霏々

音楽や小説など

適応障害と診断されまして… vol.58

適応障害と診断されて157日目(3月20日)の朝にこの記事を書き始めています。今週の月曜日に祖母が亡くなり、コロナ等の影響で少し遅れていた告別式に参加するために帰省し、今もなお実家でゆるりと過ごしております。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

前回は復職2週間目として、なかなかキツい1週間を過ごしたという内容を書きました。心が揺さぶられる場面もありましたが、それ以上に頭痛などの自律神経失調症に見られるような症状に苦しめられた次第です。

 

 

ざっくりまとめると、週末にやや回復できたおかげで月曜日・火曜日は比較的調子良く過ごすことができました。が、火曜日にちょっと頑張り過ぎたこともあってか、水曜日はかなり体調を崩してしまいました。そして、木曜、金曜は実家に戻って来たので実質的に仕事に行ったのは今週は3日だけになります。

が、土曜日現在。まだ頭痛が引いておりません。

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…/復職して…

 

150日目/休み

土曜日。昨晩の夜更かしが響いて、朝はゆっくり目。体も重い。でも、休日というだけでかなり気持ちは晴れやか。朝からブログを書いて投稿。平日はなかなか暇がなくて触れなかった分、ギターを触って時間を過ごす。昼前に寮を出て、いつもの愛するラーメン屋へ。相変わらず感動する味。帰りに漫画を色々と買う。夕飯の弁当も仕入れるも、スーパーを出たらとんでもない嵐でびしょびしょに。午後は漫画を読んだり、昼寝したりして過ごす。夜、風呂上がりに地方勤務時代の先輩から電話があり30分くらい話す。先輩もこっちに転勤してくるかもという話や、近しい職場の人が自殺をしたことなどを聞く。色々ある。自分も色々あったと思い返す。

 

151日目/休み

日曜日。いつも通りの時間に起床するも、二度寝で1時間ほど余計に眠る。朝は少し創作物を書き進める。その後、2時間ほど散歩に出かける。帰宅後昼食を食べ、軽く昼寝。午後に両親と1時間ほど電話をする。電話は久しぶりで復職後初めてだったので、色々と話を聞いてもらう。やはり事態は自分の体調vs会社の要求というところか。あとはゲームをしたり、動画を観たりしてダラダラと過ごす。夕食後にまた創作物を書き進めるもあまり捗らない。

 

152日目/11日目

月曜日。頭痛はかなり微弱で、かわりに若干のそわそわ感、動悸を感じる。おそらく休み明けの出勤ということで、神経が昂ってしまったのだろう。午前中はそのそわそわ感を携えつつ、休憩多めで何とか乗り切る。昼休みにだいぶどっぷりと手指のマッサージと昼寝に見せかけた瞑想。午後からは若干持ち直し、会議では初めて出るものだったので最初はちんぷんかんぷんだったけれど、自分の提案も1つ出来て、今後の検討候補になったので嬉しかった。日曜に「無理せず」と割り切れていたため、残業もほぼ無しで帰宅。なかなか落ち着いて過ごせた1日だったと思う。あとは帰宅後にもう少し創作物が捗れば…。夜中、祖母が亡くなる。

 

153日目/12日目

火曜日。朝からやはりそわそわ感があったが、いつもより30分遅く会社に行くと決めていたので、マインドフルネス瞑想をしてまずは気持ちを落ち着ける。出社後午前中は何だか集中できずにふわふわと過してしまうが、昼前にお使いを頼まれる。初めて行くところへのお使いだったのでちょっと緊張したが、無事完遂。会社に戻って来てから、ちょっとてんやわんやな状況で仕事を進めることに。2時間程度残業して帰宅。帰宅時にやけに早歩きになっていることに気がつき、交感神経が昂っていると自覚。リラックス多めで過ごそうと決意するも、SNSに時間を取られてしまった。ちょっと反省。

 

154日目/13日目

水曜日。朝から、というか昨日の夜から腰が痛い。原因は不明。お使いで電車に乗っている間、変な姿勢だったか…? 出勤後、1時間程度で久しぶりに頭痛が出てきた。午前中には休職中にお世話になっていた上司との久しぶりの面談もして体調を報告。「前の職場の方が良かった?」とやんわりと配置転換っぽい話も振られたが、今はその時期でもないし、配置転換してもらったからと言って体調が良くなるわけではないので、「今のところでもう少しやってみたい」と答える。が、昨日の残業で疲れが残っていたせいか、午後から頭痛が酷くなり始め、「あぁ、しんどい」と思い出してからはもう吐気や眩暈まで出てしまった。頭もほぼ回らなくなり、何とか上司に早めに上がらせてもらうことを伝え、フレックスのコアタイム終了と同時に帰宅。帰路もずっとフラフラして、何度も嘔吐しそうになる。日の出ているうちに夕食、お風呂を済ませ、夜8時には就寝。自己否定をしたいわけではないが、満足に働けないことがやはり悔しい。

 

155日目/休み

木曜日。コロナの関係で遅れていた祖母の告別式に参加すべく、朝出社してからすぐに退社させてもらう。が、緊急事態宣言のこともあり、田舎特有の何とも言い難いしがらみのせいで結局参加はできず。最後まで付き添っていた両親から色々な話を聞き、とりあえずそれで納得をする。良く褒めてくれる祖母で、とても可愛がってもらっいた記憶がある。大学入学からずっと地元を離れていたこともあり、なかなか会うことはできなかったけれど、色々と負荷やストレスのかかる生活を経て、私の実家の近くに引っ越して来てからは帰省するたびに会いに行くこともできていた。最後は認知症のせいで食べたり飲んだり、点滴も受け付けなくなり、衰弱して穏やかに逝けたとのこと。冥福を祈る。

 

156日目/休み

金曜日。朝から祖母の故郷を訪れ、仏壇に手を合わせる。久しぶりに会う叔父夫婦や従姉妹とも少しだけ話した。従姉妹には子供も生まれていて、恥ずかしがっていたのが可愛い。仏壇参りまで終わると、もはやすることもなくなり、できていなかった役所手続きをして午前中を過ごす。午後はライブ動画を観た後で、1時間ほど散歩に出かける。いつも精神をすり減らすようにして歩いていた道も、少し違った気持ちで歩くことができた。そして、これからどう生きていくべきか。帰宅後、映画「ゆれる」を観賞。学生時代に1度観て以来だったけれど、やはり面白い。オダギリジョー好きだなぁ。

 

2.カレンダーまとめ

まず土曜日からですが、隔週くらいのペースでやっぱりあの大好きなラーメンを食べたくなりますね。散歩のついでにもなるので、雨予報の中、傘を持って家を出ました。そして、いつもの通りその味に感動させられます。神の食いもんだな、これは。

と、帰りの電車の中でどうも雲行きが怪しくなり、そこから酷い嵐に。駅の書店で贔屓にしている漫画の最新刊をいくつか買い、そしてついに「チェンソーマン」も買ってみることにしました。もう12巻まで出ている漫画を1巻から買っていくのは少し気が引けましたが、「おませちゃんブラザーズ」、「サンドリ(有吉のラジオ)」、「松永里愛ちゃん(Juice=Juiceのメンバー)」という3枚のカードが揃ったので購入に踏み切りました。あ、私は基本的に買い物でも奥手なので、気になっていても3つの偶然が重なるまではなかなか手を出すことがありません。なので、「チェンソーマン」はもともとちょっと気になってはいたのですが、ついに3つの全く異なるところからのオススメがあったので買ってみた次第です。

と、カレンダーのまとめからはちょっとずれましたが、そんな風にして嵐も含め、土曜日はそれなりに刺激的な休日でした。そして、夜には地方配属時代の先輩から電話があったのですが、それについては気が向いたら後で話そうと思います。

日曜日は散歩したり、両親と電話したりして、比較的に穏やかな1日を過ごしました。その甲斐も合ってか、平日に抱えていた頭痛はかなり軽減されたように思います。

月、火と出社しながらも比較的調子良く過ごすことができたのですが、火曜にはちょっとやりたいことがあって残業をしてしまい、その結果水曜日は大きく体調を崩してしまいました。やっぱり無理は良くないということですね。

そして、木、金は会社を休み、祖母の告別式などに参列するために帰省をしました。これを書いている土曜日の今も実家におります。

なので、今週は実質3日しか働いていないのですが、水曜日に出た頭痛が未だ若干残っており、そして実家にいるのに軽いそわそわ感や動悸もあります。いくら実家と言えども、環境の変化がそうさせるのでしょうか。ほんの少しだけ落ち着かない感じがあります。復職してまだ間もないのに、会社を休んでしまっているという罪悪感も原因の1つにはあるのでしょうか。なんだか堂々と休んでいられないんですよね。先週はちゃんと平日5日間働いたという実績があったので、土日はゆっくりと過ごすことができたんですが…

 

それにしても、土曜の先輩との電話、日曜の両親との電話、祖母の死、Twitterでの色々な人との関わりなどを通して、何だか色々と考えてしまう1週間だったように思います。今のところそれぞれの出来事に対しての感想を細かく書いていく予定はありませんが、次の章ではいま考えていることなどをまただらだら書いていこうと思います。

 

3.生きていくの?

適応障害って何だろう、ということについて色々と考えを巡らせていました。何となく病名だけ聞くと、「うまく環境に適応できなかった」という印象が強いのですが、よくよく考えて見ると「適応」という言葉自体、人によって考え方が異なるなぁと思います。

むしろ私が抱く「適応」のイメージから言うのであれば、「うまく環境に適応しようとし過ぎた」というのが「適応障害」であるように思います。同じように「適応障害」になった人はおそらく賛同してくださる方が多いのではないでしょうか。そして、それに賛同してくださる方の一部分には「生きるのってなんでこんなに大変なんだ?」と思っている方もいるんじゃないでしょうか。私なんかは皆が比較的平気そうな顔をして、時には希望を感じながら生きていることが、まったく理解できませんでした。いやいやいや、もうどうしたって生きることなんてハードなだけで、絶対に早く死んだ方が得でしょう。死にたくても生きているせいで、恐怖なんてものを感じてしまい、死ねないだけ。そもそも生まれて来なきゃこんな袋小路に追い込まれることなんてなかったのに、とずっと考え続けていましたね。

なんでこんな風に思ってしまうのかというと、その理由の一つが私の場合「適応障害」でした。これは明確な病名がつく以前からの「適応障害」です。

つまりですね、私の中では「適応」という言葉のイメージは、インフルエンザウイルスみたいなものだったのです。インフルエンザというよりは、もっとSF的な感じで「史上最悪の変異型ウイルス兵器」、あるいはドラゴンボールのセルみたいなイメージとでも言えばわかりやすいかもしれません。環境に合わせて自らの遺伝子配列をどんどん書き換えていき、あっという間に環境に適応した機能を手に入れてしまう。これが私の「適応」に対するイメージでした。

社会というのは刻々と変化していきますし、転勤などを期に身の回りの環境はがらっと変わります。新しい環境に放り込まれ、「ここでは左腕はいらないから、右手の指を10本にしておけ」と言われた場合、私なんかは「イエッサー!」と躊躇なく左腕を切り落としてしまうような人間です。明確にそう言われなくても、「ここの環境に適応するためにはどんな自分であるべきか?」ということを考え、できるだけそれを達成しようとしてしまいます。たとえ、それが自分を殺し、全く新しい人間になることを求められていようとも、可能な限りそうできるように自らを強制してしまいます。

別段、新しい環境に放り込まれなくたってそうです。もちろん環境に慣れてくれば、ある程度そうやって自分を大きく殺す機会は少なくなるでしょうが、それでも日々「今の自分はこの環境において適切か?」ということを考えてしまい、その度に自分を殺してしまいがちです。自分はそういうことが器用にできるという過信もありますし、また同時に本当の自分というのは醜い存在だから、それを取り繕わなくてはならないという自己否定の想いもあります。だからこそ、私は過剰に環境に「適応しよう」としてしまうのかもしれません。

でも、そのようにして生きることはとても苦しいことです。

絶えず自分を環境から求められる姿に変化させようとすることは、絶えず今の自分を蔑ろにし、あるいは否定し、自らを矯正し続けることにほかなりません。私がどれくらい徹底的にそれを行えてたのかはわかりませんが、少なくとも私に何かを「期待」し、あるいは「要求」してくる社会というもの全般を憎むくらいには、そういったことに取りつかれていました。求められればそれに応えようではないか。そして、一時の虚栄心を享受する。でも、そんな虚栄心には際限がないし、より自分を追い詰めるだけだとわかっている。ただその場を上手くやり過ごすことができればそれで良いのに、それでも何故かうまくやろうとしてしまう。本当はただ1人きりにして欲しいだけなのに。

私は学生時代に「もう他人や社会には何も期待するまい。1人きりでも、音楽と文字と季節さえあればそれで充分幸福に生きていける。だから、頼むから放っておいてくれ」と何度も願ったものです。

それくらいには私は「適応する」という行為を永遠に続く地獄のように感じて生きてきたように思います。

 

でも、そもそも私は「適応」という言葉の意味をはき違えていたのかな、と最近思うようになりました。「与えられた場所で咲きなさい」とか「自分の個性を活かしなさい」とか「自分らしくやっていけばいいよ」というような言葉の本当の意味を私は理解できていませんでした。何故ならば私がやるべきことは、求められたように左腕を切り落とし、右手の指を10本に生やすことだったからです。でも、意外と多くの人はそういうことをやっていたわけではなかったようです。もう少し現実的に、左腕が邪魔なのであれば、ちょっと半身の体勢になってみるとか、指を10本に増やすことは無理とさっさと諦めているようでした。その代わりに自分のできることを自分なりの方法で提供する。そんな感じでやっているんでしょう、きっと。

テトリスで言えば、私以外の要因によってもうだいたいの形が出来上がっている。故に、何となく求められる形というのがわかってくる。だからそれに合わせて、私はこう…何とかして無理やり自分というブロックの形を変えようと試みるわけです。でも、そんなことはほとんどできるはずもなく、ただただ自分を痛めつけるだけです。私たちにできることは、L・Rボタンで自らのブロックを回転させ、現状の最適解となるように自らの収まる向きを調整するくらいのものです。

そのような無理な自己変容を伴わない周囲との関係性の構築こそが、すなわち「適応」という言葉の本当に意味するところなのでしょう。

 

だから、私はそもそもの病名がつく前から、「適応」という行為において「障害」を抱えていたということになります。何もそんな風に自分を無理やり小さい箱に押し込めるみたいなことに躍起にならず、ただただ自分という存在を受容し、理解し、現在の環境との間で妥協案を模索することだけをやればよかったのです。そもそも体だって硬い方ですからね。関節を外して、スポーツバッグに収まるなんて芸当は私にはできません。

今回、ちゃんと病名がついてみて、ようやくそんなことがわかるようになってきました。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶと言いますが、私は本当に愚かな人間だと思わされます。でも、そんな愚かな私でも、実際に自分が経験してみることで、今までの苦しみばかりの生き方はやめても良いんだと思えるようになってきました。

 

今までは本当に生きていくことが辛く、早く死の瞬間が訪れることを心待ちにしていました。こんなに苦しみに満ちた人生であれば、いずれ自死を選ぶであろうということが常に念頭にありました。それ故に自暴自棄な生き方をしてきたようにも思います。

でも、そんな苦しみに満ちた人生を選ぶ必要はなかったのかもしれません。環境に合わせて自分を変えるというのは大切なことではあるのでしょうが、しかし、そこには交渉の余地があるということを忘れてはいけません。そして、交渉して上手くいかなければ、新しい場所を探すだけです。私たちにはそれぞれに自分の形というものがあって、それをできるだけストレスなく収められる場所を探す、あるいは作っていく。そういう作業がすなわち「生きていく」ということなのだと思うようになりました。

