霏々

音楽や小説など

霏々 vol.2

 よくよく考えてみれば、僕の人生はまさにその森の歌の示唆と暗示によって、開封済みにされた電子メールの如き代物であった。何度も過去に何かを忘れては、それを取りに行って、そしてまた何か別のものを忘れてくる。滑稽だと捉えていただければ幸い、しかしながら、どこをどう切り取ったって僕のやってきたことは愚か以外の何物でもなかろう。額の上の眼鏡を見失えば滑稽、額で茶を沸かそうとすれば愚か。滑稽を狙うならば、せめてヘソを使わねば。何事にも適切な道具、振る舞い、方法といったものが存在する。僕は先にも述べたように台本通りの適切な人格を演じてきたつもりだったが、その実は旅人が森に忘れた斧であるようだ。僕はいまそう考察している。

 蝉が鳴いている。窓の外で蝉が鳴いている、今まさに。「夏だな」と思うと同時に、「何回目?」という疑問が頭に浮かんでくる。そして、それに付随する形で「それで、あと何回の夏が僕には残されている?」という不安と焦燥感も僕の胸の内に広がっていく。蝉の声を聞くために生きているわけでもないのに、何故だか蝉の鳴き声がひどく気に掛かる。もしかしたら僕は、今度は森に蝉を忘れて来たのかもしれない。

 話が逸れてしまい申し訳ない。しかしながら、ホールデンが僕の為に何十年も前に怒ってくれている。

 

― その授業の時には、クラスの全員が一人ひとり立って何かを喋らなきゃならないんです。何でも好きなことでいいんですけどね。そして、その生徒がちょっとでも本題と無関係なことを言うと、できるだけ「脱線!」と言ってどなることになってるんです。これがどうも頭に来ちゃって。―

 

 加えて、ホールデンはこんなことも言ってくれている。

 

― たいていの場合は、たいして興味のないようなことを話し出してみて、はじめて、何に一番興味があるかがわかるってことなんです。―(中略)―相手がすっかり興奮して話してるんだとしたら、それはそのまま話さしてやるのがほんとうだと僕は思うんです。僕は興奮して話してる人の話って好きなんです。感じがいいですね。―

 

 そうか。僕は感じがいいことをしているのか。よし、勇気を持って続けてみよう。

 ホールデンは弁論表現という授業のなかで感じた違和感について語っていた。サリンジャーのすごいところは、直接自分の言葉でそう言ったのではなく、ホールデンという架空的人格を生み出して、それに自分の価値観について語らせたことにある。そういう意味では、全ての作家を僕は尊敬しているが、中でもフィクションというストーリーあるいは台本がある世界の中で、そのホールデンの言葉がメタ構造的に自らに対する皮肉になっている点で、やはり僕はサリンジャーの物書きとしての腕を賞賛しないわけにはいかない。

 ともあれ、僕がこのように他人の言葉の引用、引用、引用ばかりで文章を紡いでいる現状はどうにかせねばなるまい。このままでは、僕はオスカー・ワイルドが言った「情熱は引用」という言葉に完全に当てはまってしまうことになる。僕は自らの情熱、つまり思考と思想を語っているつもりになっていたが、結局のところ振り返って見れば、それはただの引用に過ぎない。思考は誰かの意見、人生はものまね、情熱は引用……こんなにも今の僕を的確に表現している言葉があるだろうか。しかしながら、せめてもの救いは、「記憶は借りもの」という言葉がないことだ。僕も僕なりに格好つけて名言めいた迷言を残すとするならば、「記憶は仮りもの」とでも言ってみようか。僕の記憶は、断片的イメージの総体とでも定義するしかない不確定で仕様もない代物ではあるが、それにしても他人のものではない。それだけが救いだ。あらゆる意味において記憶は出発点であり、その上に堆積する種々雑多なあれこれといったものは、誰かの意見やものまねや引用でおぞましい色彩へと装飾されるが、それにしても土台が僕のものである以上、それより上の部分が他人からの借り物であったとしても、全ては僕のものになるはずだ。土地を僕が提供している以上、その上に建っている構造物も全て僕のものになるのだ、法律上。いや、法律上は別々に所有権が発生するのだったか? 残念ながら僕は法律的なものが至極苦手なため、この話はここで終わり。ロス・タイムはなし。無論、延長戦にもつれ込ませるつもりもない。話は変わるが、アディショナル・タイムという言葉よりも、ロス・タイムの方が言葉として趣はないだろうか。僕は言葉の正確性よりも、言葉の持つハブ(ネットワーク用語)的な役割を重視する。アディショナルという言葉が連想させるものよりも、僕はロスという言葉が連想させるものの方が個人的に好きということだ。ロスという言葉は何となく、あの心を満たす西海岸を連想させるではないか。なんて、ちょっとした可愛げを見せる術も僕は覚えた。しかし、実際に僕は幼い時分、ロス・タイムという言葉に対してどこか心地の良い違和感を覚えたものだ。ロサンゼルスの柔らかな空気感、それと対照的な目の前の「残り時間わずか」という焦燥感。天に召される瞬間は、本当はそういう相反する感情の綯い交ぜみたいな気持ちになるのではなかろうか。そう、感覚としては蝉の鳴き声を聞いた時と近い。どこか懐かしく、ふわりと心が温かくなる半面、あと何回この声を聞くことができるのか、という焦燥感が僕を襲う。いくらか前にも言ったように。こういった感情を僕は感傷的と表現していると思う。

