vol.3

 その日は中間テストが終わった後に、交通講話と進路指導の時間が取られていた。裕也は「徹夜で勉強して体調が悪いので」とテストが終わってからすぐに早退し、静かな校門を自転車に跨って通り過ぎた。傾きかけた陽射しは心地よく、夏に向かう風がテスト後の爽快感と相まって、いつになく裕也の心を満たしていた。

 何となく海の方へ向かっていると、交差点の信号で中学の頃の同級生に鉢合わせた。よくクラス活動で一緒になっていた吉川アユミという女の子だった。小柄で短めの制服のスカートに、うっすらと茶色に染めたロングヘア―。少しばかり化粧もしているか。

「わ、久しぶりだね」アユミは楽しそうに言う。

「だね。元気?」

「元気、元気。元気過ぎて体調悪くなって、学校早退してきちゃった」アユミは軽快に笑ったが、少し考えた表情になって、「もしかして上原も?」といたずらっぽい視線を裕也に向けた。裕也も片側の口角を吊り上げてそれに答える。

 何となくそのまま別れる感じにもならず、かと言って、ゲームセンターなどへも行くような感じでなかったため、二人は海の方へと向かった。行く当てがないときには海に行くというのがこの街のしきたりみたいなものなのかもしれない。それにしては、海に人がいないので、きっとこの街の多くの人間は行く当てを持っているのだろう。それは良いことかもしれない。ごく一般的に考えて。

「でも、上原がズル休みとかちょっと意外だったな」アユミが自転車を漕ぎながら言う。「もっとまじめな人だと思ってた」

「まず、ズル休みじゃなくて、早退ね。それに今日はまじめにテストを受けて来た」

「百点間違いなし?」

「八十五点くらいかな」

「あはは。ほんとにまじめ。そういうときは『百点間違いなし』で良いんだよ」

 海岸沿いの丘の上に自転車を止め、砂浜の方へ階段を下りていく。風がない。凪だ、と裕也は思う。海風と陸風の均衡。昼と夜の調和。エントロピーは発散して、世界は静止する。

「なんかさ、上原ってちょっと変わった?」アユミは煌めく水面に目を細めながら裕也に尋ねかける。「ていうか、コースケとかヒロコとかと連絡取ってないでしょ」

「特に用事もないから」裕也は答える。

「用事がなくても、『最近どう?』とか『そっちどんな感じ?』とかさ。いくらでもあるじゃん、そういうの」

 裕也は曖昧に頷きながら、「まぁ、そうかもね」と答える。

「なんかテキトーだね」アユミはどこか不服そうにそう言う。

「テキトーっていうか、ただよくわかんないんだよ。正直なことを言えば、こうして吉川に会うまでコースケのこととか笹原のことはすっかり忘れてた気がする。だから、そもそも連絡を取るとかいう発想にすらならなかったというか」

「サイテー」アユミは呆れたように笑った。「まぁ、でもそれだけ今の生活とちゃんと向き合ってるってことだもんね。それはそれで良いことか」

 裕也は「そうかもね」と頷くが、内心では「そういうわけでもない」と思っていた。裕也にとっては単純に連絡を取るのが、関係性を保つのが面倒なだけだった。いま目の前にある高校の関係性ですら面倒だと思うのに、わざわざ中学時代の関係性をまた掘り返すことなんて考えられない。しかし、それにしても、どうして自分はこんな考え方をするようになってしまったんだろうと思う。

 裕也はアユミの左側に並んで一緒に海を眺めた。一年ほど前に海織と眺めた海はもっと黒く深く、そして澄んでいた。夜の海。しかし、いま目の前に広がっているのは日暮れ前の乾いた海。同じ海なのにどうしてこうも違うのだろう。諸行無常だ、と裕也は漠然と思う。

「わかった」突然アユミは口を開く。「背が伸びたんじゃない?」

 裕也は見えるはずも無いのに自らの頭頂部に目を向ける。それからアユミを見下ろす。

「吉川が縮んだんだよ」

「そんなわけないでしょ」

「まぁ、確かに中学のときよりは伸びたよ。長年の努力がやっと実った」

「背を伸ばす努力してたの?」

「毎日お星さまにお願いしてた」

「それは良いお星さまに出会ったね。ちょっと私にも教えてちょうだいよ」

 裕也は空に顔を向けてみたが、まだ星が見えるには早い時間だ。自己顕示欲の強いオレンジ色の太陽がぎらぎらと輝いているだけだ。

「そんな星あるわけないでしょ」アユミは呆れたように言う。「まぁ、背も伸びたみたいだけど、全体的に大人びた気がするね。大人びたというか、落ち着いたというか」

「中学のときそんなにはしゃいでたかな?」

「たぶん今よりはね。それとも久しぶりに私に会って、緊張してるだけかな?」

「そうかもしれない」

「嘘ばっかり」

 アユミはシャボン玉が弾けるように無邪気に笑った。

 そして二人は波打ち際に沿ってゆっくりと歩く。お互いの学校のことを適当に話して、それから中学のころの思い出もいくつか話した。裕也は自分でも意外に思うほどに中学のころのことを克明に覚えていた。アユミが昔のエピソードを話して、裕也がそれをところどころ訂正する。「そうだったかも。よく覚えてるね」。裕也はその度に、「おれは記憶力が優れているから」と言った。「さすが良い学校に通ってるだけある。でも、厭味ったらしいからそういうのやめた方が良いよ」