「何のために生きていくの?」、「こんな苦しいのに何で生きていくの?」という自問をこれまでずうっと繰り返して来て、「生きるというのは虚無で苦しいもの」という答に今まで縋りついてきました。なぜなら「死は虚無であり、生きることの行く末はその死という虚無である」からです。そう思えばこそ、私は「虚無に苦しく生きていこう」と思っていたわけですね。

でも、それ以外の解もある。

今は「少しずつ自分という形にあった生き方を作っていくこと」が生きていくことなんだと思っています。今までは自分を変えることばかり考えていたから辛かったのです。これからは世界との関わり合いの中で、より自分に合った生き方を作り上げていき、より生きやすい環境を作って行きたいと思っています。それがすなわち環境に適応するということなのでしょう。

 

最後に…

祖母の死。そして、地方勤務時代の先輩の近しいところであった自死。私自身の自殺未遂や希死願望。相も変わらず「死」に対して色々と考えることはたくさんあります。

ほんの数か月前なら、私なりの考えに則って、それらを受け止め、言葉にすることもできたとは思いますが、今の私はまだ移行期間。今の私には何かを言うことはとても難しいです。頭痛と眠気に襲われている今は特に。

そんなわけで今回の記事はこれにて終了です。

来週は夜勤もやってみることになりました。いったい、これから私はどのような人生を選んでいくことになるのでしょう。悩みや逡巡、戸惑いは尽きないですが、とにかく今の自分を受容し、その上でどんな局面においてもただ自分が進みたい方向へ進んでいければ良いと思います。人生を連続したものと考えると辛いことも多いですが、ただの点の連続と考えれば、向かうべき方向は自ずと見えてくるはずです。

 

次回

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適応障害と診断されまして… vol.57

適応障害と診断されて150日目(3月13日)の朝にこの記事を書き始めています。今日は雨が降り、会社に行く日なら憂鬱だったかもしれませんが、お休みなのでとても心地良いです。昔から雨の日の休日は好きです。「雨だし外に出なくて良いなぁ」と引き籠りを肯定的に思えますし、雨の音が色々な生活のノイズをかき消してくれるような気がします。

センチメンタルな気持ちになっても、それを柔らかく包み込んでくれるような気がするので、心穏やかに自分らしくいられる気がしますね。

 

前回

eishiminato.hatenablog.com

 

前回は主に復職1週間目の内容でしたので、今回は当然ながら復職2週間目の内容になります。

 

 

ざっくりお話すると、とても疲れた1週間でした。先々のことに不安を覚えたりもしました。でも、適応しようとしているんだなぁ、ということも同時に感じたりしています(適応障害の人間が)。

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…/復職して…

 

144日目/休み

日曜日。1日中だらだらとドラクエⅪをして過ごす。クリアしたと思ってから、予想以上の長さ。レベルアップ兼てクエストやり込み始めたら、めちゃくちゃ時間がかかる。頭痛は気になる程ではないが、なくならない。医者にも言われたが、頭痛という反応が出ているのはあまり良くない状況。慣れるまで待てば良いのかどうか。でも、まだ無理をしているという感覚は無いので、多少自分を信じてやってみようと思う。

 

145日目/6日目

月曜日。朝から頭痛と疲労感で調子が良くない。特に音がうるさく聞こえるという神経過敏を感じる。休もうかどうしようか迷いながら、行ってみて無理なら午後半休にしようと決めて、いつもより30分遅れの出社。フレックスなので問題の無い範囲。結局、いつもの定時まで働くことができたが、音は1日中気になった。早く寝ようと思うも、ドラクエしてたらいつもの時間に。でも、翌日にはクリアできそう。

 

146日目/7日目

火曜日。おそらく前日に薬を飲み忘れたせいで、夜中に何度も目が覚めた。すぐにまた入眠できるので大きな問題にはならないが、レム睡眠時に毎度目が覚めるのは何となく疲労感が溜まること。特に朝方は4時くらいからずっと夢を見っぱなしで、ノンレム睡眠まで達せなかった気がする。3日分の夢を見た気分。会社では休憩を多めに。また、初の職場外へ出る業務。休憩が取れなかったので、疲れが出たのか、帰宅時に耳鳴り。そして、Twitterのアカウントを始動させた。SNSで人と関わる中で、何か意味のあることができたらと思う。

 

147日目/8日目

水曜日。やや頭痛を感じ、疲労感はあるも大きな問題はなし。出社し、午前中は集中して仕事ができた。午後に上司から来週から夜勤をしないかという打診。現状の体調を考えると難しいので、正直にそれを伝えることができた。しかし、「いつまでも昼間だけってわけにはいかねぇからな」と言われたのが、まるで今の自分を否定されているように感じ、感情が揺さぶられる。また、その後急ぎの仕事が舞い込み、2時間ほど残業。復職後1番頑張ったし、普通に疲れた。心身のケアを丁寧に行わないと。

 

148日目/9日目

木曜日。朝から強めの頭痛と、疲労感。天気が良いことが幸いし、ゆっくり過ごしているうちに気を取り直し、いつもより30分遅い出社。今日も集中して業務に取り組むことができたけれど、やはり昼過ぎから頭痛が強くなってきて、何とか定時まで。定時の後、1時間程度サービス残業…というか、やらなければいけない個人業務があり、それをやってから帰宅。途中まで会社で優しくしてくれる先輩と一緒に帰れたのが良かった。それはそれとして疲労と頭痛でまともに自由時間も過ごせない。こんな生活に持続性があるのか疑問を感じ始める。

 

149日目/10日目

金曜日。夜中3時半に腹痛で目が覚める。朝は疲れが蓄積している感じがあり、先々に不安を覚える。しかし、この日は職場に人も少なく、落ち着いて仕事に取り組めた。急ぎの仕事はさっさと終わらせて、重めの仕事も時間をかけてほぼ終わらせることができた。過集中せず、自分のペースでなら比較的負荷を感じることは少ない。周りに人がいるとその人たちがせかせか働いているのに引っ張られてしまったり、単純に様々なノイズが刺激となってしまうのだろう。帰宅後はドラクエⅪをして今度こそクリア。さらにまだ裏ボスがいるみたいだが、それはまた先にしよう。ちょっと夜更かし。

 

2.お知らせ

わざわざお知らせするほどのことではないですが、今回分から毎日つけている日記の内容をそのままコピペで載せることにしました。これまではより簡易的な日記から当時のことを振り返り、書き直していましたが、今回から記事に書く内容は基本的に当日の夜に書いたものになります(遅れて翌日…ということもありますが)。

まぁ、そんなこと気にならないと思いますが、今までもう少し客観的だった内容が、ちょっとその日の気分とかも入り混じる感じになったのでご承知おきください。

 

また、Twitterも稼働させました。

 

twitter.com

 

これまでは基本的に好きなアイドルやアーティストの動向を追うだけのもので、あとは適当な愚痴を呟いていました。が、それらは全部別のアカウントにして、復職に関するものだけをこちらに呟くようにしています。

ブログにコメントしてくださる方がちょくちょくいらっしゃって、やはりこの病気に関することは誰かと痛みを分かち合うことにも繋がると思った次第です。心境の変化ですね。

ただ140字という字数制限は私にとっては非常に困ったもので、このブログを読んでくださっている方がいらっしゃったら既にお分かりの通り、私はとんでもないお喋りなんですよ。ベラベラベラベラと、いつまでも愚にもつかないことを書いていられます。普段は、良く言えば「物静かな青年」、悪く言えば「根暗の社会不適合者」みたいな感じなのですが、人体の構造上指は10本あっても、舌は1枚しかありませんからね。いくら物静かと言えど、10倍も喋るようになったらそれは充分お喋りです。いや、でも実際は10倍以上お喋りになっていますね。

 

Twitterは本当にただの呟きです。だいたいいつも文字数制限をオーバーするので、書いては消して状態になります。

対して、このブログではもう好きなだけ「ああでもない、こうでもない」を繰り返しながら考えを掘り下げていきたいと考えています。思考と同スピードで言葉が溢れていく…指が追い付かない…! なんてカッコイイことまで言ってしまえそうです。

というわけで、別段「Twitterの方もぜひ!」と言いたいわけではありません。実際、あまり呟いていませんし。多分、このTwitterがどうこうというこれまでの文章量は、私がこれまで呟いた全文字数を既にオーバーしていると思われます。

 

そんなお知らせでした。

 

3.カレンダーまとめ

ちょっと寄り道しましたが、カレンダー内容をまとめていきたいと思います。

この復職2週間目ですが、個人的には結構キツかったですね。というのも、仕事に慣れだしてくると「ただいるだけじゃダメだ」とか「もっと仕事ができるように」とか、「周りの人は頑張っているぞ」とかそういうことを否が応でも考えてしまって、ついつい「頑張ろう!」としてしまうんですよね。

もうそれが良くないことは百も承知で、頭痛まで酷くなっているのに、どうしても自分で自分を制御できない。というか、「いいんだよ。ゆっくりやっても」と言い聞かせても、むしろ「手を抜いている…」みたいな焦りの方が大きくなってしまうんです。結局、休職を経てもあまり変われていないんだなぁと思ってしまいます。

しかしながら、こうしてそういう状態に気がつけているだけでも、まだマシという気がします。少なくとも、一度落ち着いて考え直し、何とか行動を修正してみようという気になります。何とかその気づきを見落とさずにうまくバランスを取っていきたいものです。

 

具体的な今の状態について説明すると、自律神経失調症的な症状が出やすいということに尽きますね。まだまだ副交感神経(リラックス担当)が衰えているのか、交感神経(興奮担当)優位になりがちで、その状態が続くと頭痛がまず出てきます。しかし、頭痛が出てきても、興奮状態にあるのでそれを無視してしまいがちです。というか、「これくらいの頭痛で休んでいたら何もできん!」となってしまうんですよね。なので、大抵それが軽い眩暈や吐き気に変わってくるまでは、ついつい突っ走ってしまいます。そして帰宅後に交感神経がぷつんと切れて、ガイン、ガインというオノマトペとして適切なのかもよくわからない酷い頭痛に襲われるわけです。

そしてそこまで心身を酷使したわけですから、夜間の中途覚醒や腹痛、耳鳴りといった自律神経失調症的な症状のオンパレードみたいなことが引き起こされるわけです。

いや、もうそんなシステムはわかっているんですよ。勉強してきましたから。

問題なのは、そんなことわかっているのにできないよ!ということなんですよね。自分の体調ベースでやりたいと心から願っています。でも、どうしても周りに引っ張られてしまう。木曜日までは酷くなっていく症状にただただ戦々恐々としている感じだったのですが、金曜日に比較的人の少ない職場で1日過ごしてみて、気がつきました。そうです。自分1人(あるいは人が少ない)のときは、その辺のペースのコントロールが割とうまくやれるんですよね。もちろん頭痛が消えるほど良くなりはしませんでしたが、明らかに感じる負荷が減りました。

 

周りが忙しそうにしていると、自分ももっとやらなきゃと思ってしまう。

 

当たり前のことですが、この当たり前に私は苦しめられているわけですね。そんなの無視して自分のペースでやっていくしかないさ、なんてことはわかっているんですが、どうしたって多少は引っ張られてしまいます。また、その周囲の人の発するパワーというかオーラというか、そういうのも私の神経を逆撫でるのです。

銃撃戦が繰り広げられている戦場で、一人「私はいまお紅茶の時間ですの」と優雅に過していたら、たとえその人がお紅茶を飲まなければ死んでしまう人でも、背中から撃たれても文句は言えません。だからティーカップを投げ捨て、少なくとも形だけは私もヘルメットと迷彩服に着替え、塹壕の中から敵兵に銃口を向けていなくちゃいけないわけです。それが1番安パイ。生存確率が高い行動。そんな風に無意識に周りに順応しようとしてしまうのです。

書いていて思ったのですが、「紅茶を飲みながら背中から撃たれて死ぬ」か「紅茶を飲まないことで死ぬ」かならどっちを選ぶ?という疑問も当然あります。「どうせ死ぬなら紅茶を飲んで死のうよ」と考えるのはとても正当なことですし、もしそんな究極の問いを迫られるのであれば、当然私も紅茶を飲んで銃殺されます。

でも、そういうことでもないんですよ。それでは結局適応障害にもなれずに、ただただ不適合者として社会から抹殺されるだけです。

なので私はヘルメットをかぶり、迷彩服を着て、敵兵に銃口を向けながら、胸元に忍ばせた汚らしい水筒で紅茶を啜るのです。そのようにして生き延びていくのです。

 

…さて、するとまた次の問いが降ってきます。

そんな人生って幸せ?というものです。あぁ、これが出て来ると結構ヤバいですね。

そんな風に生き延びてもただ疲れて、ボロボロになるだけの人生だ。紅茶を飲んでも殺される。紅茶を飲まなくても死ぬ。バランスを取って生き延びようと思っても、そんな人生は幸福とは言えない。ただの消耗…そうして自分の敵兵から自分の口の中に銃口の先を向け変え、親指で引き金をひくことになるのです。

はい。八方塞です。でも、こういう状態に追い込まれる時って、だいたい八方も塞がれていないんですよね。だいたいが前か後ろ、あるいは右か左かの二方塞くらいのものです。

私自身極論を戦わせることは好きです。人間社会や人生といったものにおいて曖昧に見過ごされている問題を1か0かで考え直すことは、物事の本質に迫る上で非常に有用な思考方法だと考えています。ディベートとか討論の上手い人って、だいたい急所を狙ってこの1か0かの問題を突き付けてきますよね。相手を大きな1に乗せておいて、その中にある小さな1か0かの問題を突きつけ、「え、あなた1とおっしゃいましたよね。それなのに、その中に含まれるその問題だけは0と答えるんですか? それは矛盾ですよね」と言う訳です。あぁ、嫌な奴。でも、そういう考え方って論理的思考には非常に重要なわけです。それをエンターテインメントとして使うのも、まぁ別に個人の趣味ですからね。あえて否定しようとは思いません。もちろん自分がそういうことをやられるのは非常に腹立たしいですが。

と、また話が脱線しましたが、要するに2つの極論を戦わせてみることは理解を促進するうえで重要であり、また非常に楽しい物事ではあるわけです。しかしながら社会で上手くサバイブしていくためには、この二極論方式を持ち出し続けると酷い目に合います。よく「あの人は1か0かの人だから」と煙たがられている人を見かけます。それも突き抜けると尊敬され始めるんですけどね。でも、大抵が社会との酷い摩擦の中で苦しむことになるでしょう。

そして、それがまだ仕事をする上での「1か0か」的な考え方であれば、正直まだ救いがあります。

救いが無いのは、「紅茶を飲むか・飲まないか」という極論、すなわち究極の選択です。飲んでも銃殺、飲まなくても病死。だから、うまいこと銃殺されないよう配慮しつつ、こっそりと紅茶を飲むという方法になるのですが、そうやって生き長らえていることに価値を見出せなくなった途端、当初の究極の選択が舞い降りて来ることになります。そして、疲れ果てた頭ではもはやその選択をすることすら億劫になり、銃口を自分に向けるしかなくなっているのです。

 

だから、「二方塞」はやめた方がいいです。というか、そんな状態はまだ「二方」が塞がっているだけと気づくことが重要なんです。まだ「六方」残っているんです。もちろん、複数の問題を抱えている人は「いや、もう既に八方どころか二十方くらい塞がれているんですが」と言いたくもなるでしょう。私自身、様々な生き方を想定し、それらを1つずつ潰し、360度、いやもはや球状に逃げ道を1つずつ潰していくことで、自分を死に追い込むような10年間を過ごしてきました。

全てを塞ぎ切って、死の中心へと向かう道程だけが生なのだと考えていたわけですね。

でも、一旦そういうことはお休みにしています。そして、今は何とか生きる方向で考えるように自分に言い聞かせています。これまであらゆる手を尽くして、逃げ道を探し出し、それを潰して来た私です。その力を逆に使えば、あらゆる逃げ道を探し出し、それをうまく活用することだってできるはず。そう思えばこそ、私はまだ何とかやっていけるだろうと思います。