 さて、言葉がハブの役割を持っている以上、こういった不可思議で心地よい邂逅というものも訪れ得るだろう。つまり、知らず知らずのうちに、再び蝉の鳴き声に晒されているというようなことだ。

 ふらっと散歩に出て、道に迷うまで歩きまくる。本当に自分のいる場所がわからなくなり、少しずつ焦って来る。方角的には自分の住む町に戻りつつあるはずだが……と思いながらなおも歩いていると、ふと目の前で火花が弾ける。どこかで見たことのある景色……あぁ、ここか! こんなところに出てくるのか! いやぁ、それにしても、こんな角度からこの街を眺めたことはなかった。もう何年も住んでいるというのに。 

 散文は散歩的であるべき。言葉の持つ関係性の迷路を僕は歩く。全ての言葉が全ての言葉に対する枕詞であるかのように、僕はあくまで自然に、特別な企みなどなしに、ただただ思いつくがままに歩を進める。もしも何か起承転結のある物語を書きたいのであれば、それ相応の準備が必要である。物語は、言ってみれば山登りみたいなものであるかもしれない。どの山に登るか、目的地は山頂で良いか。道具は何が必要で、どれくらい休みを取れば問題なく登って降りて来られるだろう。そうだ、食料も忘れてはならない……エトセトラ、エトセトラ。神よ、我に全ての準備が整った登山リュックを与えよ。

 要するに、僕はそういったものを準備するのが面倒で、面倒で仕方ないのだ。というか、そもそもそういう計画めいたものができない人間なのだ。体質的に。

 畑を耕し、半年先の食物を作る。そういった行動と成果に時間差のあることができるのは人間だけだ、とどこかで聞いたことがある(また、匿名の引用だ)。しかし、蟻だって不確定な成果物の為に歩き回ることはできるし、そう考えると結局程度の問題だけでしかないように僕は思う。人間の方が若干複雑なだけだ。義理堅い虫として、蟻さんに漢字を当てがってやったりしているが、そういう高慢な態度は如何なものか。神はすべてを作り、人間はそれに名前を与えた。これは僕の言葉だ。誰の引用でもない(もし、誰かが僕より先に言っていなければ……というか、そういった「先に言ったもん勝ち」的な世界は正直ちょっと疲れる。発明にまつわる特許や論文みたいなものにその傾向は現れがちだ。とは言うものの、時系列的な社会に生きているうえで、その辺を蔑ろにしたら何もうまく回らなくなる、というのもわかる。しかしながら、僕は思うのだが、人が権利を主張するということは、それはつまり自己防衛であり、自己防衛であるということは、それはつまり攻撃になり得る。「敵国が攻めてくるに違いない。敵は強大だ。このまま敵のペースで攻撃をされれば、我が国はひとたまりもない。故に、こちらから奇襲をかけ、先手を打とう」と相手は考えているはずだから、そうされる前にさっさと潰してしまえ。これが戦争だ。このことから鑑みるに、権利を主張するということは一種の攻撃であり、なぜ攻撃が必要なのかと言えば、「故に」と傍点を打ったように、人は根本的に性悪説を信奉しているからだろう。性悪説を否定できない心が、自己防衛と攻撃の境界線を曖昧にしてしまう。こうなると、将来的な成果を予測できる人間様の特質が、人間が性悪説信奉者となってしまうことを促しているように思えてくる。人間と蟻の時差的成果物に対する態度の違いについて、「それは程度の問題に過ぎない」などと言っていたボンクラは誰だ! 結局のところ、その差が人間の特質を浮き彫りにしているではないか。人間を性悪説信奉者とすることによって)。