 石造りの階段に並んで腰かける。空の端が紺色に染まり出し、少しずつ風が出て来た。アユミの灼けたような長髪がふわふわと海風に舞う。シャンプーの匂いが、裕也の鼻腔をくすぐる。

「いまカノジョとかいるの?」アユミが裕也に尋ねる。

「いや、いないよ」裕也は簡潔に答える。それから少し考えるように間をおいて、「この間別れた」と付け足す。

「どうして別れたの?」

「さぁ、どうしてだろう。よくわからない」

 沈黙が空気を重たくする。これじゃあ、まるで海底だな、と裕也は思う。

「決してはぐらかしているわけじゃなくて、本当にわからないんだ」と「吉川はカレシいるの?」という二つのセリフの間で裕也は悩む。悩んでも答が出ないので、とりあえず質問の方を口にした。自分が考える番はもう終わり。次は吉川に喋ってもらおう。

「私? 私もいまはいないよ」アユミは「いまは」というところをさり気なく強調して言った。それが自尊心から来る強調なのか、それとも裕也に対する何らかのアピールから来る強調なのか、それは言った本人にもよくわからなかった。

「私、自分で言うのもなんだけど、それなりにモテると思うんだよね。別に芸能人みたいにキレイとか可愛いとか言うんじゃないけどさ。ほら、見た目とかにも気をつかってるし、ノリも軽いから絡みやすいと思うし」

 裕也はとりあえず頷いておいた。何かが間違っているような気がする。しかし、ここで訂正を入れることはもっと間違っている。きっとこうやって正すべきところで間違いを正さなかったから、かつての戦争は起こってしまったのかもしれない。誰もが黒い手を持っている。そんな見方だってあるだろう。

「まぁ、実際に何人かの男の子とも付き合ったしね。でもさ、そんな風に色んな人と付き合ってると噂もね、広まっていくんだよ。汚らしい言葉だけど、ほら、『吉川はヤリマンだ』とかさ」

「酷い。そんなことを言うやつがいるなんて」

「本気でそう思ってる?」アユミは苦笑いを浮かべる。「まぁ、気にしてないって言ったら嘘になるけど、気にしたって仕方のないことだし、放っておいたの。実際に同級生に比べたらヤってはいるわけだし。でも、そのせいでこないだカレシに振られちゃった。良い人だったんだよ、とても。上原にちょっと似てるかな。背も高かったし、気も遣えるし、お洒落だし」

「おれはお洒落ではないな。背も高いし、気も遣えるけど」

「まぁ、その分、上原の方が頭良いから気にしなくていいよ」

「ありがとう」

「はは。感じ悪っ」

 陽が落ちていく。本当に地球の引力で落ちていくように見える。一般相対性理論。自転の円運動と万有引力は等価なものであり、力と加速度を分別することはできない。全くの別物のはずなのに、裕也の中で海織とアユミが重なる。比べて見れば違いはわかるけれど本質は同じ。女だ。柑橘系の笑み。甘酸っぱく、そしてどこか苦い。

「他人の手垢のついたものは受け入れられないんだって」

 アユミはそう言って、目尻に皺を作った。オレンジ色の日に当てられてアユミは笑っているように見える。しかし、アユミが笑ってなんかいないことが裕也にはよくわかっていた。不謹慎かもしれないが、裕也はそんな彼女を美しいと思う。どうして傷ついた女はこんなにも美しく見えるのだろう。春風に吹かれて泣きながら立ち尽くしていた海織のことを思い出す。抱きしめることもできず、海織の前で呆然としている裕也。言葉一つとしてかけてやることができない。触れられなかったのは、裕也が臆病だったからか。それとも……

 馬鹿みたいだ。

 裕也はそう思いながらアユミのことを抱き締めてやった。

 アユミの目尻から涙が零れる。あぁ、そうだよな。こうなることはわかっていた。そして、ほら、わかりきったようなシャンプーの匂い。白けるような波の音。アユミが唇を差し出している。不思議だ。海織にはできなかったのに。どうしてこんなどうしようもない状況になって、アユミに対してはできるのだろう。唇が触れた瞬間、裕也の視界から夕焼けの暖色が消え去る。閉じた瞼の裏に見えるのは、梅雨の砂浜。ひんやりとした雨に濡れた砂浜の上で裕也は寝転んでいる。シャツの背中に気持ちの悪い湿気が浸みこんでくる。空からは糸のような雨が落ちてくる。鈍色の雲。墓石の静けさ。はるか上空で音のない風が大気を掻き回しているのが見えた。

 