注意しなければならないのは、どうしてもいっぱいいっぱいになって来ると、究極の二択で考えがちになってしまうことです。何度も繰り返しますが、紅茶を飲んで銃殺されるか、紅茶を飲まずに不可思議な持病で死ぬか、その二択しかないと思ってしまってはダメです。だから、懐に水筒を隠してそれをこそこそと飲む生活を送るわけですが、それも苦しく、そんな風に生き長らえていることに意味を見出せなくなったら、それも危ういです。そんなときはもっと選択肢を広く持つようにしたいものです。

別に会社を休んだって良いし、もう1回休職しても良い。それこそ今度こそ転職という手もある。2回休職したんだから、もう充分でしょう。合わなかった、それで良いじゃない。より自分に合った生き方にシフトしていくだけです。私の大好きなドラマ「最高の離婚」でも、離婚をした結夏(ゆか)に向けて淳之介くんが「じゃあ、結夏さんはいま幸せになる途中なんですね。だって、結婚も離婚も幸せになるためにすることじゃないですか」と言うセリフがあります。

あらゆる選択が可能だし、あらゆる選択は自分のためになる。

そう思い、来週もまた無理なく過ごしていきたいと思います。

 

駄目になってしまうなら それでいいじゃないかと笑う

ー ハヌマーン「バクのコックさん」 

 

4.認知行動療法

カレンダーにも書きましたが、水曜日に私は上司からの言葉で酷く動揺してしまいました。帰宅後、なぜそんなにも動揺してしまったのかを整理し、自分でメンタルケアを行うためにガッツリと認知行動療法をやってみました。

誰かの何かの参考になればと思い、ここに載せます。

 

******

上司から「来週から夜勤やるか?いつまでも日勤ってわけにはいかねぇからな」と言われ、心を揺さぶられる。
自分の体調を最優先で判断をすると決めていたこと、そして夜勤に対してまだ恐怖があったことから、何とかもう1週間延ばしてもらうよう頼んだ。
これは良い判断だったと思う。でも、それ以上に心が苦しくなった。
理由の1つには、多分夜勤に対する恐怖が1番大きかったのだと思う。
今の自分の体調はまだまだ万全とは言い難い。
しかしながら仕事にも慣れて来て、確かに日勤で持て余している感もある。
おそらく今が1番微妙な時期だったのだ。
自分でも無意識のうちに「そろそろ夜勤もやって行かないと。でも、体調がまだ安定しない。もっと先延ばしにした方がいいんじゃないか」という、葛藤を抱いていたのだろう。
できればこのまま夜勤を含め、本格的に働くというとを先延ばしにしたいという甘えもあったのは確かだ。
つまり、ちゃんと夜勤を全うし、周りから認められたいという承認欲求と、もっと楽に働いていたいという怠惰欲があったのだ。
同時に、もっと意義のある業務をやりたいという発展欲と、それができないのではないかという不安を抱えながら、それを処理できていなかった。
今の私がやるべきことは、夜勤開始の時期をきちんと体調を鑑みて、計画を立てること。
そして、決して自暴自棄になるのではなく、夜勤をやってやっぱり体調を崩すようであれば、それはそれまでという割り切りだ。
そこまで考えれば何を恐れることがあろう。
確かに、そこから業務が本格化し、また潰れてしまうことは怖い。
でも、もう既に1度潰れているのだし、受け身の取り方はわかっている。失望のされ方もわかっている。
これで夜勤がダメだったら、いよいよ転職を考えようじゃないか。
そういうきっかけと捉えなおそう。何も計画は変わっていないじゃないか。

あと辛かったのは、今の自分の日勤業務を否定されたように感じたからだろう。
でも、それも自覚はあった。
今の自分は会社にとって価値のある存在とは言い難い。周りへの示しもつかない。
だから、甘えていたのは私であって、現状の自分で満足しようとしていたことを見抜かれたと感じ、恐怖したのだ。
単純に自分が役に立っていないという事実を突きつけられた衝撃もあったけれど、自分の無能を見て見ぬふりをしていたからこそ、図星だったからこそ、余計に傷ついたのだ。
これも「今の自分は結構うまくやれてるでしょ?」という周囲に対するアピールをしようとしていたことが根本にある。
それが覆されて辛かったのだ。
人は関係ない。だから、人に今の自分を否定されても傷つくことは無い。
そして、自分を否定されることを恐れていないのだから、自分を立派に見せようとすることはない。
立派に見せようとする必要が無いのだから、「こうありたい。こう見られたい」という願望を覆されたからといって、傷つくことは無い。

そして、怒りもあったかもしれない。
今週頭に「医者からもっとゆっくりと言われた」という旨のメールを送ったではないか。
頭痛や眩暈が酷いと報告したではないか。
頑張らなきゃいけないのなんてわかってる。
でも、できないんだと言ったではないか。
なんでその意図を汲んでくれないんだ。
そういう怒りを感じている。
自分なりに上手く報告したつもりだったのに、全然伝わっていないではないか…そういう虚しささえある。
だから私は上司に失望している。
でも、上司が言っていることも上述の通り、正しい部分がある。
上司なりに私の気持ちを推し量ってくれているのだ。
だからこそ、「夜勤やってみないか」という提案をしてくれ、私が無理だと答えたら、大人しく引き下がってくれたのだ。
そう、上司は引き下がった。
交渉の余地がないわけではないし、上司は私を追い込むというよりも、私の周りからの見られ方などを含めて配慮して提案をしてくれたに過ぎないのだろう。
言葉遣いとかはアレだけど(笑)。
だったら感謝こそすれ、怒りは見当違いだったかもしれない。

そういうわけで、今日あったこの「夜勤打診事件」に関しては、
私が気に病むことではないし、私は私できちんと自分の体調を把握したうえで、上司の期待に応えるという意味でも、とりあえず1回夜勤をやってみれば良いと思う。
今週末の調子が良ければ、来週後半に夜勤を汲んでもらうよう、こちらから打診してみても良いかもしれない。
不安があって1度断ってしまったけれど、やってみないことには何とも言えないし、やってみたいと伝えれば良い。
きっと上司は進んで予定の調整をしてくれるだろう。
そういう頼り方もありだ。

 *****

 

30分がかりでこんな風に認知の歪みを修正するようにキーボード叩いていました。いま読み直すと「まぁ、そうだろうな」という感じですけれど、これを書いている当時は私はもう胸が痛くて痛くて、とても辛く感じておりました。「もっと頑張らなきゃいけないのかな」とかなり落胆し、同時に焦りや絶望感があり、ちょっといつもの精神状態ではいられませんでした。

でも、こうしてしっかり自分の気持ちを吐き出し、整理し直すことで、だいぶ不安は小さくできました。実際的には夜勤をうまくこなせるようになるまで、根本的な問題は解決していないのですが、少なくとも漠然と苦しみだけを考えているよりはこうやって不安や苦しみを分別しておく方がずっと健全です。

嫌な気持ちは小さくして分別し、ベランダに放置。

あとはゴミ回収の日まで待ちです。大事なのは「もうほとんど捨てたようなもんだもんね」と思えることだと考えています。分別してもしなくても、夜勤がうまくこなせた段階でその不安ゴミは捨てられることになるのですが、だったら散らかして異臭だだ洩れ状態で放置しているより、ちゃんと分別して整理してゴミ袋に入れて外に出しておいた方が健康には良いです。

きっとこういうのも認知行動療法なんでしょうね。

 

最後に…

今日は土曜日。もう半分弱過ぎ去ってしまったけれど、休日を謳歌しよう!

 

前回

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適応障害と診断されまして… vol.56

適応障害と診断されて143日目(3月6日)の夕方にこの記事を書き始めています。

 

前回

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前回記事は今週の月曜。復職初日に書かせていただきました。復職自体はなかなか喜ばしいことのはずですが、喜びよりも不安や初日の疲労もあって、何だか微妙なテンションの記事になっていますね。

 

 

今回は主に復職第1週目がどういった感じだったかを書いていきます。できること、できないこと。注意すべき事など、色々と勉強になる1週間でした。

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…

 

139日目

火曜日。天気が悪く、通勤時から頭痛と吐き気、若干の動機があり。おそらく前日の業務で抱えたストレスやプレッシャーが脳裏にあったからと思われる。出社後、時間をかけて手指のマッサージ、深呼吸等でリラックスさせる。業務自体は前日よりもややスムーズに進めることができた。また、隣の席の先輩がとても丁寧に様々なことを教えてくれた。感謝。少し残業時間に割り込んだものの、ほぼ定時で退社。上司に軽く怒られるも、受け流すことができた。

 

140日目

水曜日。朝起きて頭痛を感じる。出勤前に一息つくことを決め、休んでいると10分くらいで頭痛が収まり、結果いつもより10分程度遅れただけで出勤できた。昼食がいつもより多め。そのせいもあるのか、昼過ぎから頭痛が出始める。いつもより30分程度早めに退社。勤務上問題の無い範囲。帰宅後早めに夕食。動画を観たりして過ごすも頭痛が強く出ているので、風呂もすぐに済ませ、2時間程度早く寝る。

 

141日目

木曜日。昨晩の強い頭痛は緩和されたが、出勤後に腹痛。昨日の反省を踏まえ、休憩を多めに取り、何とか体調の悪化を防ぐ。業務に慣れてきて嬉しい感じもあるが、「もっと色々できるように」と急いてしまう自分がいるので、そことバランスを取るのにも注意が必要。帰宅後はクレジットカードやアプリの設定を行い、ポイント還元率を高くする方法を模索。また、キャンペーンにも申し込む。これで沢山ポイントが入ればいいのだけれど。

 

142日目

金曜日。この日も1日リラックスタイム多めで過ごす。1日を通して軽い頭痛あり。業務自体は少しずつ色々なものに取り組んではいるが、本格稼働できないうちの隙間産業的業務は多くなく、ちょっと手持ち無沙汰な感じもある。が、今は自分の体調優先で良いはず。それでも退社直前に技術的な談義が盛り上がり、無駄に残業してしまった。帰宅後は楽しみにしていた「凛として時雨」の配信ライブを楽しむ。前回の配信ライブよりも粗めの「音」でとても良い。少し夜更かし。

 

143日目

土曜日。昨晩やや夜更かししたにも関わらず、いつもの時間に目覚まし無しで起床。ただの習慣なら良いけど、リラックスできていないせいだとしたら、ちょっと考えもの。今回の診察からちょっと早めの時間帯に。頭痛の件や勤務の状況を話すと、「もっとゆっくりで良いと思いますけどね。くれぐれも無理なさらず」と言われた。頑張っていると認めてもらえ嬉しい反面、気をつけなければと、勝ってもいないが兜の緒を締める。診察後に3時間ほど散歩。昼はラーメンを食べて幸福。でも、帰宅後に軽い頭痛が出る。やはり大食は交感神経を刺激し過ぎるか。

 

2.カレンダーまとめ

というわけで、復職しての最初の1週間は無事勤務的には問題なく、定時出社定時退社を基本として過ごすことができました。まぁ、フレックスを導入しているので、そこに救われた感もありますが。

ただこの1週間ずっと頭痛に悩まされています。やはり業務が始まったことによるプレッシャーと、実際的な負荷が問題のようです。特に業務だとついつい集中し過ぎてしまうので、軽く時間を決めて休憩するように心掛けています。私の不調の原因は交感神経(緊張や集中)の過剰活発かつ副交感神経(リラックス)の活動不良なので、無理やりリラックスさせるわけですね。

色々と勉強して復職前から取り入れている、ストレッチやマッサージ、そして可能な場合はマインドフルネス・瞑想・深呼吸なども活用しています。1~2時間間隔で一度騒々しいオフィスを離れ、トイレでゆっくりと手や指のマッサージを行い、ゆっくりと深呼吸をしたりしています。トイレで深呼吸っていかがなものか…というのもありますが、幸い現在の職場のトイレは換気も行き届いていますし、なかなか綺麗です。

昼休憩時はもう大胆にマッサージしながら瞑想ですね。「吐気 ツボ」で調べると出て来るような、よくある手や指、手首のツボを押すマッサージを行いながら、3:6の深呼吸を行います。余裕があれば、簡単にボディスキャン瞑想もして、昂る交感神経を抑制し、副交感神経に滋養を与えてやります。

あと気を付けるべきは昼食ですね。幸い、コロナ禍ということもあって、職場では外食を禁止しています。なので、事前に昼食を準備してそれを静かに自分のデスクで食べています。食べる量は必要最小限にし、極力GI値の低いものを食べるようにしています。それでもやっぱりエネルギーは必要なので、結果的には雑穀米系のおにぎりを1個という感じになっています。

説明が前後しますが、GI値とは食後の血糖値上昇の度合いを示すもので、炭水化物など糖質が多く含まれた食事を摂ると、一気に血糖値が上昇します。これにより幸福感(ドーパミン)がだだ洩れ状態となるので、ラーメン次郎なんかは最強なわけですが、その分上昇した血糖値は急激に下がってきます。このときに強い眠気や調子の悪いときは苛立ちがやって来るわけですね。これはまさに食事によって、交感神経と副交感神経が強い揺さぶりを受けていることを意味しています。なので、会社では極力食事を最小限に留め、この血糖値の上下運動を起こさないように気をつけています。

実際に水曜日には、ちょっとした会社の都合でがっつりとお弁当を食べることになってしまい、午後から一気に体調を崩してしまいました。もちろん復職して間もないので、疲れや上手く自分を制御できていないということも理由にあげられるとは思いますが、それでも食事というのも結構大きな要因であるのだと実感しました。

幸い、体の免疫力を上げたり、疲れにくい体を作るために軽いファスティングダイエットなども始めていたので、この辺りのことにも気を配れていました。ちなみに「GI値」などは元Juice=Juiceの宮本佳林ちゃんが良く言っていたので、事前知識として持ち合わせていました。佳林ちゃんに健康オタクの時期があって良かった! そして、彼女は今、完全に少年漫画・アニメオタクとなっていますが。

 

そんな感じで、とにかく業務は業務で覚えつつ、何よりも「いかにリラックスさせるか」を考え、実践し続けた1週間でした。めちゃくちゃ気を使って、何とかバランスを取りつつ、週末まで耐えきったと言っても良いでしょう。おかげでこの記事を書いている土曜日現在はそこまで体調不良を感じておりません。

やはり若干の疲労感があり、また昼にがっつりラーメンを食べたので、頭痛も出てしまいましたが(笑)。

 

3.やれること・やれないこと、そして理解と感謝

復職して思うのは、今の私が完全なる会社のお荷物、役立たずであるということです。周りの人がめちゃくちゃ残業しながら何とか業務をこなしている脇で、私は定時退社。しかも、私がちょっとした業務を進めるためにも、わからないことだらけなので、先輩に色々聞かなくてはならず、沢山の時間を奪ってしまう始末。全く以って、私はいったい何のために存在しているのかわかりません。

エア・ギアの凛鱗人(リンド)というキャラクターは「女に足を引っ張られて男は脚が長くなるものさ」的なカッコイイセリフを残していますが、残念ながら私は精神疾患持ちの冴えないクズ男です。私が足を引っ張ることで先輩の脚が伸びてくれれば良いのですが…望み薄ですね。

とは言え、教えてもらわなくては仕事もできないままですし、出勤しているからには何かしら自分にもできることを見つけてやっていきたいという想いはあります。なので、もちろんできる限りのことはやろうとしてしまうのですが、逆にそこで頑張り過ぎると頭痛等の症状が出て来るのであまり良くない。大道芸人みたいに上手くバランスを取れれば良いのですが、今の私にはなかなかそれもまだ難しく、何とか空き缶の上にのっけた板切れの上から落っこちないように無様に右往左往しております。