 まるで僕は裁縫をしているようだとも思う。ボタン留めのために何度も繰り返し、繰り返し、同じところを縫っていく。完全に同じところには針を通せないから、ほんの少しだけ先をずらして。デジャビュが無意識な既視感であるのに対して、僕がやろうとしていることは意識的な既視感と言えるかもしれない。しかも、それは歴史的、記録的既視ではなく、あくまで既視感に留まる。僕は記憶を掘り起こそうとしているわけではあるが、既にご察しの通り、ごく一般的な「思い出す」という作業とはどこか異なる。その実態が、既視と既視感の差異である。つまり、僕は意識的にデジャビュを生み出そうとして、どこかの身体が緑色の異星人のように、口を大きく開けて嗚咽を続けているのだ。

 細かいところを確認しよう。

 散文は散歩的でなければならない。目的の一つはたしかに既視感を得るところにある。「あぁ、こんなところに出てくるわけね」。僕はこれをしたり顔で言いながら、何度か首を縦に振るようなことをしてみたいわけであるが、しかし、それが全てではない。もう一つ別の理由もある。僕のやりたいことと言えば、迷うことである。大通りを離れ、細い道へ。綺麗な庭先のある家を見つければそちらの路地へ。小さく、暴力がないにもかかわらず決してガンジー的でない、質素ではあるが千利休的でない、どこまでも無垢ではあるがホールデンライ麦畑ほど煌びやかでもない、そんなありふれた公園を見つければそちらの方へ。僕は悲しき青鬼にでもなった気分で手の鳴る方へと導かれていく。赤鬼の友達なんていたこともないのに、勝手に一人で家出を企てて。どうせ数時間の散歩に飽きれば、戻って来るのに。と、まぁ、そのようにして僕は道に迷う。まるで、生き方に迷っていることに対して、散歩で道に迷うという行為を重ねて、メタ構造的に自分を俯瞰するために。精神と社会の狭間で迷い、普通と自然の狭間で迷い、記憶と発想の狭間で迷う。その瞑想的迷走の中で何か記憶的に新しいものを見つけて、その上で既視感を味わいたいのである。言ってみれば、迷った先でも僕は僕の記憶の断片的イメージを見出せるということを確認したいのかもしれない。

 僕は国道のアスファルトに見える蜃気楼を出発点に据えた。しかしながら、それは出発点ですらなく、散歩の最初の脇道かもしれない。そこから僕はこんな言葉の迷路の中に迷い込んでしまった。いや、「しまった」というような過失的表現は適切ではないかもしれない。先にも述べたように僕は意識的に迷路の中へと迷い込んでいるのだから。そして、僕はその脇道から辿れるものとして、便宜上、昔懐かしき幼き恋心を思い起こさせる短いエピソードを付け加えた。無論、そのエピソードにも起承転結のようなものはないが。

 しかし、そこから先はあっという間に、さらに見知らぬ道へと迷い込んでしまう。

 とりあえず、たらたら歩いていたら遠くに少しだけ知っているような、知っていないような景色を見つける。今になって思い返してみれば、例の「蝉」のくだりは僕の知っているあの公民館の屋根だったかもしれない。そのときは「どこかで見たことあったかな」程度のものだったが。そして、そのことに気がついて、僕は知らず知らずのうちに坂を上っていたのだということに思い至る。もちろん、今もまだ坂の上にいるかどうかはわからないが。あくまでそのときは公民館の屋根が見える程度の高さまでは歩いてきていたというだけで。

 誰かが言ったように(また、匿名の引用だ。いい加減にしたい)、道はどこにでも、どこまででも繋がっている。その特性は言葉に近いと思う。散歩が散文的であるように、言葉は道である。

 いくらか小難しいことを並べ過ぎたように思う。散歩をしていれば、そういったモードに入り込むこともしばしばではあるが、幾ばくか脳みそも疲れて来た。シナプスは疲弊のあまり痙攣しだしている。言葉と迷路とシナプス。遠くから見れば、たいていのものは同じものに見える。ちなみにこの言葉は、ある小説で出会った素敵な言葉を僕なりにアレンジしたものだ。アレンジ元を確かめる為に、スマートフォンのメモ帳を見返したついでに、いくつか僕の書き留めた断片的イメージを紹介してみよう。このような機会でもなければ、日の目を見ることもないだろうから。