「それで? その子とは付き合ったの?」

 海織はグラスに入った赤ワインを飲みながら言った。黒い髪は白い肩から鎖骨にかけて流れるように落ち、重力を美しく描くようだ。裕也ももう何杯目かわからない赤ワインを飲んでいる。とりあえず、机の端には空になったボトルが一本置かれている。二本目のボトルももう半分ほど空いてしまっていた。

「付き合ってなんかいない」

「なんで?」海織は薄暗い部屋の中でぼんやりと輪郭を失っているようにさえ見える。

「好きじゃなかったからだよ」

「好きじゃないのにキスしたの?」

「格好つけるようだけど、好きじゃないからキスできたのかもしれない。だいたい好きっていう感情と、キスっていう行動の間には本来は何も関係性なんてないはずだろ。そういう価値観や文化が巷にまかり通っているだけだ」

「くだらない屁理屈はよして」海織はどんどん輪郭を失っていく。そして、深く、それでいて優しい青白さをまとっていく。青の時代。カサジェマスの自殺。「でも、好きじゃないからキスできたと言うなら、もう私のことなんて好きじゃなくなったんだね」

 裕也は笑って見せる。自分でもなんで笑っているのかわからないが。きっとワインを飲み過ぎたせいだろう。

「もう誰のことも好きじゃないのかもしれない」裕也は言う。「でも、不思議だけど今日はそういう投げやりな感情になっているわけじゃないと思うんだ」

「その子と海辺でキスしたときは投げやりな気持ちだったの?」

「しいて行動に修飾語をつけるなら」

「上原くんは普通に喋るのが苦手なんだね」

「表現を欠いた言葉に意味なんてない」

「くだらない。昔はもっと普通だったのに」

「普通ね。普通、普通、普通。普通って、なんだ? 『私は普通というよりは、むしろ自然になりたいの』。これを言ったのは――」

「上原くんはずっと私のことを好きでいてくれると思ってた」

「好きだよ」

「普通の人の好きとは違うのかもしれないけど、それでも上原くんなりに好きでい続けてくれると思ってた」

「だから――」

「なんで私と寝ることができたの?」

 裕也はまた笑ってみた。今度は理由がわかる。笑う以外の選択肢が思いつけなかったからだ。

「笑ってないで答えてよ」

「儀式だよ」裕也は答える。海織は表情を失くしたみたいにぼんやりと裕也のことを見つめるだけだ。「セレモニー。いや、というよりもイニシエーションだな。通過儀礼。おれはおれが全てを失っていることをこうして再確認することができた」

「どういう意味?」

「白井さんのことは好きだ。普通の人の愛情ではないけど、おれなりの愛情は持っている。好きだ。でも、そんなことすら、もはやどうでもいいんだ。それがわかった。こうして直接現象として認めるまで、受け入れることができなかった。けれど、とっくにそれには気づいていたんだ。すべてのことが、もはやどうでもいいんだということに。あれと似ている。あれ、そう、カフカカフカの『変身』。自らの身体が虫になってすら、まだその現実を受け入れられない。いや、それにしてもあの小説は素晴らしい。というか、非常に高度だと言っていい。おれはもはやあれの後追いをしているだけにしか過ぎないんじゃないかとおもわされるほどだ。小説が現実を模倣しているんじゃない。現実が小説を模倣しているんだ。話が逸れたな、とにかく、あの憐れなグレーゴルと一緒なんだよ。愛する妹から否定されてようやく、自分が人間ではなく虫なんだという事実を受け入れられたように、おれも白井さんと寝てみて――」

 海織は机に突っ伏して寝息を立てていた。裕也は彼女を何とか立たせて、ベッドの上に寝かせてやった。白く滑らかな肌。傷ついた女。酔いつぶれた女。彼女の人生が健やかなものであってくれれば良いのに、と裕也は思う。真剣に思えば思うほど、それは陳腐で何の真剣味もないただの言葉へと廃れていってしまう。意味のない表現を欠いた言葉。

 裕也は日が昇る前にベッドから起き出して、熱いシャワーを浴びた。海織は毛布を被って寝息を立てている。裕也はそんな彼女を見下ろしながら身支度を整えた。

「おはよう」裕也は声をかける。

 海織は重たい瞼を何とか持ち上げて、焦点の合わない目を裕也に向ける。まるで真っ暗闇を見つめているみたいだ。

「おれは帰るよ。酔いが醒めるまで眠ってていいよ」

 海織は首を傾げ、そして力なく笑う。「夢が覚めるまで眠る」

「そうすると良い」

 

 静かな町だ。ここがどこだか上手く思い出せない。ただ海の波の音が聞こえる。夜明けの匂いがする。カラスが鳴いて、そろそろ朝がやって来ることを知らせる。

 もう一瞬にして朝がやって来る。そうしたら夢も終わりだ。後は現実がさっさと終わってくれるのを待つだけ。それでぜんぶお終い。

 裕也は海織の寝顔を思い出して、最後の微笑を浮かべた。

 

2018.7