 

適応障害になってから、同じような苦しみを抱えている人に対して何かしらできないかと考えることが増えてきています。

治療のポイントって何だろうなぁ、とよく考えています。

色々と読んだり観てきたり実感してきたりしたものの寄せ集めですが、やはり大事なのは「今」をベースに全ての判断を行っていくことだと思います。今の私にはまだまだ療養が必要で、当然ながらできることとできないことがあります。しかしながら、会社というものはもちろん利益を追求する組織なので、組織としての「目標」があり、それを達成するために私たち社員の「業務」があります。つまり、私自身の体調とは関係ないところで、私の「やるべき業務」というのは決められてしまうのが基本です。

しかしながら、そういう風に私の状態を度外視してやってくる業務というのは、非常に危険なものです。「健康なら進んでやるべき事・やらなくてはいけない事」というものはあるのでしょうが、そういった周囲の要求に応えられるだけの私ではありません。というか、そもそもそういう考え方に固執していたがために私は適応障害なんてものになってしまったのだと思います。

 

***ここから長く話が脱線します***

 

思い返せば、そもそものこの10年間の希死願望の原因もそういったところにあると思います。私はこれまで大学を留年したりとかなり好き勝手に生きてきたわけですが、それでも常に悩みの種は「社会との摩擦」でした。私は高校生までずっと人からどう見られるかばかり気にして生きて来て、社会の漠然とした総意によって共通認識と化した人生の偏差値のようなものに捉われていました。少なくとも高校生頃までの私にはそういった「尺度」みたいなものが明確に刻み込まれており、全国模試の偏差値のように「今の私の人間としての偏差値はいくらか」ということばかり気にしていました。

はっきり言ってしまえば、「ほかの人が3時間かかってテストで85点を取るところ、自分は1時間半で90点取れた。だから私は天才で、人間としての偏差値が高い」というような考え方をしていました。こういう考え方は勉強だけでなく、あらゆるところに滲み出ていました。けれど、そんな風にして生きていても楽しくとも何ともありません。優越感、というよりは虚栄心に浸っているばかりで、卑しい幸福感のようなものはありましたが、同時に常に不安を抱えていました。つまり、他人との比較の中でしか自分の存在価値がないのです。うまくいかなければ苛立ち、どうにもできなければ逃避しました。

高校生の頃に素敵な女の子と交際していました。しかし、私がその子と交際したいと思ったのは、世間から見てその子が良い子だったからです。そして、私が欲しかったのはその子と交際できたという事実だけだったのです。テストの点数と一緒です。私はその子と付き合うことで、自分の虚栄心を満たしていただけでした。本当はその子のことがちゃんと好きだったはずなのに…

というわけで、そんなこんなでその子とも長くは続かず、大学受験も舐め腐った態度だったので、当然上手くいくことはなく、ほとんど何も持たない状態で実家を離れ、大学生の1人暮らしが始まりました。もともと人見知りで、自分から交友関係を広げていくことが苦手でした。サークルにも入りましたが、みんな楽しむことばかりで、私の虚栄心を満たしてくれるものは多くありませんでした。また、大学のカリキュラム上の都合で、後期からはそのサークル活動に参加することもできなくなりました。大学では学業の成績など自慢すべきものではなく、むしろネタにすべきものであるので、ここでも私は虚栄心を満たせませんでした。

孤独に過す中で、私は自分のこれまでの人生が全く間違っているものだと気づきました。そして、高校の頃に交際していたあの子が本当に素敵な子であったこともそのときになってようやくわかったのです。

いったいなぜ私はこんな矮小な価値観の中でこれまで生きてきたのか。誰が私にそのせせこましい、卑しい水槽の中で生きるように仕向けてきたのか。私が自己評価の基準として常に意識してきた「社会」って何なんだ!?

そんなことを考え始めるようになってから、私はようやく反抗期を迎えたわけです。こんなクソみたいな社会で評価されたって、なんの意味もないじゃないか。自分ばっかり訳の分からない競争に参加させられていて、虚栄心という餌を与えられてきたけれど、そんなのはまやかしだったじゃないか。本当の人間の人生とは、生きる価値とはどこにあるんだ!?

 

結果、私は自分をこんな風にまやかしの水槽の中に閉じ込めていた社会を憎み、本当の価値を模索する旅に出ることになりました。旅と言っても、自室に籠り、世を呪い、様々な芸術やら学術やらに触れるというものです。そして、何度もこのブログで話して来ている通り、自分というものをぶっ壊す行為を繰り返したわけです。数年がかりで自分をぶっ壊し、何もなくなりました。何も無くなったのはいいのですが、そこから私は私だけの新しい城を建てるために、またそのまま突っ走り始めます。

よし。これまでの自分はぶっ壊した。手元には自分をぶっ壊すための様々な道具が残っている。諸行無常というツルハシ、虚無というハンマー、神というロープ、堕落というスコップ…そんなものを使って私はさらに自分を痛めつけるということを続けていきます。

この世界の真の姿はいったいなんであろう。ともかく、苦しみばかりしかないことはわかった。生きるべきか、死ぬべきかという問の答は既にシェイクスピアが「死んだ方が得だ」と出している。それでも生きているのはなぜか。死ねないからだ。死ねないから生きているだけに過ぎない。ならば、これからの人生は死に漸近していくことだけを考えよう。そのためには苦しみを味わい、それを味わい深いと感じ、「死にたい」と感じることだけを生きる糧としよう。

 

まぁ、ざっくり言うとこんな感じで私は自己虐待を続けるに至ります。私としてはとても筋が通っているように思うのですが、いかがでしょうか。幾分かそもそもの前提が色々と間違っている可能性もあるのですが、少なくともその時の私にはそういった前提しかよりどころが無かったのも確かなのです。

 

そういうわけで留年までしたわけですが、それでも何とか私なりに社会と歩み寄る術を見つけ出し、就職することができました。就職してからは、いや学生のバイト中もそうでしたが、私は心の底では社会を否定し、死を望んでいるからこそ、「少なくとも働いているときだけは社会貢献をしよう」と思うようになっていました。例えばその頃から私は将来いつ自死を実行に移すかわからないという前提のもと生きていましたので、「子供は作るまい」と決めていました。なので、生物の存在理由の大まかな部分が失われたと考えていたわけです。それでも私は生き続けている。心の底では生命を否定しながらも、生き続けている。動植物の生命を奪い、社会システムに生かされている。その代償のようなものとして、「少なくとも働いているときだけは社会貢献をしよう」という考えになっていったのです。

だから、基本的に私が社会人として働いているときは、高校生までの自分を持ち出すようにしていました。つまり、「社会に求められ、それを全うする人」として行動し続けていたわけです。内心では「社会なんてぶっ壊れてしまえばいい」、「早く死にたい」と考えているのに、外面ばかりは「周囲の期待に応えなくては」という鎧で武装していました。

もうぐちゃぐちゃです。そんなぐちゃぐちゃを抱えながら、私はほぼ生きる意欲を失くしていました。

これも何度も書いてきたことですが、1回目の自殺前に書き上げた「霧氷」は適応障害になる半年以上も前から書いていた創作物になります。この「霧氷」のタイトルは、生きる意欲が既に過冷却状態にあるということを意識して名付けました。そして、もちろん「霧氷」を書くよりも前から、私の希死願望は創作物の中で何度も何度もぶちまけられてきました。

そのようにして、「何かを書く」ということによって、自分の内面に抱える混乱と苦痛を昇華し、外面は社会と何とか適合しようとやってきたわけです。だから、会社の人から認めてもらえると、喜びと怒りと悲しみとが混ざったよくわからない感情になりました。それでも、とりあえずは「この社会で生きていていいんだ」と思えるだけの免罪符にはなっていたように思います。つまり、「これだけ死にたいと思っていても、社会で必要とされているから生きている」というような状態とも言えるわけです。

 

***脱線、とりあえず終わり***

 

まぁ、そんなわけで私は周囲の人から認められるためだけに働いていました。もちろん仕事自体を興味深く思い、面白味を見出している部分が皆無というわけではありません。それなりに仕事を楽しんでもいました。しかしながら、基本的には「周囲の期待に応えること」=「働くこと」だったわけです。

しかし、今の私には周囲の期待に応えるなんて全く以ってできません。そんな状態に対して一体どのようにして割り切りをつけるか。

 

まず生きることの定義を見つめ直しました。

そう、生きているから生きている、というありきたりな論を持ち出しすことにしました。死にたいという気持ちを捨て去ってからは、ただ生きている瞬間に、自分の内に何らかの熱源を感じ、それが希望なのだと感じることができるようになりました。生きていると、何か希望が湧いて来る。それだけが生きる理由で良いのだと暫定的な解を自分に与えることにしました。

すると、私にはもはや「周囲の期待に応えなくて良い」ということがわかってくるのです。だって、大事なのは生き続けることであって、周囲から失望されても生きていくことはできます。だいたい、あれだけ泣き喚いて休職させてもらっているんですから、今さら「期待を裏切る」だとか「失望される」だとかを恐れる必要はないですよね。既に落ちるところまで落ちてるんですから。

そこまで来るともはや私が行動を決める上で判断基準となるのは、「今の自分にできるか・できないか」ということでしかありません。それが「仕事」という半強制的なことであっても、「できないことはできない」わけで、私にできることは「仮にそれをやりたくない、と思ってもできるのであればやろうではないか」という妥協だけです。なので、まずは「できる・できない」ベースでものを考えるようにしました。

そこまで来ると、続けてやるべきことは「理解してもらう」ということです。

健康な人ならできることも、今の私にはできない。だって、病気なんだもの。ということを周りに理解してもらうことです。

これはまだ模索中ですが、ちょくちょく会話をしたり、業務を受ける・受けないみたいな微妙な瞬間でそれとなく「今の私は無理ができませんよ~」ということを伝えるように心がけています。上司には週末に1週間の体調を報告するメールを送りました。

そして、おおむね私のそういったことに対して、理解をしてくれ、みんな配慮してくれています。

そのことについては本当に感謝しかありません。

感謝、感謝、感謝です。

ここ数週間、毎日感謝したことなどを書き出すようにしていますが、だいたい会社の人に対して感謝をしています。

 

そんなわけで未だ綱渡り感が否めませんが、それでも何とかやっております。

体調最優先。やらなきゃ、やるべきではなく、やれるかやれないかで判断。そのうえで何とか周囲の理解を得つつ、理解してもらえたら感謝。理解してもらえなくても、私が働けない分働いていただいているのだから感謝。

そんな感じですね。

 

次回

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適応障害と診断されまして… vol.55

適応障害と診断されて138日目(3月1日)の夜にこの記事を書き始めています。

そして、今日からきちんと復職となりました。ここまで長かった…でも、まだまだ周りの人のようには働けないし、夕方から頭痛も出たりしているので、ここからもきっと長いんでしょうね。

 

前回

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前回はようやく人らしい休日を送れたことに感動したという内容ですが、今回はまたそこから先に進みました。が、今日1日業務らしい業務をしてみて、ストレスと疲労でやや体調を崩しているので、なかなか思うようにはいかないなーという感じですね。

 

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…

 

131日目

月曜日。朝から出社し、勉強しつつ隣の席の同僚と少し話したりできた。退社後、スマホの修理へ。良いキッカケだと思って、iPhone12に買い替える。店員の中国人の方がとても良く対応してくださり、嬉しかった。そして、最新スマホは容量も大きいし、サクサク動くのでとても便利。

 

132日目

火曜日。この日はカレンダー通りの休日。好きなギター動画をまとめた記事を投稿。ウイルスバスターの更新に苦戦するも、何とかやり切る。1日中寮にいて、少しリフレッシュできた。

 

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133日目

水曜日。朝から1日出社。苦手と感じる先輩とも話せた。また、苦手な上司にも声をかけ、復職に向けての段取り…というか向うの思惑を聞けた。ちゃんと復職してから話す、ということらしい。それならそれでOK。断りを入れておくことが大事。

 

134日目

木曜日。朝から1日出社。隣の席の人とはもう普通に喋れる。退社の道中で道に迷っている受験生を救う。ホテルまで案内してあげた。福岡から受験しに来たらしいが、受験校が私の落ちた大学だった。受かることを願う。

 

135日目

金曜日。朝から1日出社。定時で上がり、一度寮に戻ってから、すぐに遠方の友人宅に向けて飛び出す。この日は友人宅に泊まり、翌日の朝からスキーに行く予定だったが、地震の影響で新幹線が速度を落としての運行となっていて、友人宅まで辿り着けず。急遽、見知らぬ土地の見知らぬホテルで1泊。急な事態にも臨機応変に対応できた。

 

136日目

土曜日。ホテルのバイキングで朝食を取り、友人たち(自分を入れて3人)と合流するために電車を乗り継ぐ。昼前から夜までスキーを楽しみ、スキー場で1泊。大学時代の思い出話や、友人の会社の愚痴を聞いたり、自分の病気のことを話したり。久しぶりに人と沢山話したし、運動もしたので疲れたが、症状は出なかった。

 

137日目

日曜日。朝からまたスキー。友人たちには、大事を取って昼には帰るという相談をすることができた。今までの自分なら無理やり最後まで付き合っていたけれど、ちゃんと自分の状態を踏まえて、話をすることができた。帰りの新幹線でドキュメンタルを観切る。

 

138日目

月曜日。今日から復職。朝方上司からようやく業務らしい業務を言われる。先輩に教えてもらいながら、集中して業務に取り組む。時間を意識したり、色々な人に教えを請うたり、やはり結構な負担。夕方には頭痛が出始め、定時で上がらせてもらった。やや仕事をやり残し、先輩に投げてしまったが、これも致し方ない…と思うことにする。何よりも自分の体調を優先させよう。

 

2.カレンダーのまとめ

復職に向けた会社との調整で、何日か連続で規定の勤務をこなす必要があったので、お給料も出ない中、出社訓練を続けていました。それがだいたい先週のやっていたことですね。そうしてようやく本日を以って正式に復帰となりました。まぁ、お給料が出ないことは別に良いんです。傷病手当金も貰えるわけですし、何よりも私が周りに迷惑をかけているわけですからね。

ただ、とりあえず「出勤できてますよ!」という実績を作ったは良いものの、全然まだまだ本調子ではありません。その点をどれだけ上司や同僚に理解してもらい、配慮してもらえるかというのが今の時点での私の課題ですね。わかってくれている人も多いとは思うのですが、肝心の直属の上司が何とも言い難い…もともと仕事には厳しい人ではあるので、他の人に比べたら私は随分と甘えさせてもらっている立場であることは確かなのですが、やっぱり面と向かって仕事を任され、「ちゃんとやれよ」という風に言われるとドキっとしますね。

ただようやく業務に携われると思うと、少しだけ後ろめたさのようなものは軽減されます。今は「責任」というものが非常に重荷に感じられてしまい、ちょっと心が苦しくなっているような状況ですが、上にも書いた通り、夕方には頭痛も出てきたので無理せず先輩に仕事を投げて帰って来ました。先輩、すみません。

「今日もちょっと定時で帰らせてもらっていいですか…?」

という言い方をして仕事を投げてしまったのですが、ちゃんと「頭痛が…」と説明した方が良かったかな、と今になって少し後悔しています。この辺りの自分の体調の伝え方なんかはなかなか難しいところです。「復職」というイベントによって、相手の求めるレベルがぐっと上がったような気がしているのですが、対して私が提供できるレベルはあまり高くないので、そのギャップがちょっと苦しいです。でも、素直にできないことはできないと言って、どうにかこうにか相手方の理解を待ちたいと思います。私の提供できるもののレベルを上げることはどうしたってできないので、向こうに合わせてもらうしかありません。そう考えることで、少しは罪悪感も薄まりますし、何よりも無理をして体調を悪化させずに済むと考えています。

ま、それで「お前、もっとちゃんと働けよ。復職したんだろ。やる気あんのかよ」的な感じになるのだとしたら、どうぞ解雇してくださいとしか言いようがありませんね。そして、私はまた新しい人生を歩んでいきましょう。必ずしもこの会社に残らなければいけないというわけではないですからね。広く、緩やかにやっていきましょう。

 

と、疲れもあってちょっと言いたいことがまとまりませんが、とりあえず「復帰おめ!」ということで。不安や困ったことも沢山ありますが、まぁ、その辺はゆるゆると1つずつ解決していきましょう。急いても今の私には大して何もできやしないので。やれることを1つずつ積み重ねるだけです。

 

スマホショップの店員さん(中国人の方)

先週の日曜日に松屋に行った帰りにスマホを落とし、画面が割れてしまいました。その日のうちにケータイキャリアのショップに予約を取り、翌日の月曜の仕事終わりに直行。

私の応対をしてくれたのは、中国人の店員さんでした。

沢山世話になっていて、沢山甘えさせてもらっている母の悪口を言いたくはないのですが、私が母の苦手とするところに「中国人の方に対する偏見」というのがあります。母がそういうことを口にする度に、「メディアに翻弄され過ぎだよ」と嫌味を言ってみたり、私が関わって来た素敵な中国人の方の話をしたりしているのですが、なかなか改めてくれません。

確かに母が言うような色々な不快を覚える経験もあるにはあるのですが、それはどうしたって文化の違いから来るものでなかなか防ぎようがありません。それに、それこそ日本人が海外旅行先でマナーが悪いということを考えると、相手ばかり責めてはいられません。だから、「偏見」でものを言うのは、相手にとっても失礼ですし、自分にとってもリスクのある行動だと思うのです。と、そんなことを言いながら、私はウルサイ車やバイクに乗っている人を一方的に憎んでおりますが(笑)。だって、大学時代に国道の近くに住んでいたせいで、ずうっと嫌な気持ちにさせられてきたので。でも、それだって自分のせい。もう二度と国道の傍になんか住むもんか。

…話がずれました。

ともかくですね。私はこれまで素敵な中国人の方と関わってきました。

大学の研究室時代には中国人留学生がいました。そんなに仲良くなれないまま研究室を移って行ってしまいましたが、私が苦手とする分野を丁寧に教えてくれたり、日本語で苦労しながらも、一生懸命コミュニケーションを取ろうとしてくれました。

そして、何と言っても会社に入社して、実習期間中に仲良くなった同期がとても素晴らしい中国の方でした。私よりも年上で、とても良い大学を出ているのですが、奢ったところはないですし、困ったときは素直に頼ってくれます。そして、技術的なものへの興味が強く、色々とテクノロジーの話などをしました。好奇心も強く、そしてピュアで、「日本の会社はおかしい!」と言ったりもしていましたが、そんな彼に会社の歴史や組織としてのしがらみなどについて話して聞かせるのは私にとっても良い経験でした。何よりも、直接的に言葉で「〇〇くんがいてくれてホントに助かった。これからも仲良くしてほしい」と言ってくれて、私はとても嬉しくなりました。「〇〇くんの発表、すごかった。日本語でのプレゼンの勉強したいから原稿をメールして欲しい」なんてことも言ってくれたんですよ。なんか、思い出すだけで涙が出そうです。本当に素敵な人です。

その人とはまた別の同期にも中国人の人がいて、彼は私が病気になった時に、「今度美味しい中華料理を食べに行きましょう!」と誘ってくれ、何人か人を集めて「中華料理を食べる会」と開いてくれました。一緒に技術的な研修をする期間もあったのですが、困ったときは頼ってくれましたし、昔も今も誰かが困っていたら躊躇せず助けてくれます。お国柄ということになるかもしれませんが、日本人だったら躊躇して救いの手を伸ばせない状況でも、純粋な気持ちで手を差し伸べてくれます。そういうのが私にとってはとても嬉しいことだったのです。

そんなわけで、私は中国人の方が好きです。

スマホショップで私の応対をしてくれた方も、とても丁寧な方でした。どうしても日本語の会話ではところどころ難しいと感じる部分もあるのですが、頭の良い方であることは間違いがなく、私の色々な質問にも的確に答えてくれました。変にマニュアルに固執することもなく、私の生活の事情などに合わせて提案もしてくれました。例えば私は転勤の多い会社で基本的に会社の寮を転々とするような感じなのですが、その話をすると「固定回線を引くのはちょっと考えた方がいいですね」とか、そういうことをちゃんと言ってくれました。「寮」という言葉に聞き馴染みがなかったのか、漢字を書いて伝えあったり、そういうことはありましたが。しかし、そんなちょっとしたコミュニケーションの手間や摩擦なんかよりも、やはり彼の紳士な応対や頭の良さが何よりも私にとっては助かることでしたね。

ともかく言えることは、私は中国人をはじめとして、外人の方が基本的に好きです。丁寧ですし、何と言うか奢ったところが無く、真摯さや優しさを感じるのです。改めて、ありがとうと言いたいですね。

 

道に迷う受験生

木曜日の夕方の出来事です。会社帰りの交差点で、「すみません!」と右往左往している1人の男の子を見かけました。とりあえずそこにいた人たちは見て見ぬふり的な感じだったのですが、私もここ数か月は他人に助けられっぱなしだったので、「どうかしましたか?」と声をかけてみました。

プリントアウトした地図を手に、どうやらホテルを探しているらしいことはわかったのですが、軽いパニックにあるのかちょっと何を言っているかわかりませんでした。それでも何とか宥めて、買い替えたばかりのスマホの地図アプリを場所を説明してあげました。が、どうやら説明を冷静に理解できるような状態でもなさそうです。

まぁ、私は定時退社をしてきたばかりですし、時間にはたっぷりと余裕もあるので、ホテルまで案内をしてあげることにしました。

その道すがら話を聞くと、国公立大学の前期入試のために福岡からやって来たということです。そうか、もうそんな時期だったのですね。印刷した地図を手に持っているということは、スマホも持たずに来たということでしょうか。このご時世に凄いなぁ、とちょっとだけ引きつつ(笑)、それでもよくよく見てみるとどこかで見覚えがあります。極端に視野が狭く、人の話を聞かずにベラベラと喋りまくる。そして、「すみません。〇〇というところが聞き取れなかったので、〇〇という風に勘違いしてしまいました」というようなことを普通の会話の中で言ってくる感じ。思い当たるところがあり、「どこの大学の受験だったんですか?」と聞いてみると、案の定ゴリゴリの理系大学を受験している方でした。

うむ。私が落ちた大学ですね。そして、小中学校の同級生にその路頭に迷っている受験生と同じようなタイプの人間がいたのですが、そいつはその大学に合格していました。というわけで、その路頭に迷っていた彼も何となく合格できそうな気がします。

と、別に私はその子も同級生の子も貶めたいわけではなくてですね、むしろ私はそういう人が好きなんですよ。昔から。

多分ですけど、私も本来は彼らのようなタイプの人間なんです。色々と学問の話をしたりするのは楽しいですし、私もやっぱり夢中になると視野が狭くなったりする方なので、彼らの事は何となく理解できるところが多いのです。でも、なんか変な見栄とか 虚栄心みたいなもののせいで、彼らのようにありのままの姿で振舞うことができず、カッコつけてしまうんですね。まぁ、たいしてカッコつけられてもいないんですが。

そんなわけで何かそういうのもあって、路頭に迷っている彼を放っておけなかったということもあります。

が、面白いのは、おそらく彼以上に私の方が困っているということです。

私は今もなお適応障害、というかうつ病に苦しんでおり、世間から見ればよっぽど「え? 大丈夫ですか?」という位置にいる人間です。でも、そんな人間にも救える場面もあるんですね。こんな私でも人の役に立てる、というのは喜ばしいことです。

そして、少しだけ大学時代を思い出しました。

そう言えば、大学を留年し、基本的に二日酔いの状態で時間を過ごし、淀んだ虚無感の中で「死にたい」と思いながら生きている時期にも、よく散歩に出かけた先でご老人の道案内をしていました。道に迷っている人から声をかけられやすい星のもとに生まれているんだなぁとよく思っていたのですが、何の生産性も無い1日の中で道案内をしたことだけが私の存在意義であるような日も多々ありました。

そんな昔から進歩しているのかしていないのかよくわかりませんが、そうやって曲がりなりにも「人助け」と呼べることができて、なんか良かったです。邪魔者でしかない自分にも存在価値があったのだと思うと、やっぱり嬉しい気持ちになりますね。

ちなみに、私が助けなくても誰か別の人が助けていた、という正論は絶対に言わないでください。

 

楽しいスキー

大学時代のバイト先の後輩2人からスキーに誘われて予定を組んでいました。2月末の土日です。

どうせ2月末まで休職だからと安請け合いしていたのですが、上述の通り、会社との取り決めの中で連続の出勤実績が必要ということになり、仕事が終わってからの出発となりました。

金曜日の夜に会社が終わった後、新幹線で東北にある後輩の家に行く予定でした。が、先日の地震の影響で新幹線が減速運転をしていることを知らなかったため、後輩の家まで辿り着くことができませんでした。新幹線に乗っている間にも何度かアナウンスがあったと思いますし、明らかに到着時刻が遅れていることにも気づいていたのですが、情報収集や再考を疎かにしていたため、予定通りの駅で新幹線を降りたときにはもうほとんどどこにも行けない状態になっていました。愕然。

仕方が無いので、後輩には謝罪をして、その見知らぬ土地でホテルを探すことに。駅前にホテルがあり、ホテルがある方の出口で降りたつもりだったのですが、線路やら何やらのせいで、めちゃくちゃ迂回する羽目になりました。出口を間違ったのが最大の敗因でしたね。気がつけば雪がちらつく東北の町で20分近くも歩いていました。

1つ目のホテル。1泊6100円…「ちょっと高いですね」と言って値引きを待ってみたものの、何も提案されることなくホテルを後にします。まぁ、近くにはネットカフェもあるようなので、最悪そこでも良いなぁと考えていました。

そして、2つ目のホテル。1泊7500円…「いやぁ、高いですね」と言って背を向けたところに、「ちょっとお待ちください!」という声がかかりました。
待ってました!

どれくらい安くなるかなぁ、とウキウキしていると、「いわくつきの部屋がありまして…」と小さな声で囁かれます。

「いわくつきですか…」

「はい。実は…」

「ごくり…」

「ボイラー室の上の部屋でちょっとうるさいんですが、5500円でいかがでしょう?」

私が勝手に「いわくつき=お化け系」と思っていたので、ちょっと拍子抜けでしたが、2000円も値引きしてくれるならと思い、そのホテルに決めました。

ネットカフェよりはかなり高いですが、まぁ、広いお風呂にも入れましたし、ベッドはふかふか。なかなか良い気分でした。ボイラー室の上の部屋と言われても別段ウルサイとは感じませんでした。普段、私は貨物列車が行き来するような超騒音物件(=会社の寮)に住んでいるので、ぜんぜん余裕でした。

こういうハプニングも旅の楽しみですね。

 

後輩と相談して、翌日の朝一でもう1人の後輩を仙台駅まで車で迎えに行くということだったので、私はスキー場の最寄り駅まで自力で行くことになりました。地方のローカル線に揺られながら、雪景色を眺めていると、とても長閑な気分になりました。このブログにも投稿している「霧氷」を読み返したりしながら、ゆるゆると電車に揺られ、辿り着いたのは無人駅。

近くのコンビニまで歩いて、そこで後輩に拾ってもらいました。

 

年始以来のスキーで、年始はスキーの翌日から体調を崩し、2度目の自殺未遂にまでなっていたので少し不安もあったのですが、総じて楽しいスキーでした。バイト先の後輩でもありながら、大学の後輩でもあるので、色々と話は弾みましたし、私もうつ病漫談なんかをしながら結構楽しい時間を過ごすことができました。ナイターも滑ったのですが、満月がとても美しかったですね。また、雪質も最高でした。

いやぁ、本当に滑っていて気持ちの良いスキー場でした。夏油(がとう)スキー場というところなのですが、スノボ中毒の後輩が「最高の雪質」というだけありましたね。コースも幅が広く、そんなに混んでもいなかったので、とっても伸び伸びと滑ることができました。天気が良かったのもまた最高でした。

スキー場に複合のホテルに泊まったのですが、温泉では「お客さん、そろそろ時間ですよ」と言われるまで色々と話し込みました。私の病気の話もしましたが、後輩も色々と悩みを相談してくれて嬉しかったです。

 

そして、私的に重大だったのは、2日目の昼に1人で先に帰るということでした。

後輩の1人はスキー場に比較的近いところで生活をしており、もう1人はまだ大学生なので遅くまで滑っていくということだったのですが、私はさすがに翌日には会社もありますし、復帰1日目です。しかも、体調的にもあまり疲れすぎると良くない状況です。今までの私なら後先考えずに、割とノリで付き合うことがほとんどだったのですが、2度目の自殺未遂以降考えを改めているので、きちんと自分の状態を話して理解をしてもらったうえで先に帰らせてもらいました。何よりも自分を労わることが大切。

これが成長なのかはわかりませんが、ちゃんと自分の意見を言えるというのは、とても大事なことのような気がしました。特に、今の私にとっては。

 

最後に…

疲れもあって、いつもよりもかなり乱文になっている気がします。

が、もうそろそろ寝る準備を始める時間でもあるので、今日はこのくらいにしておきます。また明日もきっと大変な1日になるでしょう。

無理せずやっていきたいと思います(頑張る、という言葉は使わないの)。

それではおやすみなさい。

 

次回

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ギター動画選(記録1)

誰とバンドを組むでもなく、1人でエレキギターを弾き始めて早7年かそこら。

未だに技術は初心者ですが、ギタリストはやっぱりカッコ良いなと思いますし、それなりに動画を観る機会も多いです。先日、後に紹介する弓木英梨乃さんの素敵な動画を観てから、「好きなギター動画でもまとめておくか」と思うようになり、今日は天気も多いのでようやく重い腰を上げて記事を書くことにしました。

というわけで、ただただ個人的な趣味に則って好きなギター動画のリンクを並べ、とちょっとした感想を書き連ねていきます。

 

 

弓木英梨乃・<BTS ”Dynamite”>

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うーん。何回聴いてもやっぱり良いですねぇ。

キリンジのギタリストとしても名を馳せている弓木さんですが、とにかくリズムとピッチの正確さがとんでもないです。ギターって結構安定した音を出すのが難しいんですが、これだけクリーンな音で気持ち良く聴かせるって本当に上手い人です。フレーズのバリエーションも豊かで、飽きさせることもありませんし、「言うことない」ってこういう感じですよね。

冒頭の「バイオリン奏法(ボリューム奏法)」から質の高さを感じます。カッティング、ミュートも超丁寧。1音1音が粒立っていて、聴いていて本当に心地良いです。42秒あたりの2~3弦を使ったハーモニクスなんか、「あんなに綺麗に音出せるんだ!」と個人的には結構ビックリです。

終始楽しそうに弾いている姿も素敵ですが、最後のサビからの歪ませてのギターソロでは一気にメーターを振り切って、トランスしている感じがカッコイイです。それでもブレない!ここがやっぱり弓木さんの素晴らしいところです。

 

Ichika Nito・<”lunar">

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私がいま1番好きなギタリスト、というかギター詩人的な存在であるIchikaさん。元々は「lunar」という曲名で動画を出していたのですが、いつの間にかそちらの動画は消えて、今は「When you're wandering around IKEA looking for the Exit but you're lost and accepted your fate」(IKEAで出口を探して彷徨っていたけど、道に迷って自らの運命を受け入れるしかない)という動画タイトルに変わっていました。

本楽曲についてはタッピングやメロディラインの美しさはもちろんのこと、途中で挟まれる「ツクツクツク」というミュートをしてのピッキングにグっと来ます。こんなに綺麗に差し込んでいるのは初めて観ました。

Ichikaさんの動画は1分未満のものが多く、しかしその短い時間の中に圧倒的な情景を詰め込んでいるので、まさに詩的なギターと言えるでしょう。そしてタッピングを主とした様々な超絶技巧。ただ上手いだけでなく、ギター1本で、しかも短時間で人の心を捉える世界を完結させてしまえる才能には脱帽です。

私がIchikaさんを知ったきっかけは、「i miss you」という自曲を題材にした「10 LEVEL OF GUITAR」という動画で、10段階に徐々にギター技術を上げていくという内容でした。Ichikaさんご本人の動画は消えているので、カバー動画のリンクを貼っておきます。

 

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こちらの方も非常に上手ですね。

後にIchikaさんも「Hard Version」ということで動画をアップロードしています。

 

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歪の強いギターを使っており、死ぬほどオリジナルバージョンを聴いていた私からするとまた一風変わっていて素敵です。そして、Ichikaさんは別の「10 LEVELS OF GUITAR」動画もアップロードしています。

 

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動画数が多くて申し訳ございませんが、最後にもう1曲だけ大好きな曲を。

 

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まぁ、1つひとつの動画が短いので問題はないでしょう。こちらの「Arpeggio」はもちろん曲名の通りアルペジオを駆使した楽曲になっているのですが、非常に切なく、繊細でセンチメンタルな情景が大好きです。最初に紹介した元「lunar」と合わせて繰り返し聴いております。

私はIchikaさんの繊細で切ない曲が好きですが、激しめの曲もいくつも作っていますし、変則チューニングを用いた楽曲もあります。また、伝説のギタリストであるCharさんともセッションを行っていたり、ベースで作った楽曲もあるので、できれば全てをオススメしたいところではあります。

…書いていたらもうあと1動画だけ、ベースの動画ですが紹介したくなりました。

 

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動画尺は短いので嫌にならないでください。こちらは変則チューニングかつベースの楽曲です。そして、カッコイイ。ということで、こんなこともできてしまうIchika Nitoさんでした。

 

田中義人、エジマハルシ(ポルカドットスティングレイ)<”Urtra Test Drive Session">

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ポルカドットスティングレイというバンドが好きで、そのギタリストであるエジマハルシさんからこの動画を見つけたのですが、田中義人さんの技巧に感銘を受けました。存じ上げなかったのですが、田中義人さんは名だたるJ-POPアーティスト(宇多田ヒカル秦基博YUKIなど)のレコーディングやアレンジに関わって来た方ということです。

セッション動画としての質も非常に高いですが、若手バンドギタリストであるエジマハルシさんのエッジが効いて勢いのある青いギターと、熟練の万能ギタリストである田中義人さんの確かな技術や感性、そしてフレーズの多用さなどが絡み合い、観ていて楽しい動画です。音作りからして2人の差異が見て取れ、世間的に「上手い!」とされている人たちの間でも、それぞれに個性やベクトルがあるのだなぁと思わされます。

感想としてはちょっと短くなってしまいますが、最近観たギター動画の中ではかなり印象に強く残っていて、ベースを嗜む父にも教えたりした素敵な動画でした。

 

Kyuhee Park・<Roland Dyens ”Fuoco">

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朴葵姫(パク・キュヒ)さんを知ったのは大学時代でした。そこから少しずつクラシックギターの興味を持つようになったのですが、そのお美しい外見はもちろん素敵なわけですが、柔らかくしなやかで力強い演奏が素敵な方です。

この動画は黒張りの広いスタジオの中で黒い衣装を着ている朴葵姫さんというその映像の質の高さが良いですね。クラシックギターと言うと、どうしてもコンサートホールでの映像のイメージが強いのですが、映像作品のために収録されているので、私みたいにあまりクラシックギターに馴染みのない方でも親しみやすさがあると思います。

楽曲はローラン・ディアンスさんという現代ギターの詩人(Ichika Nitoさんの時も同じようなことを言いましたね…)が作曲されており、ほかにも沢山の名曲を残しています。この「Fuoco(フォーコ)」という楽曲はイタリア語で「火」を意味し、ローラン・ディアンスさん自身が生死の境を彷徨ったときのことをイメージして作った楽曲らしいです。命の炎の揺らめきを感じます。最後は暖炉の木がぽきりと首を折るようにして終わり、ドラマチックな楽曲とも言えるでしょう。

ローラン・ディアンスさんは独特なメロディラインや構成の楽曲を多く作っていて、「Felicidade」や「Tango en Sky」なども有名曲です。特に「Tango en Sky」は日本の誇るクラシックギタリストである村治佳織さんの得意とする楽曲です。村治佳織さんの端正できりっとした演奏技術に非常にマッチしていて、「Tango en Sky」なら村治佳織さんのものが1番好きですね。

ちなみに私が朴葵姫さんを知ったきっかけとなる動画は「ソルの主題による変奏曲」という楽曲ですが、これもどうも公式動画っぽくないので、リンクを貼るのは控えさせていただきます。8分以上もある楽曲で、楽曲の世界観も好きな感じですし、途中ハーモニクスだけで弾いたり、左手だけで弾いたりするパートがあり、最後にはかなりの盛り上がりを見せる楽曲でもあるので、その楽曲構成もともに大好きで良く聴いています。

 

個人的な趣味編

ここからはもう個人的な趣味で好きな動画を紹介していきます。もちろん、これまでも個人的な趣味ではあったのですが、ここからはギタリストとして云々ということではなく、好きなバンドの好きなギタリストなどが関わっている好きな動画を貼っていく感じになります。

 

山田亮一・<Funk Discussion Brothers ”Devil’s manner Funkadelic">

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私の大好きな山田亮一さん。ハヌマーンバズマザーズといったバンドのギターボーカルとして活躍しており、そのとびっきりの作詞能力には魅了させられっぱなしです。でも、そんな山田亮一さん、ギターのテクニックも普通に素晴らしいです。

もう映像も録音状態もかなり質が悪いですが、若々しいエネルギーを感じますね。「こんばんわ。ファンク・ディスカッション・ブラザーズです」という挨拶からのスタートがとにかくカッコイイ! 10年以上も前の動画で2021年2月現在で24,000再生くらいの動画で、言ってしまえば「誰が見んねん」状態の動画とも言えますが、私はかなり再生回数に貢献していると思いますよ。彼これ何年にもわたって見続けていますからね。

Funk Discussion Brothers自体の活動はこの映像くらいのものだと認識しておりますが、ほかにも何曲かあるので、ぜひ聞いてみていただきたいです。特に「B loved」はおすすめです。スローテンポの演奏に合わせて、やや吃音症気味の山田亮一さんが「B型の女って、タルいわ~」的な詩を朗読するという山田亮一好きには堪らない楽曲となっております。何気なくて見落としてしまいますが「ラ・理想」という言葉が出て来て、「あぁ、『理想』って女性名詞なんだな」としたり顔で頷いた経験がありますね。「グラハム・ベルの発明と孫正義の企業努力によって、自分はまさに今、不条理な睡眠妨害に被られる深夜3時」という歌詞は好き過ぎて、何度も反芻していました。

って、ギターの話からずれてしまいましたね。

ちなみにAmazonで音源を買うこともできますが、決して録音状態が良いとは言えないので、本当に好きになったら買ってみていただきたいです。

 

TK・<凛として時雨 ”傍観">

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まぁ、当然大好きな凛として時雨も紹介することになります。

凛として時雨自体なかなかライブ映像を公開しないバンドではありましたが、先日の配信ライブ映像を15周年記念の「#4 -Retorunadio-」の付属Blu-rayディスクに収録してくれました。さすがにその動画は仮に無断投稿されていてもリンクを貼るわけにはいきません。

というわけで、2015年にロンドンで行われた撮影OKのライブ映像のリンクを貼らせていただきます。

TKのギターはもはやメロディやフレーズというところを通り越して「音」ですね。もうこのハウリングとノイズ、そしてめちゃくちゃに弾き倒すのが伝統芸能。ファーストアルバムである「#4」に収録されている「傍観」ですが、そこから多くのライブの最後の楽曲として披露されてきました。凛として時雨はアンコールをしないバンドですが、その理由の1つには、この「傍観」という楽曲の存在が大きいでしょう。

だいたいのライブ構成は、序盤から淡々と楽曲を演奏しまくり、だいたい途中でドラムのピエール中野さんプレゼンツのお楽しみタイム(昔はコール&レスポンスとかやっていましたが、最近はドラムソロが多いのかな?)が入ります。そしてまた淡々と楽曲を演奏しまくって、最後にベースの345さんによるボソボソ声のグッズ紹介でほんわかとして、最後の追い込みをかけるという流れになります。そして、最後にはこの「傍観」が披露されて、ぐわーっとなり、もう後には何も残らないよね?的な感じで去っていきます。

時代によって様々なアレンジパターンがありますが、どれも轟音のギターが鳴り響くことには変わりません。そして、この5年前の映像くらいから数か月前の配信ライブまでは、絶叫のちギターソロ、ギター投げで終わっていると思います。

ライブハウスで聴くとこの5倍は凄いです。「音が旨い」ってこういう感じです。何度聴いても圧倒されますね。

 

照井順政・<sora tob sakana「広告の街」>

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さっきから動画の撮影状況としてはアレな感じものですが、こういうものの方がギターの生々しい感じが出て好きなのかもしれません。と、記事を書いていて思いました。

こちらはsora tob sakanaというアイドル(2020年9月解散)の「広告の街」という楽曲になります。ギターを弾いているのが、プロデューサーで作詞・作曲のほとんどを担当する照井さんになります。ちなみに、ベースを弾いているのはお兄さんです。プロデューサーでありながら、自分もハイスイノナサというマスロックバンドをやっています。sora tob sakanaもマスロックやプログレの要素を取り入れたアイドルグループで、この動画を観てわかる通り、ポップでありながらも非常に前衛的な楽曲をやっています。

特にこの「広告の街」はギターが素晴らしく難しいです。が、sora tob sakana自体バンドセットでのライブも節目でやっており、解散ライブでは4時間もバンドセットライブを行っていました。そして、実際にライブでもさらっとこのギターを弾いているんですよね。ほんと惚れます。

 

長岡亮介・<ペトロールズ "FUEL">

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ここまでなかなか変わり種をご紹介してきたので、最後くらいちゃんとしたものをご紹介して終わりましょう。

本当にこの頃の頂フェスの動画を観ると青春って感じがしますね。カーテンを閉め切った部屋の中で、1人で泥酔しているような青春だったのですが(笑)。

この動画に関してはもはや説明不要ですね。長岡亮介浮雲)さんと言えば、もう説明不要のスーパーギタリストです。紅白歌合戦なんか一体何回出てるんだって話ですしね。だいたい最近は椎名林檎さんと星野源さんのバンドで1年に2回くらい紅白出場を果たしています。

長岡亮介さんみたいになりたくて、シンプルで無造作な格好をしようと思っても、ただのもさい田舎っぺになってしまうのは、あるあるですね。

 

最期に…

ギター上手くなりたいですね。

でも、漫然とただ好き勝手に弾いているだけじゃ、全然上手くなりません。

やっぱり観る専門というのが良さそうですね。

適応障害と診断されまして… vol.54

適応障害と診断されて129日目(2月21日)の午後にこの記事を書き始めています。ちょっと前に、映画「あの頃。」の感想記事を投稿したばかりです。

この適応障害ブログを書くようになってから、半分日記がてらで心動かされたものを記録していくのは何だかいい気がしますね。まぁ、その分1つひとつの記事のクオリティが下がってしまうので、それは少し気掛かりですが。

 

前回

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前回記事は124日目までの内容を書いていましたが、記事の投降後もちょっと記録しておくべきことがあったので、その内容も今回記事には盛り込んで置こうと思います。

 

1.カレンダー

適応障害と診断されて…

 

124日目

月曜日。朝起きるも体調が優れず出社を断念。寝て起きてを繰り返し、夕方ごろに前回記事を投稿。その後、両親と電話し、何とか就寝前ルーティンを戻すことに成功。

 

125日目

火曜日。朝から頭痛で二度寝。が、二度目から覚めたタイミングでは復調しており、そこから出社。なんだかんだ5時間半程度在社できた。夕方前に帰宅し、昼寝。若干復調し、ルーティンも実行できた。

 

126日目

水曜日。朝から出社。業務知識の勉強に集中できた。職場内の清掃時に、割と同僚と会話をすることができた。ほんの少しだけど、周囲に貢献できているという実感を得られた。規定時間在社できた。

 

127日目

木曜日。朝から出社。電話を取ることもでき、不在の人の代理で少しだけ業務を行うことができた。1つずつやれることが増えていく。規定時間在社できた。前日よりもリラックスして過ごすことができたと思う。手のツボマッサージの効果か。

 

128日目

金曜日。朝から出社。15時くらいに頭痛が出たり、若干勉強にも集中できなかったように思う。手のツボマッサージも沢山行い、何とか既定の在社時間をクリア。先は長い。また帰宅後は佳林ちゃんのインスタを観て、その後に会社の先輩(研究室時代の先輩でもある)と電話。気にかけて貰っていて嬉しい。

 

129日目

土曜日。ゆっくり起床。午前中は病院に通院。医者ともちゃんと話せた。変化点なので薬の量は据え置き。昼は1番大好きなラーメン屋に行き、味に超感動。アロマや下着の買い物を済ませ、映画「あの頃。」を観賞。床屋で髪を切り、帰宅。充実した休日を過ごせたことに感動。

 

130日目

日曜日。8時~9時過ぎくらいで散歩。モーニング娘。の「恋ING」等初期楽曲を聴きながら、映画「あの頃。」について思いを馳せる。寮に戻り、会社の先輩2人(どちらも研究室時代の先輩でもある)と電話。気にかけて貰っていて嬉しい。昼前辺りから、映画「あの頃。」の記事を執筆。15時前くらいからこの記事の執筆。

 

2.カレンダーのまとめ

週の頭こそ、前週の疲れのせいで不調だったものの、そこから何とか持ち直し、水曜~金曜の3日連続で既定の出社時間をクリアできました。まだまだ本格的に働けるだけの体力は戻っていませんが、大きく見れば復帰に向けて回復してきているように思います。

嬉しいのは徐々にではありますが、職場で同僚と話せるようになってきているということです。普通に電話の取次ぎもできますし、掃除などのちょっとした雑務をしながら軽い会話もできるようになってきており、周りの人も私という存在に慣れて来ているような感じを受けます。こんな私でも受け入れてくださっていることには感謝をしなければなりませんね。本当にありがたいです。

また、人が少ないタイミングで私が電話に出ざるを得なく、そこで不在の人の代わりにちょっとした業務を行うこともできました。休職前に2週間いた中で覚えた仕事だったので、最初は社内システムの使い方とか忘れているところもありましたが、どうにかこうにかやり切ることができました。ほんのちょっとではありますが、これも1つ嬉しかったことです。

他にも、大学の研究室時代の先輩であり、私をこの会社に誘ってくれた先輩が、私の職場にやって来て、それがきっかけで久しぶりにお話をすることができました。金曜の夜にその先輩と1対1で電話をして、この記事を書いている日曜の午前中には、もう1人の先輩も交えて3人でお話をすることができました。先輩の大変だった話を聞けたのもそうですが、似たような経験をしてきているので、どういう風に考えたら良いかということを先輩が何とか私の状態に配慮しながら伝えようとしてくれているのを感じられてとても感動しました。

 

これはまた後で書くことになりそうですが、この「適応障害」という病気とその治療を通して、少しずつ「普通の人」になれているような気がします。

何と言うか、私にはずっと希死願望があり、表面上で話を合わせていても、「どうせこの人たちは死にたいと思ってない人だ」というのがあり、人と話せば話すほどに疎外感のようなものを感じていました。「なんでこの人たちはこんなに生きることに前向き何だろう」と全く理解ができなかったのです。どういう気持ちなのか不思議でたまらなくて、何か人生やら何やらについて私に語ってくれるような人であっても、「この人たちは私が本当に知りたいと思ってることを教えてくれるわけじゃない」と白けてしまうのです。白けてしまう、というよりは「うん。理解できるし、興味深くもある。でも、私がしたい話じゃない」という感じでしょうか。

伊坂幸太郎さんの「重力ピエロ」という小説の中で、主人公の弟であり、作品の重要人物である「春(ハル)」のセリフの中にこんなものがあった気がします。

 

暴力やセックスの話なんてアフリカの動物にしてごらんよ。「そんなこと知ってるから、もっと面白い話をしてくれよ」ってきっと笑われる。

 

たしか、こんなようなセリフだったように思います。

まさにそんな感じだったわけです。楽しいことや生活、将来の展望なんてことは私には全く興味がなく、「なぜこんなにも苦しいのに生きねばならないのか」とかそういう話をしてもらいたいと私は常々感じておりました。誰でもいいから教えてくれよ、と本気で思っていました。「毎日私はこんなにも死にたいと思っているのに、この人たちは何を求めてこんな話ばかりしているのだろう」と思っていたわけです。

何と言うか、お笑い芸人が、ゴールデンタイムのバラエティ番組での立ち振る舞いと、深夜番組や自分のラジオ番組での立ち振る舞いを使い分けるようにして、私はとりあえず人と話を合わせてきました。だって、どうせこの気持ちをどうにかしてくれる人なんていないし、良くて私の気持ちに対して軽い賛同を示して、どこかで聞いたことのあるようなアドバイスをしてくれるだけです。目から鱗が落ちるような言葉を与えてくれる人なんていないと考えていたわけですね。そして、私は孤独を感じ、自己嫌悪に陥り、そして社会を憎むわけです。

 

でも、臨死体験を経て、「とりあえず死んではみた。もういっか」となってからは、少しずつ「生きる」ということに対して前向きになれている気がします。そして、そういう気持ちになって来ると、何というかようやくこれまで話が噛み合わなかった人たちと同じ土俵で話ができているという気持ちになって来るんですよね。

この感覚って、本当に凄いです。

今ならみんながどういう気持ちで話をしているのか、ちょっとだけわかるような気がします。今までは私は水槽の中にいて、水とガラス越しに他人と会話していて、「いやいや、そんなん言うてますけど、あんたらこの水中の暮らしなんて想像すらできてはりませんやろ」と怒り狂っていたわけです。それが、ようやく私も水槽の中から這い出て、未だビショビショな状態ではあるわけですけど、「あぁ、はいはい。これが空気ね。風、そして森の匂い。はいはい」と何となく納得できる気がしてきたわけです。

何度も言いますが、「同じ土俵で話ができる」ってかなり凄いことです。感動すら覚えますね。

 

そして、昨日土曜日はようやく健康な人間の休日を取り戻したような気がしました。

朝起きてシャワーを浴びて、病院に行きました。病院ではお医者様と復職に向けた現状についてお話をして、ちゃんと話し合ったうえで「薬の量は据え置きで」ということになりました。「ストレスのかかる状況の中で良くやってますよ」と言っていただけたのも嬉しかったですね。別にお医者様に褒められるためにやっているわけではないですが、誰かから私のやっていることを承認してもらえるというのはやはり自信に繋がりますし、心の落ち着くことです。

そして、前日にチケットの予約していた映画「あの頃。」までは2時間ちょい時間があります。なので、計画していた通り、大学時代に通い詰めた世界一美味いラーメン屋に足を運びました。そして、そこで食べたラーメンがやっぱりめちゃくちゃ美味いんですよ。同じような系統のラーメン屋は色んな所に乱立していますが、ここのラーメンは他とは一味も二味も違います。スープを一口。もうその瞬間に完璧なバランスのしょっぱさと濃厚さ、そしてすぅっと抜けるおそらくはネギなどの野菜の旨み。本当に良いものを食べているという感覚にさせてくれます。

ここ最近、体調を整えるためにちょっとずつプチ断食を試しにやっており、この日も朝ご飯を抜いていたのでそれも相まっての美味しさだったかもしれません。でも、病気が回復しつつあり、感覚が研ぎ澄まされていたこともあると思うんです。

そして、そんな感動を考えつつ、映画館のある街に移動し、そこでアロマと下着を買いました。12月3日に初めてアロマを購入してから初めての買い足し。専用のグラスにオイルを溜めて、棒を突き刺す「リードディフューザー」というタイプなのですが、オイルが無くなってグラスがカピカピになっておりました。私が初めて買った香りのものはもう販売が停止してしまったのか、商品棚から消えてしまっていました。良い匂いだと思ったのに、不人気だったのか…なんかショックです。仕方が無いので、新しい匂いのものを購入。まぁ、これはこれで良い匂いだし、いっか。下着とパンツを沢山処分したので、また新たに購入しました。安物ではなく、ちゃんとしたものを買った方が破れにくいし経済的なんでしょうか。これはちょっと悩ましい問題ですね。

 

そして、その後は映画「あの頃。」を観に行きました。

 

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感想記事も書かせていただきましたが、素敵な映画でした。トイレを我慢できない、眠気を我慢できない、周りの人の存在が気になって集中できない、といった種々の理由から私は映画館で映画を観るのが苦手です。なので、基本的には人から誘われたときにしか行かないのですが、今回はハロプロ関連だったので行ってみました。よくよく考えて見れば、音楽ライブに行けてるんですから映画館だって行けるはずですよね。そんなことに今になって気付く自分に、ちょっとびっくりしてます。

そして、映画で満足した後は床屋に行って、髪をバッサリ切ってもらいました。お恥ずかしい話ですが、私は床屋も苦手でして、中学生くらいから就職するまでずっと自分で髪を切っていました。なので、大抵は酷い髪型で過ごしていました。社会人になった手前、自分で切り損ねてとんでもないことになっても大変なので、無理やり床屋に行っております。地方で働いていたときは住んでいたところの近くに床屋があり、そこではいつもFMのラジオがかかっていて、店主お1人で切り盛りしていて、穏やかで物静かな人だったのであまり苦にはなりませんでした。が、転勤してからはどこに行くべきかということで非常に困っていました。

そして、1か月ほど前に行った床屋はちょっと微妙だったので、今回は別のところに行ってみました。というか、QBハウスに行きました。安くて早くて事務的なので、とりあえず通いやすいと思いました。出来栄えも少なくとも私が自分で切るよりはよっぽど良いです。立地も駅前で良いので、今後利用していくことになりそうです。

 

そんな感じで土曜日はかなり活動的な1日を過ごしたわけですが、今までだったら「ちょっと負荷がかかり過ぎじゃないかな」とか「頭痛いから帰ろう」とか「そわそわしてきた」とか、「そもそもそんな行動的な計画なんて組めないよー」という感じだったのですが、ようやく私にも普通に休日を過ごす権利が戻ってきたような気がしました。

これもとても嬉しいことですね。気持ちや考え方の部分でも一般人に近づけてきたわけですが、体調の方も復調して来て、何か月かぶりにちゃんとした休日を休日らしく過ごせているような気がします。本当にうつ病の回復って「人権を取り戻す」みたいな感覚がありますね。決してうつ病患者の方に人権が無いと言っている訳じゃありませんが、私自身の感覚で言えば、やはり普通の日常を過ごすことができなくなっていたので、こうして普通に活動的な休日を大きな不安なく過ごせるというのは、素晴らしく自由を感じますし、「生きているのだな」と感じます。

 

そんな風にして今日この記事を書いている日曜日も朝から散歩に出たりして、ちょっと活動的に過していました。結局夕方から書き始めたこの記事も休憩を挟んだりなんだりしているうちに、両親と電話したり、夕食を食べに出た先でスマホを落として画面が割れてしまったり(泣)、イライラしながら修理の手続きを踏んだり(オンラインで修理対応してくれるから、と複雑な手続きを踏んだ末に「お客様の機種ではご対応致しかねます」的な文言で失望させられ、仕方なくショップの訪問予約を取りました)、まぁ結果的に散々な時間を過ごしていました。
ですが、そんな風にイライラしながらも、思い返せば生きていることを実感した1日でもありました。これまでは生きていても何も喜ばしいことは無いし、何らかの命を奪ってまで生き続けていても何にもならない。ただ無駄で虚無で浪費でしかない。人生なんて腐る過程にしか過ぎないと思っていたわけです。苦しみながら無様に腐っていくことに一体何の意味があるというのか。生きている人々は何かに希望を見出しているのだろうか。仮に希望を見出しているのだとすれば、そんなものは幻想か思想誘導に過ぎず、命というものの意味や定義について考えれば考えるほどにそれは全くの無価値であり、希望なんてものはどこにもなく、無責任に「希望」なんてものを抱くから「失望」し、「絶望」するのだ。もっとも、正確に人生や命を捉えている私からすれば「希望」なんてものはまやかしでしかないわけだから、そういったフラットな状態を「希望が絶えている」としてより静寂な「絶望」と定義できよう…なんてことを考えていたわけですね。

ただそんな状態が行き着く先はやはり何度も言うように「自死」でしかなく、「自死」にまで半分以上辿り着いた私にとっては、辿り着いた先で新たなる目的地を設定せざるを得ないのです。というわけで、そんな言語的正確性を持つ「絶望=Hopeless」という思想を一旦肩から降ろし、今は何とかまた自分の人生をスタートさせようとしているのですが、こうして何事もなく時を過ごしていると、ふつふつと何かの熱源のようなものを内に感じ始めるようになります。

そして、それはほとんど理論や虐殺的な感性を伴わない、ふわりとした無定形の「希望」であるような気がしました。生きていることがきっと皆の言う「希望」だったのでしょう。現在の自分の思想や価値、将来の展望、そういった小難しいことではなく、「希望のために生きる」でも「どんな状況でも希望はあるから生きていかなくちゃ」とかでもなく、ただ普通の人にとっては「生きていること」そのものが「希望」というものだったんだろうということがようやく私にもわかってきた気がします。

暖かい風を感じて、心が少し浮き立つ。

この感覚を私は今まで感傷性と結び付けて、人間の儚さや感性の刃のようなものへと変換してきましたが、今はそういうことはお休み中です。肩の荷を降ろしているのです。すると、不思議なことにその暖かい風が、体に染み渡り、何の意味も成していないただの小さな熱源になりました。それが前述のふわりとした無定形の「希望」なんだと自然を理解できた気がします。この「希望」を感じたからと言って、別に何があるわけではありません。この瞬間にも人間はどこかで殺し合い、汚らしい行いで自らを貶め、美しいものを台無しにしています。動植物を殺し、食い、地球という星を蝕んでいます。そして、そんな風にして何とか守っている地球もいずれ太陽の超新星爆発とともに滅びます。生命の欠片なんてこれっぽっちも残りません。では、この「希望」に何の意味があるのか。意味なんてありませんが、「生きている」という事実を認識することには役立ちそうです。そして、「希望のために生きている」のではなく、「生きているから希望がある」のだと、そう思いました。ニワトリとたまごみたいな話ですけれど。

 

まぁ、ちょっと臭いことを書き連ねたように思いますが、不思議なものでそういう風にしか評し得ないものを感じたのは確かなのです。もしかしたら私が何も考えずに過ごしていた時には感じていた感覚なのかもしれません。しかし、少なくとも大学時代からこの10年近くはほとんど感じ得なかった感覚です。涙が出るほどのことではなかったのですが、ちょっぴり感動はしました。何となく私の大嫌いな人類がこうして無意味に無価値に「生きている」理由はここにあったのかもしれません。

私はまだその新しい発見に当惑している状況ですが、今後少しずつその着想から思考を深めていき、もう少し自分の納得のいく形で理解をしていきたいと思います。

 

というわけで、明日もちゃんと職場に行って、帰りがけにスマホショップに寄って、修理の相談です。こういうことがあると「やっぱり生活ってめんどくせぇ」と思ってしまいますが、前ほど嫌じゃないかもです。なんだかんだ言って、今が1番最高!みたいな感覚をアイドルから自分の人生へと流用しましょう。映画「あの頃。」の感想文を書きながらそんなことを思い、今に至ります。

 

次回

eishiminato.hatenablog.com

映画「あの頃。」感想 ~絶対に「恋ING」を聴きたくなる~

映画の感想を書くのは初めてになりますね。

映画もまぁそれなりに好きである方だとは自覚しているのですが、なかなかちゃんとレビューができるほどには知識や技術が追い付いてはいないので、単に感想として記録に止めておこうと思います。

 

 

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映画「あの頃。」

 

ざっくり感想

本ブログでも沢山取り上げさせていただいているように、私はハロプロのファン、つまりハロヲタです。

本作「あの頃。」はハロヲタでもある劒樹人さんが自叙伝コミックエッセイとして出版された「あの頃。男子かしまし物語」を原作とした映画となっております。私は申し訳ないことに原作を読んでいません。存在は何年も前から知っていたのですが、買おう買おうと思いながらもずっと先送りにしてしまっていました。

調べればどこにでも書いてありますが、一応ざっくりと概要を話しておくと、上記の写真のようにハロプロというアイドル集団を介して仲良くなった大人の青春物語みたいなものです。ハロヲタあるあるも随所にちりばめられていますし、ハロヲタである私からすると映画館で自分の趣味が大スクリーンに映し出されているという状況は、どこか渋谷のスクランブル交差点で服を脱いでいるかのような恥ずかしささえ感じました。「ヲタクってこんなもんっしょ?」みたいな妥協や軽薄さや一歩引いたような感じも無く、ヲタクの熱量そのままに映像の中に収めてくださっているので、素直に楽しむことができました。

が、しかしながら、あくまで「ハロプロ」というのは導入にしか過ぎません。私が贔屓にしているYouTubeチャンネルである「おませちゃんブラザーズ」でもさっそく紹介されていましたが、とても良い表現をしてくださっています。

シンクロ知らなくても、ウォーターボーイズって面白かったじゃん。 

そう、まさにその通りだと思いました。「ハロプロわからん」という人にも十分楽しんでもらえる内容だと思います。

 

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基本的に私が映画に対して抱いた感想と言うのはこの動画の中でほぼ語られているので、このブログを読むよりかはこちらの動画を観ていただいた方が早いと思います。

※こちらの動画は途中からネタバレもありますが、動画中でちゃんと時間を取ってネタバレゾーンに移行してくださっているので、安心して観ていただけます。

下ネタなども多く、所謂「男子高生ノリ」みたいなものが終始面白いです。主人公であり、語り部でもある劒樹人(役者:松坂桃李)も物語の主軸にはいますが、どちらかと言うと、コズミン(役者:仲野太賀)というキャラクターの憎めない愛らしさのようなものが物語の中で輝いています。

 

ここからがっつりネタバレになります。

 

物語は音楽で食べていくことを目標にしながらもうだつの上がらない日々を過ごす劒樹人(原作者)さんが主人公となっています。大阪で暮らし、バンド活動をしながらも、バイトばかりしていてバンドメンバーからは「バイトする時間があったらもっと練習しろ」と怒鳴られ今日も力無く帰宅。虚ろな想いで過ごしていると、ポストには友人から松浦亜弥のMV集DVDが突っ込まれています。「パチンコめっちゃ勝ったわ。これでも観て元気出せ」。コンビニで買って来た弁当を食べながら、何の気なしにDVDを観始め、「♡桃色片想い♡」のMVがブラウン管に映し出されます。そして、自然と涙が零れ落ちて来る…

そんな導入がありながら、松浦亜弥のCDを買いに行った小さなCDショップで、そこの店長から「ハロプロのイベントやってるから良かったら来てよ」と1枚のチラシを渡されます。何気なく訪れた非公式なトークイベント。そこでは同じようにハロプロに救われ、そこに日々の生きがいを見出している人たちの真剣でありながらも、くだらなくて楽し気なお喋りが繰り広げられています。

 

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ちょっと雰囲気は違いますし、作中のトークイベントはアイドルさんの出演は無しのものになりますが、ざっとこんな感じの奴です。

※この「アイドル三十六房」という企画は、何年も前からやっており、ハロプロメンバー出演の回もあったり、本映画原作者の劒さんの出演回もあります。2015年3月18日の回ですが、劒さんが喋っているのはここで初めて拝見しました。終始申し訳なさそうにしているのが、とても印象的でした。今はZOCで活躍中の福田花音(現: 巫まろ)さんも共演しており、たぶん探せばどこかに動画が残っているはずです。非公式の動画なのでリンクを貼るのは控えさせていただきますね。ただハロヲタにとってはめちゃくちゃ面白いのでぜひ観ていただきたいですね。

 

…と、振り返りのために動画を観直していたら、かなり時間が過ぎてしまっていました。金朋が歌っている”さっぱりスイーツ”って何なんでしょうね?

 

そして、そのトークイベントの主催者たちとも仲良くなり、劒さん自身も主催者側としてイベントに出るようになります。イベントだけでなく、6人が集まって狭い部屋の中でライブ映像を観たり、一緒に銭湯に行ったり、そういう日常の場面もとてもイキイキとしていて、普段は皆生きることに苦労していながらも、とても明るく生きている姿が愛おしいです。

作中には先頭の脱衣所の中の何気ない会話で、「学生時代が1番良かったみたいに言うやつがいるけど、おれは今が1番楽しいね」というセリフが出てきます。おませちゃんブラザーズの動画でも語られていますが、これがこの映画の本質なんですよね。

ストーリーが展開していく中で、劒さん自身の淡い恋心が叶わなかったり、将来に対する不安が湧き上がったり、あややの握手会に当選したけどどうしよう…と取り乱したり、そんな色々なことが起こります。また、仲間うちで女の子の奪い合いがあったり、ネットストーキングみたいなことがあったり、大阪から東京に引っ越して仲間の繋がりが少し疎遠になったり、終いには仲間の1人が癌に侵されたり、とにかく色々なことがあるんですよ。

そしてその色んな事件の中心にいるのが、だいたい仲野太賀さん演じる「コズミン」というキャラクターです。「ネット弁慶」を自称し、めちゃくちゃ自分勝手で性欲に忠実で、まぁ酷い人間だと作中でも何度も言われるのですが、そのクズさ加減が素晴らしくどうしてか憎めないんですよね。そんな彼のおかげで、1つひとつの事件があまりシリアスになり過ぎず、気がつけばどうしてか笑えて来る。「おもろいやん」という魔法の一言でどんなことも前向きに受け止めて、そして生きていく。そこには当然ほろ苦い感じもあるんです。ちょっぴり胸が締め付けられもするんです。でも、アイドルの卒業コンサートのように、「良い卒業式だった」と泣きながら笑ってみる…みたいなそういうぐしゃぐしゃとした感情を抱えながら、そうは言ってもやっぱり今が最高!と言っていくその姿がまさに、「アイドル」という題材ととてもマッチしているんです。

 

アイドル、特にハロプロは卒業加入のあるグループが多く、また解散や活動停止、新グループ結成などもあり、通称「ハロマゲドン」と呼ばれるような大転換の歴史もあります。先日もハロプロの最終兵器と呼ばれていた宮本佳林ちゃんの卒業があったり、佳林ちゃんと同じグループで盟友であった高木紗友希ちゃんが週刊誌による報道を期に急な卒業が決まったり、アイドルを応援していると色々なことがあります。

でも、ハロプロのアイドルはよく「昔も良かったけど、今の私たちが1番!」と常に今が最高という考え方で活動をしてくれています。これって単純にアイドルの理念としてそうなのかもしれないですが、生き方としても本当に素敵なことだと思います。

舞台が大阪ということもあって、「おもろいやん」というのが合言葉みたいになって、とにかくどんなしょーもないことも、悲しいことも、怒り狂うことも笑いに変えていくというのが、とても泥臭くてそれでいて尊いと感じさせてくれる映画です。

 

ほぼラストのシーンでは、劒さんが「今のハロプロも相変わらず最高だよ」と言い、道重さゆみさんの名言や新グループであるところのBEYOOOOONDSの話を持ち出し、それに対してコズミンが「そんなこと言われたら俺も行きたくなるやろ」という会話がありました。なんだかんだ言って、このシーンが私は1番好きだったかもしれません。

 

そして、名場面と言うと、何よりもこの映画の中でハイライトとなっているのはモーニング娘。恋INGという曲です。

 

note.tsunku.net

 

2003年発売の「Go Girl ~恋のヴィクトリー~」のカップリング曲ですが、世間的に知名度は低いもののハロヲタの中では根強い人気のある曲です。「パンが一つならわけわけね」という歌詞はみんな大好き。残念ながら公式動画の中には無いのでリンクを貼ることはできませんが、ぜひ各々で聴いていただきたいです。

私は2009年のよみうりランドで披露された所謂プラチナ期と呼ばれるメンバーたちでの「恋ING」が非常に記憶に残っています。このコンサートはたしかカップリング曲の中からファン投票によって演目が決められたものだったと思います。カップリング集の発売に伴ってのイベントだったわけです。そして、その中でも断トツの1位だったのが、この「恋ING」です。イベントの最後の曲でした。

ハロプロの楽曲には世界や地球規模の愛や平和を歌い上げるような楽曲がたくさんあり、そういった楽曲もまた今回の映画の内容とマッチする部分はあったと思います。例えば、有名どころで言えば「LOVEマシーン」とかでしょうし、とびっきりの人生肯定賛歌としては「でっかい宇宙に愛がある」とかが上がるでしょう。しかしながら、劒さんたちトークイベントのメンバーが「恋愛研究会。」という名前でバンドを作り、そこで決して上手いとは言い難いクオリティの演奏で披露したのがこの「恋ING」でした。この「恋ING」は幸福感に満ちた曲ではあるのですが、どちらかと言えば、愛し合っている2人の小さく幸せな気持ちを歌う曲になっています。そんな「恋ING」は、小さな1人の人間に過ぎない主人公やヲタクたちの気持ちに寄り添ってくれるような楽曲であり、おっさんたちが原曲キーで歌おうと奮闘する様は、まさに我々ハロヲタの姿そのものと言えるかもしれません。

最初に勢いだけでイベントで熱唱する場面は、面白おかしく、そして「わかるー!盛り上がるー!」となります。また、終盤でもう一度メンバーが集まって歌う場面は超絶エモくてめっちゃ泣けます。そして最後の場面、そしてエンドロールではちゃんとモーニング娘。が歌っている音源が流され、ここではもう切なさとともに涙が出てきます。どう言葉にすれば良いかわかりませんが、「幸せってなんだろう。でも、今が幸せなんだよな」と思わされます。

こればかりは映画を観て欲しいので明言しませんが、1回目の「恋ING」は言わば合唱コンクールで歌う「旅立ちの日に」で、2回目の「恋ING」は卒業式で歌う「旅立ちの日に」。そして、最後の「恋ING」は………って感じです。意味わからなくてすみません。でも、映画を観た人だったら絶対わかるはず…!

 

というわけで、アイドルを真剣に応援している人なら誰にでも刺さるでしょうし、特に部活などに打ち込んだ経験のある男子なら共感できるところも沢山あります。そして、今が楽しくない人も、今が楽しいという人にも絶対に楽しんでもらえる映画が、この「あの頃。」だと思いました。

 

私と劒樹人さん

ここは完全に蛇足になります。が、せっかくこうして記事にするのですから、ちょっとは私らしい趣向も織り交ぜていこうと思います。

 

まずは私とハロプロについてお話します。

私は2008年頃(楽曲で言うとモー娘。「リゾナントブルー」あたり)からのファンなので、本映画の導入部にあたる2003年頃(モー娘。6期加入あたり)の状況などはよくわかっていない部分もあります。また、その頃には主人公であるところの劒さんに大きな影響を与えた松浦亜弥さんも世間的には最盛期を過ぎており、ハロプロ卒業間近という感じでしたね。

ですが、ハロプロメンバーたちがその後もずっと先輩たちの楽曲を歌い繋いできてくれたので、当然のことながら劇中に用いられていた様々な楽曲は知っていましたし、私が経験できなかった当時の熱量なども映画を通して感じることができ、とても充実した内容でした。特に、石川梨華さんの卒コンの映像がそのまま使われていたり、卒業発表のラジオ音源も当時のリアルのものが使われていたり、とその辺りのこだわりも凄かったです。

唯一、リアルではなかったのが、松浦亜弥さんとの握手シーンにおける「松浦亜弥」です。こちらは現ハロプロ所属グループであるBEYOOOOONDSから「山﨑夢羽(ゆはね)」ちゃんが松浦亜弥役として大抜擢されています。BEYOOOOONDSとしてのデビュー前から「松浦亜弥の再来」と言われるほどに才能溢れる子で、個人的にはビジュアル面だけでなく、歌唱の中に独特の「節」があり、そこが「松浦亜弥の再来」と言われる所以かなと思っております。天性のものを感じさせるリズムやピッチ、そしてアクセント。人格的な部分では夢羽ちゃんはもともとかなりの引っ込み思案ということもあり、ちょっぴり松浦亜弥さんとは違うのですが、溢れ出るアイドルオーラはハンパないものがあります。

少し話が逸れましたが、そんな感じで私はおよそ13年間くらいハロヲタをやっているわけです。が、ハロプロとは関係のないところで、原作者の劒さんともちょくちょく接点がありました。もちろんご本人と繋がりがあるわけではなく、単に私が触れるものの中に劒さんが関わっているものがいくつかあったということです。

 

まずは「ミドリ」というバンドについて。ボーカルの後藤まりこさんのエキセントリックなパフォーマンスが注目を浴び、私も後追いで好きになったのですが、なんとこの「ミドリ」の1stミニアルバムである「ファースト」時代にベースをしていたのが劒さんだったんですね。後に劒さんを個人で知るまでは気にしたことがありませんでしたが、知った時は「え!?ミドリのベースってマジ!?」と驚愕したことを覚えています。

この「ファースト」というアルバムは2005年に発売されているのですが、超名盤で今でもたまに聴き返し衝撃を受けています。特に1曲目の「わっしょい。」なんか後藤まりこさんのデスボイスがエグ過ぎて、初めて聴く人は衝撃を受けること間違いないです。そう言えば、この「わっしょい。」にも「。」がついているんですね。「モーニング娘。」、そして劒さんがハロヲタ仲間と作った「恋愛研究会。」にも「。」があり、当然「あの頃。」にも。

また「ファースト」には「ロマンティック夏モード」という楽曲も収録されており、これもタイトルだけ見れば「ロマンティック浮かれモード」のオマージュですよね。

 

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「ミドリ」の映像や音楽は色々と残っているのですが、公式で観られるものはないので、ここではバンド「ミドリ」の中枢であった後藤まりこさんに関する動画のリンクを貼っておきます。この映像だけでも、まぁ、「後藤まりこ」っていうものがちょっとはわかると思います。これにプログレ・パンク・メタル・ジャズ・民謡的な要素を加えていけば「ミドリ」のイメージになると思います。もうわけわからんじょうたいですね。

ちなみに劒樹人さん自身のWikipediaによると、「ミドリ」のメジャーデビュー直前に劒さんが失踪して東京に行ったと書いてあります。その辺の情報と合わせて見ると、映画もより面白く観られるかもしれません。実際に映画でも大阪を離れて東京に行くシーンがあり、その状況は仲間内から見てもちょっと心配になる感じだったようです。映画を観ているときは理由がわかりませんでしたが、注目を浴び始めた「ミドリ」の脱退という事件がそこにあったのだと思うと、東京のライブハウスでローディをしながら「今が1番楽しいですよ」とほほ笑む劒さんの微妙な心情を少しは理解できた気がします。

 

そして、「あらかじめ決められた恋人たち」というバンドのベースとしても劒さんは活躍しています。

 

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※劒樹人さんのベーシスト姿も観ることができます!カッコイイ!

この頂フェスの動画で好きになりました。鍵盤ハーモニカに、テルミンといった変わり種の楽器が使われており、非常にユニークなバンドですが、その音楽性自体は「ミドリ」に比べればもうちょっと整理されており、ポップであるとも思います。

やっぱりこの映像見る度に「頂フェス」に行きたくなります。未だにフェス処女なので、いつか行ってみたいですね。フェスに連れていってくれるお友達が欲しい… 

残念ながらこの動画を知り、「あら恋」に興味を持ち始めた当時はなかなかお金もなく、近くのTSUTAYAには「ブレ」というアルバムしか置いておらず、現在私のiPodにはその「ブレ」1枚分のデータしか入っておりません。8曲目の「20分の雨」という曲が好きで、当時から今に至るまでずっと聴いていますね。

ちなみに時系列的にはこの頂フェスの直前くらいに「あの頃。男子かしまし物語」の出版にこぎつけているようです。あと、今さらですが「男子かしまし物語」というのは、モーニング娘。の「女子かしまし物語」という楽曲のオマージュになりますね。本当に今さらですが。

 

神聖かまってちゃん」のマネージャーとしても名を馳せていたそうですが、残念ながら私は「神聖かまってちゃん」を通っていないんですよね…妹が好きで、いつだったかのライブでの子さんがライブ中に脱ぎ捨てたTシャツを手に入れて来て、たいそう喜んでいましたが。

そして、「バンドじゃないもん!」も当然知ってはいますが、通って来ていないんです。本当にすみません。

でも、「神聖かまってちゃん」も「バンドじゃないもん!」も常に私の活動している界隈にはいて、手を伸ばせば届く範囲であることは間違いありません。もう少し私の出不精が治れば良いんですけどね。

 

あとは当然ですが、ハロヲタとしての認識が強いです。劒さんの書くコミックエッセイはブログなどでよく拝見していましたし、奥様が犬山紙子さんということで度々話題にも上がってきますよね。そして、前述の通り、2015年のアイドル三十六房でその人となりを初めてちゃんと認識したように思います。

 

そんな感じで、実は私の生活の結構近いところにいたのが、劒樹人さんという方でした。なので、「夢羽ちゃんが映画に出るだって!?」とか「ハロプロが題材の映画なの!?」とかもありましたが、映画館嫌いの私が1人で映画を見に行くと決心したのは「劒樹人さん原作」というのが1番の大きな理由でした。ハロヲタとして「同志!」と思えるような作品を作ってくださって、ありがとうございました。

 

最後に…

1人で映画館に行くなんて、いつぶりだろう…?

ジブリの「風立ちぬ」以来かな? なんか昔にも同じようなことを言った記憶があるので、もしかしたら他にも言っているのかもしれませんが、「映画館で映画観るなんて『風立ちぬ』以来だよ~」というセリフだったかもしれません。

また適応障害ブログの方でも書きますが、この日はとても充実した1日でした。病院行って、大好きなラーメンを食べに行って、日用品を買って、映画観て、床屋に行って…ちゃんと計画的に休日を過ごせているのが嬉しいです。

そして、繰り返しになりますが、「今が1番最高!」って非常に素敵ですね。病気になるまでは、「今が1番最低」を更新し続けようと躍起になっていましたが、今は少しずつ改心できているような気がします。でも、もう少し体調が戻って、普通に生活できるようになって来たら、これまでの自分と新しい自分を戦わせて、より正しい理解を追い求めたいなぁとも最近は考えています。

が、今はあまり何も考えないようにしておきます。少なくとも答えを先延ばしにするだけの余裕はあります。